毒使い   作:キタノユ

95 / 119
ep. 49 山吹ひらく

 弥生の月が終わろうとする頃、凪では凛と咲いた寒梅(かんばい)が香を残しながら散り、入れ替わるように薄紅梅(うすこうばい)がほころび始める。

 

 折しも若(うぐいす)のたどたどしい(さえず)りがあちこちから響き始める様子から、

凛梅(りんばい)の 香ほの残し うぐいす()く」

 という句が有名である。

 

 紅梅の開花と足並みを揃えるように、青の育成計画もまた、着実な成果を示していた。

 

 三月(みつき)の間に、青の課題と指導を受けた若者たちの中から、

 

 狼から虎へ昇格した者が二名、

 虎から獅子へ昇格した者が一名、

 法軍の目録に名を記された者が五名――鹿花も含まれている

 

 と、短期間のうちに一定の成果を挙げた者たちが名を連ねる。

 

 また、新規の毒術師志願者の数も回復傾向にあった。

 かつての水準の半分にまで落ち込んでいたところが、七分半にまで持ち直したのだ。

 

 長が師道選択の面談で理由を問うたところ、誰もが異口同音に「蟲之区で目にした毒術師たちの活気が、実に楽しそうであった」と語ったという。

 

 青は、そうした成果と「生徒」たちの成長の記録をまとめ、長をはじめ技能師道の上層部へ報告。高位の技能師、上士・特士はじめとした高位者たちにも共有した。

 

 そんな折、青のもとに長からの式鳥が舞い降りる。

 

「一師」

 急ぎ、青が七重塔の玄関広間へ足を踏み入れた瞬間、呼び止められた。

 

 振り向けば、背嚢《はいのう》を背負った豺狼が手を振っている。

 外套《がいとう》の汚れから察するに、任務を終えたばかりと見られ、報告書の提出を終えた帰りのようだ。

 

「峡谷上士。任務帰りですか、お疲れ様で――」

「一師、ちょっとこちらに」

 

 労いの言葉を言い終える前に、腕を引かれる。

 長室へ向かう昇降機に続く廊下とは、逆の方向だ。

 

「いや、僕これから長室へ」

「すぐ終わる」

 声色はいつもと変わらないが、手に込められた力が拒絶を許さない。

 

 たどり着いたのは、地上階の一角に設けられたいくつかの小部屋の一つだった。事前予約制の多目的室で、青も任務前の作戦会議で使用した事がある。

 誰もいない空間へ押し込まれ、引き戸が閉じられた。

 

「え、ちょっと」

 振り返ると目の前に豺狼の手が迫り、覆面を指で引っ掛けて下げられた。続いて、目深に装着した額当てを持ち上げられる。

 

「あーあ。ひどいな、クマ」

 呆れとも、叱責ともつかない声だった。

 青の素顔を目にした、豺狼の端正な目許が歪む。

 苦笑というよりは窘める視線が青を見据えた。

 

「ちゃんと食べて寝てるか?」

「え」

「やつれた。顔色も悪い」

「そ、そうかな……」

「十《とお》くらい老けた」

「えぇぇっ」

 

 青は両手で自らの顔を撫で回してみる。

 頬の肉が削げて、指先に頬骨がじかに当たる感触がした。

 指の腹でなでる肌は瑞々しさを感じられず、まるで枯葉を撫でているようだ。

 

 原因は分かりきっている。

 この三月(みつき)、食事の時間を削り、睡眠を削り、それでも足りないほど働き続けたのだ。

 

 結果、既に二回も倒れて寝込んだ。

 

「『医療士の不養生《ふようじょう》』は笑えないぞ」

 端正な顔が、呆れと怒りの混成した表情を形作っている。

 

「ご……ごめん」

 笑って誤魔化せる空気ではなかった。

 気圧されて、青の語尾が尻窄(しりすぼ)みにかすれた。

 

 季節が春に転じようとしている今、いつまた西方への長期任務が再開されてもおかしくない。

 

 来る日に備え、豺狼は常に心身が万全に整えられている。体が鈍りやすい冬季においても任務と訓練を隙なく積み重ね、勘を研ぎ澄まし、肉体も鍛え上げていた。

 

 一方の青――外套で覆われた中には、疲労が染みついた躯《からだ》が隠れている。

 

「……前から思っていたんだけど」

 少しの気まずい静寂の後、豺狼の戒めるような視線が青の顔面を真正面から見据えた。

 

 怒られる、と身構えていると、

 

「どっちか、外さない?」

「へ??」

 

 豺狼の指が「どっちか」で己の目元と、口元を指し示している。

 つまり目元を隠す額当てか、もしくは口元を隠す覆面、いずれかを外さないかと提案しているようだ。

 

「最近の流行りなのかな。若い技能師連中って、半面をつけてる子が多いよね」

「流行り……確かに」

 

 流行には疎い青だが、思い返せば鹿花も出流も、目元だけを隠す獣の面を装着していた。

 

「それが何か――」

「任務って団体競技みたいなもので」

「う、うん」

 

 豺狼が何を言わんとしているのか。

 青は疑問符を浮かべながら、聞き漏らさないよう耳を傾けた。

 

「隊員たちの状態の把握も、俺たち上士や特士の大事な役割なんだ。精彩(せいさい)を欠いた動きをされたら、惨事につながる場合だってあるからね」

「……!」

 青は目を瞬かせた。

 

「元医療士の君には余計な説法になってしまうけど。顔は分かりやすいよ。肌、瞳の濁り、唇の色、浮腫(むくみ)……手がかりだらけだ」

 豺狼の言葉を聞きながら、青は無意識に自分の顔へ指を這わせる。

 

「でも、君みたいに、無理をするくせに隠そうとする人に、そうやって顔も体も隠されると……困る。顔の一部だけでも見えてると、安心できるんだけどな」

「あ……」

 

 青の脳裏に浮かんだのは、朱鷺の姿。

 

 素顔を一切うかがわせない仮面、体をすっかり隠してしまう外套――その下に隠されていたのは、毒に蝕まれた(もろ)い躰。

 

 もっと早くにハクロのもとで療養に専念させていれば、今も生き長らえられたのだろうか。

 

 悪夢のように繰り返し思い起こされる後悔が、胸に疼《うず》く。

 

「――ごめん。気を付ける」

 深く長い息を吐ききって、青は唇を引き締めた。

 額当てと覆面を元に戻して再び顔を覆う。

 

「検討してみるよ。確かに、その方が良いのかもしれない」

「本当にそう思ってる?」

 豺狼は疑わしげに首を傾げ、両腕を胸の前で組んだ。

 

「ちゃんと考える。ただ、急に見た目が変わるのはちょっと、気恥ずかしいっていうか、でもとにかくちゃんと検討するから。いつもの、技能師の同期にも相談する」

「ああ、武具工と幻術の」

「うん、庵練師(いおりれんし)は装備品の発明が得意で、(かなめ)練師は特にオシャレにうるさ――じゃなくて、服飾に詳しいんだ」

 

「っははは」

 腕組みを解き、豺狼は笑いながら後ろ手で部屋の引き戸を開けた。

 

「まずは、体調を整えろよ。今のままじゃ、顔色と人相が悪すぎて騒ぎになる」

「確かに」

 

 一通り笑って、幼馴染の二人は並んで部屋を後にした。

 

 

 相変わらず、長は執務机上で塔をなす書類の山に囲まれていた。

 青が訪ねるたびに、着実にその量は増え、高さが増していく。

 

 青が凪にとどまっていた冬の間、凪では立て続けに大きな課題が浮上していた。

 

 一つは前向きな話で、白狼ノ國との国交方針の検討。

 二つ目は、炬之国の事変を受けた、凪の今後の対応策。

 

 いずれの課題にも共通するのは、西方との関わり、だ。

 

 翡翠や白狼のように友好的な国ばかりではない――それを痛感した今、いよいよ東の五大国は西方を無視できなくなっているのだ。

 

 その中にあって、凪は西方の一國である翡翠との間に転送陣を敷いた、五大国で初めての国であり、先進的な取り組みを推し進めている点で、一歩先を行っていると言える。

 

「やあ。君に春の便りが届いているよ」

 そう言って青を出迎えた長の面持ちには、疲労の影ひとつなかった。

 

 青が凪の国民となり十五年と少しが経過したが、どれだけ書類が高く積み上がろうと、室内に本や紙が散乱していようとも、長本人がくたびれている様子を一度として目にしたことがない。

 

「春の……?」

 珍しく詩的な表現に、青は首を傾げる。

 書類の塔の隙間から長の手が伸びて、差し出されたのは、一通の書状だった。

 

 表に、繊細な筆運びで「蕺殿」としたためられていた。

 

 蕺(シュウ)とはドクダミの別名であり、青の務め名である「シユウ」の題材でもあった。

 裏を返すと、そこに送り主の名が記されている。

 

「山吹……確かに春ですね」

 

 山吹は、低山や丘陵に自生し、都では庭園などで栽培もされている落葉の低木だ。

 春になると鮮やかな黄色い花を咲かせることから、しばし春を詠う句にも登場する。

 

「毒術の、神麟殿の名だよ」

「えっ!」

 

 青は思わず声を上げた。

 書状と、長との間で数往復、視線を行き来させる。

 

「朱鷺殿の引合状に対する、お返事だ」

「神麟様が、お会いになって下さるということでしょうか……、それとも……」

 

 青は恐る恐る慎重に、書状を開く。

 表書きと同じ、繊細で流れるような文字でしたためられているのは、一遍の句であった。

 

 山吹の月籠る庵に 蕺の果や 結ぶ

 

「……」

 書状の真ん中にしたためられた句へ、青は視線を三巡させた。

 

「えぇっと……蕺は僕の事で、果……果てる……朽ち果てる……? 山吹は神麟様で……月が籠る庵……ど、どこ……結ぶ……縛る? 僕は、殺されるんでしょうか……」

「実に斬新な解釈だ」

 

 ちんぷんかんぷんな様子の青へ、長は苦笑いを浮かべる。

 静かに椅子を押して執務机の前へと回り、青へ「貸してごらん」と穏やかに手を差し出した。

 

「月と庵、これは山吹殿が住まう館のことだ。庭に建てられた小さな庵には丸窓がはまっていて、これが月という事だろう」

「丸窓の庵……なるほど」

 

 青は頷きながら、文字の一つ一つを指し示す長の指を、目で追う。

 

「蕺(シュウ)は君のことだね。蕺の果や結ぶ、つまり君の努力が実を結ぶ――君の成果を認めましょう、と仰っているようだよ」

「え……」

 

 顔を上げた青の目に、長の柔らかな微笑が映る。

 

「これは、神麟殿から君への、招待状というわけだ」

 長の手が、ふたたび青の手に書状を戻した。

 

「果や結ぶ。ここにもう一つ、意味が込められている。八重咲きの山吹は知っているだろう。突然変異である故に「実を結ばない」。その山吹がいま、果を結ぶ――とても稀なことで、つまりそれだけ君を評価している、この度の面会は特別だ、と仰りたいのではないかな」

 

「……ほ、本当に……」

 呆然とする青の、少し痩せた肩を柔くたたいて、長は再び執務机へ戻る。

 筆をとり、文箱から一片の木札を取り出した。

 

「会いに行ってくるといい。転送陣の通行証を発行しよう」

「あ……ありがとうございます! 神麟様はどちらにお住まいなのですか」

 

 青の問いかけへ、長は木札に筆を走らせる手を止めて、視線を上げる。

 

「それも、句に隠されているよ。月籠る、すなわち月が隠れる夜闇――」

「闇……」

「通称、闇の里と呼ばれている、(さく)之里だ」

 

 朔之里。

 闇の神を守護神とし、闇の賢神が拓いた里。

 

「良い機会だ」

 署名を終わらせて、長は完成した通行証の木札を青へ差し出した。

 

「朔へ出向く前に、今一度、神話と術の成り立ちをおさらいしていくといい」

 

 

 とおいとおい、昔のこと。

 凪の地は、なにもなく、さみしいところでした。

 

 これは、幼い青が凪で初めて読んだ絵本の書き出しだ。

 霽月院(せいげついん)資料室の管理人による推薦図書で、凪之国の創生を主軸に、五大国の成り立ちまでの物語を描いた、神話の入門書である。

 

 妖から人々を救うため、七柱の守護神とそれぞれ契りを交わした七賢人は、賢神となり力を得た。

 うち五賢人は国を興して今日(こんにち)の五神通祖国、すなわち五大国となったという、誰もが知る物語。

 

 だが一方で、国を興さなかった二賢神について、教養の中で語られる事は稀である。

 青が読んだ絵本や児童書でも、語られるのは五大国の成り立ちまで。

 

 光と闇の二賢神が如何に五賢神と意を隔して道を違え、隔絶した極東の南北に身を隠すように里を拓いたのか。

 

 それを物語る書物を、少なくとも青は目にしたことがなかった。

 

 

 闇の里――朔。

 東方における、毒術や呪術発祥の地とも謳われる地である。

 

 

 極東の最南、東方で凪から最も遠い地の一つ――それが朔之里である。

 

 この地は五大国いずれとも転送陣を直結せず、最寄りの陣守村から一山を越えなければならない。

 

 里の要人のみが知る地下道が存在するというが、その通行を許される外部の者は、各国の長ただ一人に限られる。

 

 闇の里――その呼び名のせいで、五大国の者たちは、凍てついて陰鬱な地を想像する。

 

 しかし、峠から見渡す朔の地は、静まり返った雪の野だった。

 

「……うわ……」

 雪の斜面を登りきった青は、感嘆の息を白く吐いた。

 

 冬晴れの空の下、光を受けた雪霧がほのかにきらめき、その向こうでは、川面が氷を透かして穏やかに流れている。

 

 青は外套の頭巾を深く被り、首元の襟巻に口元まで顔をうずめながら、深く息を吸って吐く。

 山の気配は穏やかで、風すら立っていない。

 

「里は……どこだ?」

 眼下に広がる白銀の野には、里どころか人の営みの痕跡が見当たらない。

 

 まさかこの、広大な雪野を越えなければ、目指す朔には辿り着けないのだろうか。

 

「病み上がりには、こたえるぞ……」

 豺狼から健康状態の悪さを指摘されたのは、つい先日のこと。

 

 若手育成計画の立ち上げが一段落を迎えたため、適切に休息をとり生活改善に務めているものの――この三月(みつき)の不摂生の帳消しや三日にして成らず、だ。

 

「誰もいない……」

 つぶやきは、足元の粉雪に吸い込まれて消えていく。

 この先で里への案内人と落ち合うはずだが、どこにも人影が見えない。

 

 耳鳴りがするほどの静寂の中、青はじわりと心細さを覚え始めていた。

 

「あ……」

 葛折の峠道を下り、平坦な道へと差し掛かった時。青の視界の先に、春の色が浮かんだ。

 

「……女の子?」

 傾斜が平地と交わるあたりから、門をなすように常緑樹の並木が続いている。

 

 その入り口に、幼い少女がひとり、佇んでいた。

 

 雪に閉ざされた荒野に、凍えた様子もなく、黄の着物の幼い少女がただひとり――否応なく、人ならざるものと分かる。

 

「…………」

 気配をさぐる青へ、少女は首を少し傾け、上半身を小さく折って一礼する。

 肩で切りそろえられた黒髪が、暖簾のように揺れた。

 

 少女がまとう黄の着物に緋の帯、結われた髪に巻かれた紅の紐。それらは、雪に閉ざされた景色の中でひときわ鮮やかだった。

 

「ごきげんよう、シユウ様。山吹のおばあちゃんは、こっちです」

 

 黄色の袖が、並木の奥を指し示す。

 

 青は傾斜の途中から目を凝らしたが、常緑樹が作る木立の向こうには、ただ白々と雪の野が広がるばかりだった。

 

「……あの。寒くはないのですか」

 並木に沿いに半歩先を行く少女の背へ、青は問いかける。

 

 そっと、少女の足元へと目をやると、紅の鼻緒がちらりと覗く。厚みのある草履は、雪に沈むことなく、粉雪を舞い上げることもない。

 

 うなじや首筋が外気に触れていても、少女が寒がる様子はない。薄桃色の唇から白い湯気がのぼることもなかった。

 

「ハクロ様と、おんなじですね」

「ハクロ特師と、同じ?」

 

 少女は青の質問には答えず、歩みを緩めることなく、まっすぐ雪野へと向かう。青は追求を早々に諦めて、大人しく後に続いた。

 

 雪を踏みしめながら、青は少女の正体を考察する。

 庵から、からくり仕掛け人形の話を聞いた事があったが、そうした作り物めいた硬質さは感じられない。

 

「重さ」を感じさせないところから、術によるもの――近いもので式術の類であろうと推測する。人形(ひとがた)とは珍しい。

 

「シユウ様」

 並木の終着地点が見え始めた頃、先行する少女の足が止まった。胸元ほどの高さから、感情の乗らない面持ちが、青を見上げている。

 

「ど、どうしました」

「……何も、ないですか?」

「何も、とは」

 

 尋ね返すと、

 

「くらくら、ぐらぐら、しませんか?」

「――え」

 

 青は思わず面食らった。

 

「いえ、あ、その……確かに最近は不摂生が続いていまして、本日までに整えが間に合わなかったのですが、せめて神麟様に酷い顔色をお見せしないようには気をつけますので――」

「大丈夫そうですね」

「……はい」

 

 無の表情でぴしゃりと締められて、青は我に帰る。

 

 また余計なことばかり口走っていた……と猛省する大人を置き去りに、少女は再び先を歩き出すのであった。

 

 ほどなくして常緑樹の並木が終わる。

 二人の眼前に、いよいよ際限のない白の荒野が広がった。

 

 紅い草履が、止まる。

 

「門を、開きます」

 万歳のように両手を持ち上げると、雪原に細氷が吹き上がった。

 氷結晶の霧が光を受けて輝き、やがて幕をなす。その奥に、輪郭のぼやけた巨大な影が浮かび、次第に門の形を成していった。

 

 やがて光が鎮まると、二人の前には簡素な冠木門(かぶきもん)が現れた。

 横木と門柱を組み合わせた、屋根のない門。飾り気のない造りながら、柱と門の朱が鮮やかに映えている。

 

「開錠」

 少女の両手が、言霊に応じるように淡い光を帯びた。

 

「……鍵?」

 光は、白い手のひらから手首にかけて刻まれた紋様から、浮かび上がっているように見える。

 

 門は、音もなく開かれた。

 扉の向こうに見えるはずの雪原はなく、細氷の幕が強い煌めきを瞬かせている。

 

「シユウ様、山吹のおばあちゃんは、こっちです」

「えっ……!」

 見えざる力が、青の腕を強く引いた。

 

 思わず体が傾ぎ、転びかけながらも、青は開かれた門の向こうへと足を踏み入れる。

 

 ――瞬間、視界が闇色に沈んだ。そして、音も消える。

 

 青は思わず目を瞑った。

 

 浮遊と降下を繰り返す感覚と、頭を揺さぶられる目眩に襲われる。同時に、内臓が迫り上がるように息が詰まった。

 

 

 青

 

 

「!」

 耳元に、声。

 

 懐かしい。ひどく、あまりにも、懐かしい。

 強く、強く、ずっと追い求め、願い続けた、声だった。

 

 ――師匠

 

 声にならない声で叫ぶ。

 

「シユウ様」

「……は……っ!」

 

 至近からの呼びかけに、青は弾かれたように目を開いた。

 

 顔を上げると目の前に、首を傾げた少女。

 ふわりと、花の香がかすめる。

 

「え……」

 ほんの一瞬、白昼夢を見ていたような気がする。頭の中が、妙に澄んでいた。

 

「すみません……少し、ぼうっとして」

 背を正し、改めて周囲を見渡した。

 

 目の前に、平屋建ての屋敷――と呼ぶには小ぶりな建物――が佇んでいる。

 

 屋根は深く、艶やかに黒光りする瓦が重なり合い、軒端には花の飾り瓦が添えられている。

 今は薄く雪に覆われていた。

 

 柱、(ひさし)や格子窓などは飴色に統一されていて、磨かれた木材は光沢を帯びている。

 

 白く塗られた漆喰の壁には黒漆塗りの板が走り、屋敷の空気を引き締めていた。

 

 小ぢんまりとしながらも、ただ静かに清らか。

 神獣の名を持つ者に相応しい気配をたたえていた。

 

「……まさか……な」

 青は無意識に、人の気配を探っていた。

 

「……いや、そんなはずは……」

 柱の向こう、廊下の奥、あるいは縁側に――あの声の持ち主がいるのではないか。

 あり得ない期待が、胸を強く打つ。

 

「……っ」

 息苦しさをおぼえて、青は外套の胸元を握りしめた。

 

「少しお休みしますか?」

 黄色の袖が、開かれた戸口の向こうを示す。

 客間らしき一室には、籐の椅子が置かれていた。

 

 ここまでの移動で、酔う客が多いのだろう。

 そのための控え室のようだ。

 

 門をくぐった直後の浮遊感は、転送陣を通るときのそれと、よく似ていた。

 

「い、いいえ……大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」

 

 少女は「そうですか」と、小首を傾げて頷き、客間を指していた袖を、今度は反対側へ向ける。

 

「山吹のおばあちゃんは、こっちです」

 黄色の袖は、青を裏庭へ導こうとしていた。

 

 

 支子(くちなし)色の太鼓橋を渡る途中、青は仄かな梅香を感じて思わず足を止めた。

 

「わ……絵みたいだ……」

 

 池の縁を彩るように、紅白の梅がふっくらと咲き誇っている。静まり返る水鏡に花々が鮮やかに映り込み、水の上にもうひとつの花畑を咲かせていた。

 

 遠景には春霞の稜線が淡く輝いている。頂にはまだ雪が残り、白と青の対比が目を引いた。庭の静謐さと、嶺の雄大さ――その調和がまるで、春の(きざ)しを描く一幅の絵のようだ。

 

「あれ……?」

 一通り景色に見惚れた後、違和感に気が付く。

 

 屋敷前へと転送される直前まで、たしかに青は、雪に覆われた峠を越え、果てしなく広がる白銀の野を目の当たりにしたというのに。

 

「どうしたんだい。入っておいで」

 青を導く声がした。

 

「は、はい……!」

 我に返り、声のした方へと向き直る。

 三歩で橋を渡りきって、池の中島に佇む庵へと歩を進めた。

 

 ――月籠る庵

 

 句にあった通り、白漆喰の壁には正円の窓が穿たれて、さながら満ちた月のようだ。

 障子紙の向こうに、ふたつの人影が淡く写っている。

 

 庵の右手から回り込み、開け放たれた室内を覗く。

 茶室のような小ぢんまりとした空間、火鉢のそばには、ふたりの男女が腰掛けていた。

 

 ひとりは、背を丸めた小柄な老女。

 山吹色の長衣に青藤色の羽織をまとい、頭と顔の半分ばまでを同色の御高祖頭巾で覆っている。

 さらに、口元には薄衣を掛け、湯呑みを差し入れては、ゆったりと茶を(すす)っていた。

 

 この方が、神麟・山吹様――。

 

 その隣に座す男は、対照的に背を真っ直ぐ伸ばし、腕を組んで青を待ち構えている。

 

 霞を帯びた白練色の長衣。

 袖口からのぞく両腕には適度に筋が通り、男が山吹よりもずいぶんと若いことが窺えた。

 頭巾と一体型になった白鹿の半面、その下、隠れない顎から頬にかけての輪郭もまた、鋭さを残している。

 

「は……初めてお目にかかります、毒術師・龍の位、シユウと申します。この度は謁見の――」

「お入りなさい。薬膳茶を淹れてあげようね」

 

 杓子定規の挨拶を跳ね除けて、山吹色の袖がひらりと翻り、青を手招きする。

 

「ん」

 と、空いている籐椅子を示される。

 

「し、失礼いたします……」

 青は恐る恐る、庵の描く四角い空間へ足を踏み入れた。山吹へ、そして隣の白鹿の面へと、それぞれ一礼を送る。

 

「……」

「……?」

 

 白鹿面が、微動だにせず、じっと青を見据えていた。

 

「お座りよ」

「は、はい……」

 

 促され、空き椅子の前へ移動する。

 その間も、男の刺さるような視線が離れない。

 

 何か粗相をしただろうか。

 不安に駆られ、視線をさまよわせながら、青はそっと腰を下ろす。

 

 右手に置かれた小卓には、湯気を立てる湯呑みと茶菓子が並び、火鉢に掛けた土瓶からは、甘く香ばしい湯気が燻っていた。

 

「それで、お前さんは――」

 青が着席した頃合いを見計らうように、山吹は口をつけていた湯呑みを、火鉢前の小卓へ置く。

 

「禍地が、憎いかい」

「――え」

 

 唐突な問いに、思わず声が裏返った。

 腰が引けて背もたれに当たり、椅子の脚がごとりと重たい音を立てる。

 

 面食らう青の様子に、薄布の奥で老女の口角が僅かに綻んだ。

 

「相変わらずの、せっかちだな」

 横槍を入れたのは、白鹿の面。

 軽口とは裏腹に、その声音は低く静かで――そして、妙に耳に馴染む響きを持っていた。

 

「……?」

 青は、思わず顔ごと男の方へ向き直る。

 胸の内に、ざわつくような感覚が走る。

 

「……」

 今度は逆に、男の視線が逸れた。白鹿の面が、わずかに青から目を外す。

 

「せっかちですまないね。お前さんたちと比べて、残りの寿命が短いもんでね」

 句読点代わりに、山吹は再び薄布の下で薬湯を一口、啜った。

 

「それに、シユウ――お前さんがここに来た目的は、そこだろう? だったら話は早い方ががいい」

 

 ぞんざいとも取れる言葉と逆に、山吹の声は柔らかく、穏やかだ。

 

「……お、お目にかかったこともありませんから……私には……そのような……」

 

 青は、声の震えを懸命に押し殺す。

 これが、今の青にとっての精一杯だった。

 

 藍鬼を裏切り、命を奪った――師の仇。

 しかしそれは「大月青」にとっての私情であり、「毒術師の龍・シユウ」にとっての禍地特師は、毒術道を乱す不届者――すなわち、解決すべき「課題」にすぎない。

 

「なかなか、頑張ったね」

 薄布の奥で、小さな苦笑が零れた。

 

 気がつけば、山吹の頭巾に隠れた目元が、ゆるやかに伏せられている。視線を辿ると、それは青の膝の上、固く握りしめられた両拳に注がれていた。

 

「……っ」

 青は慌てて拳を解き、手甲の()れを直す振りをして、誤魔化す。

 

「――俺は、憎いがね」

 衣擦れの音とともに、白鹿面の男が腕を解いた。

 

 火鉢越しに、長い腕が伸びる。

 次の瞬間、するりと長い指が青の首元を突く。

 

「こいつは、鬼豹か」

「ぇ……」

 

 白鹿の男の指が、襟巻きを留める黒鬼豹の飾りを摘み上げた。

 

「藍鬼の仮面と同じだな。羽を生やした意匠とは珍しい――ああ、ハクロに、朱鷺、か。この翠の瞳は?」

 

「な、何故!」

 反射的に青は男の手を振り払い、籐椅子から身を起こした。

 

 足に押しやられた椅子が、壁の柱にぶつかり、甲高い音を響かせる。

 

「健気な弟子心……というものか?」

 男は、振り払われた手を静かに下ろした。

 さらりと長衣の袖が触れ合い、乾いた音を立てる。

 

 その白い指が、そのままゆっくりと白鹿の面へとかかった。

 

「な、何……?」

 唖然とするしかできない青の前で、男はゆるやかに、頭巾ごと仮面を剥ぐ。

 

「俺は、薬術の神麒、白鹿――真の名は白玄(はくげん)だ」

 

 そこに現れた顔は、凪之国の長――そして、藍鬼の面影を色濃く宿していた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。