「……っ……」
師匠、と呼びかけそうになった己を、青は懸命に押し殺した。
覆面がなければ、
「慌てる必要はない」
神麒・白玄と名乗る薬術師は、静かに仮面を小卓に置く。
白い長衣の袖の隙間から、透けるように白い指が覗いた。
冬の渓谷に落ちる白糸の滝のごとく、長い銀髪が微かな風にそよぐ。
青を見据える瞳は、白夜の陽光のよう。
藍鬼――薄墨を滲ませたような髪と瞳、仄かに焼けた肌――とは何もかもが異なる。
それでも、目の前の
「シユウ……いや……大月青」
青。
少し薄い唇が、その名を呼ぶ。
藍鬼と同じ声で。
「あ……貴方は……」
青の足が、床に転がる籐椅子にぶつかった。
「そいつを外したらどうだ」
白玄の袖が、硬直する青の顔を指し示す。
「っ……え……!」
正気に戻ったように、青の肩が跳ねる。
「人払いの結界は張ってあるよ」
低い位置からのんびりとした山吹の声。
小さく薬湯を啜る音が続いた。
「顔も名前も隠しては、話すべきことも話せまい」
「いえ、その……これは、お見せするほどのものでは……」
青は反射的に首を横に振り、両手で顔を庇いながら上背を引いた。
豺狼に「酷い顔色」と叱られた顔を、晒すわけにはいかない。
「……おい」
途端、白玄の白い眉間に、不機嫌そうな深い皺が寄る。
「神麒の俺が、こうして
「あ……っ」
白い袖が翻り、長い指が目の前に迫り、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
青が手を伸ばすより早く、額当てがするりと外された。
「……ん……?」
白玄の目許が、険しくなる。
「お、おい、山吹殿、これは一体どういうことだ……!」
唐突に、白玄の声音に焦燥が滲んだ。
のんびりと薬湯を啜る老女と、青の顔を交互に見比べる。
「こやつ、侵食されているのではないか!?」
「……っぶ、何だって?」
薬湯に咽せ、山吹は小さく咳き込みながら青を見上げた。
「……」
「……」
時間が止まる。
庵に静寂が降りた。
二人の神麒麟が、半ば露わになった青の面持ちを凝視する。
「……あ、あの……」
「ほら見ろ、この顔色、目のクマ、栄養状態の悪そうな肌……酷すぎる。あのやつれ具合、生気を吸い取られているとしか思えん! 山吹殿の瘴気が強すぎたのではないか」
「人聞きの悪いことを言わんでおくれ。何ともないと本人が言ったろう。お前さんも聞いていたはずだよ」
「それにしたって、あの面構えは――」
二人の神麒麟は、青の極悪な顔色を巡って、真剣に論じ始める。
「……」
青は言葉を挟む隙を失ったまま、ただ両者を交互に見つめるほかなかった。
話の流れから察するに、庵へ至る道や屋敷周辺には、山吹の結界や幻術が施され、外的な干渉を遮るための瘴気を含んでいるらしい。
白玄の主張は、この瘴気が強すぎることで青に悪影響を及ぼしているのでは、というものだ。
「も、申し訳ありません!」
口論が激しさを増す前に、青が慌てて割って入る。
身につけている意味を失った覆面を取り去りつつ、頭を下げた。
「これは、その、私の自己責任による不摂生や寝不足のせいでして……」
「不摂生、だと?」
白玄の眉間に、さらに深い影が落ちる。
据えられた視線が、苛立たしげに青を捉えた。
「ほら見なさいな。
青の体調不良の犯人にされかけていた山吹は、やれやれと再び薬湯を啜る。
「兄殿から?」
「せっかちなのはお前さんも変わらないではないのさ」
技能師の頂点に立つ二人のやりとりは、まるで姉弟か幼馴染の喧嘩のようだ。
「兄……」
青は一人、呟く。
白鹿面の素顔を一目見て真っ先に思い浮かんだのは、長――そして、藍鬼。
白玄の齢は、四十半ばほど。
もし藍鬼が生きていれば、同じ頃の齢を重ねていたはずだった。
「あの……白玄様……」
尋ねずにはいられなかった。
「貴方は――」
「藍鬼は俺の双子の弟だ。真の名は、
白玄の口から、青が求めていた答えが告げられる。
そして、藍鬼の本名――夕瑞。
「ゆう、すい……」
初めて耳にした音ながら、まるで雨が土に染み入るように、青の胸へと深く馴染んだ。
「おい。泣くな」
「――え……」
顔を上げると、白玄が両腕を組み、つっけんどんな目でこちらを見下ろしていた。
「……あ……も……申し訳……」
言われて初めて、乾いた頬を伝う涙に気づく。
意思とは無関係に、ただ溢れて止まらなかった。
これ以上の言葉を発せば、しゃくりあげてしまいそうになる。
「まずは座れ。不養生などするから、情緒まで不安定になるのだ」
組んだ腕の白い袖先が、青の足元に転がる籐の椅子を示した。
「は……はい……」
「おー、怖い怖い」
山吹は変わらず呑気な様子で、薬湯を啜っている。
青は椅子を拾い上げて立て直し、白玄の顔色を窺いつつ、恐る恐る腰を下ろした。
その様子を見計らい、白い長衣が再びふわりと風に揺れる。
「座っていろ」
白玄が山吹の背後を通り抜け、青の傍に立つ。
袖口から一枚の符を引き抜くと、白く長い指先がそれを青の首筋へと押し当てた。
瞬間、符が淡く光を帯びる――温かく、柔らかな光。
白玄の手のひらが、光を包むようにして青の首筋に添えられる。
触れた部分からじんわりと温かな気が巡り、全身を満たしていく。
これは薬術の龍、蓮華も得意とする薬剤符。
気脈を整え活力を与える、いわゆる疲労回復の術だ。
全身を蝕んでいた疲労感が、嘘のように消えていく。耳鳴りが消え、指先にまで血が行き届き、体温を取り戻していくのを感じた。
「薬湯も飲め。気付けになる」
白い袖が青の湯呑みを取り上げ、冷めた薬湯を建水へと流す。
代わりに、火鉢に掛けられた土瓶から、湯気をたてる薬湯を新たに注いだ。
そして、その湯呑みをやや乱暴に、小卓に置く。
がつん、と庭に乾いた音が響いた。
「あ……ありがとうございます……」
「お前が龍でなければ、追い返していたところだ」
青が湯呑みを手に取ったのを確認すると、白玄は無造作に自らの椅子へ腰を下ろす。
籐が軋み、椅子の脚ががたつく音が続いた。
長衣の下で脚を組み、腕を組み、太々しくも堂々と座り込む。
そして再び、鋭い銀色の視線で、青を睨みつけた。
不器用な言葉と声、だけれど、優しい。
藍鬼の双子の兄――それを、強く実感した。
「……ここはね。朔であって、朔ではない場所なのさ」
山吹は火箸を手に取り、火鉢の中をかき混ぜる。
焼けた炭がぱちりと弾け、三人の顔を赤く照らした。
「誰の目も届くことはない。だから安心おし」
顔を晒して落ち着かない青へ、山吹は目配せを向ける。
符と薬湯のおかげで、青の顔色には血の気が戻りつつあった。
「夕……藍鬼と禍地を語るには、仮の名も仮面も、邪魔なだけだ」
白玄の視線が、小卓に無造作に置かれた白鹿の面を捉える。青の額当てや覆面は、膝の上に置かれていた。
「お前を……藍鬼の弟子である『大月青』を割り出すために、職権を濫用させてもらったというわけだ」
「……職権?」
青は首を傾げる。
高位の技能師に与えられる権限といえど、他の技能師の素性に関する情報に触れることはできないはずだ。
少なくとも、龍である青が知る限りにおいては。
「麒麟や神麒麟にはね、技能職位管理官の仕事が舞い込んでくることがあるのさ」
「そうなのですか!」
青は純粋な驚きを口にした。
技能職位管理官――その名の通り、技能職の素性や処遇の秘匿性を確保するために設けられた職務官。
技能師道の選択面談や、昇格の儀の場に立ち会う、白き仮面の者たちだ。
「では、お会いしたことが、あったかもしれませんね」
不思議な親近感を覚え、青は思わず笑みをこぼす。
「……ん!」
唐突に、山吹の肘が青の腕を突いた。
「いてっ……あ」
閃くように、記憶の奥から浮かび上がる光景。
三宝を掲げる、小柄な管理官――
それは、虎への昇格を任命された日のこと。
呆然と立ち尽くしていた青に痺れを切らし、白き仮面が三宝の角で小突いてきたのだ。
「あ! あの気が短い人――っ、いえ……その……」
青は咄嗟に両手で口を塞ぐが、遅かった。
薄布の向こう、山吹の左口角が怒り笑いのように吊り上がる。
「……申し訳ありません……」
青は膝を揃えて頭を下げた。
どうも覆面を外すと、口まで軽くなってしまう。
「ふん、やはりせっかちではないか」
白玄は愉快そうに、鼻で笑った。
*
多くの後輩たちが、山吹の前を通り過ぎていった。
「禍地特師が
「あの、毒術の麒麟が、か……!」
その一報が山吹の耳に届いたのは、
折しも、山吹が麒麟の座を禍地に託し、自らは神麟に上がったばかりであった。
「だから
薄暗く閉め切られた長室に、老人の枯れた怒声が虚しく響く。
「……」
部屋の主と机を取り囲む面々の中で、山吹は唇を引き結んでいた。
長を上座に据え、十二脚の椅子が半円を描くように並ぶ。
そこに座するのは、特士、麒麟、神麒麟、各種高官、高名な学者――凪における名誉職や要職を担う者たちであった。
麒麟の国抜け――この技能師道最悪の不祥事が引き起こす悪影響は計り知れない。
凪国内の技能職位間の混乱はもとより、五大国間における立場の低下、高度な技術や技能の流出による損失、そして――。
集う面々は、考えうる限りの「最悪の顛末」を口々に飛ばす。不安のぶつけ合いと化した議論は、やがて責任の所在へと移ろい始めた。
「あの男に席を譲ろうなどと申されたのは、どなただったかな?」
「どこの馬の骨とも知れぬ男をよ」
政務を担う高官、歴史学者の老師など、主に法軍の門外漢たちが、揃って山吹を見やった。
そんな中、もう一人、議論の成り行きを静かに見守る男がいた。
「今それを言うのは、お門違いというもの」
挙手とともに整然と述べたのは、四十手前ほどの男。
小兵ながらも隙のない鍛え上げられた肉体を持ち、それに似つかわしい鋭い気を纏っている。
「かの者の麒麟昇格は、最終的に我々管理官の合議によるものであったはず」
「赤鷹特士殿……」
若年者に看破された老師は、居心地悪そうに引き下がった。
「……ごもっともである。取り乱したようだ……面目ない」
一息を吐き出した老師は、自らに言い聞かせるように二度、三度と頷く。
誰も老師を批難することはなかった。
十二席の間に、沈黙が巡る。
今、この場に集うのは、技能師管理官に任じられた者たち。
新任の麒麟が国を出奔するという異常事態を受け、急遽招集された。
「出奔とは……確かなことなのか。任務中に行方をくらましているのであれば、事故の可能性は……」
「無論、ただちに捜索隊を向かわせた」
壮年の高官の問いに、長が答える。
その視線が、赤鷹特士へと向けられた。
「小生が、隊長としてその任を仰せつかった。チョウトクの精鋭部隊、最終的に式術の特師殿のお力を借り、鼻のきく式を方々に放ったが……」
赤鷹特士は静かに息を継ぐ。
「……もはや国内および周辺に、その痕跡は皆無と言わざるを得ない」
一同の目が、執務机の主へと向く。
彼らが考える「最悪の顛末」。
それは、禍地を擁した他国――ことに西方が、凪および東方に対し脅威となる事態。
あらゆる不穏要素を排し、阻止するためにも、禍地の出奔が認められれば、自ずと次の手立てが導かれる。
龍による、麒麟奪還の任。
それを担うに値する人物は、ただ一人。
禍地と麒麟を争った双璧の片翼――藍鬼。
「捜索範囲を広げるよう、チョウトクに命を出した。まずは彼の行方と生存を突き止める。次のことは……それからだ」
その兄である長の瞳が、壁の万国図へと向かう。
しばし静かに見つめたのち、ゆっくりと立ち上がった。
「皆に頼みがある」
「は……」
一同もまた、立ち上がる。
名だたる面々へ、長はゆっくりと視線を一巡させた。
「麒麟が国を抜けた――この噂が広まれば、前任である山吹殿へ批判が集中するのは避けられない。近年においては前代未聞の事態だ。その糾弾は苛烈を極めるであろう。どうか、山吹殿を護ってほしい」
*
山吹の語りに耳を傾けている間、青は微動だにしなかった。膝に置いた手は、空になった湯呑みにそっと添えられている。
「おかげでこんな……わたしには勿体無いほどの隠居庵を賜ることができたってわけさ」
頭巾に隠れた老女の視線が、美しい箱庭を見渡した。
一幅の絵のように整えられた景色は、あまりにも静かだった。春を待ち侘びる鳥の囀りも、草花を揺らす虫の気配も、ここにはない。
「あの……」
不自然な静けさに、不安を覚えた青が口を開く。
「山吹様はなぜ、禍地特師をお選びになったのでしょうか……」
これを知るために、ここへ来たのだ。
「可能性、だね」
青のその問いかけを待っていたかのように、山吹は籐椅子に背を預けた。両袖を膝の上に絡ませ、ゆるりとした姿勢をとる。
「禍地とは……あの子が狼になりたての頃に指南したことがあった。西方の地から逃れて来たと、話していたっけ」
禍地は、凪に辿り着いて法軍の訓練所に身を寄せ、弛まぬ努力を積み重ねて身を立てた。
一年という最短期間で下士に合格。毒術を選択したのは士官後のことで、そこからは任務での実績を詰み、猛勉強を重ね、資格、上資格の甲取得まではまさに矢の如し。
技能師の間でも、その存在はたびたび噂となっていた。
「珍しい出自であったことや、あの見た目だからねぇ……師道に進んでから仮面をつけたところで、誰もがあの子の素性を知っていたのさ」
ああ、あの外様の――と。
「五大国の法軍の教育制度、神通術や技能術の制度に感銘を受けたと語っていたよ。この仕組みを取り入れられれば、故郷でどれだけの弱き命が救われ、報われるべき人々がいたか……と」
折しも、凪之国では新たな若き長が立ったばかりの頃であった。
「玄瑞はその頃から、西方の重要性を説いていた。神通祖国らは、いつまでも大国然として東で閉じこもっているわけにはいかない。神話が紡いだ
「神話の……安寧……」
――とおいとおい、昔のこと。
――凪の地は、なにもなく、さみしいところでした。
青の脳裏に浮かぶ、児童書の冒頭文。
かつて何もなかった東方の地に、国と里を築いた七人の賢人、そして守護神。
その物語の結びには、こう綴られていた。
――ひとびとは、守護神と賢神に見守られ、平和に暮らしました。
「では、可能性と仰るのは……」
答えが分かりきった問いを、青は口にした。
「西方、さ」
新たな長を中心に、凪之国が打ち出そうとしていた西方への進出――その大きな契機となると期待されていたのが、禍地だったのだ。
山吹の言葉が途切れ、白玄の低く静謐な声が続く。
「禍地が麒麟を継ぐことに、俺も、兄殿も異論はなかった」
静かな吐息と共に、淡雪色の瞳が青を見つめた。
「夕瑞……、藍鬼でさえもな」
「え……」
青の両手が、湯呑みを強く握り込み、包み込む。
白玄の瞳が、その様子を捉えた。青の指先の微かな震えが収まるのを待ち、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「あいつが禍地と出会ったのは、蟲之区だと、聞いている。子どもが迷子になっているかと思ったら、年長の訓練生であったと」
当時、凪に渡って間もない禍地が、まだ訓練所に属していた頃――彼が「禍地」と名乗るよりも前――その優等生ぶりが認められ、蟲之区への通行を許されるようになった。
「蟲之区への通行証は最終的に長である兄殿の承認が必要……この意味が、分かるだろう」
新たな国是を打ち出した若き長の、期待の現れだ。
初めて訪れたその場所で、珍しげに辺りを見回していた時に出会ったのが、当時既に毒術の虎に任じられていた、藍鬼だった。
「……夕瑞が俺たちに他人の話をするなど珍しいことでな」
白玄の瞳が、追憶に
それから幾度となく、藍鬼の口から禍地の名が語られるようになった。
彼の才気と、ひたむきな努力を称える言葉と共に。
「式術、幻術、罠、投擲、薬や毒のことまで……あいつは法軍の技法に不慣れであった禍地にあらゆる手ほどきをした。面白いほどに吸収が早いと、指南を楽しんでいるようだった」
「……師匠、が……」
青は食い入るように白玄を見つめた。その様子を、山吹が静かに見守る。
白玄の長衣が、衣擦れの音をたてた。組んでいた腕と脚をほどき、籐椅子へ静かに体を預ける。
そして長く、細い息を吐ききった。
「……夕瑞は、禍地が麒麟となることを望んでいたのだ」
「……っ……」
呼吸を止めていたことに気がついて、青は口から空気を吐き出す。
肩からも力が抜けて行った。
藍鬼の成したことが、すべて胸に落ちた。
兄の理想と国の大義を尊び、友の可能性を信じ、扶け、その飛躍を喜んだ。
そして禍地も、期待に応え、確かな成果を示した。
だからこそ、知りたい。
何故、禍地は何もかもを裏切り、凪を抜け――藍鬼を殺したのか。