そしてまた一人、後輩が山吹の前を通り過ぎようとしている。
藍鬼が山吹のもとを訪ねたのは、禍地誅殺の任を拝命して間もない頃だった。
深い緑が庭を覆い、風が湿った香を運ぶ、初夏の季節。
「いつ
「一年の猶予?」
「はい。出立は来年の夏を予定しています」
栗の木卓を挟んで斜向かいに座る青年が、静かに頷く。
黒ずくめの装いに、半袖から覗く上腕は仄かに日に焼けていた。
滑らかに磨かれた卓上には、鬼豹の面が置かれている。
晒した素顔は、山吹にも馴染み深い――長・玄瑞と、薬術の麒麟・白玄と同じ造り。
三兄弟に共通するのは、涼やかな目許と、やや薄い唇。
玄瑞の口許は常に微笑を湛え、白玄は不機嫌そうで、夕瑞はただ真っ直ぐに引き結ばれていた。
「そうかい……準備が念入りなのに越したことはないね……」
山吹は陶器の水差しから、硝子杯へ
「準備……」
差し出された冷茶の杯へ、藍鬼は小さく一礼した。
細長い指先が、硝子杯に刻まれた金魚の模様に触れる。
「何か、わたしに用立てられることがあれば、言っておくれ」
山吹の胸中にこびりつく幾ばくかの罪悪感が、普段なら口にしないはずのお節介を押し出した。
冷茶に口をつけた藍鬼が、伏せたままの瞳を山吹へと向ける。
「では、遠慮なく……」
杯を丁寧に卓へと置き、藍鬼は真っ直ぐに山吹を見つめた。
「印刻術を、御指南いただけないでしょうか」
「印刻術? 何のためにだい」
薄墨の瞳へ、山吹は問いかける。
印刻術はかつて、各種通行証や機密庫の封印に用いられ、手のひらや甲に「鍵」となる刻印を施す術として広く活用されていた。
しかし、木片や符を用いる血判通行証の技術が確立すると、印刻術は次第に廃れ、今では利用機会が限られている。
現在でも印刻術が活用されている具体的な事例――
一つには、高い秘匿性を必要とし、権限を制限する保安対策手段としての活用だ。例えば他国への転送陣、機密区域への通行手形や、禁書等を取り扱う機密保管庫等の、文字通り「鍵」手形として。
また一方で、印刻術は「囚人や前科者の監視や行動制限の手段にも用いられる場合もある。
「長い旅になりそうなので、弟子に身の回りの物の管理を任せたいのです」
「――ほう。……で、弟子?」
危うく聞き流しかけて、山吹は思わず二度見した。
藍鬼が幼い少年を連れ歩いている姿は、技能師たちの間でも幾度となく目撃されていた。
それが隠し子ではないかという無粋な噂まで囁かれていたのは、山吹の耳にも届いていた。
「正弟子はとらぬと言っていたのに、どういう風の吹き回しだい」
龍の位を持ちながらも、正弟子をとらない。
だが藍鬼を批判する者はいなかった。
禍地の前例が、技能師界隈において周知の事実であったから。
「正弟子ではありません」
なおさら、珍しい。
正弟子となれば、法軍から資金面をはじめとした各種補助を受けられる。
しかし藍鬼の場合、禍地も、その少年も、すべて藍鬼の私費と私情によるものだった。
「よほどに、有望な子なのだね」
山吹の好奇心を含んだ問いに、藍鬼はしばし考える。
「物を知らず、術力が弱く、玉(ぎょく)もまともに使えなかった、身寄りのないガキです」
薄墨の瞳が、苦笑に細められた。
「へぇ……それはそれは……」
いわゆる「優秀な法軍人」とは、神通術の才を備えていることが初期基準とされがちだ。
確かに、一部の高位技能師には術力が脆弱な者もいる。
しかし、近年では創造力と戦闘能力の両立、すなわち「双道」が重視され、それを目指す者、あるいは求められる場面が増えていた。
毒術の「双道」の最前線を担う双璧の一人と謳われる藍鬼が、術力の才が見込めぬ子どもを育てようなど――山吹でなくとも、その理由を知りたくなるのは当然だった。
「そのガキが、毒術と薬術の三級を獲ってきました」
「何歳の子なんだい」
「六つです」
「六つ?!」
枇杷葉湯を注ぎ足そうとする山吹の手が止まる。
「五つの最年少記録は確か、お前さんと白玄だったかねぇ」
藍鬼が毒術の、白玄が薬術の三級を、それぞれ五歳で取得した。
玄瑞が誇らしげに「弟たちが最年少記録を作ったぞ」と語っていたのを思い出す。
「あいつは……俺と白玄が二人がかりで成したことを、一人でやってのけた。足りぬ力を補って余るほどに、泥臭く努力する才を持っています」
卓上の硝子杯に添えられた長い指が、撫でるように金魚模様をなぞっている。
「その六つの弟子も、毒術師に育てるのかい」
山吹の問いに、藍鬼からの即答はなかった。
「……いや……」
薄墨の瞳に、薄墨の影が重なる。
「今の毒術師道は……しかし、あの性格ならば……素質とは異なる道を選んだとしても、大成するでしょう」
その言葉が、妙に山吹の胸に引っかかった。
「わたしにはお前さんが、その子に『毒術師』の素質がある、と自慢しているように聞こえるがね」
「……」
藍鬼の沈黙――それは何よりも、雄弁な肯定だった。
「さっき、その子は術力が貧弱だと言っていたね。もしやそれは――」
「山吹様」
山吹の言葉を遮り、藍鬼は静かに首を横に振る。
「……だからこそ、印刻術を御指南いただきたいのです」
薄墨の瞳が、真っ直ぐに山吹を見据える。
硝子杯に添えられていた手は、膝上へと移されていた。
「……そういうこと、かい」
陶器の水差しを卓へそっと置き、山吹はゆるりと立ち上がる。
「いいよ、教えてあげよう。でもね」
庵を出て、屋敷へ向かう。
後に続く藍鬼も、山吹がまとう
「先に言っておくが」
太鼓橋の途中で歩を止め、山吹は振り向いた。
「その子が本当にお前さんの見込み通りなら、いずれ破られるかもしれないよ」
仄かに日焼けした相貌が、意味ありげに、微笑する。
「そうなれば……俺の勝ちです」
*
それは、如何ともし難い怒りだった。
「禍地特師は……何が目的だったのでしょうか……」
火鉢を中心に、三人が半円を描くように並ぶ。
青は二人の神麒麟へ、率直な疑問を口にした。
「お話を伺う限り、二人の関係は良好で……禍地特師は凪での地位を確かなものにしていた。それなのに、なぜ、国を抜ける必要があったのでしょうか、な、なぜ、師……藍鬼一師は――」
その先は、言葉にならなかった。
「……すまないね。それはわたし達にも知り得ないこと」
山吹の頭巾から垂れる布が、横に揺れる。
「禍地が凪に骨を埋めるつもりであったのか、元より故郷へ帰還するつもりであったのか。計画的であったのか、やむを得ない事情があったのか……」
「……」
愚問であったと、青は後悔する。
禍地の出奔に際し、風を読むことに長ける長が後手に回るほかなかった――それほどに、誰の予想にもなかった事態であったのだ。
早春の庵に、沈黙が降りた。そこへ、
「俺は……夕瑞は
白玄の低く静かな声が横切る。
「え……?」
どういうことか、と問いかける黒い瞳と、白銀の視線が交わった。
「奴が凪を抜ければ、自ずと誅殺を任じられる龍は、藍鬼しかいない」
それから、と白玄は言葉を継ぐ。
「麒麟になれば、一度は技能職位管理官を担う役回りが巡ってくる。その際に、藍鬼が玄瑞――長の弟、夕瑞であると知る機会があったとしよう」
「……」
膝の上に置かれた青の手が、強く握られた。
「身内だからこそ贔屓は許されない。それに夕瑞の
「――何のために!」
若く、鋭い声が、箱庭に響く。
反射的に、青は立ち上がっていた。
ふくらはぎに当たった籐椅子が、けたたましい音を立てる。
膝上に置かれていた覆面や額当てが、足元に転がり落ちた。
「何のために、わざわざ……!」
「……」
激昂する青を、白玄は落ち着き払った瞳で見上げていた。
山吹ともども、若い感情の爆発を眉一つ動かすことなく、静かに受け止めている。
「師匠を、あの人を殺すほどの理由が……、どこにあるというのですか!?」
青は喘ぐように息を吐き出した。
沸き立つ感情を押し留められない。
目の奥が熱くなり、唇の震えとともに涙が滲む。
目の前にいるのは神麒、そして神麟。
技能師にとって文字通り神の座に君臨する存在――それでも、手紙を読んで泣き明かしたあの日から、押し込めてきた言葉が堰を切ったように溢れ出した。
「なぜ、あの人が死ななければならなかった!!」
十数年もの間、誰も答えをくれなかった問い。
そして、今も。
煮えたぎる怒りと共にそれを口にした瞬間――全身の皮膚を灼くような熱が迸る。血脈を駆け巡った熱は左腕へと収束し、直後、鋭い痛みが突き刺さった。
「っぁ……!!」
たまらず、青は左腕を抑えて蹲る。
「どうした」
激しい耳鳴りの向こうから、白玄の声が届いた。
椅子の脚が擦れる音が続く。
「……え……」
痛みに霞む視界の端に、黒い靄が揺らめく。
手のひら、腕、膝、自らの身体に絡みつくように、黒い靄がまとわりついていた。
「息を止めるな。吐き出せ」
頭上から影が落ちる。
両肩に手が添えられた。
正面に跪いた、白玄だ。
「これ……は、っ……、っ」
不快な金切音の耳鳴りが、聴覚を蝕み、思考を掻き乱す。
かろうじて聞こえる声に従い、青は懸命に呼吸を試みた。
肩に添えられた白玄の両手が、そっと首筋へ移動する。
頸脈を包み込む掌から、仄かに温かな光が滲んだ。
耳鳴りが遠ざかり、喉と胸の塞がりが消え、深く息を吸えるようになる。
二度、三度と深く呼吸を繰り返すうちに、霞んでいた思考がゆっくりと戻り始めた。
「落ち着いたか」
「……は……はい……」
沸騰するような怒りは薄れ、いつの間にか黒い靄も消えていた。
その代わりに、全身を包むのは、抗い難い脱力感。
「怒り慣れていない奴が急に怒鳴るからそうなる。頭の血管が破裂するぞ」
痛みの和らぎとともに、首筋をおさえていた手と、どこか冗談を含んだ低い声も離れて行った。
「左腕か」
白玄の手が青の左腕を掴み、ためらいなく袖を捲る。
「……」
青はただ、されるがままに、ぼんやりと白玄の動きを見つめた。
痛みの余韻をやり過ごしながら、呼吸を整えることに精一杯だ。
露にされた上腕には、赤いみみず腫れが生々しく浮かび上がっている。
「ほう。よく十年以上ももっているものだ」
椅子に腰掛けたまま、山吹も上から青の腕を覗き込んでいた。
「あ……あの……」
ようやく、吐き出す息が音になる。
「今、のは……これは……」
まとまらない思考が、そのまま意味をなさない言葉として零れた。
軋む首をどうにか動かし、青が顔を上げると、山吹と白玄が顔を見合わせている。
やがて、白玄が「やれやれ」と立ち上がる。白い長衣の裾がふわりと揺れ、青から離れていった。そして再び、どっかりと椅子に腰を落とす。
「それは、藍鬼がつけたものだね」
続きを引き取ったのは、山吹だった。
青藤色の袖が、赤く腫れた青の腕を示す。
「は、はい……幼い頃、師匠が任務に旅立つ前に」
「お前さん、それは何だと聞かされていた?」
「鍵、と」
「何のための?」
「手紙や、書類などが入った文箱を開けるためのもの……です」
「……それだけかい?」
「それ、だけ?」
重ねられる追求に、青はわずかに首を傾げた。
「考えたことはないのかい」
何を――そう問い返そうとした青の声を、山吹のため息が遮る。
「鍵というのは、何かを閉じるためのものでもあるだろう」
「……」
瞬きを忘れた青へ、
「まあ、お座りよ。いま温かいものを出そうね」
山吹は、再びの着席を勧めた。