毒使い   作:キタノユ

97 / 119
ep. 50 夕瑞(ゆうすい)(2)

 そしてまた一人、後輩が山吹の前を通り過ぎようとしている。

 

 藍鬼が山吹のもとを訪ねたのは、禍地誅殺の任を拝命して間もない頃だった。

 深い緑が庭を覆い、風が湿った香を運ぶ、初夏の季節。

 

「いつ出立(たつ)のか」と問えば、返ってきた答えは――

 

「一年の猶予?」

「はい。出立は来年の夏を予定しています」

 

 栗の木卓を挟んで斜向かいに座る青年が、静かに頷く。

 黒ずくめの装いに、半袖から覗く上腕は仄かに日に焼けていた。

 

 滑らかに磨かれた卓上には、鬼豹の面が置かれている。

 晒した素顔は、山吹にも馴染み深い――長・玄瑞と、薬術の麒麟・白玄と同じ造り。

 三兄弟に共通するのは、涼やかな目許と、やや薄い唇。

 

 玄瑞の口許は常に微笑を湛え、白玄は不機嫌そうで、夕瑞はただ真っ直ぐに引き結ばれていた。

 

「そうかい……準備が念入りなのに越したことはないね……」

 

 山吹は陶器の水差しから、硝子杯へ枇杷葉湯(びわようとう)を注ぐ。

 

「準備……」

 差し出された冷茶の杯へ、藍鬼は小さく一礼した。

 細長い指先が、硝子杯に刻まれた金魚の模様に触れる。

 

「何か、わたしに用立てられることがあれば、言っておくれ」

 

 山吹の胸中にこびりつく幾ばくかの罪悪感が、普段なら口にしないはずのお節介を押し出した。

 

 冷茶に口をつけた藍鬼が、伏せたままの瞳を山吹へと向ける。

「では、遠慮なく……」

 杯を丁寧に卓へと置き、藍鬼は真っ直ぐに山吹を見つめた。

 

「印刻術を、御指南いただけないでしょうか」

「印刻術? 何のためにだい」

 薄墨の瞳へ、山吹は問いかける。

 

 印刻術はかつて、各種通行証や機密庫の封印に用いられ、手のひらや甲に「鍵」となる刻印を施す術として広く活用されていた。

 

 しかし、木片や符を用いる血判通行証の技術が確立すると、印刻術は次第に廃れ、今では利用機会が限られている。

 

 現在でも印刻術が活用されている具体的な事例――

 

 一つには、高い秘匿性を必要とし、権限を制限する保安対策手段としての活用だ。例えば他国への転送陣、機密区域への通行手形や、禁書等を取り扱う機密保管庫等の、文字通り「鍵」手形として。

 

 また一方で、印刻術は「囚人や前科者の監視や行動制限の手段にも用いられる場合もある。

 

「長い旅になりそうなので、弟子に身の回りの物の管理を任せたいのです」

「――ほう。……で、弟子?」

 危うく聞き流しかけて、山吹は思わず二度見した。

 

 藍鬼が幼い少年を連れ歩いている姿は、技能師たちの間でも幾度となく目撃されていた。

 それが隠し子ではないかという無粋な噂まで囁かれていたのは、山吹の耳にも届いていた。

 

「正弟子はとらぬと言っていたのに、どういう風の吹き回しだい」

 

 龍の位を持ちながらも、正弟子をとらない。

 だが藍鬼を批判する者はいなかった。

 禍地の前例が、技能師界隈において周知の事実であったから。

 

「正弟子ではありません」

 

 なおさら、珍しい。

 正弟子となれば、法軍から資金面をはじめとした各種補助を受けられる。

 しかし藍鬼の場合、禍地も、その少年も、すべて藍鬼の私費と私情によるものだった。

 

「よほどに、有望な子なのだね」

 山吹の好奇心を含んだ問いに、藍鬼はしばし考える。

「物を知らず、術力が弱く、玉(ぎょく)もまともに使えなかった、身寄りのないガキです」

 薄墨の瞳が、苦笑に細められた。

 

「へぇ……それはそれは……」

 いわゆる「優秀な法軍人」とは、神通術の才を備えていることが初期基準とされがちだ。

 

 確かに、一部の高位技能師には術力が脆弱な者もいる。

 しかし、近年では創造力と戦闘能力の両立、すなわち「双道」が重視され、それを目指す者、あるいは求められる場面が増えていた。

 

 毒術の「双道」の最前線を担う双璧の一人と謳われる藍鬼が、術力の才が見込めぬ子どもを育てようなど――山吹でなくとも、その理由を知りたくなるのは当然だった。

 

「そのガキが、毒術と薬術の三級を獲ってきました」

「何歳の子なんだい」

「六つです」

「六つ?!」

 

 枇杷葉湯を注ぎ足そうとする山吹の手が止まる。

 

「五つの最年少記録は確か、お前さんと白玄だったかねぇ」

 

 藍鬼が毒術の、白玄が薬術の三級を、それぞれ五歳で取得した。

 玄瑞が誇らしげに「弟たちが最年少記録を作ったぞ」と語っていたのを思い出す。

 

「あいつは……俺と白玄が二人がかりで成したことを、一人でやってのけた。足りぬ力を補って余るほどに、泥臭く努力する才を持っています」

 

 卓上の硝子杯に添えられた長い指が、撫でるように金魚模様をなぞっている。

 

「その六つの弟子も、毒術師に育てるのかい」

 山吹の問いに、藍鬼からの即答はなかった。

「……いや……」

 薄墨の瞳に、薄墨の影が重なる。

 

「今の毒術師道は……しかし、あの性格ならば……素質とは異なる道を選んだとしても、大成するでしょう」

 

 その言葉が、妙に山吹の胸に引っかかった。

 

「わたしにはお前さんが、その子に『毒術師』の素質がある、と自慢しているように聞こえるがね」

「……」

 

 藍鬼の沈黙――それは何よりも、雄弁な肯定だった。

 

「さっき、その子は術力が貧弱だと言っていたね。もしやそれは――」

「山吹様」

 

 山吹の言葉を遮り、藍鬼は静かに首を横に振る。

 

「……だからこそ、印刻術を御指南いただきたいのです」

 

 薄墨の瞳が、真っ直ぐに山吹を見据える。

 硝子杯に添えられていた手は、膝上へと移されていた。

 

「……そういうこと、かい」

 陶器の水差しを卓へそっと置き、山吹はゆるりと立ち上がる。

 

「いいよ、教えてあげよう。でもね」

 庵を出て、屋敷へ向かう。

 

 後に続く藍鬼も、山吹がまとう白緑(びゃくろく)――青みがかった淡緑の長衣の裾を踏まぬよう、歩調を合わせた。

 

「先に言っておくが」

 太鼓橋の途中で歩を止め、山吹は振り向いた。

 

「その子が本当にお前さんの見込み通りなら、いずれ破られるかもしれないよ」

 

 仄かに日焼けした相貌が、意味ありげに、微笑する。

「そうなれば……俺の勝ちです」

 

 

 それは、如何ともし難い怒りだった。

 

「禍地特師は……何が目的だったのでしょうか……」

 

 火鉢を中心に、三人が半円を描くように並ぶ。

 青は二人の神麒麟へ、率直な疑問を口にした。

 

「お話を伺う限り、二人の関係は良好で……禍地特師は凪での地位を確かなものにしていた。それなのに、なぜ、国を抜ける必要があったのでしょうか、な、なぜ、師……藍鬼一師は――」

 

 その先は、言葉にならなかった。

 

「……すまないね。それはわたし達にも知り得ないこと」

 山吹の頭巾から垂れる布が、横に揺れる。

 

「禍地が凪に骨を埋めるつもりであったのか、元より故郷へ帰還するつもりであったのか。計画的であったのか、やむを得ない事情があったのか……」

「……」

 

 愚問であったと、青は後悔する。

 

 禍地の出奔に際し、風を読むことに長ける長が後手に回るほかなかった――それほどに、誰の予想にもなかった事態であったのだ。

 

 早春の庵に、沈黙が降りた。そこへ、

 

「俺は……夕瑞は(おび)き寄せられたのだと思っている」

 

 白玄の低く静かな声が横切る。

 

「え……?」

 どういうことか、と問いかける黒い瞳と、白銀の視線が交わった。

 

「奴が凪を抜ければ、自ずと誅殺を任じられる龍は、藍鬼しかいない」

 

 それから、と白玄は言葉を継ぐ。

 

「麒麟になれば、一度は技能職位管理官を担う役回りが巡ってくる。その際に、藍鬼が玄瑞――長の弟、夕瑞であると知る機会があったとしよう」

 

「……」

 膝の上に置かれた青の手が、強く握られた。

 

「身内だからこそ贔屓は許されない。それに夕瑞の性質(たち)を考えれば、兄殿の面子を潰すわけにはいかぬと考えるであろう、と……」

 

「――何のために!」

 若く、鋭い声が、箱庭に響く。

 

 反射的に、青は立ち上がっていた。

 ふくらはぎに当たった籐椅子が、けたたましい音を立てる。

 膝上に置かれていた覆面や額当てが、足元に転がり落ちた。

 

「何のために、わざわざ……!」

「……」

 

 激昂する青を、白玄は落ち着き払った瞳で見上げていた。

 山吹ともども、若い感情の爆発を眉一つ動かすことなく、静かに受け止めている。

 

「師匠を、あの人を殺すほどの理由が……、どこにあるというのですか!?」

 

 青は喘ぐように息を吐き出した。

 沸き立つ感情を押し留められない。

 目の奥が熱くなり、唇の震えとともに涙が滲む。

 

 目の前にいるのは神麒、そして神麟。

 技能師にとって文字通り神の座に君臨する存在――それでも、手紙を読んで泣き明かしたあの日から、押し込めてきた言葉が堰を切ったように溢れ出した。

 

「なぜ、あの人が死ななければならなかった!!」

 

 十数年もの間、誰も答えをくれなかった問い。

 そして、今も。

 

 煮えたぎる怒りと共にそれを口にした瞬間――全身の皮膚を灼くような熱が迸る。血脈を駆け巡った熱は左腕へと収束し、直後、鋭い痛みが突き刺さった。

 

「っぁ……!!」

 たまらず、青は左腕を抑えて蹲る。

 

「どうした」

 激しい耳鳴りの向こうから、白玄の声が届いた。

 椅子の脚が擦れる音が続く。

 

「……え……」

 痛みに霞む視界の端に、黒い靄が揺らめく。

 手のひら、腕、膝、自らの身体に絡みつくように、黒い靄がまとわりついていた。

 

「息を止めるな。吐き出せ」

 頭上から影が落ちる。

 両肩に手が添えられた。

 正面に跪いた、白玄だ。

 

「これ……は、っ……、っ」

 不快な金切音の耳鳴りが、聴覚を蝕み、思考を掻き乱す。

 かろうじて聞こえる声に従い、青は懸命に呼吸を試みた。

 

 肩に添えられた白玄の両手が、そっと首筋へ移動する。

 頸脈を包み込む掌から、仄かに温かな光が滲んだ。

 

 耳鳴りが遠ざかり、喉と胸の塞がりが消え、深く息を吸えるようになる。

 

 二度、三度と深く呼吸を繰り返すうちに、霞んでいた思考がゆっくりと戻り始めた。

 

「落ち着いたか」

「……は……はい……」

 

 沸騰するような怒りは薄れ、いつの間にか黒い靄も消えていた。

 その代わりに、全身を包むのは、抗い難い脱力感。

 

「怒り慣れていない奴が急に怒鳴るからそうなる。頭の血管が破裂するぞ」

 

 痛みの和らぎとともに、首筋をおさえていた手と、どこか冗談を含んだ低い声も離れて行った。

 

「左腕か」

 白玄の手が青の左腕を掴み、ためらいなく袖を捲る。

 

「……」

 青はただ、されるがままに、ぼんやりと白玄の動きを見つめた。

 痛みの余韻をやり過ごしながら、呼吸を整えることに精一杯だ。

 

 露にされた上腕には、赤いみみず腫れが生々しく浮かび上がっている。

 

「ほう。よく十年以上ももっているものだ」

 椅子に腰掛けたまま、山吹も上から青の腕を覗き込んでいた。

 

「あ……あの……」

 ようやく、吐き出す息が音になる。

 

「今、のは……これは……」

 まとまらない思考が、そのまま意味をなさない言葉として零れた。

 軋む首をどうにか動かし、青が顔を上げると、山吹と白玄が顔を見合わせている。

 

 やがて、白玄が「やれやれ」と立ち上がる。白い長衣の裾がふわりと揺れ、青から離れていった。そして再び、どっかりと椅子に腰を落とす。

 

「それは、藍鬼がつけたものだね」

 続きを引き取ったのは、山吹だった。

 青藤色の袖が、赤く腫れた青の腕を示す。

 

「は、はい……幼い頃、師匠が任務に旅立つ前に」

「お前さん、それは何だと聞かされていた?」

「鍵、と」

「何のための?」

「手紙や、書類などが入った文箱を開けるためのもの……です」

「……それだけかい?」

「それ、だけ?」

 

 重ねられる追求に、青はわずかに首を傾げた。

 

「考えたことはないのかい」

 何を――そう問い返そうとした青の声を、山吹のため息が遮る。

 

「鍵というのは、何かを閉じるためのものでもあるだろう」

 

「……」

 瞬きを忘れた青へ、

 

「まあ、お座りよ。いま温かいものを出そうね」

 

 山吹は、再びの着席を勧めた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。