通り過ぎる前に、波紋を残していく後輩もいた。
「そりゃあ、わたしも品行方正な方ではなかったがね」
山吹は、卓上に置いた数枚の書類に、袖を添えた。
「それでもさすがに、禁書の秘術を弟子に使わせようとは、考えにいたらなかったよ」
まだ若い色味の栗の木の卓、その向かいに腰掛ける朱鷺は、落ち着きなく左右に小刻みに揺れている。
膝上には、朱鷺面が置かれていた。
「この任務報告書にある『漆黒の水術』だの『墨色の毒水』だの……これは呪毒ではないのかい。本来、虎の練師が扱えるシロモノではないんだ」
「……」
黒くつぶらな瞳が、誤魔化すように庭の景色へ逸れる。
まばらに色づき始めた楓の葉がひとひら、池の水面に落ち、波紋を広げていた。
「……大変……素晴らしいお庭で……」
「誤魔化すんじゃないよ」
ぴしゃりと山吹が釘を刺すと、朱鷺は細い肩を竦め、しぶしぶ正面へ向き直った。
卓上に置かれているのは、シユウについて記載のある、いくつかの任務報告書だ。
「シユウ練師は、お前さんの弟子であろう」
「……仰る、通りです」
観念したように、朱鷺は頷いた。
朔の山吹の庭では、神麟としての務め――後進指導という名の「説教」が行われている。
相手は毒術師・龍の位、朱鷺。
その弟子であるシユウが、禁書に記されている秘術と思われる毒術を使用している様子が、たびたび任務報告書の中に記されていた。
今日は、その追及のための場であった。
「水、火、風、雷、地……五神通術と毒の融合術は、お前さんのお得意だったね。火力不足の弟子へそれを伝授したと……そこまでは良い」
袖に隠れた山吹の指が、卓に広げた報告書をこつこつと叩く。
「例えばこれ……立ち寄った村で
報告書にはさらに、こうある。
墨色の毒水の粘着力と可燃力は強力で、見積もって十匹ほどの百足を飲み込み、跡形もなく焼き払った――と、隊長の上士が目にしたままの説明が記されていた。
「水術と毒薬の組み合わせだけでは『黒』にはならないよ。明らかにこれは『闇』が発現しているね」
「……」
卓上に並べられた報告書の数々を、朱鷺はまんざらでもない表情で眺める。
年老いた山吹よりもさらに小柄な体が、小さく左右に揺れていた。
山吹は辛抱強く、後輩の弁解を待つ。
「言い訳を……させていただきますと……」
体の揺れが止まり、つぶらな瞳が山吹を見上げた。
「最初に『それ』を発現させたのは……シユウ君本人です……彼にその自覚はありませんけれど……私はただ……弟子の特性を……伸ばそうと……」
「それが師の務めってことかい」
山吹の口元を覆う薄布が、吐息でふわりと揺れる。
身を縮こませている朱鷺の面持ちに、反省の色は希薄だった。
「ご安心を……まだ自在とは、言いがたく……特定の状況下でなければ……発現に至らないのです……」
「特定の状況?」
「感情が
朱鷺が提示した事例は、炬之国の要人の護衛任務でのこと。
一人の中士(トウジュ)の危機を、シユウが目の当たりにした瞬間、突如として濃緑の毒水が闇色に変異した。
別の任務においても、誰かの危機的状況において、もしくは瞬発的な怒りの発露とともに毒が変異し、威力が増幅するのだという。
「感情……まだ十代の子どもだろう、ますます危ういではないのさ!」
「彼は年齢の割に大人びていますので……」
「そういう問題じゃないよっ」
再び山吹にぴしゃりと嗜められ、朱鷺は背を丸める。
それでも、やはり顔に反省の色は無かった。
むしろ「してやったり」とも見えた。
はあ、と山吹は再び薄布の下で長い息を吐く。
朱鷺が持つ独特の間合いに、神麟でさえ戸惑いを覚える。
山吹は卓上に並べた報告書を束ね、側の小卓へ移した。
頃合いを見計らい、少女が庵へ入室する。
黄胡麻色の宝瓶と湯呑みが乗った小盆を山吹の側へ置き、代わりに書類の束を受け取って、去って行った。
「……『鍵』がいつまでもつかね……」
「……なに、か……?」
山吹の微かな独り言に、朱鷺が小首を捻る。
一貫して悪びれる様子のない後輩を前に、山吹は諦めと感心が混じった、幾度目かのため息を吐いた。
少女が運んできた宝瓶から湯呑みへ茶を注ぎ、朱鷺へ差し出す。
「……自慢の弟子なのだろう」
湯呑みへ伸びる朱鷺の手首の細さに、山吹は頭巾の奥で目を顰めた。
「責任もって、一人前になるまで面倒みておやり」
「はい……でも、そう、長くは掛からないであろう、と……思いま……す」
か細い声が、湯呑みで揺れる玉露茶に溶けていった。
*
若き龍は、激昂した。
「――何のために!」
感情のままに立ち上がり、声を荒げたシユウ――こと大月青を、山吹は静かに見上げた。
白玄の意図は分かりきっていた。
青を煽るなら、藍鬼の名を出せば覿面であろうと。
その目論見は的中し、毒術の若き龍は感情を露呈させた。
昂る怒りに呼応し、青の輪郭が黒く揺れる。
冷えた空気に晒された熱気のように、彼の上半身から淡い黒の霞が滲み出し、広がった。
「なぜ、あの人が死ななければならなかった!!」
最後の絶叫の直後、
「っぁ……!!」
突然、苦痛に呻く。
袖の上から左腕を押さえ、青は身を屈めた。
直後、白玄も席を立つ。
黒い靄はますます濃くなり、意思を持つかのように青の手足、指先、首筋へと絡みついた。
朱鷺が言っていた「感情が昂った時に発現」とは、まさにこのことか。
白玄が寄り添い、頸脈から気を流し込んで落ち着かせ、ほどなくして黒い靄は消え失せる。
左腕の袖を捲ると、そこには赤く腫れた紋様が浮かび上がっていた。
「ほう……よく十年以上ももっているものだ……」
十数年前、藍鬼に伝授した印刻術、その術式が今も効力を保ち続けてそこにある。
山吹が一縷の感慨を覚える一方で、当の青はまだ状況を飲み込めず、助けを求めるように顔を上げた。
「まあ、お座りよ」
土瓶に残った最後の薬湯を、青の湯呑みに注ぐ。淡い湯気が欅の卓の木目を撫でるように
青は、慎重に体の感覚を確かめながら立ち上がる。
「……先ほどは、取り乱しまして……随分なご無礼を……」
気まずさのせいか、着席した青は背を丸めて目を伏せる。その鼻先を、薬湯の湯気がそっと掠めた。
「……」
白玄は表情を変えず、ただ無言で青の挙動を見据えている。
不機嫌そうにも見えるが、内心では弟のために怒りを露わにした若者を、決して悪く思ってはいない。
そういう男なのだ。
「禍地については、わたしらも掴めていないことが多いんだよ」
山吹は袖を軽く振り、青へ薬湯を勧める。
「お前さんをがっかりさせたかもしれないね」
「い、いいえ!」
慌てて否定し、青は素直に湯呑みを手に取った。
「禍地特師にはいずれ……己の力で、辿り着いて見せます……」
決意を秘めた声音とともに、湯呑みが欅の卓にそっと置かれる。
青の黒い瞳は、揺れる薬湯の水面を見つめていた。
「……」
「……」
自然に、山吹と白玄の視線が交わる。
先に白玄が目を逸らした。
まるで「後は任せた」とでも言うように。
「お前さん……禍地に
「勝算……」
青の黒い瞳が、はっと我に帰ったように湯呑みから山吹へと向けられる。
「ここからが、わたしらの本題なんだよ。藍鬼と禍地の思い出話をするために、お前さんを呼び出した訳ではないんだ」
これまでの和やかさが拭い去られ、山吹の声に底冷えするような硬質な響きが宿る。
空気の変化を感じ取ったのか、青の背筋が伸びた。
沈黙が庵を包む中、屋敷の方から軽い足音が近づいてくる。
「おばあちゃん。持ってきました」
長手盆を持った少女が、庵の敷居を跨いだ。
盆の上には、新たな薬湯の満たされた土瓶と、文箱が置かれていた。
少女は火鉢に新たな土瓶を掛け、空になった土瓶を下げると、文箱を山吹の前に置いた。
小さく一礼し、楚々と庵を後にする。
軽い足音が、屋敷の方へと遠ざかっていった。
「お前さん、朱鷺から五神通術と、毒を組み合わせる
本題へと切り込みながら、山吹は漆塗りの文箱を手前に引き寄せた。
金蒔絵で山吹の花が描かれた蓋を開けると、淡い朱漆の中に紙束が収められていた。
「――え、ぁ……」
思いがけない師の褒め言葉に、青の口許が緩む。
だが、すぐに引き締めた。
「これはね」
山吹は文箱から一枚ずつ書類を取り出し、卓の上に並べる。
整然と並んだ紙面のいずれも、「任務報告書」の文字が見出しに印字されていた。
「全て、お前さんについて記載がある報告書だ。一番新しいものでは……これだね、滴りの森の難民村でのもの」
そう言いながら、一枚を青の前へ差し出す。
「ここに記載のある『毒術師による水術の黒龍』。これは誰から教わったものだい」
「……」
青は紙面に目を走らせ、ちらと紙から視線を上げた。
「……基本となったのは、朱鷺一師から伝授いただきました、水術・玉や長蛇と毒薬の融合術です。それを、より威力の強い水龍に変えたもので――」
「毒と水術だけじゃ、黒にはならないはずだよ」
かつて朱鷺に向けた問いを、今度は青にも突きつける。
「これも、これも。ここにある報告書はすべて、お前さんが使った毒術について記載されている。どれも、水術が黒に変異しているとある。これは――闇術の呪毒だね」
「……」
卓上に並んだ報告書を、ひとつひとつ手に取りながら、青は目を伏せたまま口を噤んだ。
「呪毒は毒の効力を増幅させるもの……それが禁書に記された秘術であると分かってのことなのかい。朱鷺からは聞いていたのかね」
山吹の声は、淡々とした平静さの中に、静かな厳しさを滲ませている。
「どうなんだい」
沈黙を続ける青へ、山吹はわずかに語気を強めた。
「い……言い訳を、させていただきますと……」
観念したように、青が口を開く。
奇しくも、その言葉は朱鷺のそれと一言一句、同じだった。
「聞こうじゃないか」
薄布の下で苦笑を噛み殺しながら、山吹は青の言い訳を待った。
*
幼い頃、不思議に思っていた。
学校の授業にて五大国の歴史は学ぶのに、闇と光の里は取り上げられない。
五神通術は習うのに、闇術と光術はない。
蟲之区の所蔵を探しても、知り得ることは限られていた。
分かったことといえば――闇と光の里は五大国と異なり、法軍を有していない。
そのため、闇術と光術は体系化されていない、ということだ。
「小松先生、光術や、闇術は、学校で習わないんですか?」
ある日、授業の合間にそう尋ねた青に、先生はこう答えた。
「光術と闇術は、他の五神通術と違って……うーん、そうですね、『縁の下の力持ち』な役割なんです。だから、ちょっと複雑で難しいの。でも光術も、闇術も、法軍のお仕事をあちこちで支えているものなので、皆さんが大人になったらきっと、学ぶ機会がでてきますよ」
光と闇は、縁の下の力持ち。
小松先生の言葉の真意を理解したのは、青がハクロの正弟子となってすぐのことだった。
「ハクロ様、光術や、闇術とは、何ですか?」
「ん、ん……、ん??」
問いかけた瞬間、ハクロの仮面が青を二度、三度と見返したのを覚えている。
それは、藍鬼の殉職が公然となってしばらく経った、ある日のことだった。
郊外の森で定期的に行われる妖獣駆除任務、その一隊が森で野営を敷いている。
青はハクロに連れられ、雑用係として一隊に加わっていた。
隊員たちが囲む焚火から少し離れた薄闇の中、切り株を卓代わりにして、ハクロと青の師弟は黙々と粉薬を薬包紙に包んでいた。
火の揺らめきが影を伸ばすわずかな灯りの中、二人の間には、重たい沈黙が流れていた。
正師弟関係を結んだものの、青はハクロとの距離の測り方が分からなかった。
一方のハクロも罪悪感を抱える故か、幼い子どもの扱いに不慣れであったのか、ぎこちなさが拭えないままだった。
薬包紙の残りが少なくなり、作業の終わりが見え始めた頃、ふと青が問いを口にした。
青にその記憶は無かったが、後々のハクロいわく、青から話しかけてきたのはこの時が初めてだったらしい。
「どうしたのだ、急にそんな質問を」
「小松先生は、まだ難しいからといって、教えてくれなかったんです」
「ああ、そうか……確かにな」
藍鬼が存命だった頃は子どもらしかった青の言動が、今では年齢不相応に大人びてしまっている。
「ハクロ様、教えてくれませんか?」
「え……俺、か? ……俺しかいないか」
仮面の上からでも、ハクロの動揺は見て取れた。
当時の青は「大人でも慌てたりするんだ」と思ったものだ。
後に青自身が高位者となり、ようやくこの時のハクロの気持ちを理解することになる。
「そうだな……おや。指、血が出ているぞ」
仮面の視線が、青の手元を向いた。
薬包紙で切ったのか、指先に赤い線が浮かんでいた。
「見せてみなさい」
差し出した青の小さな手を、ハクロがやわらかく包み込む。
藍鬼とは異なる、少し高い体温と、肉厚な手のひらの感触がした。
傷がついた青の指に、ハクロが手を翳(かざ)した。
触れるか触れないか、仄かに体温が伝わる――次の瞬間、指先に灯る微かな熱。獅子の銀盤に覆われた手甲の下で、白い光が微かに瞬いた。
「あ……」
ハクロが手を
薬を用いなかった治療、すなわち「治癒術」だ。
「今の治癒術は、光の性質が作用している」
「セイシツ……?」
「そもそも、治癒術とは何か、から説明が必要だな」
ハクロの改まった様子に、青も背筋を伸ばした。
「人間など生き物には、生まれながらに病や傷を治す機能――治癒力が備わっている。『治癒術』は、術者が光の神より『再生』の性質を
「セイシツ、ゾウフク……」
ハクロの言葉を繰り返しながら、青は小首をかしげる。
「あぁ……少し、説明が難しかったか……」
子どもへ伝えるには言葉が硬すぎたかと、ハクロの仮面もまた、小さく傾いた。
「……さっきの僕の傷が治ったのは、僕の体の治ろうとする力に、ハクロ様が光の神様の力を加えて下さった……だから早く治ったということですか?」
「あ、ああ。そういうことだ」
青の理解力の速さに、ハクロは一瞬、言葉を詰まらせた。
「光と闇は『性質』なのだ」
すぐに気を取り直し、ハクロは足元に落ちている木の枝を拾い上げた。
青の位置から見えるように、地面に「性質」と文字を書く。
「それが治癒術、薬術、毒術、呪術、その他、様々な技法と結びついて、はじめて『術』として成り立つ。例えば――」
次にハクロは懐から符を取り出す。
「これは薬術の、疲労回復の薬剤符だ。これだけでも一定の効果は得られるが、人の回復しようとする力と、光の『浸透』や『活性』の性質の力が合わさることで、より強力な効果を発揮する。光の性質は往々にして生物の『生きる力』を高めるのだ」
「光は、生きる力……そっかぁ……だから、治癒術や薬術になるんですね」
ハクロの話に頷きながら、青は地面に書き込まれた文字や図を目で追う。
そして何かに気がついたかのように、顔を上げてハクロを見上げた。
「では、では、毒術は? 薬術が光なら、毒術は闇、なのですか?」
「一概には言えないが……」
前のめりな弟子の勢いに、白き仮面が少しだけ後ずさる。
「光の才ある者は薬術や治癒術、闇の才ある者は毒術、呪術、幻術に秀でる、というのが通説であるな。才というよりは……ううむ……相性というべきか」
「ハクロ様、闇って――」
「ハクロ二師!」
青の問いかけに重なるように、野営地の方から声が飛んだ。
名を呼ばれてハクロが振り向くと、火を挟んで反対側にいる士官が手を振っている。
「すまない、続きはまたにしよう。薬を配っておいてくれるか」
「は、はい!」
青は慌てて、薬包紙に包み終わった薬を籠へかき集める。ハクロが焚火へ向かうのを確認し、後を追った。
ハクロからは、必ず目が届く距離にいること、と厳命されている。
「怪我人を診てやってほしい。もうすぐ到着するはずだ」
「承知」
ほどなくして、反対側の森から准士の男が、肩に怪我人を担いで現れる。獣か妖獣に襲われたのか、怪我人は裂傷を負った足を引きずっていた。
ハクロが怪我人の手当に専念する間、青は焚火周囲の士官たちに、薬を配って歩いた。
駆除対象の妖獣の体液や体毛に過敏反応を示す隊員が出たため、急遽、ハクロが手持ちの材料を用いて抑制薬を調合したのだ。
「そこのボク」
ふと、女の声が、青を呼んだ。
「?」
青は足を止め、声のする方へ振り向く。
森の暗がりから、女の士官が手を振っていた。
隊の副隊長を務める、小森上士だ。
「こっちにも薬を配りにきてくれない? いま手が離せなくて」
「え……」
青は手持ちの籠を見やる。
焚火を囲む面々には配り終えたが、確かにまだ数袋、残っていた。
「えっと……」
青は、女と、焚火の向こうで忙しく立ち働くハクロの間で視線を二巡させる。
忙しそうなハクロが、こちらに気が付く様子はない。
「わ、わかりました」
薬を配るだけなら――そう思い、青は女の手招きに応じ、森の暗がりへと歩を進めた。
茂みに片足を踏み入れた瞬間、
「っわ!」
体が闇へ沈んだ。
子どもの背丈を越える藪に隠れていた斜面に足を取られ、青の小さな体は深い森の窪地へと転がり落ちた。
「え、わわっ!」
起きあがろうとした途端、片足首を強く掴まれる。
次の瞬間、青の軽い体はいとも簡単に地面を滑り、森の闇の中へと引きずり込まれた。
「くっ……!」
青《せい》は咄嗟《とっさ》に苦無を抜き、地面へと突き立てた。
だが、刃は土を抉《えぐ》るばかりで、引きずられる勢いを削ぐには至らない。
野営の灯りが遠のいていく。
軽率な行動を悔いる暇も、恐怖に囚《とら》われる余裕すらない。
石や枝が肌を裂き、頬や腕に鋭い痛みが走る。何度も地に叩きつけられ、息が詰まり、声すら出ない。
幾度か藪《やぶ》を突き破り、斜面を滑り落ち、全身の痛みに意識が霞《かす》みかけた頃――やがて森の奥に、ぼんやりと青白い光が滲《にじ》んだ。
「ぅあっ……!」
足首を引く力が唐突に緩み、青の体は軽石《かるいし》のように地を転がる。
両手で懸命《けんめい》に土を掻き、ようやく止まった。苦無は、いつの間にか失われていた。
「痛……ぁ……」
痛みの次に、冷えが身を包む。
闇雲《やみくも》に地面をまさぐると、ぴしゃりと水の感触がした。
青は身を伏せ、恐る恐る顔を上げる。
「え……?」
目の前にそびえるのは、黒ずんだ巨木だった。
不規則にうねる幹はひび割れ、岩のように荒々しい樹皮《じゅひ》をまとっている。
枯れ果てた枝は乾いた腕のように天を差し、絡み合う影が大蛇のようにも見えた。
「ここ……どこ……?」
青は体を起こす。
確かに森の闇に引き摺り込まれたはずが、黒い巨木を中心に、辺りが青白い光に包まれている。
草地はじわりと水を含み、踏みしめるたびにぴちゃりと湿った音が鳴った。
大樹の周囲には、朽ちた木の枝や踏みちぎられた草が散乱し、水に漂っている。
ここは、さきほどまでいた森ではない――別の空間。
『いらっしゃい、ボク』
女の声。
「っ!?」
振り返ると、大樹の根元がゆっくりと蠢《うごめ》き、大きく口を開いた。
樹洞《じゅどう》の奥、濃い闇の中から、女の顔がゆらりと浮かび上がる。
「こ、小森……上士……?」
その顔は確かに、任務に赴《おもむ》く前にハクロから紹介された副隊長のものだった。
後頭部に結われた黒髪が、馬の尾のように揺れる。
しかし、首から下は――闇の中から現れたのは、もたげられた巨大な蟲の躰だった。
女の顔の下に、大小の鎌状の牙が口を開けている。左右の付け根からは長い髭《ひげ》が何本も伸び、宙に揺れていた。
濃緑の胴には数対の脚が生え、地を叩くたびに湿地の水を弾く。下半身は大樹の洞《うろ》と融合し、一体化していた。
「っひ……」
青の喉奥で小さな悲鳴が逆流する。
恐怖に突き動かされて後ずさると、足が水に沈んだ。
『美味しそうな子ね……こちらへおいで』
虫の躰に宿る女の顔が、細めた瞳で青を見つめる。
赤く爛《ただ》れた唇が、にたりと口角を吊り上げる。
「あ……」
青は目を凝らす。
薄明かりに慣れてくると、大樹の洞穴の様子が見えてくる。
穴奥に無造作に転がされている、幾つもの髑髏《しゃれこうべ》。
無惨に食い荒らされた遺骸であろう。
「エサにされてたまるか……」
妖虫から目を離さぬよう、青は慎重に後ずさる。
自分の体を弄《まさぐ》るも、武器となるものは見当たらなかった。
「え……」
足元の違和感に気がつく。
二歩、三歩と下がっているはずなのに、女との距離が広がらない。
「進んで、ない……」
水の中で足を掻いているかのように、空を踏むばかりだ。
「ここ、は、幻術の中……?」
青は天を仰ぐ。
大樹の枯れ枝が張り巡らされた空は、冥色《めいしょく》に包まれている。
朧月も、星も見えない。
『ふふ……』
女は悠然と、右往左往する青の様子を見下ろしていた。
『もっと怯えて……泣き喚《わめ》いてもいいのよ……』
囚《とら》えた獲物が恐怖する姿をも、糧《かて》にしているのであろう。
「幻術を解かないと……」
青は必死に考えた。
かつて藍鬼《らんき》が教えてくれた、小屋を消したり出現させる幻術。
荒くなる呼吸を抑え、記憶の断片を手繰る。
恐怖に瞼《まぶた》を閉じたくなる衝動を振り払い、周囲を見回した。
幻術をかけるための媒介《ばいかい》――呪具《じゅぐ》か、符か、いや、妖は道具を用いずとも幻術を自在に操る種もいると、聞いた。
それならば、妖虫の躰のどこかに、幻術を司《つかさど》る器官があるのか。
しかし、手元に武器はない。
青が使える神通術の威力は、たかが知れていた。
打つ手が、無い――
「……ぁ……」
一瞬、過《よぎ》った絶望が、青の体を硬直させた。
背中に冷や水が伝うような寒気が疾《はし》る。
飲み込まれてはいけない。
しっかりしなければ。
さもなくば、この先に待つのは、死。
「はっ……、ぁ……」
無理やり口を開けて、酸素を取り込んだ。
ここは幻術の内側、つまり、外側から見えていない。
藍鬼の小屋のように。
以前、藍鬼が小屋の中から幻術をかけていたことがあった。
留守だと思って引き返そうとしたことを、思い出す。
「幻術を……解くには……」
言霊を唱えるだけでは足りない。
幻術が解けたあとの景色を、明確に思い描くこと。
そうすることで、目に見えていなかったものが、実体を取り戻していく。
先ほどまでいた、闇深い森。
青の背丈ほどまで伸びたクマザサやススキ、足元に絡みつくシダやドクダミ、コナラやクヌギの黒々とした幹が影絵のようで、梢《こずえ》の隙間から朧《おぼろ》げな月が覗《のぞ》いて、僅かな月明かりが地面を照らし、その下を駆ける、白い影――
「……え……」
――青
呼ぶ声がした。
――どこだ、青
「ハクロ様……?!」
その名を口にしたと同時に、頭上で微かな破砕音《はさいおん》がした。
見上げれば、冥色の空に一筋の亀裂《きれつ》が走っている。
その向こうに見え隠れする、朧《おぼろ》げな月。
『わたしの……巣が……!?』
女の顔が焦燥《しょうそう》に歪んだ。
躰《からだ》に連なる筋が波打ち、足が地を激しく叩く。
跳ね上がる水飛沫《みずしぶき》が、青の顔を濡らした。
冷たい。
違う、この森に湿地帯は存在しない。
野営の周辺に水場はないと、隊員たちが確認していたはずだ。
疑うごとに、頭上の亀裂が広がっていく。
『活きがいい子だね……! さあ、こっちへおいで!』
風を切る鋭い音、長く黒い髭が鞭《むち》のようにしなり、一閃《いっせん》する。
「うぁ!」
足首を絡め取られ、青は背中から倒れ込んだ。
次々と巻きつく髭が腕を締め上げ、体を縛りつける。
『こざかしい餓鬼《ガキ》め……!』
女の顔はいよいよ醜く歪み、顎下に生えた巨大な鎌が大きく開いた。
青の体が容赦なく引きずられていく。
口内には鋸歯《のこば》が幾重にも並び、円を描くように蠢いていた。
それは、ただ喰らうための器官。
「嫌だ!!」
青は固く目を瞑る。
脳裏に浮かんだのは――白き妖鳥。
一際大きな瓦解音《がかいおん》が響き、突風が巻き起こった。
「っ!」
手足を絡《から》め取っていた拘束《こうそく》が解ける。
目を開けると、青の視界を遮るのは妖虫の前に降り立った白き影――外套《がいとう》が翻《ひるがえ》った。
その向こうに見えるは、朧月の空。
「は、ハクロ様……っ」
妖鳥の仮面の半身が覆い被さり、妖から青を庇い隠している。
振り抜いた片手が、逆手に小刀を握っていた。
断ち切れた髭が落ちる。
「ハクロの名のもとに命ず」
獅子の手甲が式符を投げ放った。
符は白い煙をあげ、瞬く間に白き巨鳥へと姿を変じた。
「ガァアアアア!」
巨鳥が鼓膜を揺るがすような咆哮《ほうこう》を上げた。
重々しい羽ばたきが風を裂き、鎌のような風刃《ふうじん》を巻き起こす。
その勢いのまま、妖虫へと猛然と飛びかかった。
『ギャッ!!』
女のひび割れた悲鳴が上がる。
巨鳥の鉤爪《かぎづめ》が女の顔を掻き、黒く長い嘴《くちばし》が穴を穿《うが》つ。
「青、無事か!」
白い外套がふわりと包み、ハクロの腕が青の身体を抱き上げる。
「ご……ごめんなさい、僕……」
青は傷だらけの手で、ハクロの上衣《うわぎ》を掴んだ。
泥や血が白衣を汚す。
「大丈夫だ……しっかりつかまっていなさい」
ハクロが頷くと、妖鳥面の嘴が撫でるように青の頬をつついた。
「グガァアアア!」
師弟の声をかき消すように、再び怪鳴が轟《とどろ》く。
「!?」
ハクロが肩越しに振り返る。
その視線の先で、無数の白羽が激しく舞い散っていた。
妖虫の鎌顎が巨鳥の片翼《かたよく》を引きちぎったのだ。
「やはり長くは保たないか……!」
青を抱え、ハクロが地を蹴る。
そこへ――
「風神・三日月鎌!」
新たな声が響き、言霊《ことだま》が朧月夜の空を裂いた。
風圧に煽られ、外套の裾が激しくはためく。
巨大な風鎌が天から振り下ろされ、空気を震わす衝撃波が肌を刺す。
巨木に一本の斜線が走ったかと思うと、切断面が爆ぜた。
「っ!」
弾け飛ぶ木《こ》っ端《ぱ》や石礫《いしつぶて》――ハクロが咄嗟に青の体を抱き込んで庇う。
『ヒギャアアァァグギギギギィッ』
女の悲鳴が不快な軋《きし》み音へ変容した。
空へ枯れ枝を広げていた巨木が、ゆるやかに傾《かし》ぐ。切断面から干涸《ひから》びた破片が崩れ落ち、脆く砕けていった。
大樹と一体化した妖虫の上半身が、みるみる黒ずむ。精気の供給を絶たれ、生命力が急速に枯渇《こかつ》していくのが見て取れた。
「炎神・煉獄柱!」
言霊が響き、大樹が瞬時に炎に包まれる。
燃え上がる炎が幹を奔《はし》り、妖虫へと広がり呑み込んだ。
「地神・天槌《てんつい》!」
続けざまに術が発動し、天より巨大な岩柱が降下、火だるまの妖虫を押し潰した。
怒涛《どとう》の術の連続から一転、あたりから音が消える。
あまりに呆気ない幕切れだった。
「……う、うわぁ……」
ハクロにしがみついたまま、青はただ目の前の光景に呆然とした。
「消火完了だ」
巨大な墓標《ぼひょう》のごとき岩柱の奥から、女の声が現れる。
「ったく……年端のいかない男の子を誘い出すとか、私の顔を勝手に使って、いかがわしいことしてんじゃないよっ!」
黒髪を馬の尾のように揺らしながら、女は手にした刀で消し炭と化した巨木を小突いた。剥《は》がれ落ちた幹の一部が黒い砂塵《さじん》となり、音もなく風に攫われていく。
「小森上士……!」
青を抱き上げたまま、ハクロは女に駆け寄った。
そこにいるのは、妖獣駆除隊の副隊長、紛れもなく小森上士「本人」だ。
「二師、ボク、大丈夫だった?!」
小森上士は師弟へ、人懐こい笑顔を向ける。
それは、妖虫の粘つくような笑みとは、似ても似つかない。
「あ、あの……僕、も、申し訳あ、ありません……勝手なことをしたから……」
青は震える声で懸命に言葉を紡《つむ》いだ。
ハクロと、小森上士を交互に見つめる。
ようやく、自分がハクロにしがみついたままであることに気づき、遠慮がちに顔を離した。身動きは取れないが、外套に包まれた温もりが、心地よかった。
「ボク、お手柄だよ」
小森上士が屈託《くったく》なく笑い、白い歯を見せる。
「あいつはね、ここいらのヌシなんだ。古木に取り憑いて、森の精気をすいとっちまう害虫さ」
「ヌシ……」
青の手が、無意識にハクロの衣を引き寄せた。
初等学校の子どもでは滅多に遭遇しない強敵だった。
「幻術が得意なやつでね。人を誘い出して、幻影の巣に引きずり込むんだ。姿を隠しちまうから、なかなか見つけられなくて難儀《なんぎ》してたところなのよ」
やがて、森の奥から複数の声が近づいてくる。
小森上士を追ってきた中士ら隊員たちだ。
「小森上士、やっと追いつきましたよ……って、うわ、黒焦げ」
「さすが。もう片付いてる!」
森の中で手分けをしてヌシを探していた面々は、消し炭と化した巨木と、岩柱の下を覗き込む。
「検分は任せたよ!」
小森上士の声かけに、部下たちは「おーす」と和やかに応え、作業に取りかかった。
「いやあ、それにしても。さすが二師」
「え?」
振り返る小森へ、ハクロは疑問の眼差しを向ける。
「こいつの幻術を破るなんてさ。私らは素通りしちゃったもの。ボクも、師匠のおかげで助かって良かったね〜」
「は、はい……」
子ども好きな様子の小森上士が、青の頭をわしわしと掻き回す。
その様子を見つめる妖鳥の仮面は、神妙に口を開いた。
「幻術を破ったのは……私では、ないのです」
「……」
青の頭に置かれた手が、ふと止まる。
「あー……」
小森上士はちらりと青を見やり、
「なるほど?」
今度はハクロへと目を向けた。
「……?」
青は、大人二人の視線のやりとりを目で追う。
「小森上士、検分終わりました!」
「今行く!」
部下の声に軽やかに応え、小森上士は再びハクロへと向き直る。
「大事に育ててやんなね」
そう言ってハクロの肩を軽く二度叩くと、踵を返し、部下たちのもとへと歩き去った。