毒使い   作:キタノユ

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ep. 51 月籠る魂魄(こんぱく)(1)

 通り過ぎる前に、波紋を残していく後輩もいた。

 

「そりゃあ、わたしも品行方正な方ではなかったがね」

 山吹は、卓上に置いた数枚の書類に、袖を添えた。

 

「それでもさすがに、禁書の秘術を弟子に使わせようとは、考えにいたらなかったよ」

 

 まだ若い色味の栗の木の卓、その向かいに腰掛ける朱鷺は、落ち着きなく左右に小刻みに揺れている。

 膝上には、朱鷺面が置かれていた。

 

「この任務報告書にある『漆黒の水術』だの『墨色の毒水』だの……これは呪毒ではないのかい。本来、虎の練師が扱えるシロモノではないんだ」

「……」

 

 黒くつぶらな瞳が、誤魔化すように庭の景色へ逸れる。

 まばらに色づき始めた楓の葉がひとひら、池の水面に落ち、波紋を広げていた。

 

「……大変……素晴らしいお庭で……」

「誤魔化すんじゃないよ」

 

 ぴしゃりと山吹が釘を刺すと、朱鷺は細い肩を竦め、しぶしぶ正面へ向き直った。

 卓上に置かれているのは、シユウについて記載のある、いくつかの任務報告書だ。

 

「シユウ練師は、お前さんの弟子であろう」

「……仰る、通りです」

 

 観念したように、朱鷺は頷いた。

 朔の山吹の庭では、神麟としての務め――後進指導という名の「説教」が行われている。

 

 相手は毒術師・龍の位、朱鷺。

 その弟子であるシユウが、禁書に記されている秘術と思われる毒術を使用している様子が、たびたび任務報告書の中に記されていた。

 

 今日は、その追及のための場であった。

 

「水、火、風、雷、地……五神通術と毒の融合術は、お前さんのお得意だったね。火力不足の弟子へそれを伝授したと……そこまでは良い」

 

 袖に隠れた山吹の指が、卓に広げた報告書をこつこつと叩く。

 

「例えばこれ……立ち寄った村で百足(ムカデ)の妖虫の群れの襲撃に遭遇……村人が襲われかけたところをシユウ練師の毒術により足止めに成功、と」

 

 報告書にはさらに、こうある。

 墨色の毒水の粘着力と可燃力は強力で、見積もって十匹ほどの百足を飲み込み、跡形もなく焼き払った――と、隊長の上士が目にしたままの説明が記されていた。

 

「水術と毒薬の組み合わせだけでは『黒』にはならないよ。明らかにこれは『闇』が発現しているね」

「……」

 

 卓上に並べられた報告書の数々を、朱鷺はまんざらでもない表情で眺める。

 年老いた山吹よりもさらに小柄な体が、小さく左右に揺れていた。

 

 山吹は辛抱強く、後輩の弁解を待つ。

 

「言い訳を……させていただきますと……」

 体の揺れが止まり、つぶらな瞳が山吹を見上げた。

 

「最初に『それ』を発現させたのは……シユウ君本人です……彼にその自覚はありませんけれど……私はただ……弟子の特性を……伸ばそうと……」

「それが師の務めってことかい」

 

 山吹の口元を覆う薄布が、吐息でふわりと揺れる。

 身を縮こませている朱鷺の面持ちに、反省の色は希薄だった。

 

「ご安心を……まだ自在とは、言いがたく……特定の状況下でなければ……発現に至らないのです……」

「特定の状況?」

「感情が(たかぶ)った時にだけ……」

 

 朱鷺が提示した事例は、炬之国の要人の護衛任務でのこと。

 一人の中士(トウジュ)の危機を、シユウが目の当たりにした瞬間、突如として濃緑の毒水が闇色に変異した。

 

 別の任務においても、誰かの危機的状況において、もしくは瞬発的な怒りの発露とともに毒が変異し、威力が増幅するのだという。

 

「感情……まだ十代の子どもだろう、ますます危ういではないのさ!」

「彼は年齢の割に大人びていますので……」

「そういう問題じゃないよっ」

 

 再び山吹にぴしゃりと嗜められ、朱鷺は背を丸める。

 それでも、やはり顔に反省の色は無かった。

 むしろ「してやったり」とも見えた。

 

 はあ、と山吹は再び薄布の下で長い息を吐く。

 朱鷺が持つ独特の間合いに、神麟でさえ戸惑いを覚える。

 

 山吹は卓上に並べた報告書を束ね、側の小卓へ移した。

 頃合いを見計らい、少女が庵へ入室する。

 黄胡麻色の宝瓶と湯呑みが乗った小盆を山吹の側へ置き、代わりに書類の束を受け取って、去って行った。

 

「……『鍵』がいつまでもつかね……」

「……なに、か……?」

 

 山吹の微かな独り言に、朱鷺が小首を捻る。

 一貫して悪びれる様子のない後輩を前に、山吹は諦めと感心が混じった、幾度目かのため息を吐いた。

 

 少女が運んできた宝瓶から湯呑みへ茶を注ぎ、朱鷺へ差し出す。

 

「……自慢の弟子なのだろう」

 

 湯呑みへ伸びる朱鷺の手首の細さに、山吹は頭巾の奥で目を顰めた。

 

「責任もって、一人前になるまで面倒みておやり」

「はい……でも、そう、長くは掛からないであろう、と……思いま……す」

 

 か細い声が、湯呑みで揺れる玉露茶に溶けていった。

 

 

 若き龍は、激昂した。

 

「――何のために!」

 

 感情のままに立ち上がり、声を荒げたシユウ――こと大月青を、山吹は静かに見上げた。

 

 白玄の意図は分かりきっていた。

 青を煽るなら、藍鬼の名を出せば覿面であろうと。

 その目論見は的中し、毒術の若き龍は感情を露呈させた。

 

 昂る怒りに呼応し、青の輪郭が黒く揺れる。

 冷えた空気に晒された熱気のように、彼の上半身から淡い黒の霞が滲み出し、広がった。

 

「なぜ、あの人が死ななければならなかった!!」

 

 最後の絶叫の直後、

 

「っぁ……!!」

 突然、苦痛に呻く。

 袖の上から左腕を押さえ、青は身を屈めた。

 直後、白玄も席を立つ。

 

 黒い靄はますます濃くなり、意思を持つかのように青の手足、指先、首筋へと絡みついた。

 

 朱鷺が言っていた「感情が昂った時に発現」とは、まさにこのことか。

 

 白玄が寄り添い、頸脈から気を流し込んで落ち着かせ、ほどなくして黒い靄は消え失せる。

 左腕の袖を捲ると、そこには赤く腫れた紋様が浮かび上がっていた。

 

「ほう……よく十年以上ももっているものだ……」

 

 十数年前、藍鬼に伝授した印刻術、その術式が今も効力を保ち続けてそこにある。

 山吹が一縷の感慨を覚える一方で、当の青はまだ状況を飲み込めず、助けを求めるように顔を上げた。

 

「まあ、お座りよ」

 

 土瓶に残った最後の薬湯を、青の湯呑みに注ぐ。淡い湯気が欅の卓の木目を撫でるように(くゆ)った。

 

 青は、慎重に体の感覚を確かめながら立ち上がる。

 

「……先ほどは、取り乱しまして……随分なご無礼を……」

 

 気まずさのせいか、着席した青は背を丸めて目を伏せる。その鼻先を、薬湯の湯気がそっと掠めた。

 

「……」

 

 白玄は表情を変えず、ただ無言で青の挙動を見据えている。

 不機嫌そうにも見えるが、内心では弟のために怒りを露わにした若者を、決して悪く思ってはいない。

 そういう男なのだ。

 

「禍地については、わたしらも掴めていないことが多いんだよ」

 山吹は袖を軽く振り、青へ薬湯を勧める。

 

「お前さんをがっかりさせたかもしれないね」

「い、いいえ!」

 

 慌てて否定し、青は素直に湯呑みを手に取った。

 

「禍地特師にはいずれ……己の力で、辿り着いて見せます……」

 

 決意を秘めた声音とともに、湯呑みが欅の卓にそっと置かれる。

 

 青の黒い瞳は、揺れる薬湯の水面を見つめていた。

 

「……」

「……」

 

 自然に、山吹と白玄の視線が交わる。

 先に白玄が目を逸らした。

 まるで「後は任せた」とでも言うように。

 

「お前さん……禍地に相見(あいまみ)えたとして、勝算はあるのかい」

「勝算……」

 

 青の黒い瞳が、はっと我に帰ったように湯呑みから山吹へと向けられる。

 

「ここからが、わたしらの本題なんだよ。藍鬼と禍地の思い出話をするために、お前さんを呼び出した訳ではないんだ」

 

 これまでの和やかさが拭い去られ、山吹の声に底冷えするような硬質な響きが宿る。

 空気の変化を感じ取ったのか、青の背筋が伸びた。

 

 沈黙が庵を包む中、屋敷の方から軽い足音が近づいてくる。

 

「おばあちゃん。持ってきました」

 長手盆を持った少女が、庵の敷居を跨いだ。

 盆の上には、新たな薬湯の満たされた土瓶と、文箱が置かれていた。

 

 少女は火鉢に新たな土瓶を掛け、空になった土瓶を下げると、文箱を山吹の前に置いた。

 小さく一礼し、楚々と庵を後にする。

 軽い足音が、屋敷の方へと遠ざかっていった。

 

「お前さん、朱鷺から五神通術と、毒を組み合わせる(すべ)を伝授されたんだってね。お前さんほど飲み込みの早い子はいなかったと、朱鷺が言っていたよ」

 

 本題へと切り込みながら、山吹は漆塗りの文箱を手前に引き寄せた。

 金蒔絵で山吹の花が描かれた蓋を開けると、淡い朱漆の中に紙束が収められていた。

 

「――え、ぁ……」

 思いがけない師の褒め言葉に、青の口許が緩む。

 だが、すぐに引き締めた。

 

「これはね」

 山吹は文箱から一枚ずつ書類を取り出し、卓の上に並べる。

 整然と並んだ紙面のいずれも、「任務報告書」の文字が見出しに印字されていた。

 

「全て、お前さんについて記載がある報告書だ。一番新しいものでは……これだね、滴りの森の難民村でのもの」

 

 そう言いながら、一枚を青の前へ差し出す。

 

「ここに記載のある『毒術師による水術の黒龍』。これは誰から教わったものだい」

「……」

 

 青は紙面に目を走らせ、ちらと紙から視線を上げた。

 

「……基本となったのは、朱鷺一師から伝授いただきました、水術・玉や長蛇と毒薬の融合術です。それを、より威力の強い水龍に変えたもので――」

「毒と水術だけじゃ、黒にはならないはずだよ」

 

 かつて朱鷺に向けた問いを、今度は青にも突きつける。

 

「これも、これも。ここにある報告書はすべて、お前さんが使った毒術について記載されている。どれも、水術が黒に変異しているとある。これは――闇術の呪毒だね」

「……」

 

 卓上に並んだ報告書を、ひとつひとつ手に取りながら、青は目を伏せたまま口を噤んだ。

 

「呪毒は毒の効力を増幅させるもの……それが禁書に記された秘術であると分かってのことなのかい。朱鷺からは聞いていたのかね」

 

 山吹の声は、淡々とした平静さの中に、静かな厳しさを滲ませている。

 

「どうなんだい」

 沈黙を続ける青へ、山吹はわずかに語気を強めた。

 

「い……言い訳を、させていただきますと……」

 観念したように、青が口を開く。

 

 奇しくも、その言葉は朱鷺のそれと一言一句、同じだった。

 

「聞こうじゃないか」

 薄布の下で苦笑を噛み殺しながら、山吹は青の言い訳を待った。

 

 

 幼い頃、不思議に思っていた。

 

 学校の授業にて五大国の歴史は学ぶのに、闇と光の里は取り上げられない。

 五神通術は習うのに、闇術と光術はない。

 蟲之区の所蔵を探しても、知り得ることは限られていた。

 

 分かったことといえば――闇と光の里は五大国と異なり、法軍を有していない。

 そのため、闇術と光術は体系化されていない、ということだ。

 

「小松先生、光術や、闇術は、学校で習わないんですか?」

 

 ある日、授業の合間にそう尋ねた青に、先生はこう答えた。

 

「光術と闇術は、他の五神通術と違って……うーん、そうですね、『縁の下の力持ち』な役割なんです。だから、ちょっと複雑で難しいの。でも光術も、闇術も、法軍のお仕事をあちこちで支えているものなので、皆さんが大人になったらきっと、学ぶ機会がでてきますよ」

 

 光と闇は、縁の下の力持ち。

 小松先生の言葉の真意を理解したのは、青がハクロの正弟子となってすぐのことだった。

 

 

「ハクロ様、光術や、闇術とは、何ですか?」

「ん、ん……、ん??」

 

 問いかけた瞬間、ハクロの仮面が青を二度、三度と見返したのを覚えている。

 

 それは、藍鬼の殉職が公然となってしばらく経った、ある日のことだった。

 

 郊外の森で定期的に行われる妖獣駆除任務、その一隊が森で野営を敷いている。

 青はハクロに連れられ、雑用係として一隊に加わっていた。

 

 隊員たちが囲む焚火から少し離れた薄闇の中、切り株を卓代わりにして、ハクロと青の師弟は黙々と粉薬を薬包紙に包んでいた。 

 

 火の揺らめきが影を伸ばすわずかな灯りの中、二人の間には、重たい沈黙が流れていた。

 

 正師弟関係を結んだものの、青はハクロとの距離の測り方が分からなかった。

 

 一方のハクロも罪悪感を抱える故か、幼い子どもの扱いに不慣れであったのか、ぎこちなさが拭えないままだった。

 

 薬包紙の残りが少なくなり、作業の終わりが見え始めた頃、ふと青が問いを口にした。

 

 青にその記憶は無かったが、後々のハクロいわく、青から話しかけてきたのはこの時が初めてだったらしい。

 

「どうしたのだ、急にそんな質問を」

「小松先生は、まだ難しいからといって、教えてくれなかったんです」

「ああ、そうか……確かにな」

 

 藍鬼が存命だった頃は子どもらしかった青の言動が、今では年齢不相応に大人びてしまっている。

 

「ハクロ様、教えてくれませんか?」

「え……俺、か? ……俺しかいないか」

 

 仮面の上からでも、ハクロの動揺は見て取れた。

 当時の青は「大人でも慌てたりするんだ」と思ったものだ。

 

 後に青自身が高位者となり、ようやくこの時のハクロの気持ちを理解することになる。

 

「そうだな……おや。指、血が出ているぞ」

 仮面の視線が、青の手元を向いた。

 薬包紙で切ったのか、指先に赤い線が浮かんでいた。

 

「見せてみなさい」

 差し出した青の小さな手を、ハクロがやわらかく包み込む。

 藍鬼とは異なる、少し高い体温と、肉厚な手のひらの感触がした。

 

 傷がついた青の指に、ハクロが手を翳(かざ)した。

 触れるか触れないか、仄かに体温が伝わる――次の瞬間、指先に灯る微かな熱。獅子の銀盤に覆われた手甲の下で、白い光が微かに瞬いた。

 

「あ……」

 ハクロが手を退()けると、青の指先から傷が消えていた。

 薬を用いなかった治療、すなわち「治癒術」だ。

 

「今の治癒術は、光の性質が作用している」

「セイシツ……?」

「そもそも、治癒術とは何か、から説明が必要だな」

 

 ハクロの改まった様子に、青も背筋を伸ばした。

 

「人間など生き物には、生まれながらに病や傷を治す機能――治癒力が備わっている。『治癒術』は、術者が光の神より『再生』の性質を(たまわ)り、この治癒力を増幅させることで、通常の回復を何倍にも速めるのだ」

「セイシツ、ゾウフク……」

 

 ハクロの言葉を繰り返しながら、青は小首をかしげる。

 

「あぁ……少し、説明が難しかったか……」

 

 子どもへ伝えるには言葉が硬すぎたかと、ハクロの仮面もまた、小さく傾いた。

 

「……さっきの僕の傷が治ったのは、僕の体の治ろうとする力に、ハクロ様が光の神様の力を加えて下さった……だから早く治ったということですか?」

「あ、ああ。そういうことだ」

 

 青の理解力の速さに、ハクロは一瞬、言葉を詰まらせた。

 

「光と闇は『性質』なのだ」

 

 すぐに気を取り直し、ハクロは足元に落ちている木の枝を拾い上げた。

 青の位置から見えるように、地面に「性質」と文字を書く。

 

「それが治癒術、薬術、毒術、呪術、その他、様々な技法と結びついて、はじめて『術』として成り立つ。例えば――」

 

 次にハクロは懐から符を取り出す。

 

「これは薬術の、疲労回復の薬剤符だ。これだけでも一定の効果は得られるが、人の回復しようとする力と、光の『浸透』や『活性』の性質の力が合わさることで、より強力な効果を発揮する。光の性質は往々にして生物の『生きる力』を高めるのだ」

「光は、生きる力……そっかぁ……だから、治癒術や薬術になるんですね」

 

 ハクロの話に頷きながら、青は地面に書き込まれた文字や図を目で追う。

 そして何かに気がついたかのように、顔を上げてハクロを見上げた。

 

「では、では、毒術は? 薬術が光なら、毒術は闇、なのですか?」

「一概には言えないが……」

 

 前のめりな弟子の勢いに、白き仮面が少しだけ後ずさる。

 

「光の才ある者は薬術や治癒術、闇の才ある者は毒術、呪術、幻術に秀でる、というのが通説であるな。才というよりは……ううむ……相性というべきか」

「ハクロ様、闇って――」

 

「ハクロ二師!」

 

 青の問いかけに重なるように、野営地の方から声が飛んだ。

 名を呼ばれてハクロが振り向くと、火を挟んで反対側にいる士官が手を振っている。

 

「すまない、続きはまたにしよう。薬を配っておいてくれるか」

「は、はい!」

 

 青は慌てて、薬包紙に包み終わった薬を籠へかき集める。ハクロが焚火へ向かうのを確認し、後を追った。

 ハクロからは、必ず目が届く距離にいること、と厳命されている。

 

「怪我人を診てやってほしい。もうすぐ到着するはずだ」

「承知」

 

 ほどなくして、反対側の森から准士の男が、肩に怪我人を担いで現れる。獣か妖獣に襲われたのか、怪我人は裂傷を負った足を引きずっていた。

 

 ハクロが怪我人の手当に専念する間、青は焚火周囲の士官たちに、薬を配って歩いた。

 

 駆除対象の妖獣の体液や体毛に過敏反応を示す隊員が出たため、急遽、ハクロが手持ちの材料を用いて抑制薬を調合したのだ。

 

「そこのボク」

 ふと、女の声が、青を呼んだ。

 

「?」

 青は足を止め、声のする方へ振り向く。

 森の暗がりから、女の士官が手を振っていた。

 隊の副隊長を務める、小森上士だ。

 

「こっちにも薬を配りにきてくれない? いま手が離せなくて」

「え……」

 

 青は手持ちの籠を見やる。

 焚火を囲む面々には配り終えたが、確かにまだ数袋、残っていた。

 

「えっと……」

 青は、女と、焚火の向こうで忙しく立ち働くハクロの間で視線を二巡させる。

 忙しそうなハクロが、こちらに気が付く様子はない。

 

「わ、わかりました」

 薬を配るだけなら――そう思い、青は女の手招きに応じ、森の暗がりへと歩を進めた。

 

 茂みに片足を踏み入れた瞬間、

 

「っわ!」

 

 体が闇へ沈んだ。

 

 子どもの背丈を越える藪に隠れていた斜面に足を取られ、青の小さな体は深い森の窪地へと転がり落ちた。

 

「え、わわっ!」

 起きあがろうとした途端、片足首を強く掴まれる。

 

 次の瞬間、青の軽い体はいとも簡単に地面を滑り、森の闇の中へと引きずり込まれた。

 

「くっ……!」

 青《せい》は咄嗟《とっさ》に苦無を抜き、地面へと突き立てた。

 だが、刃は土を抉《えぐ》るばかりで、引きずられる勢いを削ぐには至らない。

 

 野営の灯りが遠のいていく。

 軽率な行動を悔いる暇も、恐怖に囚《とら》われる余裕すらない。

 石や枝が肌を裂き、頬や腕に鋭い痛みが走る。何度も地に叩きつけられ、息が詰まり、声すら出ない。

 

 幾度か藪《やぶ》を突き破り、斜面を滑り落ち、全身の痛みに意識が霞《かす》みかけた頃――やがて森の奥に、ぼんやりと青白い光が滲《にじ》んだ。

 

「ぅあっ……!」

 

 足首を引く力が唐突に緩み、青の体は軽石《かるいし》のように地を転がる。

 両手で懸命《けんめい》に土を掻き、ようやく止まった。苦無は、いつの間にか失われていた。

 

「痛……ぁ……」

 

 痛みの次に、冷えが身を包む。

 闇雲《やみくも》に地面をまさぐると、ぴしゃりと水の感触がした。

 青は身を伏せ、恐る恐る顔を上げる。

 

「え……?」

 目の前にそびえるのは、黒ずんだ巨木だった。

 

 不規則にうねる幹はひび割れ、岩のように荒々しい樹皮《じゅひ》をまとっている。

 枯れ果てた枝は乾いた腕のように天を差し、絡み合う影が大蛇のようにも見えた。

 

「ここ……どこ……?」

 青は体を起こす。

 確かに森の闇に引き摺り込まれたはずが、黒い巨木を中心に、辺りが青白い光に包まれている。

 

 草地はじわりと水を含み、踏みしめるたびにぴちゃりと湿った音が鳴った。

 大樹の周囲には、朽ちた木の枝や踏みちぎられた草が散乱し、水に漂っている。

 

 ここは、さきほどまでいた森ではない――別の空間。

 

『いらっしゃい、ボク』

 女の声。

 

「っ!?」

 振り返ると、大樹の根元がゆっくりと蠢《うごめ》き、大きく口を開いた。

 樹洞《じゅどう》の奥、濃い闇の中から、女の顔がゆらりと浮かび上がる。

 

「こ、小森……上士……?」

 その顔は確かに、任務に赴《おもむ》く前にハクロから紹介された副隊長のものだった。

 

 後頭部に結われた黒髪が、馬の尾のように揺れる。

 しかし、首から下は――闇の中から現れたのは、もたげられた巨大な蟲の躰だった。

 

 女の顔の下に、大小の鎌状の牙が口を開けている。左右の付け根からは長い髭《ひげ》が何本も伸び、宙に揺れていた。

 

 濃緑の胴には数対の脚が生え、地を叩くたびに湿地の水を弾く。下半身は大樹の洞《うろ》と融合し、一体化していた。

 

「っひ……」

 青の喉奥で小さな悲鳴が逆流する。

 恐怖に突き動かされて後ずさると、足が水に沈んだ。

 

『美味しそうな子ね……こちらへおいで』

 

 虫の躰に宿る女の顔が、細めた瞳で青を見つめる。

 赤く爛《ただ》れた唇が、にたりと口角を吊り上げる。

 

「あ……」

 青は目を凝らす。

 薄明かりに慣れてくると、大樹の洞穴の様子が見えてくる。

 

 穴奥に無造作に転がされている、幾つもの髑髏《しゃれこうべ》。

 無惨に食い荒らされた遺骸であろう。

 

「エサにされてたまるか……」

 妖虫から目を離さぬよう、青は慎重に後ずさる。

 自分の体を弄《まさぐ》るも、武器となるものは見当たらなかった。

 

「え……」

 足元の違和感に気がつく。

 二歩、三歩と下がっているはずなのに、女との距離が広がらない。

 

「進んで、ない……」

 水の中で足を掻いているかのように、空を踏むばかりだ。

 

「ここ、は、幻術の中……?」

 青は天を仰ぐ。

 大樹の枯れ枝が張り巡らされた空は、冥色《めいしょく》に包まれている。

 

 朧月も、星も見えない。

 

『ふふ……』

 女は悠然と、右往左往する青の様子を見下ろしていた。

 

『もっと怯えて……泣き喚《わめ》いてもいいのよ……』

 囚《とら》えた獲物が恐怖する姿をも、糧《かて》にしているのであろう。

 

「幻術を解かないと……」

 青は必死に考えた。

 

 かつて藍鬼《らんき》が教えてくれた、小屋を消したり出現させる幻術。

 荒くなる呼吸を抑え、記憶の断片を手繰る。

 恐怖に瞼《まぶた》を閉じたくなる衝動を振り払い、周囲を見回した。

 

 幻術をかけるための媒介《ばいかい》――呪具《じゅぐ》か、符か、いや、妖は道具を用いずとも幻術を自在に操る種もいると、聞いた。

 

 それならば、妖虫の躰のどこかに、幻術を司《つかさど》る器官があるのか。

 しかし、手元に武器はない。

 青が使える神通術の威力は、たかが知れていた。

 

 打つ手が、無い――

 

「……ぁ……」

 一瞬、過《よぎ》った絶望が、青の体を硬直させた。

 背中に冷や水が伝うような寒気が疾《はし》る。

 

 飲み込まれてはいけない。

 しっかりしなければ。

 さもなくば、この先に待つのは、死。

 

「はっ……、ぁ……」

 無理やり口を開けて、酸素を取り込んだ。

 

 ここは幻術の内側、つまり、外側から見えていない。

 藍鬼の小屋のように。

 

 以前、藍鬼が小屋の中から幻術をかけていたことがあった。

 留守だと思って引き返そうとしたことを、思い出す。

 

「幻術を……解くには……」

 言霊を唱えるだけでは足りない。

 幻術が解けたあとの景色を、明確に思い描くこと。

 そうすることで、目に見えていなかったものが、実体を取り戻していく。

 

 先ほどまでいた、闇深い森。

 

 青の背丈ほどまで伸びたクマザサやススキ、足元に絡みつくシダやドクダミ、コナラやクヌギの黒々とした幹が影絵のようで、梢《こずえ》の隙間から朧《おぼろ》げな月が覗《のぞ》いて、僅かな月明かりが地面を照らし、その下を駆ける、白い影――

 

「……え……」

 

 ――青

 

 呼ぶ声がした。

 

 ――どこだ、青

 

「ハクロ様……?!」

 その名を口にしたと同時に、頭上で微かな破砕音《はさいおん》がした。

 

 見上げれば、冥色の空に一筋の亀裂《きれつ》が走っている。

 その向こうに見え隠れする、朧《おぼろ》げな月。

 

『わたしの……巣が……!?』

 女の顔が焦燥《しょうそう》に歪んだ。

 躰《からだ》に連なる筋が波打ち、足が地を激しく叩く。

 跳ね上がる水飛沫《みずしぶき》が、青の顔を濡らした。

 

 冷たい。

 

 違う、この森に湿地帯は存在しない。

 野営の周辺に水場はないと、隊員たちが確認していたはずだ。

 

 疑うごとに、頭上の亀裂が広がっていく。

 

『活きがいい子だね……! さあ、こっちへおいで!』

 

 風を切る鋭い音、長く黒い髭が鞭《むち》のようにしなり、一閃《いっせん》する。

 

「うぁ!」

 足首を絡め取られ、青は背中から倒れ込んだ。

 次々と巻きつく髭が腕を締め上げ、体を縛りつける。

 

『こざかしい餓鬼《ガキ》め……!』

 女の顔はいよいよ醜く歪み、顎下に生えた巨大な鎌が大きく開いた。

 青の体が容赦なく引きずられていく。

 口内には鋸歯《のこば》が幾重にも並び、円を描くように蠢いていた。

 

 それは、ただ喰らうための器官。

 

「嫌だ!!」

 青は固く目を瞑る。

 

 脳裏に浮かんだのは――白き妖鳥。

 

 一際大きな瓦解音《がかいおん》が響き、突風が巻き起こった。

 

「っ!」

 手足を絡《から》め取っていた拘束《こうそく》が解ける。

 

 目を開けると、青の視界を遮るのは妖虫の前に降り立った白き影――外套《がいとう》が翻《ひるがえ》った。

 

 その向こうに見えるは、朧月の空。

 

「は、ハクロ様……っ」

 妖鳥の仮面の半身が覆い被さり、妖から青を庇い隠している。

 

 振り抜いた片手が、逆手に小刀を握っていた。

 断ち切れた髭が落ちる。

 

「ハクロの名のもとに命ず」

 獅子の手甲が式符を投げ放った。

 符は白い煙をあげ、瞬く間に白き巨鳥へと姿を変じた。

 

「ガァアアアア!」

 

 巨鳥が鼓膜を揺るがすような咆哮《ほうこう》を上げた。

 重々しい羽ばたきが風を裂き、鎌のような風刃《ふうじん》を巻き起こす。

 その勢いのまま、妖虫へと猛然と飛びかかった。

 

『ギャッ!!』

 女のひび割れた悲鳴が上がる。

 巨鳥の鉤爪《かぎづめ》が女の顔を掻き、黒く長い嘴《くちばし》が穴を穿《うが》つ。

 

「青、無事か!」

 白い外套がふわりと包み、ハクロの腕が青の身体を抱き上げる。

 

「ご……ごめんなさい、僕……」

 青は傷だらけの手で、ハクロの上衣《うわぎ》を掴んだ。

 泥や血が白衣を汚す。

 

「大丈夫だ……しっかりつかまっていなさい」

 ハクロが頷くと、妖鳥面の嘴が撫でるように青の頬をつついた。

 

「グガァアアア!」

 師弟の声をかき消すように、再び怪鳴が轟《とどろ》く。

 

「!?」

 ハクロが肩越しに振り返る。

 その視線の先で、無数の白羽が激しく舞い散っていた。

 

 妖虫の鎌顎が巨鳥の片翼《かたよく》を引きちぎったのだ。

 

「やはり長くは保たないか……!」

 青を抱え、ハクロが地を蹴る。

 そこへ――

 

「風神・三日月鎌!」

 

 新たな声が響き、言霊《ことだま》が朧月夜の空を裂いた。

 風圧に煽られ、外套の裾が激しくはためく。

 巨大な風鎌が天から振り下ろされ、空気を震わす衝撃波が肌を刺す。

 巨木に一本の斜線が走ったかと思うと、切断面が爆ぜた。

 

「っ!」

 弾け飛ぶ木《こ》っ端《ぱ》や石礫《いしつぶて》――ハクロが咄嗟に青の体を抱き込んで庇う。

 

『ヒギャアアァァグギギギギィッ』

 女の悲鳴が不快な軋《きし》み音へ変容した。

 

 空へ枯れ枝を広げていた巨木が、ゆるやかに傾《かし》ぐ。切断面から干涸《ひから》びた破片が崩れ落ち、脆く砕けていった。

 

 大樹と一体化した妖虫の上半身が、みるみる黒ずむ。精気の供給を絶たれ、生命力が急速に枯渇《こかつ》していくのが見て取れた。

 

「炎神・煉獄柱!」

 言霊が響き、大樹が瞬時に炎に包まれる。

 燃え上がる炎が幹を奔《はし》り、妖虫へと広がり呑み込んだ。

 

「地神・天槌《てんつい》!」

 続けざまに術が発動し、天より巨大な岩柱が降下、火だるまの妖虫を押し潰した。

 

 怒涛《どとう》の術の連続から一転、あたりから音が消える。

 あまりに呆気ない幕切れだった。

 

「……う、うわぁ……」

 ハクロにしがみついたまま、青はただ目の前の光景に呆然とした。

 

「消火完了だ」

 巨大な墓標《ぼひょう》のごとき岩柱の奥から、女の声が現れる。

 

「ったく……年端のいかない男の子を誘い出すとか、私の顔を勝手に使って、いかがわしいことしてんじゃないよっ!」

 

 黒髪を馬の尾のように揺らしながら、女は手にした刀で消し炭と化した巨木を小突いた。剥《は》がれ落ちた幹の一部が黒い砂塵《さじん》となり、音もなく風に攫われていく。

 

「小森上士……!」

 青を抱き上げたまま、ハクロは女に駆け寄った。

 そこにいるのは、妖獣駆除隊の副隊長、紛れもなく小森上士「本人」だ。

 

「二師、ボク、大丈夫だった?!」

 小森上士は師弟へ、人懐こい笑顔を向ける。

 それは、妖虫の粘つくような笑みとは、似ても似つかない。

 

「あ、あの……僕、も、申し訳あ、ありません……勝手なことをしたから……」

 青は震える声で懸命に言葉を紡《つむ》いだ。

 ハクロと、小森上士を交互に見つめる。

 

 ようやく、自分がハクロにしがみついたままであることに気づき、遠慮がちに顔を離した。身動きは取れないが、外套に包まれた温もりが、心地よかった。

 

「ボク、お手柄だよ」

 小森上士が屈託《くったく》なく笑い、白い歯を見せる。

 

「あいつはね、ここいらのヌシなんだ。古木に取り憑いて、森の精気をすいとっちまう害虫さ」

「ヌシ……」

 

 青の手が、無意識にハクロの衣を引き寄せた。

 初等学校の子どもでは滅多に遭遇しない強敵だった。

 

「幻術が得意なやつでね。人を誘い出して、幻影の巣に引きずり込むんだ。姿を隠しちまうから、なかなか見つけられなくて難儀《なんぎ》してたところなのよ」

 

 やがて、森の奥から複数の声が近づいてくる。

 小森上士を追ってきた中士ら隊員たちだ。

 

「小森上士、やっと追いつきましたよ……って、うわ、黒焦げ」

「さすが。もう片付いてる!」

 

 森の中で手分けをしてヌシを探していた面々は、消し炭と化した巨木と、岩柱の下を覗き込む。

 

「検分は任せたよ!」

 小森上士の声かけに、部下たちは「おーす」と和やかに応え、作業に取りかかった。

 

「いやあ、それにしても。さすが二師」

「え?」

 

 振り返る小森へ、ハクロは疑問の眼差しを向ける。

 

「こいつの幻術を破るなんてさ。私らは素通りしちゃったもの。ボクも、師匠のおかげで助かって良かったね〜」

「は、はい……」

 子ども好きな様子の小森上士が、青の頭をわしわしと掻き回す。

 

 その様子を見つめる妖鳥の仮面は、神妙に口を開いた。

 

「幻術を破ったのは……私では、ないのです」

「……」

 青の頭に置かれた手が、ふと止まる。

 

「あー……」

 小森上士はちらりと青を見やり、

 

「なるほど?」

 今度はハクロへと目を向けた。

 

「……?」

 青は、大人二人の視線のやりとりを目で追う。

 

「小森上士、検分終わりました!」

「今行く!」

 

 部下の声に軽やかに応え、小森上士は再びハクロへと向き直る。

 

「大事に育ててやんなね」

 

 そう言ってハクロの肩を軽く二度叩くと、踵を返し、部下たちのもとへと歩き去った。

 

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