ディベートというものがある。
主に何かテーマを定め、それについて肯定側と否定側に分かれて議論を行う活動のことを言う。
外国では論理的思考や議論に関する教育の一環として積極的に行われていて、近年では日本でも授業に取り組まれることがあるとかなんとか。
病院で勉強を教えてくれた元教師のお爺ちゃんが、昔そんな風に解説をしてくれた。
「だから私は、男の子はなるべく家の中にいるべきだと思います」
そんな記憶を思い出したのは、ちょうどそのディベートをいくつかの班に分かれ、授業で開催しているからだ。
相手チーム、反対側の意見を聞き終えた財前が眼鏡を光らせながら勢いよく立ち上がる。ついでに叩いた机は結構いい音がして、横の朝地がびくりと肩を震わせていた。
「異議あり! この僕の存在が反証そのものだ!」
「それって裁判の台詞じゃないの?」
「……裁判で言うのもゲームの中だけよ、それ」
「へー、そうなんだ。教えてくれてありがとう」
「………………別に、たまたまだから」
律儀な訂正もお礼を言われた時の反応も、朝地は陽香さんによく似ている。いや姉なんだからどちらかといえば逆か。
呑気にそんなどうでもいいことを考える俺、今日も何とも言えない顔をしている朝地と違い、ずっと立ちっぱなしの財前は酷く調子が良さそうだった。
「ふっこちらのチームはこの僕と時枝、そしてあの朝地だ。負ける気がしないな!」
「朝地ってそんな評価高いんだ」
「ああ。なにせ君と同じ、この僕の誘いを断った一人だからな!」
「根に持ってる」
財前の軽口を流しつつ、手元のプリントをちらっと見る。そこには今日のディベートのテーマが大きく印字されていた。
「男の社会進出について、か」
この意味不明な世界特有のテーマ、こうなる前にニュースで見たのとはまるで正反対だ。
おかげで賛成や反対はおろか、まだまともな意見すら持てそうにない。何を言ってもとんちんかんなことになりそう。
ディベートってそういうものじゃないだろ、なんて怒られてしまいそうだけれど、ここは一旦見に回ろう。
俺が話さなくても大丈夫だ。なにせこのチームの意見はこの通り、さっきから財前が熱く語ってくれている。
「僕はこのクラス、いや学校、むしろ街で一番成績がいい。無論学業のみで人の真価は測れないが、この頭脳を無駄にするのは人類の損失と言っていいだろう。よって男の、僕の社会進出は世界にとって歓迎すべきことだ!」
言葉の内容はよく分からないが、とにかく凄い自信だ。
理屈をすっ飛ばしたこの勢いにさぞ向こうも圧倒されてるかと思いきや、すかさず全否定を右ストレートでぶつけてきた。
「異議あり! 財前には人望がないからそんなの無理!」
「なんて酷いことを」
「と、時枝くん、これは、ううん、でもこれは、事実だから!」
思わず差してしまった水を反対チームの代表、前の席の前野さんは容赦なく跳ね除ける。
そのいつも親切なクラスメイトの譲らない姿勢に、これまでの皆の言動に、ずっと抱いていた疑問が口に出る。
「なんで財前の扱いってあんななの?」
「……どうして私に聞くのよ」
「今同じチームだし。それにさすがに本人に聞くのは」
この世界において男は貴重だ。俺が初日あれほどクラスメイトに歓迎、今も蝶よ花よと扱われているのはそのおかげだろう。ちらっと見た他のクラスでも、男子生徒はまるでお姫様のように大切にされていた。
にもかかわらず、財前はこれ。
財前の顔は整っているし、性格も強烈なことを横に置けばいいと思う。しかも詳しくは聞いてないけれど、家は有名でお金持ちらしい。
かつて病院にいた注射の名手、妙さん(四十五歳独身)は言っていた。男は顔と金だと。
その点から見ても結構な優良物件に見えるのに、登校初日から財前の扱いは雑だった。
しばらく聞き忘れていた質問に朝地は深い深い溜息をしてから、極めて不快そうに眉をひん曲げながら、とてもとても嫌そうに呟いた。
「あいつ、股かけたのよ」
「は?」
「しかも二十二股。このクラスの半分以上と」
「ゴミ屑じゃん」
「え、と、時枝?」
教えてくれた朝地が戸惑っているのは察しつつ、声と視線が冷え切っていくのを止められない。あいつゴミカスだったのか。
誰にでもあるように、当然俺にも嫌いなものはある。その中でも頂点に並んでいるのは二つ。責任を取らない人、浮気不倫をするゴミだ。
残念ながら財前はそこに位置するらしい。失望した。
「財前、二度と話しかけてくるなよ」
「待ってくれ時枝、誤解だ」
「前野さん」
「わ、私が、告発者です。私も告白されて、まずは友達からって返事して、幼馴染に報告したら、私も同じこと言われたって言われて、それで発覚しました。あの時の修羅場は、とても胃が痛かったです」
付き合いはまだ浅くても、どちらが嘘を吐いてるかどうかくらいは判別がつく。病院の外で初めて出来た友人を俺は失った。
「時枝、落ち着いて聞いてくれ。確かに黙って複数人と付き合っていたのは不誠実かもしれない。だがかつてと違い、今の社会では複数の女性と結婚するのは常識、法で定められてこそいないものの、ある種男の義務とも言える」
「それで?」
「僕は唯一の嫡男として財前家を継ぎ、今以上に盛り立てていかねばならない。そのためには優れたパートナーを探す必要がある。僕は僕の目で、その人達を探したかった。そしてそのためにはどうしても深い仲、交際というプロセスを踏まなければならなかったんだ」
「ふーん」
「……それに交際こそしていたが、そういったことは一切していないっ」
「聞いてないんだけど」
最後は俺にだけ届く程度の声だった。いくらなんでも大声で言うのは憚られたらしい。
外野からの上から目線で思う。とっくにバレて振られて、しかも袋叩きにはされたみたいだし、何よりそういうことをしていなければ、まだいい、のかな。
そういうことをしてしまえば望む、望まずとも子供が出来る可能性がある。そして望まれずに生まれた子供は周囲を不幸にする。俺は身をもってそれを証明している。
過去を思い出して別の意味で頭が冷えて来た。やらかした。これ、別に俺が怒ることじゃなかった。
だから不安げな眼差しを浮かべる財前に向けて俺は深く、出来るだけ深く頭を下げる。
「……ごめん財前、ちょっと言い過ぎた。俺には関係ないことなのに勝手に他人から聞いてそれで怒って。理不尽だった、本当にごめん」
「こちらこそすまない。君の不評を恐れ、僕は僕の犯した過ち、不誠実をひた隠しにしていた。僕の欺瞞を知った君の怒りは正当だ」
そして財前もまた、俺と同じくらい頭を低くしていた。そこには誠意があった。
「これこそまさに、雨降って地固まる、か……」
「遊び人の坊ちゃんが潔癖な子と真実の愛を見つけるパターン、現実にもあるのね……」
「尊い……」
なんかまた出て来たよ。秋なのに湿気が強い。腐ってる。もう手遅れだ、放っておこう。
溜息一つでそっちは聞かなかったこと、見なかったことにして、続けて財前に付け足しておく。
「それはそれとして財前さん、今日はもう話しかけないでください」
「な、なんだと!?」
「黙って二十二股はどんな理由でも軽蔑します」
サッカーの試合でもやるつもりなのかよ。
世界の常識がどうなったとして、俺は浮気や二股は絶対に受け入れられない。たとえ世間では財前が悪くない、いやクラスメイトの扱い的にも悪いのか? 何も分からない。
とにかくどっちにしても今は冷静に話せそうもない。なので重ねて申し訳ないけれど、今日は大きい亀裂を作らせてもらった。
「……分かった。ではこのディベートの勝利を捧げ、また友情を取り戻すことにしよう!」
「なんで自分が原因なのにこいつこんな悲劇の主人公面してるの?」
「君が告白した次の日にホテルへ連れ込もうとしたこと、僕はまだ忘れていないぞ。君以外にも何人も同じことをしたのはいたが、非常識にもほどがある。僕以上に節度を知れ」
「うわ、え、マジ? いくらなんでもそれは」
「うるさい! 前野の癖にお友達からなんて後ろに逃げた奴に言われたくない!」
「名前弄りいつも雑過ぎない!?」
それ以上にヒートアップした財前の相手をする相手チームに申し訳なく思った。
俺が引き起こした事態とはいえ、なんとか収拾したことで一息つく。それで気が抜けたせいか、暇そうにシャーペンを動かしていた朝地につい余計なことを聞いてしまった。
「もしかして、朝地も付き合ってた?」
「は?」
殺意を感じた。
「いやだってほら、元カレ元カノに挟まれてたら思うと今凄い気まずいし」
「……誘われたけど断った。これで満足かしら?」
「ごめんなさい。ありがとうございます」
魔法少女より、レギオンよりも遥かに恐ろしかった。確実に殺すという意思を感じた。
首筋を触ると強い鼓動が返って来る。なんと俺はまだ生きていた。そんなアホを極めた感想を抱くほどの殺気だった。
なんとか矛を収めてもらったけれど、ちらっと様子を窺った瞬間再び首の後ろに寒気を覚える。こっちは見ないで財前達のディベートに集中しよう、一応これ授業だし。
「言いにくいけど、男の子は私たちよりずっと身体が弱いでしょ? 財前だって体育は休みがちだし。それで女の子みたいに働くなんて難しいと思う」
「労働は日本国民の義務であり権利だ。これは憲法にも書かれている。男の人権を否定するのか!」
「……人権が認められているからこそ男子も学校に通えている。数理的に考えれば男子は機械にでも繋いで精子を生む道具にすべき」
「せっ」
「とうとう現れたな過激派、そして墓穴を掘ったな。その手の実験は冷戦時にもう試されている。某国は精通した男児を集め人間牧場を作成しようとしたが、Y染色体殲滅菌により弱体化した男ではその負荷に耐えられなかった。子供を作るどころか全滅したのは有名な話だろう。保護という名の管理を推し進めようとしたかの国も同様の結果に終わった。だからこそ今も僕達男子の自由は尊重されている。労働もそうあるべきだろう!」
「長々と墓穴を掘ったのは財前。現代はストレス社会、耐えられない男は戦えない」
白熱してるなぁ。俺は横の寒気に耐えながらだから、正直何言ってるか分からないけど。
というより分からない、ついていけていないのは俺以外、前野さんチームの方も同じのようだった。
熱心に口を回し続ける財前と最低限の言葉でそれを切る女子の二人しか、さっきから口を開いていない。いや一応開いてはいる。全員ぽけっとした間抜けな方向性だけど。
やがて前野さんはこの二人を放置することに決めたらしい。そっと視線を逸らしてから議論の矛先を俺に向けた。
「時枝くんはどう思う?」
「ごめん。意見どうこう前に、そもそも財前達が今何を言ってるのか分からなくて」
「あはは、分かる、私も途中からさっぱり。でもこれディベートだから、なんでもいいからお願い!」
前野さんに両手を合わせられた途端、急に何か言わなくちゃいけない気がしてきた。いつもお世話になっているんだから、せめてこれくらいは。
ディベート的に考えて俺は賛成派に属するから、こっちの意見を絞り出さないと。
とにかく何か賛成の意見。財前と違って俺には知識も信念もない。だからもっと軽いもので、何か。
辛抱強く待ってくれている前野さんの視線を感じつつ、答えを求めて教室を見回す。
真剣に話す人、あくびをかく人、遊んでいる人。多くの中でひときわ目を惹いたのは、教卓から俺達を見守る新田先生だった。
目が合ったからか俺を気にする先生に、なんでもないですと身振り手振りで返事をする。
本当になんでもない。先生のおかげで俺の意見は固まった。
「俺も男の社会進出には賛成です」
「そのこころは?」
「俺が仕事をしてみたいから」
きょとんとする前野さんを置き去りに、俺の思考は過去に引きずられる。
俺は病院にいた頃、それはもう多くの人と出会った。まだ働いていない人、働いている人、もう引退した人。年齢も立場も、性別も色んな人がいた。
そして教師や料理人、警察にサラリーマン、大工や政治家などなど、多種多様な仕事をしている人から話を聞いた。
もちろん愚痴や後悔、夢への未練なんかも耳にした。働きたくない、仕事に戻りたくない、なんて弱音も耳に入ったこともある。
それでも、それ以上に教えてもらったことがある。
「楽しそうだよね、仕事。俺も何かやってみたい」
なんだかんだ言いながら、仕事に誇りを持っている人がいた。人生の意味を見出している人がいた。毎日笑顔で頑張っている人がいた。
その最たる例は病院で働く皆だろう。生まれてからずっとお世話になって、本当に多くのことを教えてもらった。無理筋かもだけど、俺もあんな風になりたいと思っていた。
理由をまとめている内に、不意に気付いた。こうしてずっと行けなかった学校にも通えたのだから、もしかすると将来働くことも出来るのかもしれない。
考えてもいなかった可能性が急に、しかも現実性を持って浮上してきた。ヤバいな。凄いな。授業中なのにわくわくしてきた。
「理由になってないかもしれないけど、これが俺の理由です」
「ううん、とってもいいと思う! そうだよね、やりたいってのも大事だよね!」
「前野さんが聞いてくれたおかげだよ。ありがとう」
「さすがだ、時枝。人が動くには理論だけでなく意思も必要だということを、僕達は忘れていたらしい。君は今それを、その重要性を改めて証明した」
「あっはい。財前さんもありがとうございます」
「まだ敬語だと!?」
そんな風に騒いでいたからか、横の呟きが聞こえたのは幸い俺だけだっただろう。
「……まるで幼児ね」
呆れた朝地のツッコミが鋭く胸に刺さった。うるさいよ、最近自覚してるんだから。
そしてこの後、給食の時間に財前とはちゃんと仲直りした。交際には節度と誠意が重要だと二十二股で学んだ。だから今はまず一人と真剣な関係を築こうと考えている、なんて話してくれたからだ。
あとは、きなこの揚げパンを半分くれたから。言い訳しようもないほど俺は幼児だった。