狭間中学校二年二組担任、新田結は進路指導室で一人大きな溜息を吐いた。
視線の先にはお気に入りの黒い革の手帳、開いたページは十月のカレンダー。赤く囲われた日付、先ほど記入した復帰日という文字が彼女の頭を重くさせている。
彼女がもう一度溜息を吐きかけたその時、控え目に扉を叩く音が三回響いた。待ち人の到来だ。
「どうぞ」
息を整え、心を整理してから彼女は返事をした。幸い生徒にこの姿を見せるほど、まだ彼女は弱ってはいなかった。
すぐに入口が開き、どこか怯えた様子で一人の生徒が進路指導室に足を踏み入れる。
「悪いな前野、放課後に呼び出して」
「は、はい。あの、私何かやっちゃいましたか?」
「お前はいい生徒だ。何の問題もないよ」
そう言って新田が微笑みかけても彼女の教え子、前野貴子の緊張は微動だにしない。肩は張りつめ、背筋もぴんと伸びきっている。いずれ限界を超え引きちぎれる。そんな無理筋な予感がするほどであった。
呼び出された場所を思えば仕方ないか。
生徒のそんな反応を予想していた新田は、用意しておいたインスタントコーヒーの容器を手に取った。
「コーヒー、飲むか?」
「あっはい。いただきます。えっと」
「砂糖とミルクは多めにしておく。サービスだ」
そしてこれまた準備しておいた電気ケトルを使い、とても甘口のコーヒーを淹れる。やたらと堂に入った振る舞い、まるで執事のような手つきに夢見がちな前野は目を輝かせた。
それから出されたコーヒーを一口飲み、彼女はぼそっと呟く。
「……私コーヒーって、苦くて苦手だったんですよね」
「そうなのか? それは、悪かったな」
「あ、いえいえ! でも今日は美味しいです! これ甘いですし、それになんて言えば、そう、非日常感がして!」
「非日常感か、なるほど。学校でコーヒーなんて、生徒からすればそうかもな」
「え、もしかして私たちは水とかお茶だけなのに、先生たちは好きな物飲んでるんですか?」
「ああ。と言っても、私も含めて教師はコーヒーが多いな」
「えー、ずるいです。あっでも、コーヒーかぁ……」
華やかなコーヒーの香りと和やかな会話も相まって、前野の肩から段々と力が抜けていく。
それを確認した新田はカップを机に置き、内心気を引き締めた。
「さて、お前に今日来てもらったのは、ある意味その非日常に関する問題だ」
対する前野はコーヒーをごくごくと飲み込んだ。彼女から緊張感は消滅していた。
「うちのクラスの時枝は知っているな?」
「一度も学校に来れていない子、ですよね。クラス替えの時、話題になってました」
様々な事情により、現在この世界で男は希少だ。よって男子生徒の数も少ない。
その貴重な男子をどう振り分けるかは学校の方針にもよるが、ここ狭間中学校においては全クラスに最低一人ずつ配置している。将来を見越して、男女比の崩壊した環境に慣れさせようという狙いだ。
このためクラスに二人男子がいるというのは中々珍しい状況だったが、あいにく時枝耕太郎は一度も登校出来ていない。そのため二組の生徒からすれば、この幸運は肩透かしもいいところである。
だがそれを初めて聞いた時前野に生じたのは落胆、ではなく純粋な心配だった。
「その時枝だが、今週末に無事退院するらしい」
「そうなんですか! おめでとうございます!」
私に言ってどうする、なんて無粋なツッコミを新田はしない。教え子の無邪気な喜び、祝福を前に柔らかく微笑むだけだ。
一呼吸後、それはしまい込む。彼女はこの先の話題に相応しいもの顔、真剣な面持ちへと意識して切り替えた。
「で、ここからが本題だ。その時枝が来週学校に復帰することが決まった」
「……え、早くないですか?」
「早いな。だが保護者たっての希望とあれば無下にも出来ない。それに時枝自身、以前から学校にはとても強い興味をしていたらしい」
学校としても保護者としても、何より通う本人としても強行軍になる。
しかし、子供には普通の生活を過ごして欲しい。これまで取りこぼしてしまった幸せをなんとか、出来る限り取り戻してあげたい。
そんな葵の気持ちに新田は痛いほど共感している。
だからこそ彼女は渋る校長を説得し、耕太郎の復帰に全面的に協力していた。
「ただ、事務的な処理は問題ないんだが、どうも本人がな」
「……時枝くんは、えぇと、いわゆる不良的な?」
「体調のことも含めて色々と病院の方から話は聞いたが、患者の方も含めて周りの評判は良かった。基本的に明るく朗らか、人当たりもとてもいいそうだ。だが」
そこで新田は一度口をつぐむ。病院から伝えられた耕太郎の記憶について語るかどうか、彼女は悩んでいた。
家族に関する記憶の欠如。極めてデリケートな問題であり、予め知っておけば防ぐことの出来るトラブルもあるかもしれない。
しかし結局は伏せることにした。ただでさえ希少な男、それもこの中途半端な時期での復帰である。既に生徒達の注目、無遠慮な興味関心を惹きつけるのは必定、これ以上余計な好奇心を持たせては大きな害となる。彼女はそう判断した。
「まあ、端的に言うと、私は時枝がクラスに馴染めるか不安なんだ」
「……あー、もう十月ですもんねー」
「それに時枝は学校生活自体初めてと聞く。戸惑うことも多いだろう。そこで、だ」
そのため彼女は代わりにもう一つの不安、前野を呼び出した理由を告げた。
「前野、お前には時枝のことをよく見てやって欲しい」
要するに、面倒を見ろということ。
とてつもなく荷が重い役目を唐突に頼まれ、当然前野は困惑した。
「それは同じ男子に、財前に言った方が」
「あいつにはもう頼んだ。だが、癖の強いあいつと時枝の相性は正直読めない」
「クラス委員の袴田さんは」
「あいつは駄目だ。性欲が強い」
「性欲って」
新田から飛び出すとは想像もしていなかったワードに、前野はオウム返しと無意識に軽い笑みを浮かべた。冗談ですよね、なんて意識が口元に表れている。
それを見た新田は言葉に迷った。迷ったあげく、曖昧なたとえを口にする。
「時枝は、あー、なんというか、将来日曜の朝に見そうな顔というか」
「えっと?」
「…………ここに病院から受け取った、時枝の写真がある。見るか?」
「はい!」
「いい返事だな、まったく」
今日一番の、授業も含めて、いい返事を聞いて新田は苦笑いを抑えられなかった。
手渡された写真を前野はじっと、凝視という言葉すら生温い視線で、穴が開かないのが不思議なほどの勢いで見ていた。
「新田先生」
「ああ」
「時枝くんのお目付け役に私を任命したということは、つまり時枝くんは私のお婿さんということですか?」
「違う。正気に戻れ」
一瞬頼む相手を間違えたと新田は思った。そして担当するクラスに候補者がいないか脳内で探した。いなかった。
「はー、すごい、すっごい。すごくすっごい」
「語彙がなくなっているところ悪いが、私の言いたいことは分かったか?」
「はい。先生の言う通り、袴田さんはチンパンジーになると思います」
「そこまで言おうとはしていない」
それで済めばいいがな、なんて本音は口にしない。新田は大人だった。
彼女が考える限り二年二組で最も男子にまともな対応出来そうな生徒は、目の前で瞳孔を全開にしている前野貴子だ。
他の生徒はチンパンジーをはじめとした発情期の猿がとても多い。こと男子が絡んだ時、狭間中学校二年二組は猿山と化す。
一瞬数少ない人間の例外、朝地桜に頼むことを考えたものの、彼女が男子に冷淡なのは教師の間でも有名な話だ。よってすぐさま候補から消えた。
そんな内情を赤裸々に語る訳にもいかないため、冷静になった前野の問いへの答えは慎重にならざるを得ない。
「先生、どうして私なんですか?」
「教師の私から見ても前野は人当たりが、面倒見もいい。それに以前財前が問題を起こした時、お前は冷静だったからな。他の男子にも理性的に接することが出来ると信じている」
「……あれは、色々と怖くて引いちゃっただけで」
「その一歩引く姿勢が大事なんだ。どうせクラスの連中は時枝に攻め寄る。だからそれなりの距離感で、周りとの橋渡しをしてくれる親切なクラスメイトがいれば時枝も安心出来るはずだ」
前野からすれば面倒ばかりの依頼。求められる役割からしてクラスメイトには嫉妬され、男子の独占も許されない損な仕事。
それでも新田は頼み、前野は笑顔で了承した。
「手間をかけさせてすまない。それでも前野、頼めるか?」
「もちろんです! それに先生に頼まれなくても、同じようにしてたと思います」
「それは、時枝が男子だからか?」
「……えっ? クラスメイトなんだから、誰でも仲良くしたいのは当たり前ですよね?」
心底不思議そうに首を傾げる教え子を前にして、新田は今日初めて胸を撫で下ろす。
「お前に頼んで正解だった。時枝のことに限らず、困ったことがあればなんでも相談しに来い」
伝え聞く時枝耕太郎の評判、そしてこの心優しい教え子の様子。きっと全て上手くいく。
そう信じて、狭間中学校二年二組担任、新田結は翌週に訪れる嵐へ覚悟を決めた。
一月ほど経ってから、彼女は自宅で晩酌しながら当時の判断を自画自賛していた。
「隣の財前と前の前野、どちらもあそこまで時枝と馴染むとはな。頼んで正解だった」
席替えの結果を操作して配置した二人は、彼女の予想以上に耕太郎と上手くやっている。
特に財前との相性の良さは彼女からしても驚嘆ものだった。人は良くとも癖の強い財前があそこまで気に入り、耕太郎もツッコミを入れつつその急カーブを受け入れ、それどころか楽しんでいる節すらある。
出会って一月ほどの二人がまるで旧来の友人のようなやり取りを交わす姿を、新田はこれまでに何回も見ていた。
また、前野もところどころ不自然な様子を見せつつも、これまで耕太郎にあれこれとよく面倒を見ていた。彼もその親切心を理解し、他のクラスメイトよりも信用して頼りにしている。あれほど彼が早くクラスに馴染めたのは、財前よりも前野の力が大きいだろう。
そんな訳で新田は自分の成果に大満足していた。しかし一人だけ、選択ミスを自覚している生徒もいた。
境遇からして当然だが、耕太郎の趣味はインドアのものが多い。その方面で話が合うように文学部のエース、榎本鈴にも新田は前野達と同じ頼みをし、右隣に配置していた。
「まさか、榎本が腐っていたとは」
だが彼女は、いわゆる腐女子だった。
新田からしてもそれはいい。趣味は趣味である。自身に理解が出来ずとも、そんなものは世間に満ち溢れている。どのようなものであれ、誰にも迷惑をかけず個人で楽しむのなら自由であるべき。
彼女は教師として、生徒の趣味嗜好は出来る限り広い心で受け止めるつもりだった。
しかし。
「いやどう考えても実物はアウトだろ。時枝がどうこう以前に人としてアウトだ。明日こそは指導しておかないと」
先送りにしていた説教を決意して何故か立ち上がり、迷いが産まれてまた座り込む。謎の動作が彼女の葛藤をよく表していた。
「だがこういうことは頭ごなしに言ってもな。というか、周りも一緒に話してるんだよな。じゃあまさか、今の子はそういうのが当たり前なのか? そんな訳ないだろうけど生徒に直接確認なんて出来ないし、聞いたら私が処分受けそうだし」
新田結子(二十六歳)は一人で存在しないジェネレーションギャップを感じて苦しんでいた。年代関係なくない、なんてツッコミを入れてくれる人は今の彼女にはいない。
とにかくどのような世界であれ、教師というのはとても大変な仕事なのは確かだった。