夜更かしを始めた翌朝、登校中の俺は滅茶苦茶に困惑していた。
「え、なにこれ?」
その原因は今両手に抱える白いもの。ついさっき虚空から勢いよく飛んできて、危うく俺の顔面に直撃するところだったもの。
それは俺の顔ほど大きくて、触るとふわふわ柔らかくて、その上なんだか砂糖菓子のように甘くて、とてもいい匂いがする。朝ごはん食べたばっかりだけど美味しそう。
「これってまさか、マシュマロ、なのか?」
大きさはともかくとして、思いつくのはそれしかなかった。
しかもこのマシュマロもどきは状況から考えて、恐らく例の襲ってくる植木鉢の代わり。その証拠に今日も一人なのに、あれの姿はまだ一回も見ていない。
その上トラックの方は姿どころか音もなく、今のところ交差点で通り過ぎたのはお婆ちゃんの超遅い自転車だけ。今日は殺気も死の気配もお休みらしい。
急に危険度が下がったのはいいとしても、どうしていきなりこんな変化が。というかなんでマシュマロ。なんにしても段階の踏み方ってあるじゃん。
疑問は止まらず、俺は道端で巨大なマシュマロを手に呟く不審者と化す。だから道行く人に心配されて声をかけられるのは、よく考えなくても当然の話だった。
「わ、訳が分からない」
「……そんなところで頭抱えて、何かぶつかりでもしたのかしら?」
「うわっ!?」
「きゃっ」
ただ、思考に沈みかけていたからか、突然話しかけられて驚きに大声をあげてしまった。釣られて向こうも、朝地もやけに可愛い悲鳴をあげていた。
振り返った先には右手で後ろ髪を払う、余裕を取り繕っている同級生の姿。その隙に、気づけばマシュマロもどきは消えていた。植木鉢同様どうやらこれも自然と消えるもの、いわゆる幽霊系らしい。
「ご、ごめん朝地。考え事してたからびっくりして」
「そう。まあ別に、私は驚いてないけど?」
きゃっ、なんて言ってなさそうな雰囲気を朝地は出していた。もちろん聞こえてたけど、当然覚えているけど。
なかったことにしたいみたいだからそれは俺も隠すことにして、マシュマロもどきが幽霊みたいに消えたから考えるのもやめにして、今度は別の疑問に取り掛かる。
「朝地はなんでここにいるの?」
「なんでって、私も登校中だから」
「そっか。そういえば朝地の家ってあっちだったっけ?」
「……どうして私の、ああ、七海が話したの?」
「そんな感じ。小学校の方だって言ってた」
一瞬朝地の瞳と声が震えたものの、俺の曖昧な返事で納得したようだった。実際、朝地家の正確な場所なんて全然知らない。
それからなんとなく、二人並んで仲良く、とまではいかないけれど、意外と穏やかな空気のまま一緒に登校する。
「はあ」
「横に並ぶなり溜息なんて、随分なご挨拶ね」
「ごめん。でも来週の試験が心配でさー」
学校に通い始めてからもう一か月くらい経った。よって今は十一月の中旬、あの恐ろしい期末テストの時期だ。
俺は小学校には一度も通えず、そして中学には中途半端な時期に復学した。更に入院中もそこまで熱心に勉強していなかったおかげで、成績はほぼ間違いなく黄色信号。まだ赤ではないと信じたい。
これほどじゃなくても、世間一般の学生にとって試験は憂鬱だという。田中の兄ちゃんも鈴木の姉ちゃんもいつも頭を抱えていた。だからかく言う朝地もそうだろうと思いきや、完全にけろっとしている。
「朝地は、なんか余裕そうだね」
「定期試験なんて、普通に勉強してれば問題ないでしょ」
「その発言、まさか朝地って優等生なの?」
「貴方は私のことをなんだと思ってるのよ……」
よく分からない変な、時々怖い人、なんて言ったら失礼だろうか。
だけど本当に朝地は不思議な女の子だ。
クラスメイト曰く、男子には興味がない人。接する俺から見ると、多分男が苦手な、もしくは嫌いな人。
にもかかわらず、こうして俺に話しかけてくることはちょくちょくある。加えて何故か、ここ最近はだいぶ対応が柔らかくなっている気もする。
普通に考えれば俺に慣れたから、なんだけど、なんとなくそれとは違うような。これは慣れというよりは好意、でもなくて、もしかしたらある種の信用みたいなものを感じるような。
「……じっと見て、何?」
「ううん、別に。ただ、誰かと一緒に登校するのも楽しいなって思って」
「…………そ」
無理して掘り下げる必要もないか。しても、満たされるのは俺の好奇心だけだ。
それに俺の想像通り男が苦手なら、何かそれ相応の理由があるのかもしれない。
嫌いなもの、苦手なものに一家言ある俺としても、そこに誰かが土足で踏み入れた時の苛立ちは大変、とてもとてもよく分かる。分かったような口が一番むかつく。親子の絆というのはどんなことがあっても、なんて戯言を聞けば一撃で怒髪天だ。
何よりそれで俺達の関係が目に見えて悪化したら、最悪七海ちゃん達にも迷惑をかけてしまうかもしれない。
だから俺は疑問に蓋をして、朝地と何気ない会話をしながら学校を目指すのだった。
授業の合間の休み時間、不安になって財前に聞いてみる。
「財前、赤点って何点から?」
「始まる前からもう弱気だな。ちなみに、中学校に赤点はない」
「そうなんだ。留年も?」
「特例を除けばない。中学は義務教育だ」
ただし事情があってまったく学校に通えなかった人などが自分から申請した場合、名前は違うけれど留年みたいなことも出来るらしい。財前豆知識だった。
「しかし僕が見た限り、時枝も授業にはついていけているとは思うが」
「授業受けてないところがね。試験範囲復習してみたら結構抜けがあって」
「君は確か、病院で周囲の大人から教わっていたんだったか。では学校とズレがあるのも仕方ないな」
俺の入院していた神野記念病院は地元の名士、神野家が仕切る狭間市内最大の病院だ。よって子供の患者が勉強する学校みたいなもの、いわゆる院内学級も当然存在していた。
ただ、ちょこちょこと俺も利用させてもらってはいたものの、どうしても普通の学校のようにはいかない。そして俺も普通の生徒のように、毎日ちゃんと勉強出来る訳でもない。
その穴埋めのため、田中の兄ちゃん達や周りの患者さんに頼ってはいた。それでも手が回り切っていなかった、というのが実情、今の俺の成績だ。
「君の事情を考えれば、今回の期末テストは多めに見られるだろう」
「でもさ、それで諦めたら負けた気がしない?」
「誇りという奴か。面白い、さすがだ時枝」
どこに面白みを感じたのかは分からない。そして財前は褒め上手というか、なんでもないことまでさすがだ、なんていつも言う。
いい奴だけど、一々センスが変なんだよな。しかも二十二股するし。
過ぎりかけた過去の過ちを頭から追い出す。俺には関係ない終わった話だし、財前自身深く反省しているとも言っていた。話と思考を戻そう。
「財前は成績いいんだっけ?」
「ふっ。これは自慢だが、僕は満点以外取ったことはない!」
「おお、本当に凄い」
「もちろん、体育以外だが!」
「おお、俺は何も言えない」
この間体育で一緒にバスケをやった時、財前はボールに弄ばれていた。多分、くるみ割り人形の方がよっぽどドリブルは上手い。
それはそれとして、それほど頭がいいなら頼みたいことがある。
「それじゃあ、放課後よければ勉強を」
「……すまない時枝、それは難しい。僕は僕の面倒を見るだけで精一杯だ」
「そっか、気にしないで。ちょっと言ってみただけだから」
「本当にすまないな。僕はどうしても、絶対に満点を取り続けなければならないんだ」
残念ながらそれは断られてしまったけれど、ここまで申し訳なさそうにされると文句なんて出ない。むしろこっちの方が謝りたくなるほどだ。
ただ、こうなるとどうしよう。一人で勉強するのにも限界がある。絶対途中で集中が切れて遊び出す自信があるし、そもそも自分が何をどう出来ないのも知らない。つまり、勉強すべき箇所も方法も分からない。
その時悩みかけた俺を救ったのは、前の席の前野さんだった。
「と、とと、時枝くん、今日って、放課後空いてる?」
「うん。大丈夫だけど、何かあるの?」
「実は、クラスの皆で勉強会でもしようかなー、なんて考えてて。そ、それで、よかったら、時枝くんもどうかなーって、思った次第であります」
「そうでありますか」
クラスメイトとの勉強会。学園ものにおける定番中の定番だ。大抵は勉強出来ずに遊んで終わるものだけれど、それ込みで正直憧れはある。
現実も勉強になるかは分からない。フィクションのように遊ぶだけの可能性は大きい。でもせっかくの機会だから、一度でいいから参加してみたい。
「楽しそうだね。俺も参加したいな」
「ほんと!? もちろん大歓迎だよ!」
前野さんも大喜びで了承してくれた。そこまではよかった、そこまでは。
俺達の会話を聞きつけた、クラスの女子達がなだれ込んでからが問題だった。
「さすが前野。貴様を時枝くんの前の席に設置したのは正解だった」
「いやお前キレ散らかしてたでしょうが。じゃなくて、場所はどうする?」
「学校の図書館、は駄目ね。他のクラス、学年と時枝くんを巡って戦争が始まる」
「ならファミレスとか? あとは、うん、ほら、あれ、カラオケとか」
「……あんた、まさかワンチャン狙ってる?」
「なるべく暗くてムードのある、人が来ない場所がいいです」
「こいつはここで殺しておこう」
なんだか話が大きく、それも明後日、というよりも下の方に向かっているような。
やんややんやと騒ぎ立てるクラスの女子達を前にして、冷めた目で財前は語る。
「……君の願いを断った身でなんだが、彼女達を頼るのはやめておいた方がいい。もし勉強会をするにしても、せめて校内に留まるのをおすすめする」
「そうする」
とりあえず、やっぱり今日は参加するのをやめよう。色んな意味で帰らぬ人になりかねない。
巨大なマシュマロに襲われながら家に帰り、意気揚々とリビングで教科書を開いて早々、シャーペンが止まった。
例題こそ解けたものの、少し応用が必要になると途端に頭がこんがらがる。まったく理解出来ず、苦悩が声になって漏れ出てしまう。
「数学なのに、どうして文字の方が多いんだ……?」
「わ、算数と全然違うね」
横に座って覗き込む七海ちゃんもびっくりらしい。そう、算数と全然違う。数字どこだよ。これじゃ英記号学だろ。
心中の文句と共に決めた。よし、中断しよう。
今日もちゃんと学校に行った。授業も六時間しっかり受けた。体育も何もなかったから、一日中机に座って勉強してた。だから帰って来てすぐ集中出来ないのも当たり前。今は休憩すべき。
そんな言い訳を並べ立て、隣でなんとなくそわそわしている七海ちゃんと話をすることにした。
「小学校のテストってどんな感じ?」
「……えっとね、こんな感じ」
ただし内容は期末テストに引きずられた。元から少し興味があったのもある。
唐突な質問に対して、七海ちゃんはランドセルから几帳面に折りたたまれたプリントを取り出した。そして心なしか自慢げに差し出して来る。
内容を見れば納得。全部丸、見事百点だった。
「おー、凄い、百点だ」
「え、えへへ、そうでもないよ。皆も結構、陽香ちゃんも百点だったし」
「それでも七海ちゃんが満点なのは変わらないから」
周りどうこう関係なく、七海ちゃんが頑張ったのは確かだ。とても凄い、偉い。
そんな感じに褒めちぎっていると頬を緩ませた七海ちゃんが顔を伏せ、頭をこちらにそっと寄せて来た。最近よく見るようになった催促だ。
俺が愚痴を零してしまったあの日以来、時々七海ちゃんはこうするようになった。
「七海ちゃんはいつも偉いね」
求められるまま頭を撫でる。小さな温もりに触れ、俺も心が温かくなる。
我ながら、よくもまあ葵さんに文句を言えたものだ。ただでさえべたべたなスキンシップな上に、仮だとしても兄妹として考えると相当なものになるのでは。
でもずっと田中の兄ちゃんは、鈴木の姉ちゃんも俺のことを遠慮なく撫で回していた。大学生になってからもたまに、お互いにもやっていた。ならいいのかな。
こんがらがってきた疑問を放り投げるため、あえて意地悪な冗談で場と頭を濁してみる。
「ふふふ。だけど百点の七海ちゃんも、あと数か月で俺と同じ苦しみを背負うことになる」
「……うん、楽しみ」
「ふふふ、そう、楽し、え、楽しみなの?」
「うん!」
ぺかぺか、なんて擬音が似合う晴れやかな笑顔を七海ちゃんは浮かべていた。
「春になったら、兄さんと一緒に学校行けるね!」
「……えっと、七海ちゃんは陽香さんと行くんじゃ」
「うん。陽香ちゃんも一緒だよ?」
曇りなき眼だった。常識を説くような口振りだった。
なんとなく、何かが間違っているような気はする。でも、この確信を動かすほどの力を今の俺は持っていない。
だからその辺は全部、春の陽香さんに丸投げすることに決めた。多分あの子ならこう、きっとなんかいい感じに、よく分からないけど格好いい風にまとめてくれるはず。
雑な結論と祈りを朝地家に向ける。方角あっちだったっけ。適当過ぎて、ちゃんと朝地家に向いているのかも分からなかった。
その後も勉強は続く。夜も更けて、帰って来た葵さんと少し話してから自分の部屋に場所を移した。七海ちゃんもこれで寂しくないだろう。ちょっと気にし過ぎかな。
というか、もっと気にするべきは自分の成績では。十分経っても空白が目立つ問題集を見て、強烈な危機感が湧き始める。あれ、俺まさか赤信号なのか?
「勉強とは、とても感心ぴょん」
戦慄を禁じ得ない俺の頭上に、今日も今日とて突然らびらびが現れた。
「らびらびが来たってことは、もしかしてレギオン出た?」
「レムナントの集積は確認してないぴょん。安心して勉強に集中するぴょん」
「そっかぁ……」
出ない方がいい、現れない方がいいのは当たり前なんだけど、少し、ほんの少しだけ肩透かしだった。暴れられたら気晴らしになるんじゃ、なんてことは考えてもいけない。
それでも落としてしまった肩の上までらびらびが移動して、そこからじろりと問題集を見下ろす。そして少し後、おもむろに大苦戦中の問題を指差した。
「耕太郎、ここの式代入する場所間違えてるぴょん」
「え? あ、本当だ。じゃあ、これで合ってる?」
「正解ぴょん。……こういう図形の問題は、まず線を引く場所を意識するのが肝要ぴょん。あとはこれに、数学に限らず、どの問題も解く前に一度落ち着いて問題文や図を観察した方がいいぴょん」
「はえー。意識してみる、ありがとうらびらび」
語尾こそいつもと同じだけれど、どこかゆっくり、嚙んで含めるような口振りでらびらびは語る。まるで先生みたいだ。
教えを受けて感心して、感謝して、気持ちが落ち着いた瞬間に全て反転した。とても大きな疑問が生まれた。
「というかまさか、らびらびって勉強出来るの?」
「こう見えて、大学は主席で卒業したぴょん」
「妖精に大学とか主席とかあるんだ……」
「学部は法学部で、サークルじゃなくて演劇部に入っていたぴょん」
「学部とかサークルとかあるんだ……」
「……ちなみに、実は今ちょっとだけ見栄張った、一つ嘘ついたぴょん」
「おいこらってえ、一つだけ!? むしろ全部嘘じゃなかったの!?」
見栄に繋がるのは精々主席くらい。らびらびの言葉を信じるなら、それ以外全部真実ということになる。
マジか、あるのか、妖精に大学とか学部とか。らびらびに似た生物が集まる学校ってそんな馬鹿な、お化けには学校とか試験とかないはずじゃ。
まだ見ぬ世界に思わず震える俺を放置して、らびらびは無機質な瞳で勉強机の上を観察していた。
そしてそれからおもむろに、どこか遠慮や恐れを感じる口調で尋ねてくる。
「……らびらびでよければ、勉強を教えさせてもらってもいいぴょん?」
「え、いいの?」
「当然ぴょん。らびらびの使命は君を支えること、むしろこの通り、お願いさせて欲しいくらいぴょん!」
らびらびは妖怪ウサギぬいぐるみもどき、暗闇で目が赤く光る以外表情は変わらない。
それでも改めて俺がお願いした時、らびらびは嬉しそうに笑っていたような気がした。
ちなみに、それから少し先のこと。試験の結果を受け取った時のこと。
「よく頑張ったな、時枝。先生たちは、私も含めて皆感心していたぞ」
「は、はい。なんか、出来ちゃいました」
「ふっ。出来ちゃったとはおかしいな。親御さんに見せて、今日はご馳走でも作ってもらえ」
とても上機嫌に褒めてくれた新田先生から渡された、期末テストの点数表を見る。
五教科合計三百七十七点。全生徒百八十三人中、七十位。真ん中を超え、平均よりもそこそこ高い点数。成績はこの一週間で跳ね上がった。
俺は天才だった、なんて自惚れは出来ない。そこまでの点数じゃないし、何より絶対俺だけの力じゃない。
らびらび凄いな。あいつ、マスコットじゃなくて家庭教師やった方がいいんじゃ。