狭間市内のとある高層ビルの屋上に、白銀のローブを纏う男と女がいた。
被るフードは深く、また付与された魔法により顔は窺えない。そもそもの話、周囲に二人以外人はいないのだが。
街を見下ろす男の手には、幾何学的文様が刻まれた白銀のタブレットが握られていた。
その画面に映るのは聖夜の空。そして灰色の光を放ちながら落下する耕太郎と、それを追う鎧のレギオン。
余人が見れば、二つ奇妙なことがあった。
一つは視点。その映像はどう考えても空中から撮影されている。ドローンなどであれば可能かもしれないが、現在周囲にそのようなものは確認出来ない。
二つは世界。男がタブレットを操作し映像を止めた途端、世界もまた動きを止めた。眼下の街で人々は凍り付いたように固まり、揺らぐ光すら一定に留まる。
男は画面から視線を外して空を、肉眼で遠く離れた耕太郎達を見つめる。街と同様彼らもまた、落下の途中で時を止めていた。
「レギオンが結界を抜けたようだ」
それは傍らの女に告げるというより、確認のための独り言に聞こえた。
そう感じた彼女の考えは正しい。男は顎に手を当て、思考をそのまま口にする。
「ふむ。効率を考えれば放置するのも悪くはない」
「……それでは、このまま?」
「いや、まだ壊れられては困る。無理をするには時期尚早だろう。それにあの勇敢な少年のおかげで、進捗は予定よりもはるかに順調だ」
タブレットに映る耕太郎を慈しむような手つきで男は撫でる。女の背筋に鳥肌が走った。
「何より彼と結んだ約定もある。ここは少しばかり手を貸そう」
男がもう一度タブレットに触れる。
瞬間、白銀の輝きが瞬く間に街を照らし、世界が動き出した。
道行く人々は歩き出し、イルミネーションを眺める者の笑顔は輝き、空から堕ちる少年とレギオンは、男の生み出した結界に飲み込まれる。
それを興味深げに見送った後、男はタブレットを操作した。
画面が切り替わり、噴水広場近くに建つビルの屋上で愕然とする少女、クリアガイアを大きく映す。
同時に男の視線に宿る温度もまた、怨敵を見下す冷酷な眼差しに変化した。
「彼女は彼の、我が英雄の紡いだ力、『クリアクロス』を愚かにも剽窃した。いい機会だ。卑しきその身に纏う資格があるのか、それ相応の意思を持つのか、ぜひ見せてもらおうじゃないか」
侮蔑を隠さずに呟く男を冷たく睨んだ後、女は夜空に祈りを捧げる。同時に手の中で宝玉を転がし、男に授けられたその力を確かめた。
サンタレギオンを封じるため生じていた噴水広場の結界内に、クリアオーシャンの声が響く。
彼女が持つ杖の先端は明滅して映像を投射、動揺を露わにするクリアガイアが薄く映している。通信魔法が発動していた。
「ガイア、グレイさんが、レギオンが外に!」
『……どういうこと。どうして、いきなり結界が』
「姉さん!」
クリアシャインの呼びかけに、乱れ切っていたクリアガイアの思考が戻る。
そして妹の必死な声と表情が彼女に辛うじて、最低限の冷静さを取り戻させていた。
『結論から言うわ。あのレギオンが外に出た途端また結界が生まれて、そこにグレイ諸共入り込んだ。両方とも今はあの中にいる』
「じゃあ、街は」
『無事よ』
今のところは、という言葉をクリアガイアは呑み込んだ。
それに気づかないまま、クリアシャインは髪を乱暴に弄りながら思考に沈む。
「あのまま結界に入ったってことは、グレイもまだ変身中ってことよね。あいつのことだから、一人でもあんなヤバいの放っておかないはず」
『……』
「早くグレイを助けに行かなきゃ。姉さん、向こうの結界にはどうやって」
「シャイン危ない!」
よってクリアオーシャンが咄嗟に防壁を張らなければ、彼女は耕太郎の二の舞になっていただろう。
青の壁に激突したのは黒い四足歩行の巨大な異形、鎧のレギオンを乗せ結界外へ消えたはずのホースレギオンだった。
「馬のレギオン、なんで!?」
「……もしかして、さっき吹き飛ばした槍が」
クリアオーシャンの閃きは正しい。
先ほどの攻防で明らかになったように、鎧のレギオンが振るう刀はあらゆるものに、馬にすら変形する。
魔法で彼方へ吹き飛び置き去りにされた馬上槍が、鎧のレギオンが結界を離れたことで自立稼働し、今は一体のレギオンとして彼女達の前に立ち塞がっている。
しかしそんな正体など、クリアシャインにはどうでもいい事実だ。
彼女にとって今最も重要なのは、自分達を庇って攻撃を受けた仲間の安否。そして彼を一刻も早く助けに行くこと。
「『シャイン・レイ』!」
彼女は焦りのままホースレギオンに向け魔法を放つ。
だが当然、闇雲に放った攻撃など当たらない。障壁を蹴り飛ばし跳躍したホースレギオンは光線をひらりと避ける。
「こんなやつ、相手してる場合じゃないのに!」
「さっきよりは、平気だけどっ」
歯噛みする妹の姿に、障壁の維持に苦し気な息を漏らす妹分の様子に、クリアガイアは一度強く目を瞑る。そしてとある決心を固めた。
彼女は大きく息を吸ってから、努めて冷静な声を意識して指示を出す。
『貴方たちはまず、焦らずにそのレギオンを倒して。無視して無理に抜け出すのも危険だし、そもそもそのレギオンに結界を破壊されたら意味がないわ』
「かもしれないけど、じゃあグレイはどうするの!? このまま放っておくなんて」
『私が行く』
矢継ぎ早に返された答えに、クリアシャインは一瞬焦燥を忘れた。
驚きのあまり生まれたその空白に、クリアガイアは更に続ける。
『彼は、グレイは私が助けるから』
そして一言そう念押ししてから、彼女は一方的に通信を切った。
念のためそれからすぐに、彼女は両手で握り締めた杖を虚空に向ける。金の魔法陣、魔法を扱えない者には不可視の魔力が辺り一面に広がった。
これはマーキングをつけた対象を探す、一種の探索魔法である。
いざという時のため密かにつけていたそれを利用し、彼女は街中を捜索した。だが反応はない。
よってこの周辺に耕太郎達は存在しない。結界に入ったのは見間違いではない。
それを確かめた彼女は深呼吸の後、隠し続けていた手札をもう一枚切った。
「グレイ、グレイ聞こえる? 聞こえていたら返事をして」
いわゆる電話と同じく、通信魔法は相手の周波情報を知らなければ交信出来ない。そしてクリアガイアは耕太郎のそれを知らないはずだった。少なくとも、彼女以外はそう考えていた。
その通信が今、耕太郎の懐中時計と彼女の杖の間で行われている。
しかしわざわざ秘密を取り出した甲斐はなく、返事はなかった。
「声が出せないなら音でもいいわ。何でもいいから、聞こえているなら反応して」
何度繰り返しても依然反応はない。その沈黙が彼女の杖を握る手を震わせる。
耕太郎とそれなりの付き合いを重ねて来た、彼が他者に心配されることを厭うことを知る彼女からすれば、それは異常事態だった。
「……嫌な予感がする。これ以上ここで足踏みしてる時間はないわ」
速く大きく拍動する鼓動と微かに震える足を誤魔化し、彼女はビルの屋上から飛び降りる。一歩踏み出してしまえば、もう怯えている暇などない。
そのまま飛行魔法を駆使して最短距離で結界に近づくと、そのまま内部に飛び込んだ。
境界を越えた途端クリスマスイブの活気は消え、溢れんばかりに輝いていたイルミネーションも消失する。
結界内に通常人間は入れず、電気も通じない。不気味な月明かりだけが照らす町並みは、見慣れた光景のはずだった。
しかし彼女の背筋に走る悪寒は、いつもよりも更に深く冷たい。
「普通の結界とは違う……? この感じ、なにかしら。何か空気に敵意を、悪意のようなものを感じるわ。中の人間に、いいえ、これは私に対して?」
生じた不安を誤魔化すかのように、彼女の口から疑問が次々と零れる。
だがここは既に危険地帯、鎧のレギオンも闊歩する場所だ。とりわけ戦闘能力に乏しい彼女が遭遇してしまえば、一瞬で打ちのめされるだけだろう。
それを意識してか、それとも無理にでも意識を切り替えるためか。強く首を横に振った後、彼女はひっそりと自分に言い聞かせる。
「今はまず彼を探さないと。私の予想が正しいなら、レギオンより先に見つけないと取り返しのつかないことになるわ」
もう一度、先ほど発動させた探索魔法を行使する。今回はすぐさま反応があった。彼女の手元に広がる魔法陣から蝶が羽ばたく。導きの光だ。
誘導に従い走ったのは数十秒、辿り着いた大きな交差点の中心に耕太郎は倒れていた。
「いた、グレイ!」
レギオンに気取られないようにすべき。
少し前に自ら戒めたことも忘れ、クリアガイアは声を上げ耕太郎に駆け寄る。
ひび割れたアスファルトに寝転ぶ彼の様子は、彼女の予想通りのものだった。
土ぼこりで汚れてしまった真新しい、けれど至って普通のコートに包まれた少年、変身が解除された生身の男の子。
「……やっぱり気絶して、変身も解除されてる。でも、どうして?」
しかしその姿を見ても彼女に驚きはない。
代わりに見知った友人を、それも傷ついた姿を見つけた時のような、深い悲しみと心配、動揺が瞳に浮かんでいる。同時に結界外で生じた疑問が再び蘇る。
人間は普通、たとえ魔法の力を持つ者でさえ、何もしなければ結界には入れない。仮に何かの偶然入ったところで、変身などの対策がなければすぐさま弾き出される。
そのため魔法少女として敗北、強制的に変身が解除された場合も結界外に放り出されることになる。クリアガイアはこの現象を利用することで、更なる安全性を追求していた。
にもかかわらず耕太郎は生身のまま、気絶したまま結界内に留まっている。
時間の問題か、この異常な結界の仕業か、それとも。
「ああ、もう、だから余計なことは考えないっ」
両頬を疑問ごと二回軽く叩き潰してから、クリアガイアは耕太郎の傍にしゃがみ込んだ。
「息はある。怪我は、見た感じはなさそうね。変身が解除されたのは、落下の衝撃かしら」
彼女が深呼吸を繰り返してからおずおずと触れた脈は、確かに動いている。脈に限れば健康そのものだ。
「だけど意識はない。グレイのもダメージは魔力に肩代わりさせるようにしたから、たとえ強制解除されても気絶なんてしないはず。ならどうして」
原因を考えていたクリアガイアは、はっと息を呑む。
「まさか、その時に頭でも打って」
一般的な中学生であっても、強く頭を打った時の危険性は想像がつく。また、その場合無理に動かしてはいけないことを、救護実習を真面目に聞いていたクリアガイアは理解していた。
そのため一刻も早く立ち去りたい気持ちを抑え、彼女は回復魔法を唱えた。
「とにかく少しでも回復させて、あのレギオンが来る前に、早くグレイを安全な場所に」
金色の魔法陣で耕太郎を包み込んだ後、クリアガイアは落ち着きなく辺りを見回す。
彼女は鎧のレギオンを警戒し、探していた。だがそれは無駄な行為だった。
視線が向くよりも早く、彼女の背後に轟音が響く。生じたのは地響き、何かが舞い降りた証拠。
「そんな、もう!?」
振り返るとそこには、ホースレギオンに乗る鎧のレギオンが佇んでいた。
その姿を捉えた瞬間、クリアガイアは咄嗟に魔法を放つ。
「『チェーンバインド』!」
金の魔法陣が八つ鎧のレギオンの周りに生じ、先ほどサンタレギオンの動きを止めたものと同じ鎖が放たれる。
その狙いは鎧のレギオン本体、ではなくホースレギオン。
「二秒でいいから……!」
自分の力量を理解しているクリアガイアは、リスクを承知の上で耕太郎を移動させる時間を求めた。
異形の四足に二本ずつ巻き付いた鎖は、ホースレギオンの動作を巧みに利用し体勢を崩させる。騎乗する鎧のレギオンも揺れ、半ば落馬しかけていた。
この状況が続けば、正面から束縛するよりも確かに、長く時間を稼ぐことが出来る。だが、狙い通りだったのはそこまで。
倒れかけたホースレギオンは一瞬で黒い泥に変わり、鎧のレギオンの右手に悍ましく這い上がる。
そして鎧のレギオンがクリアガイアに向け右手を振りかざした時にはもう、泥は強大な斬馬刀と化していた。
襲い来る刃へ反射的に張った障壁、クリアシャイン達よりも随分薄いそれは、いとも容易く切り払われた。
「きゃあ!」
剣戟の衝撃にクリアガイアは吹き飛ばされ、同時に耕太郎を包んでいた回復魔法が消滅し、彼も地面に転がり落ちる。
自身の横でうつ伏せに沈む彼の肩を、クリアガイアは膝をついたまま、酷く強張った手で強く揺すった。
「くっ、グレイ、起きて!」
返事はない。
それでもなおも続けようとした彼女の顔に影が差す。見上げれば、鎧のレギオンが斬馬刀を振り上げていた。
再び、考えるよりも早く彼女は障壁を作り上げる。その厚みは先ほどまでとは比べ物にならなかった。
「つ、ぁっ!?」
だが、それでも鎧のレギオンの刃を防ぐには足りない。
一振り振るわれる度に壁は傷つき、罅があちこちに走り始める。貫通した衝撃がクリアガイアの身を削っていく。
長くは持たない。そう判断した彼女は、全力で障壁を修復しながら懸命に叫んだ。
「起きて、起きてグレイ! 貴方だけでもいいから、早く起きて逃げるの!」
声は震え、自身に向けて振るわれる暴力に怯えている。
「私は最悪、変身が解けるだけ。でも、このままだと貴方は!」
それでも叫ぶのは、生身の耕太郎は三寸刻まれただけでも死ぬから。このまま耐えていても、いつか防御は抜かれ自分もろとも鎧のレギオンに切り刻まれるから。
けれども、幾度叫ぼうと、障壁が悲鳴を上げようと、耕太郎は目を覚まさない。
やがてしびれを切らしたクリアガイアは、とうとう語るべきでないことを口にした。
「──貴方も大切な誰かだって、あの時言われていたじゃない!」
それは何も知らない者であれば、何一つ理解出来ない言葉だっただろう。
「もう忘れたの!? あのウサギに俺にもいるかもって、自分が傷ついたらあの子は泣くかもって言ってたじゃない! かもですって、このバカ! かもじゃない、あの子は、七海は絶対悲しむわ! あんないい子、クリスマスに泣かせるつもりなの!?」
十一月の厄災の日、ショッピングモールで耕太郎達が交わした会話。彼の決意と、らびらびが忘れぬよう釘を刺した忠告。
「そんなの私、許さないから……!」
クリアガイアが知り得ないはずのそれを、彼女は感情のままに叩きつける。
「だから起きて時枝! 貴方は絶対、こんなところで死んじゃ駄目なの!」
しかしその時、とうとう限界が訪れ、金色の防壁は儚く砕かれた。
「ぁ」
過度の緊張と集中により加速したクリアガイアの視界の中で、鎧のレギオンは再度刃を構えている。
用意した返す刀は横薙ぎ。鎧のレギオンが、敵の首を刈るための一手。
魔法少女として変身している以上、クリアガイアは首を断たれても死にはしない。彼女の対策により痛みも生じない。ただ、身体を裂かれる空虚な感覚を味わうのみである。
数秒後に訪れる悍ましい感覚に顔を真っ青にしながら、恐怖に震えながらも、それでも最後まで、僅かな一瞬でも稼ぐため、彼女はその身を盾にする。
ずっと両手で握っていた杖を強く抱き締めながら、震える声で彼女は小さく呟いた。
「……ごめんなさい、みんな」
その横を、灰色の風が駆ける。
「──」
風は、耕太郎はボロボロのクリアガイアをすれ違いざまに横目に映してから、斬馬刀の前へ躍り出る。そして音を切り裂きながら迫り来る刃に向け、躊躇なく生身の左手を掲げた。その手に握られているのは彼が変身に用いるもの、渡り鳥が刻まれた懐中時計。
彼はそれを剣の軌跡に合わせ、振るわれる刃に重ねて受け流す。
「ッ」
魔法により強化された視力と神経、人類の限界にある運動能力。気絶前に交わした攻防で学んだレギオンの剣技。そして卓越した死への嗅覚に加え、己の死を厭わない生命として破綻した感性。
全てが組み合わさった絶技により、斬馬刀は一つも首を刈ることなく明後日の方向へ流される。
己が手で退けた死を見送る耕太郎の瞳は、氷などよりもはるかに冷ややかなものだった。しかし剣を流され隙を晒す鎧のレギオンに踏み込んだ瞬間、仲間を傷つけた敵に視線を向けた途端、それは一転して激しく燃え上がる。
時枝耕太郎は誰かのためにしか強くなれない。
故にこの瞬間、彼の拳に魔の輝きが灯る。
敵意と怒り、戦意に満ちた、灰色の魔力を纏う拳が、鎧のレギオンの胴体へ叩きこまれた。
「──幻、葬ッ!」
同時に敵を彼方へと吹き飛ばした拳から光が生じ、耕太郎の身体を徐々に包み込んでいく。
輝きに目を逸らしたクリアガイアがやがて顔を上げると、見慣れた白衣の背中が映った。
彼は背を向けたまま、荒れた感情を滲ませながら静かに呟く。
「なんで俺の名前知ってんだよとか、どこであの時の話聞いたんだよとか、色々確かめたいことはある」
「……っ」
「でも、まずは」
溜息を吐きながら、耕太郎は不安に身を縮めているクリアガイアに振り返る。
「悪いガイア、ちょっと寝坊した」
そして座り込む彼女に手を差し伸べ、冗談めかした笑みを浮かべた。