プロローグ
田中の兄ちゃん達が高校生になって初めての冬、つまりは俺が十歳の頃。その二月初週の土曜日のこと。
この日は雑誌とレシピ本を何冊か重そうに抱えながら、田中の兄ちゃん達はお見舞いに来てくれていた。
その内の一冊、チョコの特集が一面に広がるページを指差し、田中の兄ちゃんがとても真剣な様子で聞いて来る。
「耕太郎、どれが女子受けいいと思う? 主に見た目で」
「……分かんない。全部綺麗だけど、食べちゃえば一緒じゃない?」
「あー、ふふふっ。耕太郎の男の子っぽいところ久しぶりに見たなぁ」
「むっ。どう見てもいつでも男でしょ!」
反論しても鈴木の姉ちゃんは笑って俺の頭を柔らかく撫でるだけ。まったく言葉が届いていない。
抗議の意味で頭を揺らそうとしても、そっちも意味はなかった。簡単に止められた上、鈴木の姉ちゃんの笑みをますます深めただけだった。
そんな俺達のじゃれ合いには目もくれず、田中の兄ちゃんはなおも真剣な眼差しを続けている。
「お前の言う通り食っちまえば一緒だけど、味以上にそこまでが大事らしいんだよ」
「お菓子なのに?」
「なのにだ。ぶっちゃけ俺もよく分からん。なんであいつら、かわいいかわいい言った数秒後に貪り食ってるんだろうな」
サイコパスか、なんて田中の兄ちゃんは真顔で言っている。
そんなんだからモテないんじゃ、と俺も言いたくなったのをぐっと堪え、代わりにベッドの上に転がる本を一冊手に取る。
これは有名な料理人、パティシエが書いたらしいレシピの本。表紙にはなんだか豪勢な感じのチョコの写真、見出しにもチョコがどうこう書いてある。どこもかしこも、何から何までチョコ尽くし。
突如現れたチョコレートの群れに覚えた疑問を、そのまま田中の兄ちゃんにぶつけてみる。
「それで、今日はどうしてこんなにチョコの本持ってきたの?」
「ああ。実は今年からバレンタインにチョコ作ってみようと思ってな」
「……田中の兄ちゃん可哀想。お母さんと鈴木の姉ちゃん以外チョコくれないから、とうとう自分で自分に」
「違うわっ!」
違ったらしい。
じゃあ、自作自演じゃないならどうして。
その質問は言葉にするまでも無く、一瞬で察した田中の兄ちゃんが答えてくれた。
「いいか、耕太郎。恋ってのは農業と同じなんだ。収穫したいなら、まずは種をたくさん蒔かなきゃならねぇ」
「この前恋は狩りって言ってなかった?」
「クリスマスまでに一人も狩れなかったから言い訳してるのよ、こいつ」
「うるせー。日々人は学び反省するもんなんだよ」
男としての位階がどうこう騒いでいた田中の兄ちゃんのクリスマス。結局お昼は友達とゲーセン、夕方までは病院で、夜が更けてから鈴木家で過ごして終わったそうだ。
もちろん楽しかったらしいけれど、それはそれ、これはこれ、ということで、田中の兄ちゃんはまたなんだかよく分からない領域に勇み足で進もうとしていた。
「そこで今回のバレンタイン、俺は今年を布石にすることを決めた」
「ふせき」
「伏線でもいいぜ。智将田中の計略だ」
「おー、なんか格好いい!」
歯をキラリと輝かせ、心なしかニヒルに田中の兄ちゃんは笑みを作る。隣の鈴木の姉ちゃんは呆れを超えて憐み、もしくはそれすらも超えた菩薩のような微笑みを携えていた。
火に飛び込む動物を眺めるような視線で見られてなお、田中の兄ちゃんの自信は微塵もぶれない。ある意味格好いい。きっとこの格好良さは、モテとは一切関係ないものだろうけれど。
「前に話した通り、俺達の通ってる学校は元女子高だ。そのおかげかどうも、バレンタインに男へチョコを贈るって雰囲気すらまだないらしい。だからここで、俺が一石を投じることにした」
「どんな一石?」
「男がバレンタインに送り、ホワイトデーに女子から返してもらう。逆転の発想だ!」
「おー?」
よく分からない。
好きだから自分で渡すのと貰ったからお礼に返すだと、込められた意味合いがかなり違う気がする。これだと田中の兄ちゃんが求める好意とはかけ離れた、単なる義理人情の話になるような。
左右に何度も首を傾ける俺の頭を両手で優しく固定した後、鈴木の姉ちゃんは大きく溜息を吐いた。
「何回聞いてもバカみたいな回り道。インド行こうとしてアメリカ行くようなものよねー」
「ふっ。チョコだから向かう先は南米だな」
「やかましいわ」
そんな小ボケを挟んでから、田中の兄ちゃんは申し訳なさそうに、鈴木の姉ちゃんの右手に重ねる形で俺の頭に手を置いた。
「つー訳で、バレンタイン前後と当日は忙しくて遊びにこれねぇ。悪いな」
「……ううん、しょうがないよ。いつも来てくれるだけ嬉しいし」
昔のように毎日ではないけれど、高校生になった今でも二人はこんなところ遊びに来てくれる。
これ以上なんて、楽しいイベントの時にもこんなところに来て欲しいなんて、それは許されない甘えだ。
それでも顔を伏せてしまった俺の前に、田中の兄ちゃんはやたらと可愛らしい小袋を差し出した。包装の上でデフォルメされた子熊が軽快に踊っている。
「つー訳でその二。お前の分のチョコは先に渡しとく」
「え?」
「心して食えよ。田中式スペシャルチョコだ」
「名前ださ」
鈴木の姉ちゃんのツッコミも無視して、俺は夢中で小袋を開けた。そこには小さな、綺麗な丸の形をしたチョコの粒がいくつか入っていた。
「おっと、お前のツッコミは先に潰しとくぜ。女同士の友チョコがありなら、男同士だってありだろ? あと、ちゃんと椿先生には許可貰ったし、監修もしてもらった。それで、チョコの分献立調整するから食った日は教えて欲しい、だってさ」
「でも俺、食べられるか分からないし」
「おいおい、あんまり俺を舐めるなよ? それ結構日持ちするやつだから食えそうな時、調子がいい時に食ってくれればいい。それでも無理そうなら」
「代わりにあたしが食べるから。ちゃんと遠慮せず言ってね」
鈴木の姉ちゃんはそう優しく言ってくれる。
でも、それだと結局、せっかく贈ってもらったものを、俺は食べられないんじゃ。
そんな浅はかな反応も田中の兄ちゃんは予想していたらしい。口にも出していない俺の心配にあっさりと答える。
「んで、そん時は新しいやつ持って来てやる。お前が食べられる日まで、何回でもな」
「……いいの?」
「おう。ああでも、こいつがこれ以上肥える前に頼むぜ」
にっと大きく笑った後、田中の兄ちゃんは鈴木の姉ちゃんに拳骨を食らっていた。
そして鈴木の姉ちゃんは脳天を押さえて苦しむ敵を見下ろした後、もう一つ別の小さな袋を俺に手渡す。
「ぶっ飛ばした。あたしからも、はい」
「鈴木の姉ちゃんもくれるの?」
「渡していいって分かればね。もっと早く先生に聞いとけばよかった。それで、あたしもこいつと一緒。このバカが太って醜くなるまでに食べてくれると嬉しいわ」
鈴木の姉ちゃんがくれた袋の中にも、田中の兄ちゃんと同じく小さくて丸い、食べやすそうな形をしたチョコがいくつか入っていた。
こっちは色が白い。CMや売店で見たことがある。ホワイトチョコというものだと思う。
「醜いはさすがにライン超えてね?」
「確かに。ごめん」
「うむ。チョップで許す」
「さあ来いっ」
軽いチョップを頭に入れて、それでお相子様。よく見る二人の、定番のやり取りだ。
けれどそれを見る俺はいつも通りじゃなかった。
頑張ってベッドから降りて、頼りない足取りで二人の間に突撃する。そしてその倒れかかった勢いのまま、感情のままに抱きついた。
「耕太郎? いきなり」
「ありがとう二人とも、大好き!」
そのまま二人のお腹にそれぞれぐりぐりと頭を押し付ける。涙が出そうなほど嬉しかったのもあるし、そんなに喜んでるのを見られるのは、とても恥ずかしかったから。
田中の兄ちゃんはそんな俺の頭にぽんと手を乗せた後、何故だか感慨深げに呟いた。
「なんかもう、女子がどうとかどーでもよくなってきたなぁ」
「……言っとくけど耕太郎に手ぇ出したら、アンタを殺してあたしも死ぬから」
「違ぇよそういうんじゃねぇよ。てか怖ぇよ」
慄く田中の兄ちゃんに無言のまま、多分とても綺麗な笑みを向けながら、鈴木の姉ちゃんは俺の背中を撫でてくれた。
恋愛とは距離を置きたいこんな俺にも、バレンタインには大切な思い出がある。
俺の知っている人、知らない人にとってもそうだろう。きっとそれぞれに同じような、もしくは違う種類の思い出がある。今は無い人でも、もしかすると今日こそ新しい、大事な思い出が出来るかもしれない。
世界がおかしくなって、形が変わってもバレンタインデーは存在した。それを出汁にして開催されたイベントも、それを楽しみにしていた人達もたくさんいた。
「まがい物が時を経て形となる。何度経験しても信じがたい、得難い光景だ」
だからその邪魔をした、それどころか危険な目に合わせたあの男、今も鷹揚に拍手をするドクターには強い怒りを覚える。
同じ炎を瞳に宿す、俺の隣に立つシャインが敵意と共に杖を向けた。
「呑気なこと言ってるけど、お得意のレギオンはもう消し飛ばした。次はあんたの番」
「楽しみにさせてもらおう。だがその前に、君達に礼を返さなければ」
「はあ? お礼?」
シャインの苛立ちと怒気に満ちた声を聞いても、ドクターは眉一つ動かさない。それどころか余裕たっぷりの口ぶりで続ける。
「もちろん、よいものを見せてもらった返礼だ」
そう言うとドクターは身に纏う白のローブ、その右腕部分をまくり上げ、俺達に見せつけるように右手を胸の前に掲げる。
「先日我が英雄に勧められた本にも書いてあった。もの知らぬ子供に知識を授けるのは大人の使命であると」
語りながらドクターは紫色の宝玉を虚空から取り出し、白銀の腕輪にはめ込む。
「故に教えよう。君達が知らぬまま手にした、その奇跡の価値を」
途端、銀の腕輪は紫の光を放ち、
「チェンジクオリア」
謎の言葉によって、その輝きは最高潮に達した。