魔法的なあれこれは悩み事が多いけれど、かと言って日常が平和そのものって訳でもない。むしろ退院前の、世界が変わる前の常識もあって、非日常以上に首を傾げるようなこともある。
今朝登校する前に見たニュースの内容もその一つ。けれど朝はばたばたとしていて、調べる暇も七海ちゃんに聞く時間もなかった。
こういう時は聞ける人に聞いておこう。自分の席から教室を見回し、ターゲットを見定めた。
早速前に座るターゲットの椅子をシャーペンで叩く。注意がこっちを向いたところで小さく呼びかけた。
「朝地朝地」
「……どうしたの、急にそんな小声で」
同じような囁き声で、朝地は微かに首を傾げながら返事した。
我ながら賑やかな教室では聞き取りづらい声量、朝地が疑問に思うのも当たり前のこと。
でも話の内容が内容だ。このおかしな世界でも元と同じような、俺の想像通りのものなら、大手を振って語るのは少し憚られる。
「バレンタインってどんなことやる日だっけ?」
「……」
何故沈黙。
「前野さん、バレンタインってどういうことをする日だったかしら」
「え、急に何事?」
いや朝地も分かってないんかい。
俺から出されなければ問題ない話題だからか、朝地は一生懸命宿題をしていた前野さんへ普通に投げかけていた。
前野さんはちらっと横目で俺の様子を窺った後、シャーペンを顎に当てながら答える。
「女の子同士でチョコを贈り合う日、だよね」
「らしいわ」
「横流し」
真顔でしれっと宣う姿は、いっそ感心するほどに堂々としたものだった。
一月も後半に差し掛かり、二月の背中がそろそろ見える今日この頃。そして二月と言えば一年に一度の戦場、バレンタインである。今朝のニュースで、そして田中の兄ちゃんも昔そう言っていた。
実際戦場かどうかはともかく、俺としても意識せざるを得ない。同じく田中の兄ちゃんが決戦と語っていたクリスマスを巡り、先月はとんでもない目にあったからだ。
けれども前野さんの説明的に、バレンタインは女の子だけで完結していそう。
おかげで俺も一安心して二人の会話に口を挟む。
「来月のひな祭りといい、女の子主役のイベント二回連続であるんだね。羨ましい」
「あー、えっとね、バレンタインは女子がチョコ贈り合う日でもあるんだけど」
「あるんだけど?」
「言いにくいか。ならその先は僕が説明しよう」
「うわ財前」
にょきっと前野さんの後ろから財前が生えて来た。あまりの唐突さに前野さんと朝地の机が揺れる。
その反応に満足げ、普段以上に得意げな顔からして、どうやら悪戯のつもりだったらしい。ところでこいつこの身長で、どうやって前野さんの背中に隠れていたんだろうか。
無数に湧く疑問の中、財前が答えたのは一つだけだった。
「端的に言えば、僕達男子も無関係ではない。むしろ主役と見てもいい」
「主役かぁ。てことはあれ? 俺達は本命とかそういうのを、何か贈るとか、貰うとか」
「国によって違うとは聞くが、日本ではチョコを受け取る方だ」
聞いたことのある、というよりも前の世界とほとんど同じ内容だ。
そして前野さんが言っていた、女の子同士でチョコを贈り合う日、というのも間違いではないそう。いわゆる友チョコだ。人口比率的にこっちの方が絶対需要高いし、先に挙げられるのは納得。
だけども前野さんが俺を見て言い淀んだあたり、何かしらまた妙な問題が、この世界特有のへんてこな事情があるんだろう。
「だが君も先日のクリスマスで学んだとは思う。ことこうしたイベントにおいて、女性の活力は常にも増して凄まじい。身体の弱い僕達では容易く蹂躙されてしまうだろう」
「……まあ、うん。あの勢いでチョコ渡されたら、多分胃袋が破裂する」
仮に先月の女子の一党が、そのまま全てチョコの群れに変わるとする。
たくさんチョコを食べると鼻血が出るのは迷信だとしても、物理的にも栄養的にもあれだけの数は絶対に処理しきれない。
魔法のある俺でさえそうなのだから、財前のような一般男子が立ち向かえば尚更のこと。まず間違いなく死に至るだろう。
「そのため僕達が産まれるよりも前に色々とルール、というよりマナーが出来たそうだ」
一言でまとめれば、予約制になった。
バレンタイン当日までに意中の相手へメッセージカードを贈り、その返事次第でチョコの贈呈可否が決まるんだとか。
一人に許可を、更に二人三人へ、もしくはそれ以上に、あるいは誰からも受け取らない。
その判断は全てカードを贈られた男に委ねられている。少なくとも、表向きにはそう言われているらしい。
「財前はどうするの?」
「学校では特に考えていない。クリスマスを考えるに、僕が狙われる可能性は著しく低いだろう」
「でもゼロではないでしょ」
「……だとしても、お婆様から許可が下りないだろうな。誰からも受け取ることは出来ない」
チョコレートは高糖質かつ高脂質、刺激が強い虚弱体質の人には不向きな食べ物だ。周りが止めるのも分かる。
チョコ美味しいのに、大変だな。
かつての俺同様、チョコを食べられないらしい財前を不憫に思う。本人はけろっとして、まったく気にしていなさそうではあるけれど。
そんな財前を一瞬気の毒そうに見た後、前野さんがわざとらしくこほんこほんと咳をした。
「えー、時にー、時枝くん」
そしてこそこそと、声量を落として尋ねて来た。
「そういう時枝くんは、バレンタインは、いかがされるおつもりでしょうか?」
「誰から貰うかってこと?」
前野さんが無言でこくこく頷く。
返事を期待する瞳を前にして、俺は困ってしまい頬をかく。
「……うーん。正直、どうしようか迷ってて」
「意外だな。君なら全て断ると踏んでいたんだが」
「ええ。心変わりでもしたの?」
途中から我関せずにしていた朝地まで会話に入ってきた。それぐらい意外だったらしい。
別に心変わりはしていない。今も誰かと付き合う、恋愛をするつもりは毛頭ない。
けれども渡してくれる人にとても失礼な、一部心惹かれるところがあった。
「えっと、去年退院してからも俺、一応隔週で病院に通ってるんだけど」
魔法なんて常識外れのおかげで健康にはなったものの、今まで診続けてくれた先生からしたら訳が分からない状況だろう。
なにせ入院期間およそ十三か四年、しかも直近の昏睡期間は三か月で、おまけに記憶喪失までしていた(していない)患者。それが俺だ。
どうして身体が急に良くなったのか。この回復傾向は続くのか、それとも再び悪化するのか。してしまうのなら、どう対策すればいいのか。そして記憶はどうなったのか。
諸々の確認や診断のため、定期健診のような形で今も病院にはお世話になっている。
「その時にまあ色々と生活のこと、食事のこととかも聞かれる訳で」
「当然だな。僕も主治医には毎日提出している」
「俺の方はそこまで厳密じゃないんだけどね。それでこの間行った時、一緒に来てくれた七海ちゃんが凄く、献立のバランスとか褒められてて」
七海ちゃんは元々忙しい葵さんのことを気遣って、なんとなく栄養バランスを考えてご飯を作っていたらしい。
それが俺も同居を、つい最近まで入院してた男が一緒に暮らすようになったから、本腰を入れて気にするようになったそうだ。
七海ちゃんの優しさに満ち溢れた、俺なんかにはもったいない気遣いだ。だからとてもありがたいことではある、あるのだけれど。
「そのおかげか七海ちゃん、最近張り切っちゃって。いや、うん、いつもご飯作ってもらってる身だし、そういうの全部、毎日感謝してるんだけど」
ちょっと、ほんのちょっとだけ、口うるさいというか。中学生の頃田中の兄ちゃんが愚痴っていた、合唱コンクールの女子感あるというか。
一緒にお菓子を食べてると、途中からもの凄くもの言いたげな目で見つめて来たり。一緒に買い物へ行った時にカップラーメンを眺めていたら、もの凄くもの言いたげな上目遣いをされたり。その上結構な力で袖を引っ張られて、犬みたいに連れて行かれたり。
それ以外にも色々あってここ二三週間、俺の食事はかなり窮屈な感じになってしまった。
「だから七海ちゃんの知らないところでチョコをたくさん、好き放題食べられるのはいいなーって」
「……呆れた。貴方、どうして自分がチョコを貰えるのか忘れたの? 渡された分だけ、貴方は先月以上に告白されるのよ?」
「そこはこう、なんかこう、いい感じにね?」
「驚くほどノープランだな」
「チョコ欲しさで知能が低下してるわ」
言葉にはしないものの、財前の目には朝地同様呆れが満ちていた。無言の苦笑いをしている前野さんの瞳にも、時枝くんはアホだなぁ、みたいな色が鮮やかに浮かんでいる。
それでも俺はチョコが、お菓子が諦めきれない。ずっと我慢していたのに、やっと食べられるようになったのに、ちょっと身体が悪いくらいで止められたくはない。
そんな往生際の悪さが伝わったのか、珍しく朝地が分かりやすく目尻を吊り上げた。
「いいから、そういう馬鹿なことはやめておきなさい。その手の感情を逆なですると、絶対に後で痛い目を見るわ」
お説教されてしまった。現役姉だからか、どこかお姉ちゃんっぽい雰囲気がある。
こういう言い方をされると元気だった頃の、引っ越す前の鈴木の姉ちゃんを思い出してしまう。思わずしんみりして、素直に頷いてしまう。
それで反省が見て取れたのか、朝地はあっさりと矛を収めた。もしくはさっくりととどめを刺しに来た。
「それにもし貴方が隠れてチョコを食べても、私が全部七海に伝えるから」
「横流し」
学校にはスパイがいた。
新しい敵が現れても、いや現れたからこそ、今日も続けている恒例の特訓が終わった。
これまた恒例の、特訓を終えた後の雑談中のことだ。唐突にガイアが変な、ではないけれど、出すと思いもしていなかった話題を口にした。
「……身体に悪い物って、美味しいと思わない?」
「どうしたの急に」
「…………ふと思い至っただけよ。誰でもそういうもの、カップラーメンとかは時々食べたくなるでしょ?」
「分かる。あたしはトマトのが好き」
深々とシャインが頷いていた。全体的に赤い子だから、カップラーメンも赤いものが好きなんだろうか。
ラーメンなんてほとんど食べたことがないから、そんなよく分からない想像しか出来ない。この場合、白衣の俺は豚骨とかになるんだろうか。黄色いガイアは味噌で、青いオーシャンはいったい。
「カップラーメンねー。興味はあるんだけど、まだ食べたことないんだよなー」
「え、そうなんですか?」
「この間プレゼントの相談した妹的な、最近そういうことになった子に、身体に悪いからそういうのは駄目って禁止されちゃって」
「なにそれ、束縛強過ぎじゃない?」
シャインが腕を組んで眉を顰める。やっぱり七海ちゃんは束縛強めらしい。
共感を得られて安心しつつ、それでも本心からのフォローも入れておく。
「や、身体のこと考えてくれてるのは分かるから」
「にしたってねぇ。カップラーメン一つでぶっ倒れはしないでしょ」
「……まあ、うん。それならまだ退院出来てないよね」
「じゃあそいつが気にし過ぎってこと。カップラーメンぐらい勝手に買って食べたら?」
全部現物支給だった世界が変わる前と違って、今は保護者の葵さんからお小遣いは貰っている。レジに向かうのも緊張していた最初の頃とは異なり、もうセルフレジだって悠々と使える。
だからカップラーメンの一つや二つ余裕で買うことは出来る、出来るんだけど。
「心配を無にするのはなぁという気持ちと、別にいいでしょこれくらい、みたいな思いが喧嘩してて」
「しょっぱい天使と悪魔ね」
腰に手を当て、シャインが溜息交じりの笑みを浮かべる。本日何回向けられたか分からない呆れ顔だ。
そしてその向こうで、何故かオーシャンがはわはわしていた。
「あ、あの、グレイさんがああいうこと嫌そうにしてるなら、もしかして、兄さんも」
「……そうね。彼も似たようなことを、少しくらいは思っているかもしれないわ」
「はわわ」
言葉にもしていた。現実にいるのか、言葉にする子。
オーシャンの恐ろしいあざとさに戦慄する俺とは違い、ガイアは普段通り至って冷静なままだった。さすがの貫禄だ。
「でも貴方の心配はもっともだし、何もかも彼の自由にさせるのもおかしな話よ」
「じゃあ、どうすれば」
「どちらもほどほどにするのがいいんじゃないかしら」
けれども何かしらの助言をするガイアの口調は、いつもよりどこか柔らかい気がする。あざとさに負けたのかな。ガイアって基本オーシャンには甘いし。
そんな雑談をしたことすら忘れかけた週末の買い出し中、スーパーのトイレから戻ると見慣れないものがカートに積まれていた。
背の低い茶色のダンボール。表面にはCMやコンビニ、病院の売店でもよく見たカップラーメンの名前が刻まれている。味は多分醤油。
「七海ちゃん、これって」
「か、カップラーメンだよ」
「えぇっと、非常食とか? もしもの時はそういう備蓄が大事って聞いたことが」
「ううん、兄さんが食べると思って」
俺が。あんなに駄目だよって言ってたのにいきなり。なんでやねん。
衝撃のあまりツッコミを入れるタイミングを外した俺に、七海ちゃんは容赦なく追撃を加える。
「箱で買うから、好きなだけ食べてね!」
ちょっと心配になる心変わりだった。おでこに手を当てても熱はなかった。
それで家に帰ってから早速確かめた、好きなだけと言われたカップラーメンの味はというと。
「……うーん?」
美味しいことは美味しい。でも、一度食べればしばらくいいかなってなる味。
醬油ベースのスープやそれを持ち上げる麺、謎の肉っぽい具材も美味しい。
けど全体的に味が濃い。はっきり言ってしょっぱい。あとなんか飲み込んだ後、舌に変な感覚が残る。
そして量もそこまでなかった。スープを残してさくっと食べ終えてから両手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
それを待っていたかのように、七海ちゃんがすぐさま俺に尋ねる。
「美味しかった?」
「なんていうか、なるほどって感じの味だった」
しょっぱくてしつこくて変な感じがして、それでもどこか後を引くものがある。ガイアが言っていたように、時々なんとなく食べたくなる、という気持ちは分かった。
けど時々だ。間違っても毎日は嫌だ。足りないし身体に悪そうだし、絶対に飽きる。
その真反対を行く食事をいつも用意してくれる七海ちゃんに対し、改めて感謝の念が浮かぶ。
「七海ちゃん、いつもありがとう」
「……どういたしまして?」
こんな感じで、色々ありつつも時枝家は平和だった。