狭間中学校は市立、公立の中学校だ。
そのため日常的な掃除は生徒が担当しており、それは男子生徒も例外ではない。
時々一部のPTAや市民団体から、健康に悪いから男子は全て免除しろ、などという意見が寄せられることがある。男から掃除をする権利、人権を奪うのか、という反論が飛ぶこともある。
こうした両極端な、正反対の議論が相殺し合うことで今は男子も掃除を、箒で掃くなど軽いものを行うことが慣習になっていた。
それはさておき、その掃除の時間中、耕太郎は箒と雑巾を手に妄言を繰り出す。
「財前、これで野球やろうよ、野球」
「珍しいな。君がそんな、公序良俗に反することを言い出すとは」
「大げさ過ぎない?」
まるで万引きや落書きでも提案したかの物言いに、耕太郎は苦笑いを浮かべた。
かつて彼の最も親しかった友人、田中平司と鈴木奈美は極めて善良な人間だった。しかし同時にブレーキをどこかに置いて来た、頭のネジが数本は抜けている人種でもあった。
その影響を過剰摂取した耕太郎もまた、時折好奇心で倫理と常識が緩むこともがある。今回は可愛らしいものではあるが、今がちょうどその時だった。
「古い漫画でやってたの、なんか急に思い出してさ。どう?」
「ふっ」
財前の眼鏡がきらりと光る。その光源を知る者はいない。
「いいだろう、一打席勝負といこうか」
「おぉー、さすが財前、話が分かる」
「私は分からないわ」
話がまとまりかけたその時、涼やかな声が颯爽と会話に割り込んだ。
その声に耕太郎が顔を上げた途端、それ以上に冷ややかな視線とぶつかる。朝地桜がいつもと同じ不愛想な、それでいて若干呆れた様子で彼を見ていた。
「せっかく掃除したのにまた埃が舞うし、大体箒なんて振り回したら危ないでしょ。絶対やめなさい」
「それはそうなんだけどやりたいし。分かった、じゃあ外でやるから」
「今は掃除の時間よ。それに外ならわざわざ箒と雑巾じゃなくて、普通にバットとボールでした方がいいわ」
「今日も正論パンチが強い」
両手を挙げて一度お手上げした後、耕太郎は大人しく箒で床を払い始めた。なお、財前は桜が現れた時点で退散している。彼は逃げ足の速い少年だった。
その光景を廊下から眺めていたクラスメイトは、感嘆の息とともに呟く。
「朝地さんって凄いよねー。あたしだったら時枝くんのお願い絶対断れないもん」
「ねー。はいはい言って、私キャッチャーやっちゃう」
「……まさか貴様、名前だけでも女房役狙いか?」
「ふっふっふっ」
不敵な笑みは誤魔化し笑いだ。無論何も誤魔化せてはいない。
男女比の偏ったこの世界において、男が絡んだ瞬間知性が低下する者は非常に多い。その様子はさながら知恵の実を食べ忘れたかのよう。まるで世界にそうあれと命じられたかのよう。
自分は違うとでも言うように、友人二人のやり取りを眺める前野は苦笑していた。
そんな彼女に突然、予想外の質問が向けられる。
「ねぇねぇ貴子、朝地さんってどんな感じ?」
「えぇー? もう一年くらい同じクラスなんだから、私に聞かなくても分かるでしょー?」
「そうだけどさぁ。私、あんまりちゃんと喋ったことないから」
もう一度教室の中を、桜をちらりと見た後、その少女は気まずそうに頬をかく。
「ほら、朝地さんいい人だけど、言いづらいけどちょっと、絡みづらいところあるじゃん?」
「……うーん、そうかなぁ」
前野は思い切り首を傾げる。その脳裏には、先日交わしたとある会話が過ぎっていた。
とある日の放課後、一緒に帰ろうと桜に誘われた前野は非常に上機嫌だった。
一部からは『氷の女王』などという恥ずかしい異名で呼ばれるほど、人を寄せ付けない雰囲気を纏う朝地桜。
事実、前野は彼女が誰かと親しくする姿を、耕太郎が現れるまでほとんど見たことがなかった。
そんな彼女と気づけば交流を深め、今では帰りを誘われるまでになれた。
鼻歌が無意識に漏れるほど、前野のテンションは上り調子だった。
「前野さんは、時枝のことが好きなの?」
「え゛っ」
桜から唐突に、剛速球の質問を叩きつけられるまでは。
混乱する前野の頭に浮かぶのは質問の答え、ではなくその意図の推理。どうしていきなり、それも桜がそんなことを聞くのか。
脈絡のない恋バナ。いわゆる牽制。単なる好奇心。
いくつも生じた選択肢は、どれも今一つ彼女を納得させない。
眉間に皺を寄せ、むむむと唸る彼女を見た桜は足を止め、軽く頭を下げた。
「ごめんなさい。さすがに直球過ぎたかしら」
「うん。顔面直撃レベルでびっくりしたよ」
「そうよね。でもこれ以外だと、どうしても回りくどい言い方しか思い浮かばなくて」
「一回そっちでチャレンジして欲しかったかなぁ」
「……ま、前野さんは時枝といると、えぇと、心が、その、血沸き肉躍る、の?」
「物騒!」
そのたとえにときめきは存在し得ない。仮にするとしても、それは戦士や蛮族としてのものだ。回りくどい以前に道を間違えている。
下手極まりない問いではあるが、桜はいたって真剣だ。今も前野を見つめる目に冗談の気配はない。
あって欲しかったなぁ、という想いを封じつつ、彼女は目を泳がせた。
「や、やー、ね? それは、ね? ほら、時枝くん、格好いいし、優しいし、ね? だから、うん、ね?」
「つまり、好きなの?」
「凄いぐいぐい来るね!」
逃げを許さない剛速球その二が前野に向けられる。
しかし彼女も肝が据わっている少女だ。咄嗟に大きく手を挙げ、質問を打ち返した。
「ぎゃ、逆質問です! 朝地さんこそどうなの!?」
「却下。私のことは今は関係ないから」
「横暴だ!」
陽香相手に磨いた暴虐、姉染みた圧制に速攻で押しつぶされたが。
それでも諦めず、前野は無駄な抵抗と時間稼ぎを試みる
「そ、そもそも、どうしてそんなこと知りたいの?」
「……今度、時枝に頼みごとをしようと思っていて」
さきほどとは一転、静かに瞳を伏せながら、桜は続けた。
「けれどその内容を整理している内に、ふと気がついたの。もしも前野さんが時枝に惹かれているのなら、こんなお願いをしてはいけないって」
「私がそうなら駄目って。朝地さん、いったい何お願いするつもりなの?」
「……世界を救うための、特訓?」
「本当に何お願いするつもりなの?」
前野は知る由もないが、異性への苦手意識を薄くするためのトレーニングである。それが本当に世界を救い得るものかどうかは、前野どころか身を投じる本人すらも判断がつかない。
特訓の理由も中身も一切理解は出来ないが、それでも前野は考え始めた。突拍子のない意味不明なものであっても、友人からの真剣な質問だ。彼女に腕を組ませ、うんうんと唸らせるには十分だった。
小動物のようなその仕草に、桜が密かに癒されていること数十秒、一応の結論は出た。
「……うーんと、ごめん。自分でもちょっと、分からないかも」
分からない理由が分からないとでも言うように、桜は浅く首を傾げる。
姉妹共々好き嫌いのはっきりしている彼女からすれば、その表現は理解出来ないものだった。実際口に出すかはともかく、誰をどう想っているか。彼女なら即答出来る。
そんな彼女の視線から逃げるよう目を逸らしながら、前野はどこか気まずげに続けた。
「初めて会った時はね、すっごく綺麗な顔の男の子だーって、皆と同じように舞い上がっちゃった。漫画みたいな子、ほんとにいるんだーって」
容姿端麗な父母より生まれた耕太郎は、自身もまた端正な顔立ちをしている。
応募すればなんとかボーイも間違いなし、朝ドラも大河もいつかいける、とは彼を溺愛していた鈴木奈美の談である。
彼女の身内贔屓を抜きにしても、男女比の正常な世界でも目立つだろう彼がこの世界の女子の前に現れた。結果は火を見るよりも明らか、現状の通りだ。
特に復帰前後の喧騒は凄まじく、その渦中にいた前野本人ですら、思い返せばあの時はどうかしていたと顔を赤くするほど。
けれど彼女の記憶の中で、隣を歩く友人にその様子はなかった。
「朝地さんはいつも通りクールだったよね」
「私はあの時、少し考えごとをしていたから」
少しどころではなく、寝る間も惜しんで考え込んでいた。
突如現れた魔法の力を持つ男。その正体は、危険性は、願いを壊しに来たのか。
今となっては杞憂と断じるそれも、当時の彼女からすれば顔を真っ青にするほどの大問題だった。
「色々まあ、あの、お恥ずかしいことを言えば、当時は結構な妄想もしていました。あれ、えぇと、お付き合いする系とかのね?」
「……妄想」
「中身の想像はしないでね!」
前野貴子は健全な女子中学生である。
「でも時枝くんと仲良くなれて、なんていうか、そういう妄想はちょっと違うって思うようになったんだ」
「期待外れだったの?」
「ううん、時枝くんは期待以上というか、むしろ色んな意味で想像以上だったというか。とにかくそっちじゃなくて」
前野が思い返すのはクリスマス前のこと。そしてバレンタインが近づいた最近のこと。
耕太郎は日々学校生活を、あらゆることを楽しんでいる。クラスメイトが辟易とするような、面倒な授業や課題ですら笑顔でこなしている。隣の席で眺めている前野はそれを知っている。
だからこそ、恋愛が絡んだ時に映る一瞬の陰りも、彼女は何度も目撃している。
「時枝くんってそういうこと苦手でしょ? なのに友達の私がガンガンアタックなんてしたら、凄い迷惑になっちゃうから」
「それは、そうね」
「でね、そんな風に遠慮しちゃうくらいなら、これはまだ恋じゃないんだって。ママがそう言ってたんだ」
迷惑がどうした、それ以上に幸せにしたるわー、ってなったら恋だから。
前野の母が先日夕飯の際に唱えた理論である。なお、彼女は親戚の間では女傑と恐れられている。
少なくとも、今の前野にはそれほどの自信も勢いもない。彼女は耕太郎を気遣い、尻込みしてしまう。
もちろんそれは優しさという、彼女のとても大きな美徳でもある。
「こんなこと言ってる私ですが、もしも時枝くんの方から告白されたら、絶対喜んで付き合っちゃいますけどね! だから分からないってことにして!」
「……?」
そう誤魔化し、照れ笑いする前野を見つめる桜の瞳は、深い疑問に満ちていた。
「告白されて喜んで付き合うのなら、それは好きだってことじゃないのかしら」
そしてその想いはすかさず質問へと変わる。
「だってお付き合いは、好き同士がするものでしょう?」
何の迷いもなく本心から放たれた言葉が、前野の足を止める。
足音が一つ減ったことに、桜も数歩で気がついた。
疑問に振り返った彼女が見たのは、目を思い切り輝かせ、勢いのまま自身に抱きつこうとする前野の姿だった。
「きゃっ!? ま、前野さん、急にどうしたの?」
「……か、可愛い」
「え?」
「朝地さん、超可愛い!」
突然の暴挙に困惑する桜を前にしても、前野の興奮はまったく収まらない。
「ピュア! 純真! 可愛い!」
「ぴゅ、ぴゅあ?」
「大天使!」
「朝地家は代々神社の家系だけど……」
そのすっとぼけた返答もツボにはまったのか、前野が抱きつく力はますます強くなる。
同級生ではあるが、前野の身長は桜の妹、陽香よりも小さい。むしろ可愛がっている妹分、七海にほど近い。というより七海と数センチしか変わらず、百五十にも満たない。
前野の小動物じみた雰囲気も相まって、桜はどことなく甘えられたような心地となった。そのため引きはがしはせず、それどころか無意識に背中を優しく撫でていた。
彼女の温もりと優しさを満喫すること幾秒か。気を取り直した前野は、抱きついたまま顔を上げた。
「ところで、どうして私がそうなら駄目だったの?」
「……いきなり落ち着かれると、それはそれで驚くわ」
「興奮が頂点を超えちゃって」
一種の賢者モードである。
きりりとした眼差しに溜息を吐きつつ、桜は囁くように告げる。
「私の考える特訓をするなら、どうしても彼と触れ合う必要があるから。想い人が他の異性とそういうことをするのは、誰でもいい気分はしないでしょう?」
「……触れ合うって、えっちなやつ?」
「違うわ、絶対」
冗談だよっ、という嘘か本当か分からない釈明に、桜はもう一度溜息を吐いた。
それをものともせず、前野は依然桜にくっついたまま物思いにふける。
「二人がペタペタイチャイチャかぁ」
「ペタペタもイチャイチャもしないわ。多分、ぴとっ、ぐらい?」
「なんてこった、擬音も可愛い」
揶揄いに返した、ぎろりという視線はまったく可愛くなかった。前野は後日そう語る。
「でも確かに想像してみると、なんだか頭がぴりぴりして、胸がどきどきするかも」
友人の感覚を聞いた桜は僅かに眉をひそめる。
「それは、嫉妬?」
「ううん。これは性欲だと思う」
「……」
「ああ、黙って距離取らないで!?」
逃げる桜へ縋りつくように前野は再び抱きついた。
そんな先日のドタバタを思い出し、前野に生じた想いは一つ。
「あえて一言で言うなら」
集まる注目に対し、前野は満面の笑みを浮かべ、
「桜ちゃんはね、すっごく可愛い子だよ!」
最高の自信をもって、友人を自慢した。
これで三章は終了です。お読みいただきありがとうございました。また書き貯めに入ります。
あと二章か三章で終わるはずなので、ここでエタりはしないと思います。
よろしければお待ちください。どうぞよろしくお願いいたします。