毎日投稿出来るまで書き貯めすると秋になるので、四章は週二(月・金)にします。
ちょっと重めの話になりますが、またお付き合いしていただけると嬉しいです。
四章プロローグ「希望とお別れした日」
春は出会いと別れの季節、なんて表現がある。
四月は噂に聞く新学期、新年度の始まり。普通の人であれば、そこで新たな出会いをいくつも得られるのだろう。
でも俺から言わせれば、春は別れの季節だ。
この時期は体調を崩す人が多く、そのせいで息を引き取る患者さんも無数にいる。
血縁上の母が亡くなったのも、血縁上の父の家の前で俺と心中しようとしたのも、三月の初旬のこと。その日は季節外れの大雪が降ったそうだ。
そして田中の兄ちゃんも同じ月に、先月亡くなった。
ちょうどその頃俺は季節の変わり目で寝込み、ずっとベッドの中でうつらうつらとしていた。そのせいで何日間か、目が覚めなかったこともある。
その間に田中の兄ちゃんは息を引き取り、お葬式も全て終わってしまったらしい。
遺影も喪服も、誰かの悲しい顔も、俺は一切見ることはなかった。それからずっと、鈴木の姉ちゃんと会うこともなかった。
おかげで、現実感もなかった。
田中の兄ちゃんは大学進学を機に一人暮らしを始めて、それまでより遊びに来る頻度が減っていた。
だから一月近く会わないのも珍しいけれど、決してありえないことではなくて。それもまた実感を薄くさせて。
こんなふわふわとした意識が固まったのは、四月のとある日のこと。
この日は春の嵐で大荒れだったから、あんなことがあったから、一生忘れることはないだろう。
叩きつける風と雨の音に耳を澄ませていた時、不意に病室の扉がノックされた。
まだ検診の時間ではなく、しかも俺に並ぶほど、雨にかき消されそうなほど弱弱しい音。間違いなく先生や看護師さんではない。
「どうぞー」
珍しい来客だと思い声をかけてから数十秒後、ようやくその人は扉を開いた。
ベッドからの距離でも分かる。髪はぼさぼさで、肌もぼろぼろ、目は腫れぼったくてクマも酷い。いつものお洒落は消え去って、着ている服もどこかちぐはぐ。抱えている木の箱だけが真新しく綺麗だ。
そんなどこからどう見ても満身創痍の鈴木の姉ちゃんが、所在なさげに立っていた。
「久しぶり、鈴木の姉ちゃん」
「……うん。久しぶり」
声をかけると、鈴木の姉ちゃんは消えそうな声で返事をする。
それから幽鬼のような足取りで歩きベッドの傍の椅子に座ると、抱えていた箱を宝物を扱うようにそっと、無言で俺に手渡した。
いきなり渡された上に、想像以上に重い。そんなに長い間抱えていられない。
ベッドに備え付けられている台を出してもらい、そこに箱を優しく置く。
「この箱、なに?」
「明日、お墓に入れるからって。その前にせめて耕太郎にもって、おじさんたちに無理言って」
まとまりのない答えだけれど、それで分かった。
これは骨壺だ。この箱には、かつて田中の兄ちゃんだったものが眠っている。
鈴木の姉ちゃんに慎重に取り出してもらい、すべすべとした、肌触りの良い小さなツボを受け取る。
重さはともかく、俺でも抱えられる大きさだ。絶対に落とさないように、お腹の上で一度強く抱きしめる。
それから慎重に蓋を外そうとして、手が止まった。見たくない。見れば、見ないようにしていた事実に追いついてしまう。
「……」
それでも、たとえ俺が逃げても、現実は変わらない。だから見なきゃいけない。こんな雨の中持って来てくれた、お別れの機会をくれた優しさに、俺は報いなければならない。
意を決して開いた中には、白い骨が窮屈そうに詰め込まれていた。
田中の兄ちゃんはガンだった。一人暮らしで発見が遅れて、気がついた時にはもう全身に転移が進んでいて。この病院に入院こそしたけれど、それで、そのまま。
だから、骨も頼りないほどボロボロだった。
優しく頭を撫でてくれていた手も、おんぶをしてくれた広い背中も、そこにはもう、面影すら残っていない。散った命の名残だけがある。
「……あーあ。俺よりデカくなれよってあんなに言ってたのに。自分がこんな小さくなっちゃって、どうすんのさ」
生意気を言っても答えてくれない。ただただ、骨壺の重みが腕に痺れを与えて来る。
「そっかぁ」
変な話、そんなことで納得してしまった。
「兄ちゃん、ほんとに死んじゃったんだ」
もう、何も言えなくなっちゃったんだ。
気づきはある。納得はある。痛みと悲しみはあるのか、それも分からない、考えられない。力が抜けて思考が止まって、身体が溶けて消え入りそうになる。
それでもなんとか骨壺をベッドの台に置き直す。田中の兄ちゃんだったものを、こんなところでぶちまける訳にはいかない。
くらくらする意識に、突然衝撃が走る。続いて火傷するかもしれないと錯覚するほどの熱。最後に石鹸と甘い香り、大好きな人の匂いを感じた。
鈴木の姉ちゃんが椅子を蹴倒して立ち上がり、唐突に俺を抱き締めていた。
「鈴木の姉ちゃん?」
「……めんね」
「え?」
「ごめんね、耕太郎」
どうして謝るのか。
聞けばいいのに、嫌な予感がして口を開けない。耳も塞げず、ただ拒絶するように、鈴木の姉ちゃんの胸に顔を埋める。いつもは安心する心臓の鼓動が、今日は胸をざわつかせる。
昔から何も出来ない俺は現実から逃げることも出来ない。鈴木の姉ちゃんは、震える声で囁いた。
「……あたし、引っ越すことになったの」
カウンセラーの先生にそう勧められ、両親が決めたそうだ。
鈴木の姉ちゃんと田中の兄ちゃんは仲が良かった。それこそ、お互いを半身と言ってもいいほどに。
人は身体の半分を失えば生きていけない。そしてそれはきっと、心も同じだ。
この一か月、鈴木の姉ちゃんは田中の兄ちゃんを思い出す度に泣き、絶望し、時には半狂乱となることもあって、その度に家族が懸命に止めていたらしい。
だからこそカウンセラーの先生は、今は田中の兄ちゃんのことをなるべく意識しないようにして、まずは心を休めるべきだと伝えたそうだ。
でも二人は幼馴染だ。ものごころつく前から一緒にいて、ずっと共に思い出を築き上げていた。
家でも、幼稚園でも、学校でも。公園やカラオケ、映画館やショッピングモールでも。なんてことないその辺の道ですら、二人の大切な思い出がたくさん眠っている。
だから今は、周囲に存在するありとあらゆるものが、田中の兄ちゃんを連想させてしまう。
「……そっかぁ」
そしてそれは、俺自身も例外ではない。
田中の兄ちゃんを通じて俺と鈴木の姉ちゃんは出会って、こんなことになるまで、三人でとても仲良く、幸せな日々を過ごしていた。
俺を見ればそれを思い出す。田中の兄ちゃんを思い浮かべる。その度に鈴木の姉ちゃんは心を壊してしまう。
「それなら、仕方ないよね」
そう、仕方のないことだ。
「ごめん、ごめんね、耕太郎を、一人にしちゃうのに」
「ううん、気にしないで。鈴木の姉ちゃんの身体の方が、絶対大事だから」
「あいつに耕太郎のこと頼まれたのに、あたしはこんな、駄目で、分かってるのに、一緒にいてあげられなくて」
「そんなこと言わないで。俺はもう、一人でも大丈夫だよ」
だから心にもないことを告げてから、心からの思いを伝える。
「今までありがとう、鈴木の姉ちゃん」
「っ」
苦しくなるほど、息が出来なくなるほど強く抱きしめられる。けれどもっと痛いところがあったから、気にもならなかった。
病院から立ち去る鈴木の姉ちゃんと、付き添って歩く両親の姿を見送る。
俺は調子が悪くて歩けなかったから、ここまで移動するために車椅子を用意してもらった。しかも押してくれたのは昔からの担当、小児科医の椿先生。いつも忙しいのに今日も贅沢させてもらっている。
出ていくまで、鈴木の姉ちゃんは何度も振り返ってくれた。その度に頑張って手を振って、何も心配ないことを伝えようとする。鈴木の姉ちゃんが前を向けるよう、なけなしの力を振り絞る。笑顔も多分、引き攣ってなかった。
病院の出入り口を通りぬけた後、ようやく鈴木の姉ちゃんは振り向かなくなった。正しくは、お母さんが抱き寄せたことで首を動かせなくなった。
なら、もういいだろう。俺の役目はもう、俺はもう、頑張らなくてもいいだろう。
「椿先生、部屋まで運んでもらってもいいですか?」
「……いいの? 奈美ちゃんのこと最後まで」
「いいんです。なんだか、疲れちゃいました」
ただ座って話を聞いただけ、今も車椅子に座って見送っただけ。
自分からは何もしていないはずなのに、今までで一番身体が重い。全身に鉛がへばりついたようで、座っているだけでも重苦しい。息をするだけでも辛い。頭が痛い。
苦しいのも辛いのも、痛いのも慣れている。
「これ以上ここにいると、変なこと考えそうで。それだけは絶対に嫌なんです」
昔から何度も脳裏に過ぎる、この醜い考えにも慣れている。でも、今日はこれ以上抑えが利かなそうだった。
「きっとこれが最期だから。姉ちゃんのこと、全部好きなままでお別れしたいんです」
「……分かった。行こうか」
「お願いします」
椿先生はそれ以上何も言わず、言いたいだろう慰めを呑み込んで、車椅子を柔らかく動かしてくれた。見上げて見えた歯を食いしばる沈痛な面持ちに、今日も罪悪感が刺激される。
それから逃げるためだったのか、未練がましい執着のせいか。最後に、俺は横目で見てしまった。
項垂れて歩く鈴木の姉ちゃんのことを、お母さんは優しく抱いていた。車から飛び出し迎えに来たお父さんは、自分が濡れるのも厭わずに傘を傾けてあげていた。
それは紛れもない親の愛情だ。経験せずとも何度も見たから分かる。俺には贈られなかったものだ。
駄目だ。抑えられない。
鈴木の姉ちゃんは田中の兄ちゃんを失った。二人の付き合いは俺より長くて、深くて、その分だけ俺よりもずっと辛くて苦しいんだろう。
でも、鈴木の姉ちゃんにはまだあんなに愛してくれる人がいる。一番にしてくれる人がいる。一緒に生きてくれる人がいる。きっとそれは、俺の知らないところでもっともっといるんだろう。
それだけじゃない。鈴木の姉ちゃんには未来がある。今の苦しみを乗り越えれば、乗り越えなくても、何もしなくても明日は来る。いつでも歩ける。その気になれば好きなところに行けて、好きなことを出来る。
ずっと胸の内に秘めていた汚泥が、するりと零れ落ちた。
「まだ、あんなにあるくせに」
俺とは違って。
「ずるいよ」
これは誕生日を控えた十三歳最後の四月、鈴木の姉ちゃんが引っ越す二週間前の思い出。
俺が生きる最後の理由を失った、昨年の春の出来事。