小さな咳が七海ちゃんの部屋に響く。
「こほっ」
それを聞いた葵さんの動きは、咳が出るのを予知していたと思わせるほどに早かった。
葵さんは音もなく七海ちゃんの傍へ滑り込むとベッドに手をかけ、すかさず顔を覗き込む。
「ななちゃん大丈夫? 氷枕使う? 何か食べたいもの、食べられるものある?」
「あ、あはは、大袈裟だよ。こんな、微熱なんだから」
「微熱でも熱は熱! 油断大敵、安心安静、ウイルス即時滅殺!」
かと思えばいきなり立ち上がり、続いてぶおんぶおんと、室内にもかかわらず遠慮なしに葵さんは棒を振るう。先端に添えられた白い和紙が勢いよく舞う。
何度見しても変わらない。あれはお祓い棒だ。
自分の目を疑いながら、若干正気を疑っている葵さんの後ろに回って背中を押す。
「はいはい。まずは向こうで落ち着きましょうねー?」
「な、放してこうくん! 私は冷静だよ!」
「冷静な人はお祓い棒振り回さないんだよなぁ」
そもそもどこから持ってきたのか。まさか朝地家からのおすそ分けとか。いやお祓い棒のおすそ分けってなんだよ。
混乱は脳内だけにして、小さく抵抗する葵さんを部屋の外まで押し出した。
病人の部屋で騒いではいけません。
そんな小言をちくちくいくらか告げた後、葵さんを残して部屋に戻った。再びベッドの傍の椅子に座る。
「……もうっ。風邪引くといつもこうなんだから」
なんてぼやく七海ちゃんの声はどこか弾んでいた。
それ自体は微笑ましいのだけれども、いつもあれは恐ろしいところがあるような。
ちょうど目が合った七海ちゃんは俺の疑問を察したらしく、くすくす笑みを零しながら教えてくれる。
「お母さんね、私が風邪引くと絶対お仕事休んで、いつもあんな感じになっちゃうの」
「お祓い棒も?」
「そうだよ。もっと小さい頃から、いつもたくさん振り回してたよ」
朝地家のおすそ分けじゃなかったらしい。じゃあどこで買ったんだよ。
謎は更に深まったけれど、とりあえずそれは胸の内にしまっておくことにした。
代わりに葵さんの変換機として、あとは俺自身の心配も込めて告げる。
「俺も大袈裟だとは思うけど、微熱の内に治しておいた方がいいよ。ほら、寝て?」
「うん」
ぽんぽんとベッドの縁を叩くと、七海ちゃんは素直に目を閉じて毛布を被る。
と思いきや、すぐさま勢いよく顔を出した。
「でも兄さん、私もう眠れないよ? 眼が冴えちゃった」
「……午前中ずっと寝てたし、それもそうだよね」
「まだちょっとは熱あるけど、私元気だよ。だから」
一人ベッドで寝てるだけの生活が、果たしてどれだけ退屈なものか。
自慢じゃないけれど、俺はとてもよく知っている。熱で朦朧としている方が、時間が早く過ぎるだけまだマシかもしれない。そんな馬鹿なことを思ったこともある。
「かと言ってこのままベッドから抜け出して遊ぶ、なんてしたら、ド心配怪獣アオイに襲われちゃいそう」
「ふふふ、そんなこと言ってー。お母さん怒っちゃうよ?」
「聞いてないからセーフ。内緒にしてね?」
「どうしよっかなー」
珍しく、とても悪戯っぽい笑みを浮かべる七海ちゃんは、確かにもう元気そうだ。
けれどそれはそれ。さっきの葵さんではないものの、こういう時の油断は本当に大敵だ。
「治りかけが一番肝心って言うし、今日くらいは大人しくしてなさい」
「はーい」
「よしよし。じゃあお休みなさい」
頭を一度撫で、立ち上がろうとしたところで腕を掴まれる。
一応病人とは思えないほど力強かった。七海ちゃんは運動神経こそ貧弱だけれど、家事のおかげか筋力はそこそこある。
「兄さん、私眠れないの」
「うん、聞いてた」
「何かお話して」
今日は筋肉以上に言葉も押しも強かった。そして何より、甘えが強かった。
俺はその全てに、特に七海ちゃんのものには弱い。なので椅子にもう一度しっかり座る。
「いざお話してってなると、なんか難しいね。鉄板のすべらない話とかあったかな」
「そういうのはいいから。兄さんのお話が聞きたいの」
「今日の七海ちゃんは押しが強いなぁ」
「……だって私、熱あるもん」
何の理由にもならない、という理性の判断とは裏腹に心は納得していた。熱があるなら仕方ない。やっぱり俺は七海ちゃんに弱かった。
「話したいは話したいけど、どうしようかな、全然思い浮かばない。こっち側で話すの慣れてないからかな」
「こっち側?」
「看病する側というかお見舞いする側というか、健康側? 俺はもっぱらベッドの中で、田中の兄ちゃんのへんてこトーク聞く側だったから」
七海ちゃんがこてんと首を傾げた。まるで知らない人の話を突然された時のような。
いやまるでというか、よく考えてみると実際にそうだったかもしれない。
「田中の兄ちゃんのこと話したことなかったっけ?」
「うん。初めて聞いたよ。兄さんのお友達?」
そういえば、七海ちゃんに田中の兄ちゃんのことを話したことはなかった。どうしてだろう。
でもあの人、絶対女の子の教育には滅茶苦茶悪いし、思い出の半分くらいはドン引きされそうな内容だし、それもそうか。
一人で疑問と納得の反復横跳びをしていると強い、とても強い視線を感じた。
七海ちゃんがキラキラとした、興味全開といった瞳で俺を見つめている。
「……もしかして、もっと聞きたい?」
「うん!」
ならしょうがない。なんとか平気そうな内容を絞り出そう。
「えっと、田中の兄ちゃんは六つ上のお兄さんで、毎日のように俺と遊んでくれた人だよ」
「……毎日遊んでたの?」
「昔は病院の隣に住んでたからね」
入院中の俺と毎日、ということに疑問を覚えたらしい七海ちゃんは、それで納得してくれた。
わざわざもう亡くなっていることを伝える必要もないだろう。教えたとして、七海ちゃんなら悲しい気持ちになるだけだ。何の意味もない。
腹の底で今も蠢くものに蓋をして、とにかく楽しかった思い出だけを振り返る。
「もうとにかく、本当に変な人でさ。初めて会った時、なんて声かけられたと思う?」
「えっと、元気―、とか、遊ぼうよー、とか?」
「うわ顔暗こわ。なんだお前、ガキの癖にホラーごっこか?」
七海ちゃんは絶句していた。
俺も他人から聞けばそうなるだろう。いくら十二歳の子供とはいえ、初対面の六歳児相手に言うことじゃない。実際後々チクったら、鈴木の姉ちゃんは滅茶苦茶にキレてたし。
今となっては全てが懐かしい思い出に浸りながら、その続きを七海ちゃんへ語る。
「それでその後、ならしかたねぇ。この俺が超絶面白いギャグして笑わせてやるーって、いきなり当時流行ってたお笑い芸人のものまねし始めたんだ」
「それが面白くて友達になったの?」
「ううん、くすりともこなかった」
「え」
「俺その芸人のこと知らなかったし、後で調べてもまったく似てなかったし、そもそも全然面白くなかった」
「えぇ……」
田中の兄ちゃんは生き様と生態は面白いけれど、いざ一人で面白いことしようと滑り散らかすタイプの人だった。
これは出会ってからずっと、結局最期までまったく成長しなかった。
「でもそれがかえって田中の兄ちゃんの琴線に、ある意味逆鱗に触れたのかもね」
覚えてろよこのやろー、という去り際の捨て台詞だけ面白かったのは覚えている。
あの時の俺はそれで終わりだと思っていた。変な人が興味本位で声をかけて来て、俺にがっかりして離れていく。何度も経験したそれだと思っていた。
けれど、田中の兄ちゃんは違った。
最初に病院へ来た理由、公園のぐるぐる回るあれで捻挫をしてせいで、外へ遊びに行けなかったのもあるだろう。
それを置いてもなお、田中の兄ちゃんはずっと遊びに来てくれた。
「それから田中の兄ちゃんは毎日放課後挑戦しに来て、途中からは鈴木の姉ちゃんも参戦してきて」
「鈴木の姉ちゃん?」
「田中の兄ちゃんの幼馴染。ツッコミ系ボケの人だよ」
「その紹介でいいのかな……?」
二人は漫才コンビみたいなものだから問題ないはず。
「それでまあ、ずっと挑戦を受けていれば、いずれは負けることもある訳で」
あれは何回目の挑戦で、どんな内容だったっけ。
確か田中の兄ちゃんがよく分からないことを言って、そこに鈴木の姉ちゃんがチョップを入れる、いつも通りのどつき漫才だったような。
あの時でもすっかり見慣れていたはずのそれが、何故かその日だけとても面白みを感じて、つい口元が緩んでしまった覚えがある。
鈍感なくせに変なところで目ざとい田中の兄ちゃんは、それを見逃さなかった。
『あ、お前笑ったな? 今にやっとしただろ?』
『……してない』
『いや絶対してたー! 奈美も見てたよな?』
『うん。可愛かった』
『ぼく、してない!』
『はい負け惜しみー! はっはっはー! 俺様の大勝利だ―!』
強く握り締めたシーツの感覚は、今も手が覚えている。
悔しかったんじゃない。俺は寂しかったから、あんなにも手に力が籠っていた。田中の兄ちゃんが今まで来てくれたのは勝負のため。勝敗が決まった以上、これで終わりだと思ったから。
だけどそうじゃなかった。
『明日はもっと面白いもの用意して来るからな! 覚悟しとけよ根暗チビ助!』
宣言通り田中の兄ちゃんは次の日も、その次の日も来てくれた。鈴木の姉ちゃんと一緒に、どこかの誰かとは違ってずっと来てくれた。
捻挫が治って、外へ遊びに行けるようになってからもそれは続いた。毎日ではなくなってもよく、本当によく来てくれた。
慣れる内にどちらか一人で来るようにもなって、変な勝負じゃなくても話すように、遊ぶようにもなって。
だから両方の顔を見なかった日は二人が高校を卒業するまで、それこそ旅行の日くらいしかなかったかもしれない。
「なんて感じで、気がつけばすっかり友達になっていたって話です」
「わー」
「ご清聴ありがとうございました」
何故七海ちゃんは拍手をしているのだろう。
どうでもいい疑問で、過去を話してじわじわ湧いて来た気恥ずかしさから目を逸らそうとする。
当然それではまったく耐えきれず、徐々に熱が耳に集まっていく。ここはもう、強引にお開きにしよう。
「とりあえず、今日はこのくらいで」
「えー、もっとお話し聞きたい」
「だーめ。二人のことを話すと、多分俺の恥ずかしい過去も暴露しちゃう」
「もっと聞きたい!」
「しまった、藪蛇だった」
予想以上に食いつく七海ちゃんをどうどうと宥めていると、不意に背後へ気配を感じた。うっすら開いた扉の隙間から、強い視線が突き刺さっている。
邪気は感じないけれど温く、いや滅茶苦茶熱くて濃い。鳥肌は立たないけれど、むずがゆさにいたたまれなくなる。
家の中なので、予想するまでもなく犯人は決まっている。
苦笑いの七海ちゃんに見送られながら、俺は部屋から出て犯人に事情聴取を行った。
「あの、反省しましたので、入れてもらえますでしょうか?」
「えー」
「えーじゃなくて、そこをなんとか」
揉み手をしながら俺の目を見ていた葵さんの視線が一瞬、ほんの僅か横にずれ、すぐに鋭くなった。
そして揉んでいた右手は俺の、もう片方は自分の額に当てる。
先ほどまでのにやけ面を捨て、葵さんはとても、極めて真剣な面持ちで熱を計っていた。
「……熱は、なさそうだね」
「俺は大丈夫だよ」
「うん。でも具合が悪くなったら、ううん、少しでも違和感があったらすぐに言ってね」
「平気平気。この通りすっかり健康体だから」
「……ごめんね。分かってるけど、どうしても心配になっちゃうんだ」
溜息を吐きながら葵さんは続ける。
「風邪は、熱は、簡単に人の命を奪うから」
その口調には、重い実感が籠っていた。
夕方、朝地神社近くの小学校、そのグラウンドに小規模な結界が展開されていた。
これはクリアガイアが形成した、魔法少女達が特訓をするためのものだ。
だが本日クリアオーシャンは風邪のため、クリアグレイこと耕太郎は妹の看病をするため欠席である。
よって姉と二人きりとなったクリアシャインが、今更遅い疑問を口にする。
「姉さん、思ったんだけど」
「何かしら?」
「あたしたちだけなら、わざわざ移動する必要なかったんじゃない?」
クリアガイアはそっと目を逸らした。
「……家の周囲で結界を張ると、私達の正体を誰かに見破られる可能性が」
「それ思い付き?」
「思い付きの理由よ」
基本的に意地っ張りの朝地姉妹だが、お互いのそれは熟知している。そのため二人きりの場合、張られたそれは大体ハリボテで容易く消滅する。
なら張るだけ無駄では、と耕太郎がいればツッコんでいた流れもなんのその。特に気にせず、クリアシャインは思い付きのまま続けた。
「そうそう、正体、正体の話。そういえば姉さん、いい加減グレイにあたしたちのこと話してもいいんじゃないの?」
「……どうして?」
「どうしてって。むしろあたしがどうしてって言いたい。だって姉さんだってもうグレイのこと、それくらいは信用してるでしょ?」
クリアシャインの推測は正しいが、不足している。
異性を深く恐れるクリアガイア、そんな朝地桜が自ら家に招いて二人きり、戸の閉じた部屋で過ごすことが出来る。それも非常に和やかな、安心した心地で。
その意味を、何も知らない朝地陽香に理解しろというのは酷な話だろう。
とにかく桜は耕太郎のことを誰よりも信頼しており、二人の正体を伝えたとしてもそれで彼自身が何か害を成すことはありえない。彼女はそう断言出来る。
だが、それとこれとは話が別だった。語れない理由はほかにもある。
そのため彼女は、その内一つをクリアシャインに伝えた。
「駄目。グレイはともかく、らびらびのことは信用出来ない」
「それはあたしも分かるけど。じゃああのウサギ縛り上げてどこかに放り投げて、その隙にグレイにだけ教えれば」
「それでも、駄目」
「なんで」
「なんでもなにもないわ。駄目なものは駄目」
「姉さんのケチ!」
地団太を踏みかねない勢いでそっぽを向く妹を、クリアガイアは後ろから抱き締める。
「姉さん?」
「……ごめんね、陽香。でも、知らないからこそ守れるものもあるの」
「なにそれ、そんな言い方ずるい」
「お願い、分かって。私は、貴方たちに傷ついて欲しくない」
姉の真意をクリアシャイン、朝地陽香が今理解出来るはずもない。現在の彼女には、それを察するための記憶がない。
それでも彼女は頷き、受け入れた。自分を抱き締める姉の腕に、言葉にならない思いを感じたからだ。
陽香は桜の腕に手を添えながら、ぼそりと囁きかける。
「……じゃあ、今日はずっとあたしの特訓見てくれる?」
「ええ、もちろん」
「やった! 最近姉さんってば、グレイの手伝いばっかりしてるから久しぶり!」
「あれは、彼が危なっかしいからで」
言い訳がましい姉の脇腹を杖で突っつき、それを叱られ追いかけ回され。
もはや特訓はどこかへ行ってしまったじゃれ合いの最中、ふと陽香の脳裏に疑問が過ぎる。
「にしても七海ってば、どうして普通にお休みしてるのかしら」
あの子なら風邪ぐらい、魔法使えばさっさと治せるでしょうに。
そんな独り言は夜空に、桜による説教の中へ消えた。