翌朝、仕事に向かうため靴を履き終えた後でも、葵さんの心配は止まらなかった。
「本当に平気? 私、今からでも休めるよ?」
「大丈夫だって。少し変な感じする程度だから」
「でもそういうのこそ風邪の始まりで」
今も俺と自分の額を同時に触り、懸命に熱を探っている。
七海ちゃんの時と同じく、どうにも風邪や病気が絡むと葵さんは過保護になる。
けれど昨日途中で打ち切ってしまった話と、夜帰って来てからの俺の様子。
我ながら傍から見れば頭を悩ませるような、様子を窺いたくなるような調子だっただろう。
むしろこれくらいの心配で済むだけ、葵さんは控え目にしてくれているのかもしれない。
そう考えられる程度には、俺も今朝は冷静になれていた。
不思議なことに支離滅裂だった昨日と比べ、思考ははっきりと、心もとても落ち着いている。一晩ぐっすり寝られたからかな。というか、そもそも眠れたこと自体が意外だったのだけれど。
こうして俺は身体も心も割と元気に、少なくとも学校を休むほどではなくなった。それなのに半分嘘まで吐いて、わざわざずる休みする理由は。
「今日はちょっと、一人で考え事したいな、みたいな」
「……そっか」
ずるい言い回しだけれど、確かな本音でもある。一人ではないけれど、実際にこの後考え込むつもりではある。
葵さんはひとまずそれで納得してくれた。なので続いて話しかけるのは、昨日から引っ付き虫と化した子だ。
その子、七海ちゃんはランドセルを背負った状態で、さっきから俺の背中にへばりついている。
「七海ちゃん?」
「……いってきます」
「いってきますの体勢かな、これ」
「……」
「はい、ごめんなさい。いってらっしゃい」
お腹に回された手を撫でつけても、何回か声をかけても、七海ちゃんに離れる気配はまったくない。むしろ抱きつく力は強くなっているような。
困って葵さんに目配せして、優しい微笑みを返されてなお困って。
やがてぐりぐりと頭を押し付けてから、七海ちゃんがぽつりと問いかけて来た。
「……帰って来たら、おかえりなさいも言ってくれる?」
「うん。それは、もちろん」
「じゃあ私、頑張って早く帰ってくるね」
背中を解放したと思えば、もう一度正面から抱きついて来てそう言って。ようやく七海ちゃんは玄関から飛び出して行った。
俺よりもよっぽど情緒不安定で心配になる。七海ちゃんこそ休むべきだったんじゃ。
そんな心配をどうも葵さんもしていたらしい。俺と同じような目で、真剣な面持ちで閉じた玄関を見つめていた。
「こうくん」
そしてその眼差しを今度は俺に向け、硬い口調で尋ねて来る。
「私もななちゃんと同じこと、していい?」
「……はいはい。お好きにどうぞ」
「やったー!」
半分誤魔化し、半分本心だろうお願いに、俺は両手を広げて答えた。
葵さんはもう靴を履いているから、土間の段差分いつもより背が低くなる。だから今回は俺が胸を貸す感じになる。
七海ちゃん相手にしかしたことがない姿勢だから、あとは昨日のこともあって、どこか落ち着かない気持ちにはなる。けれど反対に、同時に心が安らいでいくもの感じる。
大きな声では言えないけれど、昔から人の温もりは好きだ。誰かに触れている間だけは一人の寒さを忘れることが出来る。
「ね、こうくん、血は水よりも濃い、なんて言葉があるけどね。血より濃いものなんて、世の中にはたくさんあるんだよ」
「……うん」
「私と、私たちとこうくんの血の繋がりは、普通の家族よりとても薄いのかもしれない。だけどそんなに遠い血でも、もし全然繋がっていなくても、愛があれば家族にはなれる。私も昔教えてもらったこと、こうくんにも伝えていきたいんだ」
優しく穏やかに、それでいて力強く葵さんは断言した。
それから俺を解放し、にっこりと温かい笑みを浮かべながら玄関に手をかける。
「なんてね。じゃあ、いってきます!」
「いってらっしゃい、気をつけてね」
葵さんも見送ってから深く息を吐く。
最後の話に俺は、いや最初から、二人に平静な対応を出来ていたのか。
自分ではなんとかやり過ごせていたとは思う。昨日よりよっぽどマシだったとは思う。
でもあんなに心配してくれた、今日も顔を曇らせていた二人からしたら、はたしてどうだったのか。
さっきから上の方に感じていた、ちょうど前に降って来た気配に問いかける。
「らびらび、俺、ちゃんといつも通り出来てた?」
「四十点ぴょん」
「厳しー」
「これでも及第点ぴょん。君はよく、本当にいつも、ずっと、昔からよくやっているぴょん」
労うように、らびらびは噛み締めるようにそう言った。
なんとなく疲れが見える相棒に、俺は分かり切っている質問を続けて投げかける。ここにいる時点で答えは決まっているのに。
「らびらび」
「ぴょん」
「あの人は、起きた?」
「……ああ」
どうやら一人で考えるまでもなく、らびらびと動くことになったようだ。
らびらびが昨夜案内してくれた安全な場所とは、市内にある高級ホテルだった。
駅に近いそのホテルの名前は『グランドパレス神野』。字面通りここも神野家、神野グループの関連会社だ。暗黒金持ち一家らしく、ホテル業界にも手を出しているらしい。
昨日初めて訪問した時はまったく意識しなかったけれど、入り口のホールからして格調高い気配がある。大理石の床や壁の絵画に額縁、この間元神野家、現財前の家で感じたものと似た雰囲気を覚えた。
そのホールを無造作に進み、受付のお姉さんに会釈をしてからエレベーターに向かう。らびらびは鍵を持ち歩いているから、いちいち手続きもしなくていいそうだ。
ホテルなんて泊まったことないからいまいちピンとこない。けれどわざわざ説明する辺り、きっとこれは特別なことなんだろう。
そもそもウサギもどきがどうして受け入れられているんだ、という疑問には一旦蓋をしておく。今ここで訳の分からない問題を更に増やされても困る。
エレベーターで到着した三十三階、ここの一室がらびらびのアジト、のような場所らしい。
気まぐれに途中で調べたら、どうもスイートルームとのこと。図体に反して部屋が広すぎる。四畳半でも持て余しそうなのに。
廊下で従業員らしきお姉さんに挨拶しながら歩くと、とうとう目的地に到着してしまった。
「道中にも話したが、彼女には既にある程度の事情は伝えている」
あの人が本当ならもう亡くなっていること。それが不思議な力で現世に呼び出されたこと。自分はその不思議な力、魔法に関わる者だということ。
夜明け頃に一度目を覚ました時、らびらびが軽く説明したそうだ。
その時反対に、らびらびは向こうから話も聞いた。
自分が死者だという自覚はないこと。あの人目線で今が十四年後ということ。色々含めて聞いて、らびらびの話を最終的には信じたということ。
心中については、そもそも聞いてすらいないらしい。
理由を求めて睨みつける俺に対し、らびらびはあくまでも冷静に答えた。
「いくらイデアの欠片であっても死人を、まして十数年前に亡くなった人間を蘇らせることは出来ない。つまりあの悠乃は彼女が生きていた時期から、過去から連れて来られたと考えていいだろう」
「……まだしてないから、あの人も心中なんて分からないってこと?」
「その通りだ。仮に計画でもしていれば話は別だが、それはありえない」
「断言しちゃうんだ。てかそもそもさ、あの人ってどこの世界の人なのかな。この世界か、元の世界か」
「元の世界?」
「前も言った男女比がどうのこうのとかない世界。俺の記憶はそっちで、でもあの人はこっちの世界で呼んだんだから、あの人はこっちの世界の人の可能性もあって。つまりはあの人は、俺の知っている人と違う歴史を歩んでいるかもしれないでしょ?」
「ややこしい話だが、それは改めて聞けば確認出来るだろう」
らびらびは回りくどい俺の話を打ち切ると、一言で取るべき行動を伝えた。
「とにかく、まずは彼女と話してみなさい」
間違いなく正論で、こうしてうだうだと部屋の前で悩んでいてもどうしようもない。
それは分かっている。分かっているのだけれど、話せと言われても困ってしまう。
「俺、あの人と何話せばいいと思う?」
「それは、耕太郎の話したいことを」
「分かんないよ、話したいことなんて。だって俺、あの人のこと写真と聞いたことしか知らないし。それに向こうからしても、俺デカくなりすぎてるし。もしいきなり息子だ、なんて俺が名乗っても、そんなの絶対困るだけで」
「……彼女を信じてくれ」
深く頭を下げながら、らびらびは重々しく続けた。
「耕太郎に無理なことを、とても酷なことを言っているのは、重々承知している」
「分かった」
「だがこれだけが二人が救われる唯一の、え、分かったのか?」
「うん。信じてみる、らびらびのこと」
このウサギもどき、自称天使すら恐らく嘘な目の前の生き物は、偽りばかりの出まかせお化けだ。
けれどその噓偽りは多分、ほとんどが俺のために吐いているものだ。その効果とか目的とかは分からなくても、これまでの態度や出来事でなんとなく、それくらいは察しがつく。
だから、らびらびが嘘だらけでも、言うことが信じられなくても、俺のためという気持ちだけは信じることが出来る。
「お母さんのことは、らびらびの言う通り正直難しいけど。でも、らびらびがそこまで言うなら、なんとか頑張ってみる」
「……」
「らびらび?」
「……」
「うわ落ちた。駄目だ、とうとう壊れたか」
らびらびはフリーズしたあげく、突如空中から落下して動かなくなった。
それほど俺が信じると言ったのは予想外のことだったらしい。
「じゃ、じゃあ、ほら、行くよっ」
俺も俺で、なんだか気恥ずかしくなって、勢いで部屋の入口を開けてしまった。ノックもせずに突入し、らびらびを抱えて奥へ進んでしまった。
それが間違いだったのだろう。
『リンパがですね』
「おー、ほんとにこういうこと言うんだ」
『いやいやだから、リンパがですね? ここに流れてましてね?』
「あはは、凄いゴリ押し。そこ骨しかないよー」
家のよりも格段に大きなテレビを指差し、その人はけらけらと笑っている。
その画面には、肌色が多く映っていた。
一回も見たことがないけれど、かつて田中の兄ちゃんから概要は聞いたことがある。あれがきっとその、噂に名高い、全国のホテルにあるというえっちなビデオだ。
田中の兄ちゃんが修学旅行中クラスメイトと一緒に見て、先生にバレて、見事二時間正座させられたという、あの。
なんで見てんだよとか、高級ホテルにあんのかよとか、多くのツッコミが脳裏に過ぎっては消える。
けれどまったく、欠片も予想だにしていなかった光景に、身体は完全に止まっていた。
「……」
「あ」
「……」
目が合って時も止まった。
向こうはテレビの電源を切った後、じっと俺を見続けている。らびらびは未だ動かない。俺はこの状況にどう反応すればいいのか分からない。
それでも数十秒かけて、なんとか一言絞り出す。
「………………何してるの?」
「社会勉強、かな」
月原悠乃さんはキメ顔でそう言った。なんだこの人。
少ししてからようやく、本当にようやくらびらびは再起動を果たし、怒涛の勢いで場を整理し始めた。
座る場所の用意して、ルームサービスでお菓子の注文をしてお茶も淹れて、それから変なもの見てた人へのお説教までして。最後が一番長く手が込んでいた。
何故か俺がそれを仲裁しつつ、簡単な自己紹介もしつつ、部屋にある大きなソファーにそれぞれ腰を下ろす。
対面に座った人は明るい笑みを浮かべながら楽しそうに、朗らかに語り出した。
「いやー、変なの見せちゃって、改めてごめんね? 緊張誤魔化そうとテレビ弄ってたら、いきなり出て来てさ。男の子と女の子が入れ替わっててもあんなのあるんだね。妙にシュールでつい見入っちゃった」
「……」
「あー、そう、このうさぎさん、らびさんから話は聞いたよ。私、幽霊なんだってね」
「……」
「それにしてもほんとにいるんだね、幽霊。しかも自分がなるなんてびっくり。まだこんなに立派な足が二本も生えてるのに」
「……」
「あ、立派な足で太さを想像した? やーねー、日本語って難しいねー。ほらほらこの通り、私の足はカモシカのように美しいよ! しなやか!」
「……」
一人で滅茶苦茶喋るな、この人。
どうしよう。お母さん相手にどう話せば、とか悩む以前に、この人一個人として凄く面倒くさい人かもしれない。
しかも話の流れで男女がどうこう言ってる。だからこの人多分俺と同じ世界の人だよ。こんなんで分かっちゃったよ。
昨日から構えていた緊張とか悩みとかが軒並みやる気をなくしていく中、それでもなんとか気力を振り絞る。
「……あの」
「あ、質問? いいよー、どしどしどんどん、なんでも聞いて!」
「ごめんなさい。その、とても失礼だと思うんですけど」
「いいよいいよ! 私なんていつでも誰にでも無礼講だから!」
「貴方は本当に、月原悠乃さん、なんですか?」
ドストレートな非礼に、目の前の人は大げさなほど大きく首を傾げた。
「……哲学?」
「あってるけどそうじゃなくて。パーソナルというか、人格というか」
貴方は本当に俺のお母さんなんですか?
名乗ってそう聞けばいい。そうすれば全部終わる。遠回りにする意味なんてない。
そのはずなのに、俺の口はまったく違うことを言う。
「と、時枝葵さんの、お姉ちゃんなんですか?」
時枝かぁ、なんて感慨深げに口の中で転がしてから、にやりと勝気な笑みを浮かべた。
「あーちゃんは従妹だけど、いや、私たちの圧倒的な絆を前に、血の繋がりなんて些細なことか。うん、あーちゃんは実質私の妹だよ。いわば、ソウルシスター、だね」
「はあ」
「Soul sister」
「うっぜ」
ドヤ顔と発音のあまりのうざさに、ついつい口から本音が零れ落ちる。
気を悪くしたかな、いきなりこんなこと言って嫌われたかなとか。いやでもうざかったし、絡み方面倒くさいしとか。不安や自己弁護が無数に頭を流れて回る。
そんな俺の悩みを全部無視して、目の前の人は心底楽しそうに笑った。
「あはは、いいね、そのノリ。変に丁寧頑張るより、そっちの方が私は好きだよ!」
「……うざ」
「うーん、つんつんしてて可愛い! 最高! 天使!」
「男に天使って、舐めてるでしょ」
「まあね! 宗教全般舐め腐ってるよ!」
「じゃあそれ、誉め言葉じゃないじゃん」
「………しまった!?」
がーん、なんて擬音を出してそうな素振りで視線を移したのは、さっきから黙って見ていてばかりのウサギもどき。
らびらびは腕を組んで顔を伏せた後、とても大真面目な声で変なことを言った。
「九十八点、というところか」
「漫才やってた訳じゃないんだけど。採点求めた訳じゃないんだけど」
「むむっ、惜しい。らびさん、二点減点の理由は?」
「なんでそこ乗るの?」
「宗教ネタは危うい。特に挑発なんてしたらBPO的にアウトだ」
「……なるほど、確かに。もうちょっとマイルドにすべきかぁ」
「なんで真剣に考えてるの?」
急に漫才を始めた変な人と生き物を見て呆れたんだか疲れたんだか、とにかく力が抜ける。本当にもう、緊張なんてしているのが馬鹿らしくなってきた。
「……なんかもう疲れたから、らびらび、しばらく相手して」
「それは、私に悠乃の相方を頼むということか?」
「なんでもいいよ」
なんで漫才感引きずってんだよ、というツッコミすら面倒くさい。
とりあえず真面目な空気作り直してくれないかな、という微かな願いはあっさりと裏切られた。
「と、ということだから、その、この子の代わりにはならないだろうが、ぜひ私と」
「なんか言い寄り方がキモイな……」
特に必死さがキモイ。汗腺のあるまともな生き物なら脂汗に塗れていそうだ。
そんな動きのせいか、はたまた別の理由があったのか。返事は拒絶だった。
「ノー」
「えっ」
「貴方、浮気者の気配する。私、ノー」
しかも何故かカタコトだった。
「……振られた」
「どんまい」
女遊びは百戦錬磨だぜ、みたいな空気をたまに出していたこの謎の生き物は、どうやら実戦ではこれほど弱かったらしい。田中の兄ちゃんと同じイメトレ勢、CPUにだけ強いタイプなのかもしれない。
珍しくめそめそしているおじさんを慰めている光景を、斬り捨てた犯人は何故かにまにまと眺めていた。
小動物、じゃないし、か弱い生き物、でもないか。奇妙な生命体を虐げる特異な趣味を持つ可能性が浮上してきた。
そんな疑惑を持たれていることなんて露知らず、この人はご機嫌そうに窓際へ進んでいく。
「ねぇねぇ、私幽霊だけど、日光って浴びても平気?」
「それは、平気だと思うけど、どうなの?」
「幽霊はあくまでも例えであり、今の悠乃は生身の人間と変わらない。日光はむしろ、浴びた方が健康にいいだろう」
「じゃあ私、外行きたい!」
そしてカーテンを勢いよく開き、大きな窓から街を見下ろしながら高らかに宣言した。
「外歩いて、ジェネレーションギャップ感じたい! 今ならタイムマシーンの事故に巻き込まれた感出せると思うんだ!」
「求めるものが独特だ……」
「そう、今の私はまさに時をかける少女!」
「……少女?」
「心はいつまでもね!」
享年が二十七だったから、もう少女を名乗るのは厳しいような。
女の子はいつまでもお姉さんだからね、なんて鈴木の姉ちゃんの教えも今は無視。なんか、なんかこう、血の繋がった母にその手のフォローをするのはこう、抵抗感が強い。
俺は謎の葛藤をしているから、らびらびも何か考え込んでいるせいで、誰も何も言わない。
この数秒ほどの沈黙で、どうやら了承されたと受け取られたようだ。瞳が星のように輝きだす。
「駄目って言わないならオッケーってことだよね、なら早速ゴーしようか! 楽しいことは待ってくれないよ! さあ、二人も早く準備して!」
「わ、私もか?」
「もちろん! せっかく三人なんだから、三人で楽しくした方が絶対面白いよ!」
無邪気に断言する様は、なるほど確かに少女なのかもしれない。
さて、時間の関係だったのか、それとも何か考えがあるのか。らびらびがこの人に伝えていないことは心中の他にもいくつかある。
「だから、ぐーちゃんにも付き合ってもらえると嬉しいな!」
その内一つが俺のこと、今ここにいる俺の素性だ。