一晩経って週末、土曜日になった。おかげで今日はずる休みせずに済む。
今日も朝からホテルに向かったはずの俺はお昼過ぎに引き返し、家の前で所在なく立ち尽くしていた。
その原因が悪戯っぽい笑顔で時枝家のインターフォンに語り掛ける。
「もしもし、時枝さんのお宅ですか?」
『はい』
「おぉ」
『……? 失礼ですが、どちらさまでしょうか』
「あーちゃん、よそ行きの声上手くなったねー。凄い奥様、お母さんって感じする」
『……え?』
「この声だけでも分かるお色気感。妹じゃなくてお嫁さんにしたくなっちゃうなぁ」
『ちょ、ちょっと待ってください、待って!』
家の中からバタバタと、玄関に向かって駆ける音が聞こえる。
明るく元気に振る舞いながらも、いつもおしとやかさを忘れない葵さんからは想像も出来ない慌てぶりだ。転びそうで心配になる。
幸い事故が起きることはなく、扉は勢いよく開け放たれた。
「悠乃、お姉ちゃん……?」
「やっほー、お姉ちゃんだよー」
「え、な、えっ?」
「やー、びっくりするよねー。なんか私、うっかり地獄から迷いこんじゃったみたいでさー」
呆然とする葵さんに対し、この人はにっこりと笑みを返した。
困惑する葵さんに招かれるまま、俺達三人は家の中に入る。
普段暮らしている家でお客様として対応されるのはなんだか妙な心地だ。
リビングに足を踏み入れて目が合った瞬間、文字通り跳びはねた七海ちゃんの姿で余計にそう思った。
そんな慌ただしい雰囲気の中、らびらびは平然と、簡潔に事情を語った。
とある事故により死者が、月原悠乃が現世に現れたこと。無用な混乱を避けるため、専門家である自分が対応しているということ。今日は彼女の望みを聞き、妹の様子を見に来たということ。
嘘は言ってない、と思う。
「ということだ」
「は、はあ」
「葵が理解に苦しむ気持ちは分かる。だが、理解する必要はない。そういうものだと受け入れてもらえれば十分だ」
「らびらびさん自体が、結構な驚きなんですけれど」
宙に浮かぶ胡散臭いウサギもどきを前にそれで済ませるあたり、葵さんの度量はとても大きい。
ただ、大きいのもあるけれど、この変なのよりもずっと気になる存在がいるからだろう。
一人悠々と、にこにことお茶を楽しむその人の様子に、葵さんは訝しげな視線を送る。
「本当に、悠乃お姉ちゃんなんだよね?」
「ふふん。この見慣れた顔を見れば分かるでしょ?」
「顔は証拠にならないよ……」
「あー、綺麗過ぎて人工物だと思われちゃうのかな?」
「常識と法的にだよ」
普段はボケをかます葵さんも、この通りツッコミに回っていた。力関係が見て取れる。
この慣れたやり取り、きっと二人は昔からこうだったんだろう。こう、漫才的に、ソウルシスター的に。
そんな風に訳の分からない思考に逃げるのは、さっきから視線が突き刺さっているから。
「……」
滅茶苦茶七海ちゃんに見られている。らびらびと俺を凄い見比べている。穴が空きそう。
七海ちゃんは可愛いものが結構好きだから、見た目だけはそれなりのウサギもどきに興味があって、ではないと思う。なにせ圧が凄い。目が、瞳孔が開いている。
あまりの怖さに対応を迷う。時間稼ぎとして俺もお茶に口をつけた時、ちょうど救いの手が横から伸ばされた。
「ねぇねぇ、君が七海ちゃん?」
「あ、は、はいっ、七海ですっ」
「じゃあなーちゃんだね! 私は月原悠乃。あーちゃんの、なーちゃんのお母さんのお姉ちゃんだよ!」
「よ、よろしくお願いしますっ!」
呼ばれて肩を跳ね上げて、勢いよく頭を下げる姿は今日も愛嬌が凄い。
似た感想を覚えたのか隣の人は頬に手を当て、にへらと思い切り表情を崩した。
「やー、なーちゃんって可愛いねー」
「そ、そうですか? 私、そんなこと」
「そんなだよ、もっと自信持って! 見れば見るほど、子供の頃のあーちゃんそっくりで可愛い! ……いや待って、むしろあーちゃんより格段に上かも。このほわほわしたほのぼの感から生じる癒やし波動は、昔の辛気臭いあーちゃんじゃ絶対出せなかったし」
「あ、あの?」
「……これは、あれだね。なーちゃんも今日から私の妹ということにしよう」
「えぇ!?」
また凄い好き勝手に喋ってる。七海ちゃんは置いてけぼりだ。
葵さんも娘が面倒な人に面倒な絡み方をされ、さぞ困ってると思いきや。
「この一人で勝手に爆走していく感じ、間違いなく本物の悠乃お姉ちゃんだ……!」
目を輝かせて興奮していた。しかもお墨までつけられてしまった、一番説得力ある人に。
「じゃなくて、ななちゃんが困ってるからやめて」
「おっと失礼。ごめんね? 可愛い子にはついついちょっかい出したくなっちゃうんだ」
「あ、は、はい、大丈夫です、びっくりはしちゃいましたけど」
驚いたのはよく分からない人の勢いと葵さん、お母さんのよく分からない反応の両方だろう。俺も内心同じ感想だ。
それを葵さんも察したのか、咳払いと共に真剣な面持ちを取り戻した。らびらびとは大違いだ。
「とりあえず、本物の悠乃お姉ちゃんだと信じます」
「いぇーい!」
そんな軽い喜びを表したのも僅かな間、葵さんの表情に気づき、こちらも佇まいを整える。
「……こうくんのことは、もう聞いてる?」
「うん。今はあーちゃんがお母さんしてくれてるって、らびさんが教えてくれた。ありがとう、あーちゃん」
「お礼なんて。私はずっと、全然こうくんの力になれてなくて」
瞳を伏せる葵さんに、俺は何を言えばいいのか分からなかった。そもそも、今の俺はこの話に口を挟めるはずもないのに。
「それでね、今日はこうくん、家にいないんだ」
「お出かけ中?」
「うん。この間家族のことを、お姉ちゃんと雷蔵さんのことを話してから、家を離れることが多くなって。こうくんも色々悩んでいるんだと思う」
「……そっか。こーちゃんも、今はゆっくり考えてるところなんだね」
目を硬く閉じ、一度深呼吸をする。ちらりと一瞬、横目で俺を見る。
それから、この人はとても力強く宣言した。
「だとしても、私は早くあの子とお話をしなきゃいけない。きっとそれが、今更地獄から迷い出て来た理由だから」
しん、とリビングの空気が張り詰める。
重たい、口を開きにくい雰囲気だ。七海ちゃんなんて俯いて、少し肩を震わせている。あの分だと多分両手を強く、きつく握り締めている。
どうしようかと迷う俺とは裏腹に、らびらびはあっさりとその沈黙を破った。
「なら、私達が耕太郎を連れてこよう」
「え、ちょ、らびらび?」
「恐らく数分もかからないだろうから、このまま待っていてくれ」
しかも衝撃的な発言で。
何を言っているんだこいつは、という抗議を胸に抱え、連れられるまま外に出る。
ここなら皆には聞こえない。だからさっさと文句を言ってやろう。
そんな目論見を果たすよりも早く、らびらびは俺に容赦のない追撃を加える。
「さて耕太郎、早く変身を解きなさい。悠乃と話す時間だ」
「いや、は? え、いきなり過ぎるでしょ!? 大体、らびらびも二人はまともに話せないとかどうとかって昨日言ってたじゃん!」
「昨日の雰囲気からして大丈夫だろう、多分」
「多分!?」
「二人とも真面目で優しいのはいいんだが、相手を想うと足踏みするところまで似ている。しかし無駄に過ごす時間がない以上、私も背中を蹴り飛ばさざるを得ない」
やれやれ、とでも言わんばかりに肩を竦めながら、らびらびは続けた。
「大体、得てして隠し事というのは隠せば隠すほど打ち明けにくくなる。私も最近実感していることだ。言わぬが花はもう時代遅れ、現代はとりあえず勢いで言っておけの方がいいだろう」
「さっきから適当過ぎるんだけど!」
俺の文句は一切通じていないようで、らびらびは勝手に納得したような素振りを、腕を組みながら一人で何度も頷いていた。
その余裕綽々な態度に苛立ちを覚えていると不意に身体が、纏う衣服が光を放ち始めた。
これは今まで数え切れないほど見て来た光景、変身解除の前兆だ。
「て、うわこいつ、本当に強制解除始めやがった!」
「耕太郎、言葉が汚いぞ。君がそれだと悠乃も驚く。少し気を付けなさい」
「言わせてる側が言うことじゃなくない!?」
「確かにそうだな。だがそれはそれ、これはこれだ」
そうしてあっという間に変身は解除され、俺は生身に戻っていた。
変身を防がれたことはあるけれど、実際に強制解除されるのは初めてだ。
そのことに驚く間もなく、今度は何か強い力に背を押されて足が勝手に動く。
らびらびが俺の背中に回っていた。
「しかもこいつ、意外と力が強い!? え、何、あの貧弱っぷりは演技だったの!?」
「大人の男には隠し事があるものだ」
「さっきそれ、隠し事やめろって話してたじゃん! てか聞き忘れてたけどこの間のあれ、『眠れ』ってやつ、あれの話もまだ聞いてないんだけど! らびらびって魔法使えないんじゃ」
「大人の男には隠し事があるものだ」
「本当に雑だな、今日!」
向かう先の扉も謎の力、恐らくは魔法によって開けられて、俺は勢いよくリビングへ押し込められた。
おかげで注目が集まる。特に七海ちゃんと葵さんは揃って目を丸くしていた。
「……おかえりなさい?」
「た、ただいま」
そう言ってから後ろを睨みつけても、らびらびはもういない。脱兎、逃げ足が速い。
苛立ちを誤魔化そうとため息を吐く俺に、葵さんはおずおずと声をかけて来る。
「あのね、こうくん、実は」
「……さっきのあれ、らびらびから大体聞いてるから」
返事をして見上げた先で、目が合った。
「……」
「……」
クリアグレイとしては、もう何度も話した。それどころか昨日は一日一緒にいた。
にもかかわらず、俺として向かい合うと何を話していいのか分からない。
らびらびは嘘吐きだ。多分平気だなんて、全然そんなことない。
歯を食いしばる俺と、じっとこちらを見つめる向こう。先に動いたのはあっちだった。
音もなく立ち上がってすぐ、俺に対し深く頭を下げる。
「ごめんなさい、耕太郎」
「それは、何を謝ってるの?」
「……耕太郎を置いて行ってしまったこと」
そして瞳を揺らしながら、なおも続ける。
「らびらびさんも、葵も、最近の耕太郎については嬉しそうに話してくれる。でも、誰も私が死んだ直後のことは、死因も教えてくれない。だからきっと私はろくでもない死に方をして、耕太郎を傷つけてしまったんだと思う」
「……俺と、心中しようとしたらしいよ」
「心、中?」
幽霊でも見たかのような、ありえないものを見聞きした時特有の、ぼんやりとした復唱だった。
けれど理解が追い付いた瞬間、その顔が蒼白に染まる。
「……そんな、それじゃ、こーちゃんはそのせいで」
そう呟いてから、数秒か数分か、どれだけ沈黙が続いたのかは分からない。
とにかくそれを破ったのは、静かに溢れ始めた涙だった。
頬に伝ったことでようやく本人も気がついたのか、慌ててそれを拭おうとする。
「あ、あはは、ご、ごめんね? もっとちゃんと、言わなきゃいけないこと考えてたのに。急に、謝ってる途中にこんな、びっくりしちゃうよね」
けれど何度拭ってもどれだけ抑えても、涙が止まることはない。
「ごめんね、ちょっと待って、すぐ、すぐに止めるから」
その光景を前に、ぼんやりと思った。
元々、お母さんのことはそこまで憎くなかった。
お母さんはお父さんに裏切られ、傷つけられた可哀想な人。俺諸共死に走ったのは、それで心が壊れてしまったから。そう思っていた。
好きな人を、愛した人を失うのはとても怖いこと、何よりも苦しいこと。しかもそれが裏切りによるものなら、果たしてどれほどのものになるのか。
裏切り。きっとそれは人が一番してはいけないことで。信頼を踏みにじられた人が怒り、悲しむのは当然のことで。信頼が、愛が、期待が、気持ちが重ければ重いほど、その人の心を蝕んでしまうのだろう。
俺も経験する前から別れが恐ろしかった。してからは、一層強くなった。だから、お母さんのことも哀れで弱い被害者だと思っていた。
もっとも現実のお母さんは、そんな甘い予想とはまったく違う人ではあったのだけれども。
それに、何より。
『あ、あの、こーちゃん見てませんか!?』
あの日あの時、薄暗い結界という訳の分からない場所で。異様な格好をした、知らない人間に囲まれた状況で。しかも意識が朦朧とするほどの高熱の、命も危ないような状態で。
それでもああして、俺を必死に呼んでくれて。
まだ何も分からなくても、たとえ一言も口を利いていなくても。あの瞬間にはもう、俺はこの人のことを全て許していたのかもしれない。
だからポケットからハンカチを取り出して、一歩踏み込む。
「……はい」
「こーちゃん?」
「……拭けば、これで」
押し付けるように差し出しながら、目を逸らしながら告げる。
「泣きっぱなしはみっともないよ、お母さん」
その時お母さんがどんな顔をしていたのか、俺には分からなかった。
結局ハンカチは受け取ってもらえず手の中にあって、代わりに強く抱き締められたから。
懐かしい匂いがした。ずっと昔に失くした、大好きだった毛布と同じ匂いがした。
顔が押し付けられた肩は熱く、服がじわりと濡れていく。
「……大きくなったんだね、こーちゃん」
だから涙は流れたままだったと思うけれど、その声はもう泣いていなかった。
あの後、葵さん主導の下で宴会染みた騒ぎとなった。
お母さんの来訪記念というか、俺と仲直り出来たお祝い的な、そんな名目で。
それでご馳走を買ってきたり一緒に作ったり、あとは葵さん秘蔵の玩具で遊んだり。とにかく遊びに遊んで夕方どころか夜になって。
その残骸は今、お母さんの膝の上で寝っ転がっている。
「ななちゃん、こうくん、天使、可愛い」
「私はー?」
「悪魔」
「なんだとー?」
お母さんに頬を強く突かれ、葵さんは呻いた。完全に酔い潰れている。
いつも葵さんが俺達に向けるような笑みを浮かべながら、お母さんは呆れ交じりに呟いた。
「あーちゃん、ますます酒癖悪くなったなー」
「ますます? あんなに酔ってるところ、初めて見たけど」
「私と違ってあーちゃんはいい子だからね。子供の前で酔い潰れるまで飲んだりしないよ」
「……でもお母さん、そんなにお酒飲んでないみたいだけど」
「今日くらいはね。こーちゃんの前でカッコつけたい欲が勝ったから」
飲まないだけで言うほど格好いいのか、という問いは呑み込んでおいた。言えば絶対面倒な反応をする。
これが懸命な判断だったらしく、さらりと話題は流れて七海ちゃんの方へ水が向く。
「ありがとう、なーちゃん。どれもすっごく美味しかった」
「こちらこそ、ありがとうございます。喜んでもらえて、嬉しいです」
「うんうん、ほんとにいい子、あーちゃんの言う通り大天使だ。どれ、ちょっと背中見せてみ。ほんとに羽生えてないか、お姉さんに確かめさせて」
「セクハラはやめなさい」
「あ痛!?」
母だけど、母だからこそアウトの言動だ。責任をもって頭を叩いておく。
わざとらしく叩かれた場所を摩りながら、お母さんは七海ちゃんに問いかけた。
「ところで、なーちゃんはあーちゃんに料理教わったの?」
「は、はい。一緒にしたり、レシピ書いたりしてもらって」
「そっか。なら私も頑張った甲斐があったよ」
なんでこの人が胸を張ってるのか。
俺達が同時に覚えた疑問に、お母さんは鼻高々に答えた。
「何を隠そう、私があーちゃんの師匠だからね」
「そうなんですか?」
「ふふん、料理以外にも他の家事とか、あとは護身術とか勉強とか。人として大事なこと以外は大体私が叩き込んだよ」
「……人として大事なことって?」
「倫理観とか常識とか? その辺はむしろ私があーちゃんから貰ったものだから」
「あー」
「あはは、納得されちゃった」
聞いた話とこの一日二日で分かる通り、お母さんは大分滅茶苦茶な人だ。葵さんもさぞ苦労したことだろう。
そんな苦難の積み重ねとかもあって、今日はこれほど酔い潰れているのかもしれない。
「う、お、お姉ちゃん」
「んー、なにー? お姉ちゃんなんでも聞くよー?」
「吐きそう」
「よし急ごう」
膝の上の葵さんを迅速に、かつ優しく立ち上がらせた後、お母さんは肩を貸してトイレへと直行した。
きっとこの先、トイレは戦場になるだろう。
ここでその合戦の音を聞くのは忍びない。そして疲れて茹だった頭を冷やしたい。
「ちょっと、外の空気でも吸って来ようかな」
立ち上がった瞬間、腕に微かな、ここ最近慣れた抵抗を感じた。
七海ちゃんが俺の袖を引いていた。
「あ、その」
引いた本人がこれほど目を白黒とさせ、その上しどろもどろになっている辺り、無意識の行動だったんだろう。
見回せば今もリビングにはついさっきまでの名残、お祭り染みた雰囲気が残っている。ここに一人残されるのは、落差もあって寂しくなってしまうかもしれない。
だから引かれていない方の腕を差し出して、七海ちゃんを誘ってみる。
「七海ちゃんも行く?」
無言で手を取った七海ちゃんを伴い、コートを拾ってから外へ出た。
暖房の効いた、御馳走の香りが漂う家とは全く違う空気だ。冷たく乾いた空気が頬を刺す。コートだけじゃなくてマフラーも必要だったかも。
吐いた息が白く染まって空に昇る。
それに釣られて夜空を見上げると家の明かり達と電灯が、その先にはぽつぽつと星が、そして白い月が輝いていた。
結界の中とは正反対の光、神秘的で美しい輝きに、思わずため息が漏れた。
「おー、今日は星も月もよく見えるね」
「……冬の方が寒くて、空が澄んでるから見やすいんだって」
「そうなんだ。七海ちゃん物知り」
湿度がどうのこうの、なんて田中の兄ちゃんも昔言っていた覚えがある。
二人で並んで、黙ってなんとなく空を、星と月を眺める。
綺麗だなー、なんて無邪気に思えたのはほんの僅かな時間。冷えた空気に慣れるにつれ、思考は余計な方向へと流れていく。
「心中、か。本当にどうして、あんな人が」
お母さんは俺の想像とはまるっきり違う人だった。
ずっと空想していた世を儚むタイプの人ではなくて、むしろ人生全てを楽しんでいるような、生命力に満ち溢れている死とは程遠い人だった。
だからこそ分からない。どうして心中なんてしたのか。もしくは、したことになっているのか。
「あ、あー、ごめんね? いきなりまたこんなこと言い出して」
気がつくと、俺の独り言を聞いた七海ちゃんがじっと俺を見上げていた。
明るい星空を見ていた反動か、俺の影に入っているせいか、その表情は窺い切れない。
けれど七海ちゃんはあの時、葵さんを交えて話していた時も、当たり前だけど心中について大きなショックを受けているようだった。
「結局全然分からないから気になっちゃって。お母さんも心当たりないって」
「あるよ」
言い訳の途中、予想外の声が挟まる。
「私は、あるよ」
七海ちゃんはそう繰り返した後、虚空に手をかざした。
「来て、クリアシフター」
現れたのは青い魔法陣、そして見慣れた杖。
絶句する俺の前で、七海ちゃんは静かな口調で詠唱を続ける。
「コール『フロスト』、アクセス。シフト・オン」
青く輝いたのは、姿が変わったのは、ほんの一瞬のことだった。
「七海、ちゃん?」
輝きが治まった後、青の魔法少女が立っていた。
七海ちゃんよりは全然見慣れていなくて、けれどクラスメイトよりはずっと慣れ親しんだ、頼りにしている仲間の一人。
クリアオーシャンが、儚い微笑みを携えてそこにいた。
「実は、私がクリアオーシャンだったんだよ。兄さんは、グレイさんは、気づいてなかった?」
「……全然」
まったく、これっぽちも、可能性すら考えていなかった。
七海ちゃんは優しい子だ。戦いなんて、争いなんて似合わない、似合って欲しくない、そんなものとは遠くあって欲しい子だ。
というか、七海ちゃんがクリアオーシャンということは、まさか親友のクリアシャインは、その姉のクリアガイアは。
勝手に思考を繋いでいく頭を抱えながら、目の前の問題に集中するよう必死に意識を逸らす。
他にも聞きたいことはいくらでもある。けれど、今はこれを聞くべきだ。
「頭おかしくなりそうだけど、それで七海ちゃん、心当たりって」
「きっとね、私のせいなんだよ」
七海ちゃんは懺悔するようにそう囁いた。
理解出来ない呟きの意味を知るため、話の続きを促す。
「去年の七夕に、流れ星にお願いしたの。一人はもう嫌だから、寂しいから、私と一緒にいてくれる人が、お兄ちゃんが欲しいって」
一緒に暮らし始めてから少しした頃、確かに七海ちゃんは言っていた。
ずっと一人だったと、もう一人は嫌だと、俺が一緒にいてくれて嬉しいと。
「叶いっこないって思ってたのに、朝起きたら全部変わってた。何もかも分からなくて、でもお母さんにお兄ちゃんのお見舞い行くよって急に言われて、そのまま病院について行って」
そしてあの日、七海ちゃんはこうも言っていた。
今まで起きている俺と会ったこと、話したことはなかったと。
「病院で寝ている綺麗な男の子を見て、お母さんが、お兄ちゃんだよって」
そんな偶然がありえるのか。もしありえたとして、あの葵さんがそんな状態で俺達を放っておくのか。
正直不自然だと思っていたけれど、これを聞けば納得出来る。
だって七海ちゃんの言うことが本当なら、俺達は七夕の次の日、初めて兄妹になったということだから。
「それでその後魔法少女のことで色んなことがあって、その星がイデアだったって、後でガイアに教えてもらったんだ」
月光の下、懺悔のような口振りでも、七海ちゃんはずっと微笑んでいた。
「イデアは願いを叶えてくれる。周りの人の気持ちも、事情も無視して」
触れた途端に崩れ落ちそうな、儚く脆い、ガラスのような笑みをずっと浮かべていた。
「だから、私のせいなの。きっとグレイさんが私のところに来るために、悠乃さんは心中なんてことになってしまって。だから、元の世界なら絶対、グレイさんは今も悠乃さんと一緒に」
「ちょっと待った」
七海ちゃんの心は気にかかる。他にも気になるところはある。別に言わなければならないこともある。
だけども、この瞬間に問い直さなければならないことが一つ、たった今出来た。
「七海ちゃん、今、なんて言った?」
「……私が何も願わなかったら、本当の世界なら、二人は今も一緒に」
「そこだ。あの、あのさ、もしかして、七海ちゃんの言う元の世界って」
七海ちゃんが今発した言葉とこれまで密かに覚えていた違和感が繋がる。
そのひらめきのもと、半ば確信しつつ、七海ちゃんに問う。
「男女比が普通の、男の子と女の子が同じくらいいる世界のこと?」
七海ちゃんは大きく目を開き、両手を口元に運んだ。