思えば、ずっと不思議ではあった。
俺がこの世界で目が覚めてから、一番長く時を共にしてきたのは七海ちゃんだ。この数か月家でも外でも、一緒に色んなことを見て経験してきた。
その中で七海ちゃんと感覚のずれを感じたことはほとんどなかった。
他の人、葵さんや前野さんのような優しくて常識的な人達にすら、時々何かしらの違和感を覚えていたのに。
七海ちゃんがクリアオーシャンとして活動している時もそうだった。シャインの、陽香さんが奔放な振る舞いをする度に、七海ちゃんは注意していた。
女の子がそんなのはしたないよ、なんて。
男女の立場や考えが逆転したこの世界の価値観からすると、これは酷く違和感のある言葉遣いになるはずだ。
そして七海ちゃんは逆に、この世界特有の慣習やマナーに関して時たま俺と同じくらい疎い時があった。
例えば、つい先日のバレンタインにおける事前予約制もそうだ。
あれも相当変わったルールではあるけれど、一応この世界の男を守るためのマナーのはず。いつも人に気を遣う優しい七海ちゃんがそれを知らない、無視をしていたのは明らかにおかしい。
他にも違和感を覚えた思い出はいくつもある。確かに一つ一つは小さなもので、個性の一つとして呑み込める程度のものばかり。
だけど七海ちゃんが俺と同じ感覚を、元の世界の価値観を持っていたからとすれば、そのどれもこれもが納得に変わる。
「え、嘘、どうして……?」
七海ちゃんは今も口元に両手を運んだまま、瞳を大きく震わせて俺を見つめている。
信じられない、という文字がそのまま書かれていそうな顔だ。
なら今度は俺が根拠を、元の世界を知っていることを伝える番だろう。
「本当、訳分かんないよねこの世界。いくら男が少なくなったって言っても、普通女の人はあんな風にならないでしょ。慎みって言うか、理性って言うかさ。元の男でもあそこまで酷くないって。というか戦後に変な兵器で男が死滅したとか、Z級映画でももうちょっとマシな理由つけると思うんだ」
思いのほか愚痴に近いものになってしまったけれど、それでも続ける。
「そもそも謎のウイルス兵器って何? 世界観滅茶苦茶で適当過ぎない?」
まるで小学生が十秒で考えたような、大雑把で整合性に欠ける設定だ。もうちょっと時間をかけて、もっとちゃんとしたアイデアを練って欲しい。
「とまあこんな具合に、あちこちツッコミ入れたくなっちゃうよね、この世界」
「……そんな、本当に」
「そう。だから七海ちゃんのせいじゃないよ」
少し屈んで目線を合わせ、七海ちゃんの頬に右手を添える。
誰よりも温かくて優しいこの子の、大切な妹の誤解を解くために告げる。
「俺は七海ちゃんと同じ世界の人。俺の過去に、七海ちゃんの責任はないから」
七海ちゃんの言う通り、イデアはきっと俺の現状を変えた。
この家やお母さんと葵さんの関係、その他諸々を考えると、恐らくはお父さんの俺に対する振る舞いを。
けれどそれだけだ。お母さんの死に、七海ちゃんは一切関わっていない。
「っ」
頬に当てていた手をすり抜けて、七海ちゃんが正面から抱きついてくる。
変身しているせいか、いつもよりずっと力が強い。少し苦しいくらいだ。
それでも俺も手を伸ばし、七海ちゃんの背に回す。安心させるように撫でて、時々優しくぽんぽんと叩く。
「あの、あのね」
少しの間そうしていると、七海ちゃんが耳元で囁き始めた。
「これからもこういうこと、していい?」
「いいよ」
「……これからも私、兄さんのこと、兄さんって呼んでもいい?」
「もちろん。むしろ呼んでくれないと寂しくなっちゃう」
「ありがとう、兄さんっ!」
ますます強く、息苦しくなるほど抱きしめられる。その力ときたら、俺も合わせて変身するか迷うほど。
こんなこと、普通の人にうっかりやったら怪我をさせそうだし、七海ちゃんのことを思えば今お説教とかした方がいいはず。
けれどそれだけ求められるのも、全身に感じる体温も嬉しくて、俺は黙ってその抱擁に耐え続けた。いや、享受し続けた。
やっぱり一番どうしようもないのは俺なのかもしれない。
実際家の中のことを思い出すまで、俺は七海ちゃんから離れる発想すら思い浮かばなかった。
「結構経ったし、そろそろ戻ろっか」
「うん。お母さんたち、心配しちゃうから」
「それに」
ちょっと恥ずかしくなってきた空気を吹き飛ばすため、空回りする冗談を飛ばしてみる。
「こんなところでこんな可愛い子と、しかも魔法少女と抱き合ってたら、ご近所さんの間で変な噂建っちゃうかもしれないし」
「……もうっ」
七海ちゃんが文句を言うように、おでこを俺の肩に擦りつける。それでも、もう三回俺が催促するまで、七海ちゃんが離れることはなかった。
そんな訳で家の中に戻るまで結構な時間が経ったのだけれど、お母さんも葵さんも俺達を探しに来る気配はなくて。
心配になった俺達が逆に捜索すること数十秒、葵さんの寝室に答えはあった。
「へ、へるぷみー」
お母さんは寝技をかけられ強制的に、葵さんに添い寝をさせられていた。
「……助けた方がいい?」
「うーん、迷いどころ」
「そっか。じゃあ放置するね」
「いや待って待って、あーちゃんとの添い寝はもちろんやぶさかじゃないけど、せめてお風呂には入らせて」
完全に決まった技を外そうと三人で四苦八苦する途中、自然とため息が零れた。
やっぱりこの人、まったく緊張感がない。
翌日、日曜日の朝。
出かける準備を済ませた後、七海ちゃんが上目遣いで問いかけてきた。
「兄さんは、悠乃さんと一緒にいなくていいの?」
「……七海ちゃんってたまに、答えづらいことドストレートに聞いて来るよね」
「あ、ご、ごめんね」
時折七海ちゃんの破壊力はキツイ時の朝地すら優に上回る。これが天然故のパワーか、末恐ろしい。
その戦慄はさておき、七海ちゃんの疑問には答えておこう。
「なんというか、ね? 許しはしたけど、どう接すればいいのか、正直まだ分からないとこあって、ね?」
「……うん、そうだよね」
「それに、今は葵さんの番だと思って」
俺とお母さんが親子であるように、葵さんとお母さんは姉妹で家族だ。長い間別れていたのだから、姉妹二人だけで話したいこと、募る話はいくらでもあるだろう。
まあそういう意味もあるんだけど、そういうのだけではなくて。
「う、うぅ、あ、頭、頭痛い」
単純に二日酔いの看病を任せたい、というのもある。
「昨日あんなに飲むからでしょー? まったく、飲み始めたらずーっと瓶抱く癖、まだ治ってないと思わなかった。お酒は独占禁止、独占禁止法だよ」
「だってー」
「だってじゃないよー。私の顔でお酒が進む気持ちは分かるけどさー」
「……だってお姉ちゃんと、また話せると思ってなかったから」
「そっか、そうだよね、ごめんね、あーちゃん」
リビングに聞き耳を立てるのはこれくらいにしておこう。盗み聞きはよくない。
俺達がこうして出かけようとしているのは、大人二人、姉妹二人にしてあげようというのもある。
それに俺達は俺達で早く行かなければならないところ、話さなければいけない人達がいる。
まだ玄関なのに緊張はする。けれど、胸の前で強く両手を握る姿で頬と共に緩む。
「じゃ、行こうか」
「……うん」
七海ちゃんは俺以上に、戦闘前よりも肩に力が入っていた。
そうして七海ちゃんと共に訪れたのは朝地さんちがやっている神社、朝地神社だ。
鳥居前に着いて早々紅白のジャージにコートという、今日もとても小癪な格好をしている子を見つけた。
箒を掃く姿は本人の雰囲気もあって、一応それでも絵にはなっている。
なってはいるのだけれど、やっぱりどこか納得がいかない。似非巫女擬き感が強くて、謎に損した気分になる。
「……時枝?」
そんな理不尽な不満を向けられた子、朝地は俺達を見つけるとすぐに掃除をやめ、箒を握り締めたままこちらに駆け寄って来た。
「貴方、こんなところにいて大丈夫なの? あの人は」
朝地はそこで不自然に口と動きを止めた後、急にカクカクした感じの、油の切れたロボットのような挙動を取り始める。
「あ、えぇと、その、急に金曜日休んだから、風邪を移してしまったかもしれないって、財前が後悔してて。前野さんもあの日貴方の様子がおかしかったから、とても心配していて、だから」
いつも冷静な朝地にしては話し方も中身も拙く、聞いているこっちがはらはらする。
なんというか、まあ、一方的に秘密を知っているというのは、どうもこういう気分になるらしい。
ちょっと意地悪してみようかな、という密かに抱いていた悪戯の野望は潰えた。とても気まずい。
だからさっさとこの居心地の悪さを吹き飛ばすため、ここは一言で終わらせよう。
「お、おっすガイア! 元気?」
「………………………………………………………………………………………………」
凄い頭痛そうな顔してる。
外した気がして七海ちゃんを見ると、もの凄い苦笑いを浮かべている。超空回りしたらしい。
そんな俺達の様子に深いため息を吐いてから、朝地は虚空に手を伸ばした。その途端周囲が薄暗くなる。朝地が結界を展開したようだ。
「来なさい、クリアシフター」
同時に現れた金色の魔法陣から出現したのはこれも毎度見慣れた魔法の杖、クリアガイアの振るう錫杖。
驚きはしない。ただ、この似非巫女擬きコーデだと妙なシュールさは感じた。
「コール『フェイス』、アクセス。シフト・オン」
杖から生じる金色の魔力が朝地を包み、次の瞬間には爆発するように輝く。
反射的に瞑った目を開いた時には、もうジャージ姿の同級生はなく、代わりに金色の魔法少女、クリアガイアが凛とした様子で立っていた。
その装いを見て、昨日も思ったことを呟く。
「七海ちゃんの時も思ったんだけどさ」
「……ええ」
「変身って、格好いいよね」
「え?」
珍しい顔、ぽかんとこちらを見る朝地に向けて感動を伝える。
「自分目線だとぴかっと光って終わり、いや二人のもそうだけどさ、こうして人の見ると、一瞬で変わったのが分かると、魔法少女感あってなんかいいよね。格好いい」
最近はCGの技術も進んでかなり自然に見えるけれど、やっぱりリアルの変身は臨場感が違う。さすがのハリウッドでも足元に及ばないだろう。
なんてうんうんと頷く俺を見て、朝地はまたしてもため息を吐いた。
「呆れた。貴方、ずっと私に騙されていたようなものなのよ? 他に言うことはないのかしら」
「別に隠されて困ったというか、朝地にそれで嫌なことされた覚えないから。そもそも俺の周り隠し事ばっかだし」
「……それはそれで、どうかと思うのだけれど」
らびらびは存在自体があれだし、朝地もこれだし、七海ちゃんですらしれっと嘘を吐いていた。身近で一番開けっ広げなのは恐らく財前だと思う。というよりむしろ、あいつには俺が生まれを隠してる方だし。
まだ聞いてないし、多分聞いても教えてくれないけれど、朝地が俺のことを知りつつ正体を隠していたのにも理由があるはず。それもきっと、誰かを思いやるためのものが。
だから俺としてはもう流して終わりにしたいのだけれども、生真面目な朝地はそうでもないらしい。
朝地は姿勢を綺麗に整えてから、深々と俺に頭を下げた。
「改めて、ごめんなさい。私は貴方のことを」
「オッケー許すはい終了!」
「……もう少し、まともに受け取ってもらえると」
「やだ。俺こういうの、気にしてないのに謝られたりするの、気まずいから苦手なんだよ」
相手に申し訳なさそうな、悲しそうな顔を見ると、むしろこっちが謝りたくなるし。
だからまだ謝り足りなそうな朝地よりも先手を打ってそれは封じる。更に続けざま、今日の目的その二について聞いてみる。
「でさ、今日陽香さんいる? この間あれだったから気になってて」
「あれはあの子が、いえ、何も話していなかった私が悪いから」
「オッケー許すはい終了」
またごめんなさいモードに入った朝地を強制シャットダウンする。
雑極まりない対応をされた朝地は瞬きを繰り返した後、小さく息を吐く。
そしてすぐ、俺を見つめながら柔らかく、花のように美しく微笑んだ。
「相変わらず仕方ない人。本当、どうしようもないくらいお人よしなんだから」
もう何度言われたのか分からない。やっぱり俺は仕方ない人らしい。
朝地に案内されて家に、すっかり慣れた客間に七海ちゃんと一緒に招かれる。
妹を呼んでくると言われて待つこと数分、入口の襖が小さな音を立てて開いた。
「……七海に、耕太郎さん」
「……陽香ちゃん」
普段の快活さがまったく窺えない声、顔色で、陽香さんがそこにいた。
この様子から察するに朝地から俺の正体を、この間のことも含めてもう大体聞いているのだろう。
説明しなくて済むのは助かる。でもこれだと少し話しにくい。
なのでここは一発、この雰囲気を吹き飛ばしてみよう。
「おっすシャイン! 元気―!?」
二回目ともなるとアホのテンションにも慣れる。ちょっとは恥ずかしいけど。
俺の唐突な暴挙に隣の七海ちゃんは目を丸くして、陽香さんの後ろから歩いて来た朝地はもう一度頭を抱えている。
それで、ターゲットの陽香さんと言えば、
「ぷっ、はは、あはははは! な、なにそれ? 耕太郎さんともグレイともキャラ違い過ぎるでしょ!?」
「いつになっても新フォームとか出てこないから、とりあえずキャラだけでも新しい一面開拓しようと思って」
「それでそれ? ふ、ふふふ、耕太郎さんってやっぱり変わってるのね」
案外結構受けた。
陽香さんはお腹を押さえながら目元を拭い、深く息を吐いた後ぼそりと呟く。
「男のくせに強くて、優しくて、いつもあたしたちを助けてくれて。本当、変な人」
俺は変な人でもあるらしい。
というか仕方なくて変な人って、だいぶどうしようもない人では。
朝地姉妹に貼られたレッテルにほんのり反感を抱く。
なので、そんな状況じゃなくない、という冷静な自分は無視して、俺は陽香さんに冗談交じりの攻撃をしかけた。
「……俺、今まで陽香さんのこと格好いい系の子だと思ってたんだけど」
「幻滅した?」
「や、シャインの時のあれこれも含めて思い返すと、実は可愛い系な気がしてきた」
「んなっ」
「まあ鉄板だよね。見た目きりっとしてて格好いい子が、内面は無邪気で可愛らしいのって」
攻撃だけど、本音でもある。
出会いのインパクトが大きくて格好いいと繰り返していたけれど、落ち着いて考えると陽香さんは七海ちゃんとは別ベクトルで可愛い子だった。
特に、いい感じの棒を拾ったら一緒にはしゃいでくれそうなところが。やんちゃ坊主感がとても強くていいと思う。
こうして一人で納得していると頬に馴染み深い、とても鋭く突き刺さる視線を感じた。
いつもより更に仏頂面の朝地が俺を見ている。
「妹をたぶらかすのはやめなさい」
「そういうあれじゃなくて、七海ちゃんと同じ感じの」
「そうじゃなくてもそうなるって、貴方散々学んだでしょ」
「……あー、はい、すみません。陽香さんもごめんね、急に変なこと言って」
「ま、まあ、悪い気分じゃなかったから、許す、うん」
この程度でほんのり頬が赤く染まっている辺り、やっぱり陽香さんもまだまだ微笑ましい子だ。
ただ、そんな風にふざけていられたのはここまでだった。
「……陽香ちゃん」
「七海」
七海ちゃんが立ち上がり、陽香さんの傍に歩み寄る。
二人とも近づいて、けれどいつもよりは、親友の距離とは程遠い。
その距離感で七海ちゃんは胸の前でもじもじと手を合わせ、陽香さんは髪を弄りながら視線を彷徨わせている。
自分のことよりも緊張する空気が続き、俺に限界が訪れそうな頃、ようやく二人は口を開いた。
「陽香ちゃん、この前のこと、あの」
「この間は、ごめん」
「な、なんで陽香ちゃんが謝るの?」
「あんたにビンタなんてさせちゃったから」
陽香さんが七海ちゃんの手を取って、労わるように摩る。
「あたしは変身してたから痛くなかったけど、あんたはそうじゃないでしょ? 辛い思い、させちゃったから」
「私だって変身してたよ」
「そういうのじゃない。あんだけビンタが下手な奴に叩かせちゃって。あんたの方が、あたしよりずっと痛かったでしょ」
手を取ったまま一歩踏み込んで、いつもと同じ位置について、陽香さんは七海ちゃんを見る。
もう視線は揺れていなかった。
「だから、ごめんね七海」
「お、おっけー許す、はい、終了っ」
「……ふ、ふふふ、あははっ。なにそれ、絶対耕太郎さんの影響でしょ?」
「うん。私もごめんね、急に叩いたりして」
「オッケー許すはい終了! これでお相子ね!」
なんかぷち流行してる。ノリで言ったから結構恥ずかしい。
とにかくこうして俺の話も、七海ちゃんと陽香さんの仲直りも無事終わり、ようやく客間に流れる空気も落ち着き始めた。
俺が安堵の息を零す中、陽香さんが似たような声色で話しかけて来る。
「それにしても、耕太郎さんが元気みたいで安心したわ」
「俺いつも元気だよ?」
「だってその、この間の別れ際、凄かったから」
「あぁ、なんかあれ、寝たら治った」
「えぇ……」
ドン引きされているけれど、実際そうなんだからそうとしか言いようがない。
そんな俺に対し、朝地はぴしゃりと叱りつけるよう言い含めた。
「七海にお礼を言っておきなさい」
「分かった。七海ちゃん、いつもありがとう。俺が毎日元気に過ごせるの、全部七海ちゃんのおかげだよ」
「あ、え、えへへ、どういたしまして」
家事云々の身の回りのこと、生活系は当然として、これまで七海ちゃんがいつも一緒にいてくれたから今も生きていられる節がある。
魔法のおかげで身体は健康になれても、あのまま一人だったらいずれまた心が折れていただろう。
それはそれとして、どうして朝地がいきなりこんなことを言った理由を聞いてみる。
「で、なんで突然?」
「……貴方の復調は、恐らく七海が回復魔法を使ったからよ」
救い難いアホを見る目をしながら、朝地先生は教えてくれた。
魂なんてものはあるけれど、基本的に人間は物理的な生き物だ。よって精神は肉体の状態とも直結している。精神病の代表例、いわゆる鬱が脳機能の異常によるものであることを考えれば、この解説も納得出来るだろう。
七海ちゃんが扱う『青』の回復魔法は身体を、内臓や脳の働きをも治療する。
そのため魂、ひいては精神に直接干渉する『紫』の魔力ほどではないけれど、回復魔法は心の方まで回復させてくれるらしい。
だからあれほど荒れ果てていたのにもかかわらず、俺の心は一晩で落ち着いたのだろう、とのこと。
朝地先生の魔法レッスンを聞き終えて、ふと思い至ったことがあった。
「もしかして一昨日だけじゃなくて、七海ちゃん夏も、俺が昏睡してた時も魔法かけてくれてた?」
「うん。お母さんと一緒にお見舞いに行った日はこっそり、元気になりますようにって、いつもかけてたよ」
「……そっか。だから俺は」
目が覚めたあの日、どうしてあそこまで冷静でいられたのか。
昨年の春以降、俺はもう何もかも諦めていたはずだ。無気力なまま、ただ終わりを待っていただけのはず。あの日以来、誰かと笑った覚えは一切ない。
その俺が昏睡明けでいきなり歩けて話せて考えられて、らびらびと契約する前から、頭がまともになっていたのは。
家の外、それも人前でやることじゃないとは理解しつつ、七海ちゃんの頭を撫でる。
「わっ、に、兄さん?」
「ありがとうだけじゃ絶対足りないよなぁ。うーん、七海ちゃんにどういうお礼すればいいと思う?」
「えぇー、私に聞くの?」
「でっかいでっかい恩義だからなぁ。どんなものなら返せるのやら。なんでもお願い聞くでも釣り合わない気もするし。七海ちゃん、どうすればいい?」
「……じゃ、じゃあとりあえず、このままっ」
「御意」
七海ちゃんも七海ちゃんで人様の家にもかかわらず、人目を憚らずに自分から擦り付けるように身体を寄せて来る。
我ながらとてもアレな振る舞いだけど、今だけは許して欲しい。
まあ、当然そんなことをすれば普通に滅茶苦茶呆れられる訳で、特に陽香さんは大げさに肩を竦めていた。
「まったく、イチャイチャしてくれちゃって」
「……」
「どうしたの、姉さん? 今見るならあたしじゃなくてあっちじゃない?」
「いいえ、なんでもない。貴方がそれでいいなら、私は余計な杞憂をしていただけだから」
「……あたしが言うのもなんだけど、格好つけてるつもりで電波になってること、姉さんたまにあるからね?」
「やっぱりなんでもあるわ。お仕置きするからこっち来なさい」
「藪蛇だった!?」
と思えば、今度はお客様そっちのけで突如朝地姉妹が追いかけっこを始めた。
唐突な姉妹喧嘩、にしては面白い、ふざけ合いにしては必死過ぎる陽香さんの顔。
その光景に俺と七海ちゃんは顔を見合わせ、おかしくて、同時にくすりと笑ってしまった。