追いかけっこが始まってすぐ、俺達は朝地家をお暇した。
というのも割とあっさり捕まった陽香さんが、朝地の胸の中ですとんと眠りに落ちてしまったからだ。
『……ここ数日、あまり眠れていなかったみたいだから』
膝に寝かせた陽香さんの頭を優しく撫でながら、朝地は囁くように教えてくれた。
理由は明白だ。若干、いや結構な責任を感じる。七海ちゃんも似たような思いらしく、顔に影が差していた。
そして朝地も何故か表情を曇らせていた。
『ごめんなさい。時枝も私を問いただしたいと思うけれど今は、この子がいる時は』
『や、別にいいよ。正直、俺もそれどころじゃないというか、割と現状手一杯だから』
『……お母さまは、どうだったの?』
『変な人だった』
『なら間違いなく貴方のお母さまということね』
『ふふっ』
『二人とも酷くない?』
根拠が変な人って。
ただ、そこにツッコミを入れても過去が襲い掛かって来そうだ。自覚はある。
だから諦めて敗走しかけて、それでもこれだけは確認しなきゃいけないと踏みとどまった。
『朝地、答えられないならそれはそれでいいんだけど』
『ええ』
『七海ちゃんみたいに、朝地は知ってる、覚えてる人?』
『……ええ』
俺の問いに朝地は微かに頷き、懺悔でもするように答えた。
『私は、願いを叶えてしまったわ』
こうして最低限の用事を終えて帰宅した俺達を、今日も葵さんは温かく迎えてくれたのだけれども。
「お、おかえりー」
「うわっ」
二人してつい後ずさりしてしまうほど、その顔色は未だに悪かった。
これほど酷い顔だと、看病は全部お母さんに任せておけばいいか、なんて流すのも難しくなる。
「二日酔いってどうすれば治るの?」
「……向かい酒?」
「マジかよ」
「駄目だよあーちゃん。こーちゃんに素で引かれてるよ。私と同じレベルだよ」
だから確認してみたら答えはこれだ。
色んな意味でこのまま一日休んだ方がいいと思うのだけれど、葵さんは這ってでも仕事に行きそうな雰囲気がある。
現に今の葵さんは上がスーツ、下はパジャマという何とも言えない格好をしていた。
「ご、午前いきなり休んじゃったから、午後は仕事行かないと」
「その状態で? あーちゃん、無理は駄目だよ。午後も休んだら?」
「ううん。来月と再来月はたくさん休み取りたいから、今日は踏ん張らないと」
三月には七海ちゃんの卒業式が、四月には入学式がある。更に言えば春休みも。
葵さんはどちらにも出席するために、そして春休みの間に旅行を計画するために、前々から出来る限り仕事を調整しているそうだ。
そんな事情を知らずとも葵さんの気合を察したのか、お母さんは一瞬上を見上げて何かを考えて、
「なら皆で一緒に歩いて行こうか! 太陽浴びれば元気になるよ!」
それからよく分からない提案をした。
普段は車で通勤している葵さんだけれど、今運転したら恐らく何かしらの法律に引っかかる、もしくは何かに衝突する。
そのため今日はそれ以外の手段、距離的に電車での通勤を余儀なくされたため、俺達は揃って駅まで歩いて来ていた。
「いってきまーす!」
外の空気が効いたのか、それとも七海ちゃんがこっそりかけていた魔法のおかげか。
別れ際、改札の向こうで手を振る葵さんは、家を出た時は別人と思うくらいに元気だった。大体いつもの八割くらい。
あれならきっと、仕事をしても無事に帰って来られるだろう。
同時に安堵の息を漏らす俺と七海ちゃんの前で、お母さんはくるりと振り返った。
「さて、それじゃあ私たちはどうしようか?」
「どうって、またどこかで遊ぼうってこと?」
「それもいいけど、まずはお昼だよ、お昼ご飯。すっかりお腹ペコペコになっちゃったから、この辺りで食べて帰らない?」
「えっ? 帰ってから、私が作れば」
「うん、確かに本音を言うと、なーちゃんのご飯も食べたい。むしろ私が作って二人に食べさせてあげたい。でも、今から帰って準備すると遅くなって大変でしょ?」
携帯の画面は十二時二十分を示している。
帰りの時間と買い物、調理を考えると、食べる頃には一時半くらいにはなってしまうかもしれない。
お腹の具合からしてそれは辛い。七海ちゃんの手前、というか七海ちゃん本人にお説教されるから、誤魔化すためにお菓子を食べることも出来ない。
よって俺もお母さんの意見に賛成だ。これで二対一。
一方まだ納得していなさそうな七海ちゃんに対し、お母さんはちょっと見当違いの説得を試みる。
「大丈夫。軍資金はこの通りたっぷりあるよ。らびさんから貢いでもらったから」
「らびらびさん、お金持ってたんですね……」
「あれ汚いお金らしいよ」
「えぇ!?」
そんな風に七海ちゃんを揶揄って遊んでいると、
「君達か」
不意に最近よく会う変な人、ヴェインさんに声をかけられた。
今日のお供は様子のおかしい末永さんだけで、アインの姿は残念ながら見えない。七海ちゃんが肩を落とした。
「こんにちは。ヴェインさんもお出かけですか?」
「ああ。彼女を日光に晒すため出向いた」
「洗濯物……?」
確かに末永さんはじめじめした雰囲気があるから、時々日干ししないとキノコとか生えそうだけれど。
ただ、そんな失礼な感想を抱かれた末永さんの湿り具合は、よくよく見るといつもの比じゃなかった。
顔色はさっきまでの葵さんに輪をかけて悪いし、隈もかなり酷い。猫背の大きな身体はふらふらと、嵐に吹かれた木々のように頼りなく揺れている。
そのあんまりな様子は、思わず七海ちゃんが駆け寄るほどだ。
「す、末永さん、大丈夫ですか?」
「平気平気、ちょっと徹夜続きで、お日様が黄色く見えるくらいっす」
「えー、睡眠は大事ですよ? ちゃんと寝た方が」
余計なお世話だったかも、と思ったのは顔を上げた末永さんの目がぎょろりと動いたからだ。
七海ちゃんが音のない悲鳴を上げ、俺の背中に一瞬で移動する。更に続けて、お母さんが俺を庇うよう前に出る。
けれど、どうも怒った訳ではないようだ。
その証拠に末永さんは俺とお母さんをその目に続けて映した後、大きく頬を緩めた。
「そうっすね。でも、心配ご無用っす。ボクはまだ、全然頑張れるっす」
押忍、みたいな素振りで両手を握り締めながら、末永さんはよく分からない気合を振り絞っていた。
まったく訳は分からないものの、何か目的があって徹夜を頑張っているらしい。
ならそっとしておいても、そもそも医学にも詳しいはずのヴェインさんが放置しているんだから、多分大丈夫なんだろう。これも何かの実験なのかもしれないし。
そのヴェインさんは、何やら変な風に浸っているようにも見えた。
「一度目偶然、二度奇跡、三度目必然、四度目運命。以前彼女は言っていたが、なるほど、確かにありえるのかもしれない」
「聞き覚えのある口説き文句だ。え、ヴェインさん、俺のこと好きなんですか?」
「どうだろうか。私は好意というものをあまり理解出来ていない」
「否定して欲しかった、というか運命って。ヴェインさん、そもそもそういうの信じるんですか?」
「それを語るには、まず運命の定義から求める必要があるだろう」
冗談半分興味四分の一、残り恐怖の確認は真正面から跳ね返された。元々分かってはいたけれど、とりあえずそういうアレではなさそうだ。
下衆の勘繰りで安心を得た俺の肩に手を乗せて、お母さんがそっと揺すってくる。
「こーちゃん、こーちゃん、この人どなた?」
「知り合いのヴェインさん。科学者やってるんだって」
「……」
そう紹介するとお母さんはとても深く、滅茶苦茶じいっと、穴だらけになりそうなほど、ヴェインさんのことを観察する。
「あのね、こーちゃん。お友達は選んだ方がいいよ」
そして極めて深刻そうな口調で注意してきた。
「村で培った私のカルトセンサーが反応してる。この人、絶対ヤバい宗教とか信じてるよ」
「偏見でしょ。大体ヴェインさん、神様なんて信じるキャラじゃ」
「神か。無論、あの方のことは信仰しているとも」
ヤバい宗教を信じてる人の発言だった。
おかげでお母さんの疑いはますますヒートアップしていく。
「ほらやっぱり。神であの方って、絶対個人だよ、カルトだよ。一秒も関わっちゃいけないタイプの人だよ」
「うん、まあ、確かに、全体的にイリーガル感ある人だけど」
「……こーちゃんが私のことを信用出来ないのは、分かるよ。でもね」
「このタイミングでそういう話する? してるしてる、落ち着いて」
道端でいきなりシリアスを始めようとしたお母さんを宥める。
普通こんなやり取りを目の前でされたら困りそうなものだけれど。
「ところで少年、これから時間はあるだろうか」
ヴェインさんはいつも通りの鉄仮面でどこ吹く風、今日も我が道を歩んでいた。
それから誘われるままついて行き辿り着いたのは、駅から少し離れた場所に建つ小さな焼肉屋。店名はやたらと達筆で読めなかった。
やけにハイソな感じが漂う店内のインテリアや照明、それと相反するような肉の焼ける素朴ないい匂いと音。そして十数人しか入れなさそうなテーブルと椅子。
メニューを見なくても分かる。ここはきっと高い店だ。
同じく察したのか、ひー、と音のない悲鳴を漏らす七海ちゃんと共に、つい店内を見回してしまう。
「興味深そうなその視線からして、気に入っただろうか」
「気に入ったというかなんというか、えぇと、凄く、大人っぽい店ですね。行き付けなんですか?」
「いや、知人の紹介だ」
ヴェインさんの話は、一緒に昼食を食べないか、というものだった。
そこまで珍しくないこと、むしろとても普通なその提案に驚いたのは、相手があのヴェインさんだからだ。
おかげで席に案内されてすぐ、結構失礼な疑問を零してしまう。
「……ヴェインさん、ちゃんとご飯食べる人だったんですね」
「私も人間だ。飢えれば死ぬ」
「いやえっと、タブレット的なもので済ませてそうだなって」
これが最も効率的な手段だ、とか言いながら。ブロック系のあれとかも好きそう。
そんな俺の偏見にヴェインさんは怒ることもなく、ただ淡々と語る。
「人の肉体は食で栄養を取るように設計されている。君の言うサプリメントで補うことも不可能ではないが、それは設計上不自然な挙動だ。繰り返せば予期せぬ不具合が生じるだろう。よって結局のところ、食事が最も効率的な手段だ」
とのことらしい。効率を求めてだから、ある意味半分くらい予想は当たっていた。
こんな感じで俺達男組は割と平気に話していたのだけれど、女性陣はちょっとした問題に直面していた。
「ぐおっ、あ、油の匂いが、胃に」
末永さんが焼肉屋の空気にやられ、悶絶していた。
「す、末永さん、本当に大丈夫ですか?」
「あ、ありがと、大丈夫っす。はー、時枝ちゃんの優しさが身にしみるっす。あの外道鬼畜似非科学者とは大違いっす、ほんとに」
「……もしかして、助けた方がいい? いい弁護士知ってるから、私いつでも紹介するよ」
「あ、や、そういうあれでもなくて」
超真剣な眼差しで心配するお母さんに対し、末永さんは首を横に緩く振る。
改めて考えてみると、ヴェインさんと末永さんがどういう関係なのか、いまいち分からない。
研究の助手らしいけれど、新田先生曰く末永さんはアホで役に立たないらしいし。
かと言って人間関係的な繋がりで助手をしているのかというと、この通りそこまで仲良くなさそうだし。
治験とかそういう方面で手伝っているのかな。末永さんは丈夫そうだし、色んな薬に耐えられそう。
そんな風に考えられているとも知らず、ヴェインさんは網を無表情で見下ろしていた。
「時に少年、焼肉とはどう食べるものなのだろうか」
「え、まあ、焼けばいいんじゃないんですか? あんまり来たことないからよく分かりませんけど」
「そうか。君であれば察しているだろうが、私は初めてだ」
だとは思っていた。むしろ常連とか言われた方が困惑する。ここのカルビは絶品だ、とか言われたら夢に見そう。
そしてもちろん、俺も時枝家で行った程度の経験しかない。思い出にあるのは鍋の時と同様、将軍と化した七海ちゃんの手際に頭を垂れていた記憶ばかりだ。
じゃあ今日も七海ちゃん将軍に随伴しようかな、と思ってトングを献上しようと手を伸ばした瞬間、それは横からかっさらわれた。
「……それなら、私が音頭を取りましょう」
トングを握り締めたお母さんが静かに、それでいて堂々と宣言する。その姿には妙な威厳が現れていた。
「私は幼い頃より鍋とかの将軍を務めていたからね。焼肉もバッチ来いだよ」
「いいの?」
「というより、やらせて欲しいな。あーちゃんやなーちゃんならともかく、他人に給仕されるのって苦手でね、ちょっと緊張しちゃうんだ」
こうして焼肉将軍と化したお母さんは、軍配代わりのトング片手に首を捻る。
「……ところでこのお店、メニューないよね。どこ?」
「ここにありますよ?」
「タブレット。わあ、便利」
七海ちゃんから受け取りながら、お母さんはほへーと言わんばかりに口を開けていた。ジェネレーションギャップ。
ただ、実際いざ焼き始めてしまえば将軍も何も関係ないようで、各々割と適当に、気がついた人が肉を焼く感じになっていた。
しかも意外なことに一番焼いている人、甲斐甲斐しく肉の面倒を見ていたのは、なんとヴェインさんだった。
「焼き方により味、食感ともに変化する。ふむ、単純だが奥深い工程だ」
「もしかして焼肉気に入りました?」
「ああ。調理というものに少し興味が湧いた。ところで少年、これも食べるといい」
「ありがとうございます」
「無論、君もだ」
「あ、は、はい、ありがとうございます!」
今もこんな風に俺と七海ちゃんの取り皿にハラミを乗せてくれる。
口に含めば肉の旨味が広がる。噛んだ瞬間肉汁が弾け、噛めば噛むほど口内は喜びに満たされている。美味しい。
ふーふーと息を吹きかけ、一歩遅れて食べ始めた七海ちゃんの瞳もきらきら輝いている。
これほど美味しいのは肉の質もあるけれど、焼いた人の目によるものだろう。このお手前には感嘆の息を感じ得ない。匠の技、プロの焼き加減だ。
そう、僅か十数分の実戦により、ヴェインさんの腕前はすっかり将軍レベルに至っていた。
俺達のやり取りを眺めていた月原悠乃将軍が、焦ったように育てていた肉を拾い上げる。
「むむっ、こーちゃんなーちゃん、こっちも食べてね!」
「ありがとう。でもお母さんも、ヴェインさんも自分の分を」
「私は構わない。ふむ、これもそろそろいいだろう」
「むむむ、私も私も!」
「わわっ」
矢継ぎ早に二人がかりで肉を積み上げられ、七海ちゃんの目がぐるぐる回り始める。
このままだと肉の山が二つそそり立つだろう。つい先日のバレンタインを思い出す。
それを防ぐため、そして単純に食欲に従って箸を進めた。お母さんのもヴェインさんのも美味しい。というか判別がつかない。どちらも結構なお手前だった。
こんな感じに俺と七海ちゃんは一心不乱にご飯を楽しんでいたのだけれど、なんと、同等レベルに肉の配給を受けていた人がもう一人いる。
「やっばい、食べたら眠気が、ますます」
ヴェインさんは末永さんにも肉を、それどころか他のメニューまで斡旋していた。ごはんとか、サラダとか、それこそアイスとか。
意外な面倒見の良さに俺達は感心していたけれど、末永さんはそんな場合じゃないらしい。
眠たげに目を擦りながら、生き死にがかかっていそうなほど必死に七海ちゃんへ頼み込んでいる。
「と、時枝ちゃん、万が一ボクがうっかり寝かけたら、全力で叩き起こして欲しいっす」
「た、叩き起こす、ですか?」
「そうっす! ほっぺた、いやもうどこでもいいから、とにかくグーパンをお願いするっす!」
「えぇ!?」
迫真のお願いだった。
とはいえ、普段の七海ちゃんに人をひっぱたくことが出来る訳もなく。
俺達は俺達で、徹夜の人をわざわざ起こしておく理由もなく。
「ぐおぉぉぉぉ」
気がつけば、無事末永さんは眠りに落ちていた。しかも大いびき込みで。
午前中に見た陽香さんとは偉い違いだな、と思った。どう違うのかは、末永さんの名誉のためにも、心の中でも黙っておこう。
失礼千万をかましそうになる思考から意識を逸らすため、保護者のヴェインさんに声をかける。
「末永さん、寝ちゃいましたね」
「そのつもりで炭水化物を摂取させた」
「あれ、寝かせてあげたかったってことですか?」
「意味合いとしてはそうなる。今この時に仮眠を取らせることで、最も長く稼働を続けられると試算した」
「稼働って、まるでロボットみたいですね」
真顔で稼働とか言われたから、俺の中で末永さんロボット説が浮上しつつある。
でも既に俺の周りには魔法少女やら男女比崩壊やら、科学では説明出来ない不思議に満ち溢れてしまっている。
ここから更にSFまで混入するとなると、いくらなんでもついていけない。
そんな俺の妄想九割の懸念をヴェインさんはあっさり否定する。
「彼女も人間だ。現に先ほどまであらゆるものを貪っていた」
「ああ、確かに凄かったですよね、勢い」
「今回あれほど食したのは、恐らく君達がいたからだろう。先日知人から押し付けられた本にも、人と卓を囲むことで食が進むという記述があった。ここ数日で不足した分もおおよそ補填出来たはずだ」
どうもヴェインさんの話だと、末永さんは徹夜に飽き足らずご飯も食べていなかったらしい。
不健康一直線の生活っぷりにお説教をする間もなく、
「だからこそ今後の説明も含め、今日君達と出会えたことは僥倖だった」
そして今後の説明とは、なんて問い返す間もなく、突如轟音が響いた。
「きゃあああああああ!?」
続いて届いたのは女の人の、狂乱に満ちた荒れ狂う悲鳴。
その声を皮切りに、店外からどんどん数々の大声や轟音が聞こえ始めた。
音が鳴る度にお店が大きく、何度も揺れる。その振動に従ってインテリアががたがたと震えて棚や壁に頭突きを繰り返し、ついでに取り皿のタレも少し零れた。
まるで大地震か何かのようだ。
けれどこれは違う。地震はこんな規則正しく、一定のペースで揺れるものじゃない。
「地震、じゃないよな。じゃあ事故か?」
「マジ? うわー、ちょっと様子見てこようかな」
「やめときなよ。野次馬根性だよそれ」
異常事態に回り始める思考に、他のお客さん達のざわめきが横入りする。
推察や好奇心、表に出ている感情はそれぞれ異なる。そして共通しているのは不安だ。誰もが隠し切れない恐怖を、行動で誤魔化しているようだ。
それは七海ちゃんも一緒のようで、気がつくと俺の腕にきつく抱きついていた。
「……兄さん」
安心させようと伸ばした反対の手ごと、突然上から来た温かいものに二人纏めて包み込まれる。
お母さんが周囲を鋭く見回しながら、俺達を守るよう抱き締めていた。
「二人とも、私から離れないでね」
七海ちゃんと一緒に頷くと、お母さんは力強い笑顔を浮かべた。
ただ、その笑みも一瞬で引っ込んだ。
「お、お客様、逃げてください!」
外を確認しに行っていたらしい店員さんが駆け戻り、
「か、怪物、怪物が出ました! すぐお逃げください!」
非現実的な脅威を声高々に叫んだからだ。
半ばパニックに陥っている店員さんに誘導され、他のお客さんも一緒に非常口から脱出する。
相も変わらず音は止まず、地面の振動も絶えない。だけど空気は爽やかで、焼肉屋の熱気に慣れた身体が綻んだ。
冬らしい涼やかな青空に安心したのも束の間、不意に俺達全員に影が差す。
「……は?」
「なに、あれ」
親子連れらしいお客さんが呆然と呟いた。
その視線の先、差した影の元凶は、四メートルは下らない黒の異形。
巨大な棍棒を携え、二本足で立つ筋骨隆々とした姿は人間に近い。けれど一つ、決定的に違う点がある。
顔だ。全面黒で分かりにくいものの、あの形、あの角は恐らく牛だ。人の顔の代わりに牛の頭が乘っている。
まるで昔話に聞く妖怪、地獄の獄卒である牛頭を黒く染めて巨大化させたような外見、絵に描いたような化物だ。
こんな怪物普通に生きていれば、いや、どう生きていても現実に目にすることなんてありえないだろう。
けれど俺には、俺と七海ちゃんには見覚えがあった。
「あれは、レギオン!?」
「……結界は出来てない。なんでいきなり、どういうことだ?」
らびらびに教わったうろ覚えの記憶からすると、レギオンの誕生に世界の抗体作用が反応してすぐに結界を作り上げ、そこに隔離することになっているはず。
もしもさっきの轟音や悲鳴の原因がこいつなら、誕生してから優に数分は経っている。にもかかわらず、結界の気配はまったく感じられない。他の原因も見当たらない。ならどうして、何が原因なのか。
思考に沈みかけた頭を振って前を、敵を見据える。
「何も分かんないし、あとで考えるか。七海ちゃん、いける?」
「うん! 来て、クリアシフター!」
七海ちゃんが虚空から杖を呼び寄せるのに合わせ、俺もコートのポケットから懐中時計を取り出す。
幸い俺達は避難する流れで最後尾になっていたから、隠そうと努力する必要はなかった。
ヴェインさんは無表情のままレギオンを見上げていて、末永さんはその背中で今も寝ている。だから見ていたのは、真剣な面持ちのお母さんくらい。
「こーちゃん、なーちゃん」
「色々聞きたいと思うけど、お母さんは待ってて。あれは、俺達がなんとかするから」
「……分かった。二人とも、気をつけてね」
意外なことにすんなり、止める気配もなく納得された。
七海ちゃんが魔法陣を生み出したこととか、あの化物、レギオンのこととか、他の人みたいにパニックになってもおかしくないはずなのに、お母さんは冷静だった。
またしても理由を探ろうとする思考を強制的にシャットアウト。こっちもこっちで、後で聞くなり考えるなりすればいい。
とにかく今はあのレギオン、牛だからオックスレギオンの対処をするべきだ。
「コール『フロスト』、アクセス。シフト・オン!」
「幻葬ッ!」
そのために俺達は光に包まれながら、オックスレギオン目掛けて飛び出した。