光となって消えていく糸を前に、らびらびが呆然と呟く。
「……馬鹿な」
その声は聞いたことがないほどの絶望に満ちていて、思わず耳を塞ぎたくなる。
だけど俺にその資格はない。だから黙ってその続きを受け入れる。
「耕太郎、いったい、何を言って」
「……やっぱり、そうだったんだ」
お母さんの重苦しい呟きを聞いて、らびらびが勢いよく振り向いた。
その口振りはまるで俺の話を予期していたよう。やっぱりお母さんは分かってしまっていたらしい。でも、なんで。
説明を求める俺達に応えて、お母さんは重い口を開いてくれた。
「こーちゃんに無理心中のことを教えてもらった時から、ずっと嫌な予感はしてたんだ」
お母さんと再会して二日目、葵さんと会わせるために時枝家まで連れて行った時のこと。らびらびの無茶ぶりで顔を合わせることになった日のこと。
出来る限り冷静に伝えたつもりなのに、お母さんにはもう何かを読み取られていたらしい。
「あの時のこーちゃん、全然私に怒ってなかったから。無理心中なんかに巻き込まれたと思っていたなら怒って憎んで、いっそ私のことをボコボコにしてもいいのに、ずっと苦しそうな顔してたから。だから」
もしかするとお母さんの言う反応が、憎むのが普通なのかもしれない。
実際、そういう思いも昔はあった。どうしてあんなことを、なんて思っていた。
だけど、それだけじゃなかった。大きくなるにつれて違う気持ちが生まれて、こうしてお母さんと触れ合うことで、それはますます強くなっていった。
やがて気づけば、俺のせいでという思いの方が、比重が多くなっていた。
「でも、当たって欲しくなかったな。こーちゃんにそんなこと、言わせたくなかった」
お母さんが喉から血が出そうなほど苦しそうに、掠れた声で呟く。
けれど俺に心配することは、まして謝ることは許されない。それはさっきの言葉を撤回するということだから。
だから反論もせずに黙り込む俺に代わり、らびらびが大きく声を荒げる。
「違う、耕太郎、それは違う! 何を馬鹿な、悪いのは君の父親と神野家だ! 神野雷蔵が救いようのない愚物だった、神野家は腐り果てていた、それが原因だ!」
その様子はかつてないほどに平静じゃなくて、俺のために怒っていることが分かって、最低なことだけど、少し口元が緩んでしまった。
「そう、かもね。お父さんがお母さんを捨て、ううん、別れていなかったら、もしかするとあんな事故は起きなかったかもしれない」
「だったら!」
「でも、それとこれとは話が違うよ。もしも本当にお父さんが、他の誰かが悪かったとして、それで俺が悪くならない訳じゃないから」
それは文字通り、別の問題だ。
「お父さんと別れた後でも、俺がいなければお母さんはきっと無事だった。お母さん一人なら熱で倒れるなんてことも、もし倒れても、無理をして神野家まで行くことなんてなかったはず」
お母さんは想像以上にパワフルな人だった。しかも察しが良くて頭まで良かった。
そんな人なら自分一人支えるくらい余裕のはずで、ならどうしてあんな無茶をしたのかと言えば、それは重荷になる存在がいたから、ということで。
だからお母さんを死に招いたのは、お父さんじゃない。
「俺が産まれなければ、お母さんは今も生きていられた」
どう否定しても、されても、これは絶対に変わらない事実だ。
何一つ譲らず断言する俺を前に、らびらびはとうとう絶句して固まってしまった。
俺がお母さんに言いそびれたこと、本当は伝えたかったこと。
らびらびはきっと何か感動的なものを予想していただろうから、こんなにショックを受けた姿を見ると申し訳なくなる。
それでも俺は、らびらびの言い分を否定しなくちゃいけない。
「こーちゃんは絶対、何も悪くないよ」
「……」
「って言っても、こーちゃんは納得してくれないよね」
当然、悲しそうに笑うお母さんの話も。
「なにせこーちゃんは雷さん、あの頑固な人の息子だもの」
「……お母さんも、相当頑固だと思うよ」
「じゃあ二人分で超頑固だ。説得なんかじゃますます無理かも」
「悠乃!?」
投げ出すような発言に、らびらびが信じられないとばかりに大声を上げる。
「無理かもだけど、こっちも認めるのは絶対に無理かな」
けれどやっぱり、お母さんは引き下がるつもりはないようだ。
「ねぇ、らびさん。言い残したこと伝えると、それでもうさよならになっちゃうんだよね?」
「……耕太郎の未練の糸は既に切れてしまった。よって君も告げれば糸が切れ、すぐさま外のドクターヴェインが君を留めるための魔法を解除するだろう」
「じゃあその前に、前説の時間貰っちゃおうかな」
お母さんはそう言って佇まいを整えてから、改めて俺の前に立ち塞がった。
それから深呼吸を重ねて、咳ばらいを何度もして、じっと俺のことを見つめる。
あのお母さんがこんなに準備を必要にするほど、何か大変な前説をするらしい。不安に胸の辺りが重くなる。
「こーちゃん。今から、とっても嫌なことを言うね」
実際、切り出された言葉は予想外で、しかも不吉なものだった。
「これから近い将来、ううん、きっとすぐその内に、こーちゃんは最悪な現実と、凄く辛くて苦しい選択と向き合わなきゃいけない」
「……なにそれ、予言?」
「みたいなものかな。それでね、その時、私はもう傍にいられない。こーちゃんを励ますことも、相談に乗ってあげることも出来ない。いつもいつも、ずっと頼りないお母さんで、本当にごめんね」
そんなことないよ、なんて言いかけて、結局口には出せなかった。
多分、お母さんも俺と同じだから。誰にどう否定されても、してもらっても、自分の中の答えは変えられないから。
「今のこーちゃんはきっと、その時選んじゃいけない道を選んじゃう。他の人にはよくても、私にとっては最低最悪の選択をして、これでよかったって一人で納得して妥協しちゃうと思う」
お母さんの予言はどれも曖昧で、何を意味しているのか分からない。
それでも大事な話だということだけは伝わるから、一字一句聞き逃さないよう真剣に耳を傾ける。
まだ前説なのに、既に心は鉛のように重かった。
「私はそんなの嫌。こーちゃんには最後まで諦めないで欲しいから、せめてもの抵抗として、こーちゃんに呪いをかけておきます」
「……呪いなんだ」
「知っての通り、因習村出身だからね。それに呪いと祝福は表裏一体、身体と心を縛るという意味では一緒だから」
お母さんは苦笑してから、おもむろに俺の頬に手を伸ばす。
温かくて柔らかい、生きている人の手だ。
思わず顔を逸らそうとする俺の甘えを、お母さんは許さない。
困ったように少し笑って、微かな力で追いかけて、自分の方に向けようとする。
俺が痛くならないよう加減した、赤ちゃんの首を支えるくらいの力。その程度の力なのに抵抗も出来ず、そのまま目が合ってしまう。
「愛してる」
そしてお母さんは俺の目を見つめて、微笑みながらそう言った。
「こーちゃんが自分のことが嫌いでも、生きることが怖かったとしても、私はこーちゃんのことが大好き。生きて欲しい、幸せになって欲しいって、ずっとずっと祈ってる」
続く真摯な祈りは、かつて産婦人科の患者さん達に見たものとよく似ていた。ずっと昔、不謹慎にも求めていたものだった。
だからもう逃げることも出来ず、ただお母さんの話を受け止める。
「大事な人がたくさんいるこーちゃんなら分かるよね? その人たちが嬉しそうなら自分も楽しくなって、悲しそうな時は自分も苦しくなっちゃう。人は誰だって、私だってそう。こーちゃんの幸せが私の幸せ、こーちゃんの不幸も私の不幸だから」
「身勝手だよ、そんなの。人の気持ち、勝手に自分のものにして」
「親なんて、人間なんて皆身勝手なものだよ。しかもとんでもなく我儘な、親見習いの私は更にドン、って感じだから」
冗談めかして告げた後、お母さんは真剣な声に切り替えて続けた。
「私はもう、こーちゃんの傍にはいられない。でもこの話だけは、気持ちだけは、こーちゃんの心に残しておいてもらえると嬉しいな」
「……なにそれ、本当に呪いじゃん」
「そうだよ。だって優しいこーちゃんにはこれが一番効くでしょ?」
その時、悪戯っぽく笑うお母さんが光に包まれた。
見覚えがある。これはあの夜、末永さんがイデアを使った時の輝きだ。時空を超えてお母さんを召喚した時の。今度は逆のことをするための。
だから、あと少しすれば、もう。
「お母さん!」
頭よりも先に身体が動く。一歩前に踏み込む。無駄な抵抗をしようと、お母さんを留めようと強く抱きしめる。
それでも、輝きが止むことはなかった。
「……こーちゃん、本当に大きくなったね。あんなに小さくて可愛い子が、こんな大きくて格好いい子になるなんて、人間って不思議だなぁ」
お母さんはそんな俺に背を回し、感慨深げに声を漏らしながら頭を撫でてくれた。
その最中一度だけ手を離して、お母さんは手招きをした。
らびらびは音もなく、どこか苦しそうな素振りをしながら俺達の傍へ近づいて来る。さっき言っていた休眠が、もう限界が近いのかもしれない。
「らびさん、この子のこと、後はお願い」
「……ああ。何があっても、何に代えても、この子の命は守り抜く」
「任せたいの、それだけじゃないんだけどなぁ」
ぼそりと呆れたように呟いてから、お母さんは俺の肩に顎を乗せた。
そして絶対に俺が聞き逃さないように、耳元で最期の言葉を囁いた。その声は、聴き間違いようがなく震えていた。
「こーちゃん、こんな私を呼んでくれてありがとう。これが最期でも、もう会えなくても、こうして出会えて本当に嬉しかった」
どうか、幸せにね。
その言葉を最後に、世界は光に包まれた。
光に眩んだ目を開けると、そこは薄暗い世界だった。
星一つ夜空、妖しい月、消えた電気。命の気配を感じない肌寒い、不気味な空気。
この半年近くですっかり見慣れた光景、ここは結界の中だ。
つまり、もうお母さんとは。
「兄さん!」
「耕太郎さん!」
呼吸が苦しくなりかけたその時、年少二人が駆け寄って来た。
「兄さん大丈夫? 何か変なところとか、痛いところとかない?」
「何かあるなら早く言って! 隠しなんてしたら怒るからね!」
そしてそれぞれ俺の手を取りながら、必死にまくし立ててくれた。
詰め寄るような勢いと思いやりに言葉が詰まる。
今は変なところも、痛いところもたくさんある。でもそれをさらけ出す気にはなれない。
けれどそんなことを思っているのに、現金なことに、二人の温もりで息が出来るようになった。
だから下手と分かっていても笑みを作って、二人を安心させるためになんとか口を開く。
「俺は、大丈夫だよ。朝地もありがとう。でも、お母さんが俺を傷つけることはないから」
「……ええ、そうよね」
俺の身体を調べていた、診察的な魔法をかけてくれた朝地にお礼を言うためにも。
皆のおかげで少し落ち着いた頭で、もう一度辺りを見回す。
らびらびの姿はどこにも見えなかった。恐らくあの中で言っていた休眠状態に入ってしまったんだろう。
だからこの場にいるのは俺達と、壁にもたれかかってほぼ気絶している末永さんと、平然としているヴェインさんと。
見回す俺の視界の隅に、眩い『緑』の光が映る。
釣られて見上げた夜空にはさっきまでなかった、存在しないはずの星が輝いていた。
夏の木々を思い起こさせるような、生命力に満ちた美しい『緑』の光。それでいて、何故か胸を締め付つけられてしまう輝き。
この光はイデアが暴走していた時に何度も目の当たりにした、お母さんの魂の色だ。
だからこれはきっと、お母さんが去り際に放った光、その残照だろう。
反射的に手を伸ばしても、何かを掴むことはない。ただすり抜けるだけだ。
「素晴らしい。あれこそまさに自由を知る、風を司る『緑』の極致と呼んでもいいだろう」
そう呟くヴェインさんの瞳には狂乱の色が見えていて、七海ちゃん達が改めて俺の腕を握る。さっき俺を慰めてくれた時の数倍は力が強かった。
二人、いや三人からそれほどの怯えや警戒を向けられても、その色は薄れるどころかますます濃くなっていく。
「惜しいことをしたものだ。あの魂、加工すればどれほどのレムナントを生み出したか」
その最悪な言葉に俺達が反応するよりも早く、ヴェインさんの鳩尾にロードリアライザーの銃口が思い切り突き刺さった。
≪Single Double Triple≫
末永さんの突き付けたロードリアライザーは、既に最大火力を携えている。
自分諸共吹き飛ばすほどの火力を味方に向けられてもなお、ヴェインさんの表情はぴくりとも動かない。
「……ふむ。場を和ますため、冗談というものを試してみたのだが」
「次、つまらない冗談を言ったら殺す」
「心得ておこう」
本当につまらない、最低最悪な冗談だった。
「無論そのようなことはしない。彼女のような無辜の魂を犠牲にすることは、間違いなく我が英雄との約定に背く。故に少年」
そんなことを口にしたのにもかかわらず、ヴェインさんはこともなげに俺へ話しかけ、
「君の母君はあるべき場所へ戻り、あるべき道を歩むだろう」
変わりようのない真実を語るように、そう締めた。