急ブレーキの大きな音と振動で、悠乃は目を覚ました。
「あのー、お母さん、着きましたよ」
おぼろげな視界に見えるのは小奇麗な座席と、そこに添えられたタクシー会社の広告。加えて求人情報が添えられている。
ぼんやりとそれを眺める悠乃に対し、タクシードライバーの若い女性が振り向きながらおずおずと問いかける。
「えぇと、ここでいいんですよね、目的地」
「……あ、れ?」
「あの、住所的にもここですし。神野さんのお家ってここ、ですよね?」
「あ、は、はい。そう、です」
答えながら、内心悠乃は首を傾げた。
どこか現実感がなかった。身体と頭の繋がりがばらばらになったようで、感覚と思考がまとまらない。夢の中にいるような心地が今も身体を蝕んでいる。
これもきっと高熱のせいだ。
回らない頭でそう結論付けた彼女は、財布からなけなしのお金を取り出し、運転手へと手渡す。
「早く、行かないと」
手遅れになる前に、最も信頼出来る人に我が子を託さなければならない。
その一心で軋む身体に鞭を打ち、悠乃はタクシーから降りようと懸命に足を動かす。
途中車内から見上げた雲は、夜空においてもその分厚さが分かった。
これからすぐに雪が降る。山に囲まれた育った彼女の勘はそう告げていた。
「うわ、まさか雪? やだなぁ、もう三月なのに」
実際ドライバーがぼやいたように、数秒後には予想通り、季節外れの雪がぽつぽつと振り始めた。
雪のせいで一層冷えた風を頬に感じた彼女は、腕の中の赤子を庇うように緩く抱き直す。
そしてその温もりを改めて覚えた瞬間、彼女は大きく目を見開いた。
「……そっか、こーちゃん、私は」
先ほどとは打って変わってはっきりとした呟きと共に、悠乃はタクシーから出した足を引き戻す。
それから一度神野家を見上げた後、未練を断ち切るように視線を逸らした。
彼女の希望はここにいない。
だからこそ彼女は抱えた温もりの重さに従い、怪訝な顔をするドライバーに声をかける。
「……あの、すみません」
「はい?」
「やっぱりこのまま、病院に行ってもらってもいいですか?」
目的地に着いた途端、降りもせずに別の場所、それも病院を目指す。
そんな一見意味不明な依頼に対し、ドライバーはほっとしたように大きく頷いた。
「もちろんです!」
そして唇を尖らせ、感情のまま盛大にまくし立てた。
「正直こんなふらふらな人、しかも赤ちゃん連れてるのに降ろしていいか迷ってたんですよ! それでも家ならまあ、何かあっても大丈夫かなぁ、なんて思ってましたけど。というか、次からはこういう時、最初から救急車呼んでください! 赤ちゃん泣いちゃいますよ!」
「あ、あはは、すみません。頭こんがらがっちゃって、変なことしちゃいました」
「……こ、こっちこそすみません。テンパって、お客さんにとても失礼なことを」
酷く慌てた、新人らしい急発進に、悠乃の身体がシートに押し付けられる。
その衝撃で目が覚めたのか、彼女の腕の中の温もりが、これまで静かに眠っていた赤子が目を覚ます。
「まぁあー?」
赤子は、耕太郎は言葉にもならない声を上げると、求めるように悠乃の指を握った。
高熱でも分かる柔らかな手の温もり。腕に収まる小さな体には見合わない力と、確かに感じる心臓の鼓動。
その力強さに浮かぶ涙を拭いもせず、彼女は我が子を抱き締める。
「……大丈夫だよ。絶対、絶対にもう、一人になんて、しないからね」
揺れ動く視界の、消え去りそうな意識の中、悠乃は震える声で誓いを立てた。
「なんて感じでこの後病院に担ぎ込まれ、お医者さんに滅茶苦茶怒られながらもお母さんは九死に一生を得たのでした。目的地の急転換、ナイス機転だね!」
そうしみじみと語り終えてから、悠乃は冷たいお茶を満足げに口にした。
「……助かったのはいいけど、その人の言う通り最初から救急車呼んどけばよかったんじゃないの?」
「ふっ。その指摘をしたのはこうちゃんで十五人目だね」
「駄目駄目じゃん。ありふれた機転じゃん」
偉業でも成したかのように胸を張る母へ、月原耕太郎は呆れ切った目を向ける。
反抗期真っ盛り、十四歳の息子にそんな視線を送られながらも、悠乃は気にもせず上機嫌に笑っていた。
「それにしてもどうしたの? 急に今までで一番怖かった出来事教えて欲しいなんて」
「ほら、そろそろ夏休みでしょ? それで今度、学校の皆と集まって怪談することになったから、なんかいい感じのネタが欲しかったんだけど」
「ほうほう、楽しそうでいいね! 私のは参考になった?」
「どこを話せと?」
もしも怪談で語れば、間違いなく場が冷え切る話ではある。
期待外れの話に耕太郎が溜息を吐いたその時、鍵が差し込まれる、玄関が勢いよく開く音が響いた。
そしてぱたぱたと忙しない、幼い足音が二人のいるリビングに向かって飛び込む。
「ただいまー。もー、外すっごい暑いよー!」
「おかえりー。すっかり夏だからねー」
挨拶と愚痴を同時に零しつつ、クーラーの冷気に笑みを浮かべる少女、七海はランドセルを背中から降ろした。
そんな彼女に対し月原親子は慣れたように、実際生まれた頃からの付き合いなのだから慣れ切っているのだが、それぞれ動き出した。
悠乃はタオルで七海の汗を拭い、耕太郎は冷蔵庫からよく冷えた麦茶を取り出す。
「おかえり七海。お茶でいいよね?」
「うん、ありがとう。お兄ちゃんたち楽しそうにしてたけど、何話してたの?」
「……怪談?」
「え」
「いや、でもホラーってよりヒトコワ、でもないか。なんださっきの、労災系?」
耕太郎が思い返しても、特に背筋が凍る要素はない。
母が亡くなる直前だった、ということも彼からすると現実味のない話だ。何しろ十年以上傍にいた彼から見て、母は殺しても死なない人、という印象が強い。
そのため首を傾げる彼の袖を、七海は控えめに引っ張る。
「怖い話、やめよう?」
「……むかーしむかし、あるところに」
「怖い話、やめよう!?」
その力は耕太郎の悪戯により強く、というよりは大げさになった。具体的に述べると、七海は彼の腕にしがみついて振り回し始めた。
二人の、愛息と実質姪のそんな微笑ましいやり取りを前に、悠乃は口元を綻ばせる。
緩む頬を抑えつつ、彼女はおもむろにカレンダーを確認した。
「そういえばなーちゃん、あーちゃん夫婦は来週から出張なんだっけ?」
「うん、お父さんは北海道で、お母さんは京都だって。だからまたお世話になります!」
「いやいや、気にしないで。なーちゃんが来てくれると、私いつも滅茶苦茶嬉しいし」
「そうそう、俺的にもこの人の相手してくれるから助かるし。てか毎回ただいまって言うあたり、七海もここ自分の家その二だって思ってるでしょ? 今更遠慮とかいいよ」
「えへへ」
時枝、旧姓明智葵は、村を飛び出して以来十年近く悠乃と住居を共にしていた。
耕太郎が生まれてからもそれは変わらず、結局月原家を出たのは彼女が結婚をしてから、およそ十三年前のこととなる。
よってここ月原家はある種葵の実家とも言えるため、七海にとっても前述の通り自分の家のようなものだった。
そしてその時、悠乃の頭は妙な電波を受信した。
「あれ、てことはつまり、私はなーちゃんのお婆ちゃん……?」
「いきなり何を言ってるんだこの人は」
「息子が冷たい!」
「夏だからちょうどいいでしょ」
「そうそう、夏と言えば!」
また始まったよ、と顔に書かれている息子を置き去りに、悠乃のテンションは独りでに急上昇していく。
彼女はそんな天上まで昇るような調子で、呆れる耕太郎と苦笑いの七海に問いかけた。
「今日は七夕だね! 二人はお願い事何にした?」
「……別に。興味ないから」
「あらら、息子が冷めてる」
「夏だからちょうどいいでしょ」
けんもほろろなこの対応も、悠乃からすれば可愛らしいものだ。
よって彼女はにこにこと微笑んだまま、すかさずもう一人に水を向ける。
「なーちゃんは?」
「……えっと」
七海は伏せた瞳でちらりと、さりげなく耕太郎の様子を窺う。
まったくその視線に気づいていない彼を熱の籠った目で見つめた後、七海は胸の前で指をもじもじと遊ばせ始める。
そして頬と耳を真っ赤に染めながら、ほんの少し上ずった声で答えた。
「な、内緒っ!」
その大声に耕太郎が振り向き、悠乃はにやにやとした笑みを浮かべた。
「にょほほほほ」
「……今七海に感じた微笑ましさとか全部消えたんだけど」
「や、やー、ごめんね? つい、こらえきれなくて、にょほほほ」
「凄まじくうざい」
溜息を吐く耕太郎は、どうして母が気味の悪い笑い声をあげているのか気づいていない。
だからこそ彼は涼しい顔で、それこそ可愛い妹を誘うくらいの調子で七海に声をかけた。
「七海、今日これから時間ある?」
「う、うんっ」
「じゃあちょっと休んだら、一緒に朝地神社行こう」
「……いいの?」
「いいから言ってるの。短冊に願い事書くんでしょ?」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
ぱあっと花咲くような笑みを向けられ、耕太郎もまんざらでもなさそうに頬を綻ばせた。悠乃の口元は崩壊していた。
こうして二人は朝地神社まで七夕の短冊を飾りに行くことになったが、直行する訳にはいかない。
「女の子には色々準備があるの!」
悠乃のそんな強い主張もあってか、七海は一度家に帰り、用意が終わり次第耕太郎が迎えに行くこととなった。
「なーちゃん。待ち合わせって、いいよね」
「うん! ありがとう、悠乃さん!」
「……何の話?」
母と妹分の意味不明なやり取りに首を捻ってから一時間後、ようやく来た通知に耕太郎は腰を上げる。
外を見れば若干薄暗く、夜のとばりが見えかけている。ただし、太陽の名残は未だしつこく残っている。
つまり外はまだまだ暑い。自分から言い出したのにもかかわらず、彼は憂鬱さから微かに鈍る足取りで玄関に向かう。
「ベビーカステラでいい?」
靴を履きながら、耕太郎は見送りに来た悠乃へ呟いた。
けれどそんな端的な質問では当然伝わらず、彼女は首を傾げている。
その間にしびれを切らしたのか、彼はどこか早口声で続けた。
「お土産。あそこの神社、七夕の時屋台とか出てるじゃん。で、好きじゃん。だから」
「わあ、ありがとう、こうちゃん! もちろん喜んで、それはもうたくさん食べるよ!」
「……お菓子一つで大袈裟だな。てか自分から言っといてあれだけど、太るよ、あんなの夜にたくさん食べたら」
「幸せ太りだから問題なし!」
「何の話だよ……」
呆れから大きな溜息を吐く耕太郎とは対照的に、悠乃は子供のように無邪気な笑みを浮かべていた。
それが数秒後には一転、今度は大人びた、何かを懐かしむような、思い出したよいな面持ちへと移り変わる。
「そうだ。こうちゃん、ちゃんと行く途中にお願いは考えておくんだよ?」
「……また? しつこいなぁ。俺はいいって。意味ないじゃん、ああいうの。七海には言わないけど、書いて飾るだけで願いが叶う訳ないんだから」
「ふふん、こうちゃんはまだまだ分かってないなぁ。そういう不思議なこと、世の中にはちゃんとあるんだから」
舌を鳴らしながら指を振り、悠乃は幼児を説き伏せるかのように語り続ける。
その振る舞いに若干苛立つ耕太郎に、たくましく健康に育った息子に、彼女は心からの幸せに満ちた笑みを向けた。
「例えば、魔法とかね!」
そして十四年間心の中にいる、これからも一生共にある、もう会うことの出来ない息子にも。
お母さんが笑ったところで、巨大なモニターは一時停止された。
リモコンを片手に、ヴェインさんは業務報告でもするように話をまとめる。
「以上だ。助手の強い薦めがあったため、君にも始まりと終わりだけ確認してもらった」
意味が分からなかった。
お母さんとお別れした日から数日後、下校途中にいきなりヴェインさんが現れて。母君のことで見てもらいたいものがあるからと、駅前のマンションにまで連れて来られて。
部屋に入って早々ソファーに座らされて、いきなり見せられたのが、この訳の分からない映像。
赤子の俺を抱えながら、タクシーに乗っていたお母さんの様子。そして大きくなった俺や七海ちゃんと過ごす、歳を重ねたお母さんの姿。
かつてないほど混乱する頭でも、辛うじて質問は出来た。
「……ヴェインさん、これ、なんですか?」
「君の母君だ。彼女が帰還する際、検証のためビーコンも共に発信した。その印と我が神から借り受けた力を用いることで、彼女がこれまで歩んだ時間を」
「そうじゃなくて!」
方法なんかはどうでもよくて、そもそもこれが何かということを聞きたくて。
声を荒げる俺に対し、ヴェインさんは腹立たしいくらい冷静に語り始める。
「イデアの庇護を失った君の母君はあるべき場所、およそ十四年年前に戻った」
何度も受けた説明だ。
あの日イデアの力によって召喚されたお母さんは元々過去の人、この世界にあってはならない存在と言える。
だからこそ世界は抗体作用でお母さんを消そうとして、それを防ぐために元の時代へ送り返した。
お母さんが帰った後起こる出来事も、俺はもう何回も説明されている。
「その際、世界は彼女の状態を召喚前に戻した。未来の情報、物質を過去に持ち込むことは認められない故に」
「……だから、過去に戻ったお母さんは、この間のことは覚えてないはずで」
「不思議なことを言う。先日君が私に伝えたことだろう」
あのヴェインさんが露骨に首を傾げ、確認するように続けた。
「時を巻き戻しても、取り返しのつかないことはあると」
いつかのショッピングモールで、そんなことを言った気がする、ような。
けれどあれはただの、時間を繰り返して酷い実験をしようとしたヴェインさんへの、単なる苦し紛れの文句でしかなくて。
今も魔法に関する知識が乏しい俺は、魂についても分からないことばかりだ。
「肉体の時を戻すことで確かに記憶はなくなる。だが以前君が危惧したように、強烈な感情は魂に刻まれ、程度によっては無意識の内に残る。そしてその衝撃が閾値を越えた場合、決して消えない記憶となる」
「……?」
「要するに、こういうことっす」
だからまったく理解が及ばない俺に、別のソファーに座っていた末永さんが補足する。
「悠乃さんが君と過ごした記憶は、思い出は、どれも悠乃さんにとって凄く大切なもの、全て魂に深く刻まれるほど強く心に残るものだった、ってことっす」
補足してくれたけれど、まだ思考は追いつかない。
それを察したようで、ヴェインさんは改めて説明し直してくれる。
「まとめよう。魂に刻まれた記憶、先ほどの彼女の言葉に倣い、思い出とする」
ヴェインさんは語る。
「思い出は永遠に生き続ける。例え時を越え、世界に干渉されたとしても」
お母さんは身体の時間遡行にも世界の抗体作用にも打ち勝って、俺との思い出を一つも忘れることはなかったと。
「だからこそ、君の母君は帰還後も思い出を抱き続けていた。そしてそれ故に行動を改め、あのように生を繋いだ」
お母さんは自分の死因も覚えていた。
だから元々の過去と違って神野家には向かわず、タクシーから降りずに病院へ行ったおかげで助かったと。
「つまり君との出会いが、彼女の運命を変えたということだ」
俺と出会ったからこそお母さんは亡くならず、今も生きていると。
ようやく理解が及んだ瞬間、視界が滲んだ。
「……あ、れ?」
咄嗟に漏らした声は震えていて、鼻もぐずって言うことを聞かない。
戸惑っている間に頬を生温い何かが伝って、やがて滴り落ちて手を濡らした。
俺は泣いている、らしい。
数年ぶりの感覚に、自分のことなのに現実感がない。コントロールも効かない。
おかげで何度拭っても、止めようと念じても、涙は洪水のように溢れ出て来る。
「ご、ごめんなさい、こんな、いきなり」
「あわわ、ど、どどどうぞ、山盛りのタオルっす! 好きなだけ使って欲しいっす!」
「ありがとう、ございます」
文字通り山積みにされたタオルから一つ取り、顔に押し付ける。タオルはじわじわと水を含み、生暖かくなっていく。
慣れない柔軟剤の香りも気にせず、涙が止まるように、誰にも顔を見られないように、強く強く顔を圧迫する。
それでも、タオルは湿り気を帯びていく。
「もっとも、彼女が助かったのは十四年前のことだ。僅か一秒前の過去を改変したとしても、世界は塗り替えられるのではなく新たな並行世界を生み出す。そのため今ここにいる君への影響は」
「あー、ヴェインさん、うるさい、超うるさいっす!」
「……まだ、解説の途中だが」
「いらないっす! てかこういう時は一人になりたいものだからそっとして、ボクたちはさっさとどこか、何でもいいから買い物にでも行くっす!」
そんなやり取りの後、二人はすぐに音を立てて部屋から出て行った。顔を伏せていても、音で分かるくらいにはどたばたとしていた。
かと思えば一人、末永さんは慌ただしく戻って来て、上ずった声で叫ぶ。
「こ、ここオートロックだから、ボクたちのこと待たなくてもいいっすよ!」
返事も待たず、末永さんは大慌てで再び外へ飛び出して行った。
その不器用な親切に一瞬口元が緩んでも、やっぱり涙は止まらない。呼吸も声も乱れたままだ。
だからどれくらいの間、そうしていたのかは分からない。
状況が変わったのは、突然膝の上に何かが乘って来たから。
その重みと体温に思わず顔を上げると、熱い息が顔にかかる。
「わっ、あ、アイン?」
ヴェインさんが情操教育のため飼っているというポメラニアン、アインが目と鼻の先に座っていた。
驚く俺の頬を、アインはぺろりと舐める。
アインの舌はひんやりと、それでいてざらざらとしていた。初めての感触に目が白黒となる。
それでも涙は関係なしに零れ続けて、何度も何度も頬に落ちる。その度にアインは優しく舐め取ってくれた。
「……もしかして、慰めてくれてる?」
「わんっ」
「そっか、ありがとう、嬉しい」
すっかり濡れてしまったタオルを置いて、代わりにアインを軽く抱いて頭を撫でる。
「今は誰にもいて欲しくないけど、誰かにいて欲しかったから」
我儘だよね、なんて呟きを、はたしてアインは理解出来たのか。
当たり前だけど、アインは人の言葉を話せない。でもきっと、分かってくれたんだと思う。
だってこの後はただ静かに寄り添って、温もりだけをくれたから。
アインの温かさと小さな鼓動は心を落ち着かせてくれる。そのはずなのに、余計なことを思ってしまった。
お母さんはどういう気持ちだったのかな。まだ歩けもしない俺を抱いている時、どんなことを想っていたのかな。
変なことを考えたせいで、治まりかけた涙が息を吹き返す。
こんな感じに何かを思う度に涙は増えたり減ったりしたけれど、結局止まることは知らなかった。
なんとかそれでも、ようやく前が見えるようになった頃、改めてモニターを見上げる。
そこに映るお母さんの笑顔でまたしても視界が滲んだ瞬間、不意にやり残したことを思い出した。
「そういえば、これも伝え忘れてた」
俺の未練を解消するため、お母さんと話した時のこと。
あの時はあんなことしか言えなかったけれど、まだもう一つ、伝えなくちゃいけないことがあった。
「……俺も」
けれど言いそびれたままでも、あのお母さんなら分かってたと思う。
だってお母さんは凄い人だった。
いきなり十四年後に連れて来られたのに、赤ん坊だった俺がここまで大きくなっていたのに、あっさりと俺を息子として認めてくれて。
まだ起きていない、起こすつもりもなかった心中紛いの事故に泣きながら謝って、俺と一緒に悩んで考えて、苦しんでくれて。
そしてあんな短い間で俺の罪悪感に気づいて、自分もどうなるか分からなくて不安なはずなのに、最後まで俺のことを心配してくれて。
お母さんは想像していたよりもずっと強くて、凄くて、俺を誰よりも愛してくれている人だった。
だからこんな照れ隠しだって絶対見抜いて、ちょっとむかつく感じに笑ってくれるはず。
「俺もお母さんのこと、結構好きだよ」
今もモニターに映っている、あれから十四年も歳を重ねたのに一切変わらない顔で。
誰よりも明るく元気な、あの一週間で何度も見た、幸せいっぱいの、この笑顔のように。