悠乃が去ってからいくらか経った、三月のとある日の休み時間。
市立狭間小学校六年一組の教室にて、だらしなく机に肩肘を着いた朝地陽香は新たな知見を得ていた。
「それでね、兄さんがね」
語尾にハートが付くとはこういうことなのか。
親友のとんでもなく甘ったるい、まるで砂糖と蜂蜜を煮詰めたような声を耳にして、陽香はそんな愚にもつかない学びを得た。
それでは誤魔化し切れなかった胸焼けを溜息に変換しつつ、彼女は主に呆れを込めて呟く。
「……あんたって、ほんっと、耕太郎さんのこと好きよね」
「え、えへへ、そうかなぁ」
「そこで照れる辺り、いっそ怖いくらい筋金入り……」
両手を頬に当てながらくねくねする様子を見せつけられ陽香はもう一度、とても深い溜息を吐く。
それがあまりにも大きなものだったからか、周囲の生徒にもその音は届いた。
彼女達は釣られたように七海の机に近づいて来るも、陽香と違ってその表情は明るい。まるで映画か何かが始まる時のような期待に満ちていた。
「おっなになに? また時枝ちゃんのお兄ちゃん語り?」
「これは聞き逃せないね!」
姉を持つ陽香への相談から始まった、七海による兄、耕太郎に関する話。
彼が目覚めた頃から徐々に比率は変化し、今ではすっかりただの惚気話と化している。
世界が変わろうと、むしろ変わったからこそ、この手の話に飢えている少女達にとって、七海の熱の入った語りは非常に歓迎されていた。
『俺の話? そんな許すとか許さないとか、大げさな話じゃないから別にいいけど。あー、でも、あんまり恥ずかしいことは言わないでね?』
このように軽い調子で許可を出していた本人も実際の反響を知れば驚き、若干の後悔を抱くだろう。
「七海はもういいとして、あんたたちも物好きよね」
「貴重な惚気話だもん。そりゃけーちょーしたいし」
「本番は高校からだけど、戦いはもう始まってるってママが言ってたからね。実体験から情報収集しないと」
「何の話よ、何の」
一方、沸き立つクラスメイトとは異なり、陽香の様子は冷めきっていた。
しかし姉譲りの冷たい眼差しもなんのその、少女達のテンションはまったく揺らがない。
「じゃあえっとね、この間一緒に、兄さんと雑貨屋さんに行った時の話なんだけど」
「ふんふん。いいなー、雑貨屋デートだー。私もやってみたいなー」
「デートじゃないよぉ。えへへ、私と兄さん、兄妹なんだから」
「いやそこは誤差!」
「誤差な訳ないでしょ……」
ぼそっとしたツッコミは届くことすらなく、少女達の黄色い声にかき消される。
このように本人の自認とは裏腹に、陽香は案外ツッコミ気質だった。加えて姉と同じく、実は苦労性でもある。
縦横無尽に暴れ続けるクラスメイトの声、そしてそこへ無意識に油を注ぐ親友の惚気。
毎日学校生活を満喫している陽香だったが、それでもこの惨状には疲れを感じる。よって当然愚痴、ではないが、平穏だった頃を思い出すこともある。
「前は、こんなんじゃなかったのにね」
ふっと息を零す陽香の脳裏に春頃の、教室の隅で所在なさげに佇む七海の姿が浮かぶ。
どんくさくてうじうじしていて、いつも一人の、見ているだけでも腹が立つ子。
かつての陽香にとって、七海はその程度の存在だった。
それがどうして変わったのか。
そのきっかけを、始まりの日を彼女は思い出した。
七夕から一週間ほど経ったとある日の夕方、神野記念総合病院に結界が発生した。
すなわち、レギオンが現れた。
家から全力で走ること約十分、ようやく現場に駆け付けた陽香は傍らの姉に問いかける。
「姉さん、巻き込まれた子がいるって本当!?」
「ええ。二階の奥の病室に二人、人の反応があるわ。それに、レギオンの反応もいくつか」
「なら急がないと!」
結界内は電気が通らず、入口の自動ドアも動かない。
よって陽香は正面から蹴破り、ガラスを踏み砕いて院内へ突撃していく。
その音に反応したのか、一体のレギオンがホールに顔を覗かせた。
「邪魔っ、『バレット』!」
陽香がたった今撃ち抜いた黒い骸骨の異形、ボーンレギオンと後に命名された彼らは、はっきり言って非常に弱い。
具体的に言えばこの先二月、ヴェインの策略によって生み出されたチョコレギオン、その雑兵に毛が生えた程度でしかない。
加えて数こそある程度いるものの、それもそのチョコレギオンには遠く及ばない。桜の魔法が探知する限り、残りは病院内に十体ほどだ。
そんな雑魚相手でも、立ち向かう陽香達の顔は強張り、とても険しい。
無理もない。この時の彼女達はこれが三回目の実戦だった。
いくら超常の力を得たとしても命懸けの戦いに、それも凶器を構えた異形の化け物相手に躊躇なく臨むことが出来る。
そんな人間がいるとすれば、それはよほど戦いに愛された異才か、あるいは。
いずれにせよ、常軌を逸した精神の持ち主であることに間違いはない。
彼女達はそのどちらでもなく、よって杖を握る手は今も不必要なほどに強かった。
ままならない呼吸と足取りのまま、それでも彼女達は反応のあった場所へと駆ける。
数体のレギオンを倒してから辿り着いた病室、病棟の一番奥にある大きな個室の扉を、陽香は勢いよく開け放った。
「大丈」
「えいっ!」
「夫ぅあいたぁっ!?」
そして突入した途端後頭部に浴びた衝撃に、陽香は両手を着く間もなく床に倒れ込んだ。
反射的に口にはしたが、変身の恩恵により痛みはない。
ただ、理解は及ばなかった。
床に散らばる陶器の欠片も、頭から滴り落ちる水と花びらも、彼女を混乱させるだけだった。
生じた空白を埋めたのは、泡を食ったような少女の謝罪だ。
「あ、あわわ、ご、ごご、ごめんなさいっ! 大丈夫ですか!? あ、あのあの、お化けが入って来たと思って!」
陽香の視界に繰り返し頭を下げる姿が、おさげが忙しなく上下に動く様子が映る。なお無意識なのか、その手には油断なく花瓶の欠片が残っていた。
こいつが犯人か。どんな奴が、どうしてこんなことを。
苛立ちながら顔を上げたその時、陽香は驚きのあまり口を滑らしてしまった。
「……時枝?」
「えっ? なんで、私の名前」
花瓶を全力で振り下ろしたその少女、時枝七海は顔を真っ青にしたまま、ぱちくりと瞬きを繰り返す。
失言はしたものの、幸い変身魔法の効果により陽香の正体は気づかれていない。
目を泳がせ、下手糞な口笛で誤魔化そうとした彼女の肩を、続けて入室した桜が緩く揺らす。
「友達かしら?」
「ううん、ただのクラスメイト」
新たな登場人物に目を白黒とさせる七海をよそに、陽香はずかずかとベッドへ近づく。
そこには線の細い、ぞっとするほど生気の薄い少年が眠っていた。
呼吸の度、僅かに胸が膨らみ、長いまつ毛が微かに揺れる。
観察している内になんとなく気まずくなった彼女は目を逸らし、言い訳のように七海へ意識を向けた。
「それで、姉さんの言ってたもう一人がこの人か。あんた、この人のこと知ってる?」
「……私の、お兄ちゃん?」
「なんであたしに聞いてんの」
「あっ、えぇと、お話したこと、ないから」
「なにそれ、変なの」
陽香が問い詰めるように重ねても、七海は胸の前で指を合わせ、口の中でただ言葉を転がすばかり。
そのじれったい態度に苛立ちを募らせる陽香の耳に、信じ難い声が届いた。
「……イデアが反応してる? まさか、この子が」
「えぇ、マジ? だってあの時枝よ? 大縄跳び一回も跳べないような子よ?」
「マジよ。見て」
桜の手の上に浮かぶ魔法の球体、イデアは強い光を発している。
陽香はその輝きを知っていた。
それはつい先日、彼女が戸惑う姉と共にこの力を手にした時目にした光だった。
「こいつがねぇ……」
値踏みをするような視線で睨まれ、七海は身を竦ませる。
その様子に不機嫌そのまま、再び鼻を鳴らした瞬間、陽香の頭にとある疑問が浮かんだ。
どうしてこれほどまで怯えているのに七海は逃げていない、病室から動いていないのか。それどころか大きな花瓶を両手で構えて、敵を待ち伏せるようなことをしていたのか。
同時に浮かんだ、自分ならこれだという答えに、内心彼女は大きく首を捻る。
とても我慢弱い、もしくは素直な彼女は、それをそのまま七海にぶつけた。
「……もしかしてあんた、この人のこと守ろうとして、あたしぶん殴ったの?」
「え、あ、ご、ごめ」
「そういうのいいから、答えて」
「う、うん。お、お兄ちゃんは、逃げられないから」
「へえ」
七海は困惑しながらも、誇らしげでもなく、ただ当たり前のように語る。
それが陽香の琴線に触れた。
「知らなかった。あんた、どんくさいくせにいい根性してるじゃない。気に入ったわ!」
にっと、初めて好意的な笑みを向けた陽香は、振り向きもせず背後の姉に告げる。
「姉さん、あたしの変身解除して」
「いいけれど、どうして?」
「こんなところだもの。何話すにしても、クラスメイトの顔でも見た方が安心するでしょ」
一瞬口元を緩ませた桜のことを、誰も見てはいなかった。
彼女の前に立つ陽香は当然として、七海の視線は光に包まれ現れた、クラスで一番慕われている少女に吸い寄せられていたからだ。
「えっ、えっ!? あ、朝地さん!?」
「そ、朝地陽香。昨日ぶりね、時枝」
「な、ななななんで、朝地さんが、え、ぴかって光って、えっ!?」
「あー、はいはい、うっさい。姉さん、説明はよろしく」
「結局私がするのね……」
呆れつつ、自身も変身を解いた桜は、七海の前で軽く屈んで目線を合わせる。
「驚かせてごめんなさい。私は朝地桜、この子の姉よ」
「あ、は、はいっ。初めまして、時枝七海ですっ」
「そう、時枝さん。同級生なら、きっといつも妹が面倒をかけているでしょう。重ねてごめんなさいね」
「姉さんもうっさい!」
桜の天然で若干空気が緩んだものの、すぐにまた室内に緊張が満ちた。
何かが歩く音が、それも無数に室外から届いたからだ。
「……あの、これって」
「ちっ。レギオンが来たか」
故に、桜は決めた。説明はシンプルにすべきだと。
「時間もないから、単刀直入に言うわ」
桜がもう片方の手を開くと、イデアはそこに光を放つ。
それはやがてそれは一本の棒に、先端に無色透明の宝玉がついた、小さな杖に変化する。
「時枝七海さん。貴方は貴方のために、戦わなくてはいけないの」
桜はそれを、クリアシフターを差し出しながら、重々しく七海に告げた。
こうして七海は魔法少女となり、せっかくだからと三人で魔法少女としての名前を考え、共に戦い、時にはぶつかり、絆を深めていった。
それからやがてクリアグレイ、耕太郎と出会って。
ぼんやりと陽香が過去を思い出している間に、七海とクラスメイトの会話は別の話題に推移していた。
「時枝ちゃんちって、確か時枝ちゃんが家事とかやってるんだよね。大変じゃない?」
「ううん、全然。私はむしろ、楽しいから」
「へー、時枝ちゃん凄いなぁ。うちのママなんていっつも愚痴言ってるのに。ご飯毎日作るの大変だーとかさ」
「そうなんだー、不思議だね」
心底不思議そうに、七海は首を捻る。
「だって家事をすれば、大切な人の生活の一部になれるんだよ?」
えっ、という言葉を誰が発したのか。
先ほどまでの盛り上がりが嘘のように、一瞬にして静まった、しんとした空気でも分からなかった。もしくは全員が出したのかもしれない。
「しかも料理なんてその人の身体の、命の一部にもなれちゃう。こんなに幸せなこと、絶対他にないと思うのになぁ」
その空気に気づかないまま、七海は胸の前で両手を合わせ、瞳を閉じて囁く。
同性でも見惚れるほどに可愛らしい笑み。そしてたんぽぽのようにほわほわとした柔らかな口調、穏やかな雰囲気にもかかわらず、クラスメイト達は戦慄を覚えざるを得なかった。
「……やっぱ時枝さんパネェっすわ」
「お兄ちゃんいるの妬む気にもなれないというか。もう、うん、凄い、ヤバい」
「あ、あれ? あの、どうしたの? 私、何か変なこと言っちゃった?」
「いや全然言ってないっす、さすがっす、時枝の姐さん」
「絶対言ってる時の反応だよね!?」
「うっす」
「認めちゃった!? え、どこなの!?」
慌てて騒ぐ、じゃれ合う様子に、数秒前までの緊迫感は欠片もない。
すっかりクラスにも馴染めたその姿は、もしも葵が見ればほっと一息吐く、とても微笑ましい光景だ。
それはそれとして、陽香はまたしても溜息を吐いた。
「……前は、あんなんじゃなかったのにね」
単なるクラスメイトの時には知る由もなかった、いつかブラックホールすら生み出しかねない親友の一面。
それを向けられる友人、何故だか最近気にかかる人を想い、陽香は眉間に皺を寄せる。
「あれ、耕太郎さんに伝えた方がいいのかしら」
陽香はさっぱりとした気性で、考えるよりも先に身体が動くタイプだ。
その彼女でも、先ほどの七海の言葉は衝撃的だった。いつだか漫画で読んだ、想い人を監禁するキャラの言動であった。
「でも七海を警戒しろってのも変だし、そもそも告げ口みたいで嫌だし」
そんなどこで読んだかも思い出せない知識に振り回されながら、彼女はうんうんと人知れず頭を回し続ける。
「まあ、いいか」
回し続けて数秒悩んだ挙句、結局陽香は全部放り出した。
彼女は考えるよりも先に身体が動くタイプ、そして物事を深く考えないタイプの少女だった。
それでも一応、言い訳がましく、自分を安心させるための方便を口にする。
「いくらお母さんが違うって言っても血の繋がった兄妹だし。多分平気よね」
そんな、誰も気づいていない勘違いを。
これにて四章は終了です。ここまでお読みいただきありがとうございました。
次章は11月初旬を目途に執筆中ですので、お待ちいただければ幸いです。