のんのんびより ― ある田舎男子の日常 ― 【ばけーしょん編更新中】   作:NIZI

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アニメ二期・第七話の話です。

冒頭と最後は三人称。その間は、よしお視点の一人称という構成になってます。

ひか姉! バブバブ言うのん!


第10話 思いきって飛び込んだ

 夏休み。

 

 強い日差しが降りそそぐ午後、分校の女子生徒四人は、いつもの川へ遊びに来ていた。

 空は抜けるように青く、山の緑は濃い。水面はきらきらと光り、見ているだけで涼しさを感じさせる。

 

 橋の上に立った夏海が、ためらいもなく身を投げた。

 

 ドボンッ! と景気のいい水音。

 

 大きな水しぶきが弾け、少し遅れて、楽しそうな笑い声が川辺に広がる。

 

「ふー! 気持ちいい! 次はほたるんの番だよ!」

 

 水の中から顔を出した夏海が、橋の上の蛍に向けて、両手を振って叫ぶ。

 

「で、でも、ちょっと高くないですか……?」

 

 橋の上にいる蛍は足元を見下ろす。

 石の欄干越しに覗く川面は、思っていたよりも遠い。さっきまで楽しそうに見えた水面が、急に別の物のように感じられる。

 

「大丈夫だって! 水の上だし、浮き輪もあるし、姉ちゃんでも出来る事だし!」

 

「私でもってどういう意味?」

 

「ほたるん! 待ってるのん!」

 

 夏海の底抜けに明るい声に対して、その隣にいる小鞠が抗議の目を向けている。れんげは、そんな二人を尻目に、橋の上の蛍を見上げていた。

 

 蛍は、その様子を眺めながら小さく息をのむ。三人はもう水の中だ。浮き輪に寄りかかったり、流れに身を任せたりして、いかにも気持ちよさそうにしている。

 

 ——楽しそう。そう思うのに、足は動かない。

 

 欄干に置いた手に、じんわりと汗がにじむ。

 サンダルの裏越しに伝わる橋の感触が、やけに現実的だった。

 

 飛び込めば、一瞬だ。

 わかっている。頭では、わかっている。

 

 けれど、身体は正直で、高さを意識した途端に心臓がどくんと大きく鳴った。

 

 下から夏海がもう一度手を振る。小鞠も、れんげも、期待するように見上げている。

 

 蛍はぎゅっと目を閉じてみた。一歩、踏み出そうとする。

 

 ……けれど。

 

 結局、その日。蛍は橋の上から飛び込むことができなかった。

 

 水面は変わらずきらきらと光り、夏の川は、何事もなかったかのように静かに流れ続けていた。

 

 

 

 

 東京の高校に通う宮内ひかげは、夏休みに入って、久しぶりに実家へと帰省していた。

 

 都会の喧騒から離れ、扇風機にあたったり、マッサージ機に座ったりしながら、だらだらと過ごす毎日。

 何か特別なことがあるわけでもなく、気がつけば一日が溶けるように過ぎていく。そんな日々を送っていた。

 

 今日も昼下がりに居間で寝転がっていた彼女のもとへ、妹のれんげが両手に人形を抱えて現れた。

 

「ひか姉、一緒にお人形遊びするのん」

 

「え? しないよ、お人形遊びなんて……」

 

「大丈夫なん。ほたるんが来るまでの少しの時間、暇つぶしをするだけなん。」

 

  一度は反射的に断ったが。少しの時間だけなら良いか、とため息をつき、渋々と腰を上げるのだった。

 

 

 夏の日差しが畳を照らす縁側には蝉の声が絶え間なく響いている。

 

 互いに人形を手に取り、即席の芝居が始まった。

 

 れんげの配役は母親役。

 ひかげは――赤ちゃん役。

 

 

……母ちゃん、オレもう受験勉強やだよ……

 

 

 そんな、ひかげのフザけた台詞に、れんげの頬がぷくっと膨らむ。

 

「ひか姉! ウチ、赤ちゃんだって言ったのん! なんで喋ってるのん!? ちゃんと真面目にバブバブって言うん!」

 

 思った以上に厳しい。

 ひかげは一瞬たじろいだ。

 

「真面目にバブバブって、なに言ってんだよ……」

 

 しかし、れんげは一歩も引かない。

 

「ちゃんとバブバブ言うのん!」

 

「えぇ……、それは……」

 

ひか姉、バブバブ言うのん……!

 

「う、うぅ……、……ば、ばぶばぶ……

 

 その瞬間、れんげは小さく頷き、親指を立てる。

 

 ――合格。

 

 ひかげの姉としての威厳は、静かに堕ちていった。

 

「どうしたのん、可愛い赤ちゃん。さてはお腹減ったのんな」

 

「ば、バブバブ……」

 

 羞恥心を削りながらも、ノリ良く役を続けるひかげ。やがて、れんげは近くに置いてあった段ボールを覗き込む。

 

「哺乳瓶ないから探してくるん」

 

「まだ続ける気なの……?」

 

「ひか姉、喋っちゃ駄目なん、バブバブ言うのん!」

 

「はぁ? 全く変な所で律儀だなぁ……。はいはい、バブバブ!」

 

「じゃあ良い子で待ってるのん」

 

「はい! バブぅ!」

 

 そう言い残して、れんげは縁側を離れた。

 

 残されたのは、夏の光と――赤ちゃん(高校生)だけだった。

 

 約五分後。

 宮内家の玄関前。

 

「いやぁ、まさか蛍ちゃんもれんげの家に行く途中だったとは、運命感じちゃうね!」

「確かに、凄い偶然ですね……」

 

 昼食後、れんげと遊ぶ約束をしていた蛍。

 よしおは、以前ひかげから「東京の写真を見せてやる」と言われていたことを思い出し、勉強の息抜きにアポなしで訪れていた。

 

 特に待ち合わせをしていたわけでない、偶然の再会だった。

 

 よしおが玄関のドアに手をかけた、その時だった。

 

 

遅いバブぅ!

 

 

「なんでしょうか?」

 

「ひか姉の声だな、あっちの方からだ」

 

 

 二人は顔を見合わせ、声のする方へと足を向けた。

 

 

「れんげ、まだバブか? もうやめていいバブか?」

 

 ひかげは、尚も赤ちゃん言葉で独り言をつぶやいている。

 文句を言いつつも、真面目に役を守っていた。

 

「早くミルクぅ! ミルクほちいバブバb……」

 

 

 ――その瞬間。

 

 

 視線が合った。

 

「!!!!!!」

 

 真顔のよしおと蛍を前に、ひかげの表情が完全に固まる。

 

 時間が止まったかのようだった。

 蝉の声だけが、やけに大きく響く。

 

 

 言葉を失う二人。

 ひかげにとっては、気まずいを通り越して、もはや死刑宣告を待つような時間だった。

 

 

 やがて、沈黙を破ったのは――

 

 

「ええっと……、大丈夫? おっぱい飲む?」

 

「……、いや、出ねぇだろ……」

 

 

 よしおはノリに合わせるように自分の服を捲り、胸を晒す。

 

 しかしまだショックから立ち直ってないのか、ひかげのツッコミには普段の力が感じられない。

 

 

「……じゃあほら! オレの胸に飛び込んでおいで! 思いっきり甘えてきなよ! かわいい赤ちゃん!」

 

 

 そんな姉貴分を見ていられなくなったよしおは、今度は大きく腕を広げ、精一杯の笑顔を向けた。

 

 

「う、ううぅ……」

 

 

ばぶぅ~っ!!

 

 

 半ばヤケクソになりながら、ひかげは走り出し、その胸板に顔を埋める。

 恥ずかしさはとっくに通り越していた。

 もはや逃げ場もなく破れかぶれであった。

 

「おー、よしよし……。何があったか知らんが、よく頑張った! えらいぞ、ひか姉……!」

 

「ばぶばぶぅ……、おぎゃあぁ……!」

 

 飛び込んだ胸に顔を擦りつけ、"グズり"続けるひかげ。

 その背を、よしおは、ただ優しく撫でていた。

 

(……私は何を見せられてるんだろう……)

 

 蛍は心の中で静かに呟く。

 この、ツッコミ不在のおぎゃばぶな時間は――

 れんげが哺乳瓶を見つけて戻ってくるまで、しばらく続いたのだった。

 

 

 

 

 

 ひか姉との赤ちゃんプレイという、人生でもそう何度も味わうことのないカオスを堪能した翌日。

 

 オレは、村外れのバス停。

 舗装もされていない道の先を、ぼんやりと眺めていた。

 朝の空気はひんやりとしていて、遠くから聞こえる虫の声だけがやけに耳に残る。

 

「よっくん! おはようなん!」

 

 弾む声と同時に、れんげが勢いよく駆け寄ってくる。

 

「おはようございます! よしお先輩!」

 

 その隣に蛍ちゃんの姿。

 二人ともやけに元気で、昨日の出来事など最初から存在しなかったかのようだ。

 

「おはよう! れんげに蛍ちゃん! ひか姉も来たんだね!」

 

 声に応えて視線を上げると、れんげの後ろには、ひか姉の姿があった。

 眠そうな目。落ち気味の肩。全身からやる気のなさがにじんでいる。

 

「れんげに連れてこられた……」

 

「ひか姉、ずっと家にいるから引きずり出してきたん」

 

 なるほど。

 昨日の光景が脳裏をよぎり、心の中でそっと手を合わせる。

 

 かくして、四人で秘密基地へ向かうことになった。

 

 

 

 

 草に覆われた細い小道を抜けた先。木々の影に隠れるようにして、秘密基地は相変わらずの姿でそこにある。

 

 静かな山奥にひっそりと佇む、オレたちの秘密基地。そこが出来上がったのは、今から八年前のことだった。

 

 楓ちゃんとひか姉、オレと卓の四人で作り上げたそれは、当時はとても「基地」と呼べるような代物じゃなかった。

 

 地面には拾い集めた木片を雑に並べただけの床。柱は太さも長さもバラバラな丸太を無理やり組んだもの。屋根代わりのビニールシートが、かろうじて雨風を防いでいる――そんな頼りない造りだった。

 

 それでも、あの頃のオレ達には十分すぎる“秘密の場所”だった。

 

 やがて、なっちゃん達にも、この場所を教えてから、時間はゆっくりと積み重なっていった。

 

 八年という歳月の中で、秘密基地は少しずつ姿を変えていく。

 

 床には色落ちして、所々穴が開いているが、洒落た敷物が敷かれ、ちゃぶ台や本棚が置かれ、ちょっとした装飾品や遊び道具が並ぶようになった。

 

 外には、ビール瓶ケースに木板を渡した簡易ベンチも据えられ、ひと息つける場所までできている。

 

 最近、蛍ちゃんと一緒に小物を沢山持ってきてオシャレにしたと、小鞠ちゃんが自慢げに話していた事を思い出す。

 

 不格好だったはずのその場所は、いつの間にか――

 オレたちの思い出が詰まった、居心地のいい空間へと変わっていた。

 

「ここも変わってないな……」

 

 ひか姉の視線が、懐かしむように辺りを巡る。

 

「でしょ! オレも定期的に来て、屋根とか直してるし!」

 

 オレは少しだけ胸を張る。この場所を守っている、という自負はけっこう強い。

 

「お二人とも、この場所を知ってたんですか?」

 

 蛍ちゃんが小さく首をかしげた。

 

「だってここ、ずっと前に私達二人と、駄菓子屋で作った所だしさ」

 

 ひか姉の記憶の中では、卓の存在は抜け落ちているらしい。あいつは存在感ない所があるから仕方ない。

 

「ある意味オレとひか姉のはじまりの場所とも言えるな……」

 

「なにが始まったんだよ?」

 

 しみじみ語るオレに鋭い視線を向けるひか姉。

 

「ん? いろいろと、あの二人きりで過ごした熱い一夜は今でも覚えてるぜ!」

 

「えっ? 二人きりで一晩過ごしたんですか?」

 

「もうそんな仲だったんなー」

 

「誤解招く言い方やめろや! 後、れんげは意味わかって言ってんのか!?」

 

 ……冗談のつもりだったが、放置したらマズそうだ。

 

 軽く咳払いしてから、言葉を継ぐ。

 

「まぁ、オレが小学校に上がってすぐの時だし、そんなロマンチックな話じゃないよ。 今となっては理由は忘れたけど、姉ちゃんと喧嘩して、何となく家に帰りづらくなって、たまたまひか姉に会って、ここで一晩遊び明かしたんだ」

 

「そんな事もあったなぁ……」

 

 ひか姉の目が、ほんの一瞬だけ遠くを見る。

 

「翌朝に見つかって母さん達に怒られそうになった時も、ひか姉が罪を被ってくれたんだよね」

 

「罪を押し付けられたの間違いだろうが! なに良い話みたいに浸ってんだよ……」

 

 ――うん、正論。今思い出しても、少し胸が痛む。

 

 基地の中は、思った以上に整っていた。

 補修された屋根。掃かれた床。

 使われ続けてきた場所だけが持つ、独特の空気が漂っている。

 

「へぇ、結構綺麗にしてあるねぇ」

 

 基地の中を見るひか姉の感心したような声が、静かな空間に落ちる。

 

「それより東京の遊園地の写真見たいん!」

 

 れんげが、待ちきれない様子で身を乗り出した。

 

 そうだった。

 今日は蛍ちゃんが、東京の友達から届いた手紙に入っていた遊園地の写真を見せてくれる約束だった。

 

「あー、東京の遊園地もいいよね! わかる」

 

 こっちの遊園地は、一番近い場所でも、電車で二時間以上かかる距離にあるので、最後に訪れたのは、下手をすればオレが中学生になる前になってしまうかもしれない。

 

「それじゃあ、写真出すね」

 

 しかし蛍ちゃんが伸ばした手は、空を切った。

 

「あ、あれ? カバンが無い? 家を出た時は持ってたのに……」

 

「もしかしてバスの中に置き忘れちゃったん?」

 

「そうかも……、どうしよう……」

 

 

「二人とも、どうしたらいいん?」

 

 れんげの視線が、俺とひか姉を行き来する。

 

「どうしたらって……」

 

 少しの間。

 考え込んだ末、ひか姉が口を開いた。

 

「バス会社に取りに行くとか?」

 

「バス会社ってどこにあるんですか?」

 

「えっ……、ここからずっと先にあるけど、……遠いよ?」

 

 短い沈黙の後。

 

「じゃあそこまで取りに行くん!」

 

「うん! そうだね!」

 

 即断だった。

 

「……しゃーない、オレ達も一緒に行くか!」

 

 勢いで口にしたものの、正直なところ距離を考えると覚悟がいる。

 

「でも、小鞠先輩と夏海先輩も後からここに来るって言ってたよね。どうしよう?」

 

「書置きしておけばいいん!」

 

 即答。

 それを聞いた瞬間、ひか姉の頬がわかりやすく引きつった。

 

 

「いや、……遠いよ? ……マジかぁ……」

 

 

 こうして。

 

 オレたち四人は、遊園地の写真を見るはずだった午前中を丸ごと使う覚悟で、遥か遠くのバス会社を目指すことになったのだった。

 

 

 

 炎天下の一本道。

 オレたちは、ひたすら前へ進んでいた。

 

 陽炎に揺れるアスファルト。遠慮のない蝉の合唱。

 蛍ちゃんの忘れ物を取りに行くだけのはずが、いつの間にかちょっとした遠征になっている。

 

「すみません、ご迷惑をかけて……」

 

 申し訳なさそうな声が背中越しに落ちる。

 

「いいよ、仕方ない事だから」

 

 これは本心だ。忘れ物くらい、誰にでもある。

 

 オレは今までの人生で、どれ程の物を忘れてきたのだろうか……。

 

「でもさ、東京って凄いよね! デカい駅とか行ったら店いっぱいあるし」

 

「あ、はい」

 

「服とかビシッと着こなしてる人も多いしさ。オシャレとか特に興味なかったけど、都会人として最低限の身だしなみはしないとね!」

 

 オレが意味もなく心の中で詩的に浸っていると。いつの間にか東京トークを始めるひか姉。蛍ちゃんは律儀に相槌を打っている。

 

「ここらじゃブランド物とかもないしさ、何かいいお店知らない?」

 

「え、えーっと……」

 

 視線がふらりと泳ぐ。そこで、素朴な疑問が口をついて出た。

 

「隣町のショッピングモールじゃダメなの?」

 

「ふむ、まぁこの近くだと、選択肢自体が限られるか……」

 

 大きな店に行くには車か電車が必須だ。それでも数時間単位の時間がかかる。

 

 

 ……とはいえ、親に買ってもらった服ばかり着ているオレが語っても説得力は皆無だ。

 

 東京に出るなら、身だしなみにも気を配る必要があるのか? でも服って高いんだよなぁ……。

 

 

「なに悩んでんだ……?」

 

「ちょっとね、将来の事を考えたら急に不安になってきた……」

 

「……なんか思った以上に深刻そうな事考えてんな。まぁ、あんま思い詰めんなよ……」

 

「確かに、今考える事じゃなかったかも」

 

 そうだ。

 今は――バス会社を目指す。それだけだ。

 

 

 

 道中は正に大冒険だった。

 

 湧き水で喉を潤し、無人販売所でひか姉が買ったザクロをみんなで分け合い、気づけばオニヤンマを追いかけていた。

 

 ……オニヤンマは捕まえられなかったが、結果的にバス会社に到着した。

 

 そして忘れ物コーナーで、蛍ちゃんのカバンを無事に発見する。

 

 都合よくバスが出る時間が近い事もあって、帰りは冷房付きだ。オレ達は小さく拳を握った。

 

 

 

 

 帰りのバスの車内。

 冷房がキンキンに効いていて、さっきまでの暑さが嘘みたいだ。

 

 蛍ちゃんがカバンから写真を取り出すと、れんげがそれを真っ先に覗き込んだ。

 

「おぉ! 遊園地!! これ前の学校の友達なん?」

 

 写真には、楽しそうに寄り添う女の子たち。

 ……みんな小鞠ちゃんくらいの背丈に見えた。

 

「この子達は、学校の後輩?」

 

「あ、同級生です」

 

「「えっ!?」」

 

 オレとひか姉の声がきれいに重なった。

 

 そうだ。体は大きいけど、蛍ちゃんは小五だった。

 

 わかってはいたが、改めて言われると頭が追いつかなかった。

 

 

 

 やがて、元の秘密基地の最寄り駅に近づく。

 

 蛍ちゃんは写真を丁寧にカバンへ戻している。

 

 れんげは外を眺めながら、何かぶつぶつ言っている。

 

 ひか姉はシートにだらっともたれかかっていた。

 

 

 ――東京。

 

 

 さっきから、その言葉が頭の中でぐるぐるしていた。

 

 でかい駅。

 人の波。

 オシャレな店。

 遊園地。

 

 俺は、窓に映った自分の顔を見る。

 ため息が出るくらい平凡な田舎の男子中学生の顔だった。

 

「なぁ、ひか姉」

 

「んー?」

 

「東京ってさ、やっぱすごいんだよな?」

 

「まぁな。人多いし、店も多いし、やたらキラキラしてる」

 

「……オレさ」

 

 言うつもりはなかったのに、勝手に言葉が出てくる。

 

「なんか、ちょっと怖いんだ……」

 

「は?」

 

「もし将来、東京とかに行ったらさ。ちゃんとやっていけるのかなって。服とかもよく分かんねーし、道も電車も複雑そうだしさ」

 

 自分で言ってて情けなくなる。

 でも止まらない。

 

「ここなら、多少しくじっても笑って済む気がするけどさ。向こうじゃ、それが通じない気がして……」

 

 窓の外に目を戻す。

 田んぼ。畦道。用水路。

 

 見慣れすぎた景色。

 

「オレ、結局このまま、ここで、なんとなく大人になっていくしかないのかなって……」

 

 言ったあと、ちょっと後悔した。

 何を急に真面目ぶってるんだ、って。

 

 少し間が空く。

 

 ひか姉は、あくびをひとつしてから言った。

 

「考えすぎだ」

 

「え?」

 

「東京なんて別にラスボスの城ってわけじゃねーよ。電車も慣れりゃ乗れるし、服なんて最悪ユニ○ロやし〇むら着ときゃ何とかなる」

 

「そんな物なのかな?」

 

「大体さ」

 

 ひか姉は窓の外を指さす。

 

「急に知らない場所行ったらビビるのは当たり前だろ」

 

「……う、うん、でもオレはひか姉みたいに出来る気がしないし……」

 

「根拠はないけど、お前なら、どこ行っても何とかなると思うぞ」

 

 ぶっきらぼうな言い方。

 でも、声はちょっとだけ柔らかい。

 

 オレは何も言えなくなる。

 

 バスが揺れる。

 昼下がりの日差しが車内に差し込む。

 

「それに、どうせビビるなら、行ってからビビれや」

 

 ひか姉は小さく肩をすくめる。

 

「逃げ場が無い状況なんて、どこにでも転がってる。だったら腹括って、やるしかねぇだろ」

 

 

……昨日の赤ちゃんの真似みたいに?

 

 

「それは忘れろ! 人が真面目に話してる時に、フザけた事言ってんじゃねぇ!」

 

「あだっ!」

 

 ――コツンッと、軽く頭を叩かれた。地味に痛い。

 

 

 そんな時、話を聞かれてたようで、蛍ちゃんが少しだけ遠慮がちに口を開いた。

 

「その……よしお先輩にとって東京って、怖いと思うくらい知らない場所って事なんですよね」

 

 オレはその言葉に思わず顔を上げる。

 

 蛍ちゃんは、ゆっくり言葉を探るように続けていく。

 

「私も、ここに来るまでは不安もありました……。でも、秘密基地とか、湧水とか、ザクロとか……」

 

 れんげも、うんうんと頷いている。

 

「川に飛び込むのは、まだちょっと怖いですけど」

 

 少し照れたように笑ってから、

 

「怖い気持ちは、まだあります。でも……知らないことを知るのが、今は凄く楽しみなんです。」

 

 オレは、何も言えなかった。

 

 知らないから怖い。

 

 でも、知らないから、楽しみでもある。

 

 言葉にしてみれば単純と言えるが、そんなふうに考えたことは、今までなかった。

 

 さっきまで胸の奥に引っかかってた不安が、少しだけ軽くなった気がした。

 

 知らない事が怖いって気持ちは、たぶん消えない。

 

 でも。

 

 知らない事があるってことは、まだ見ぬ楽しみがあるってことだ。

 

 それなら、まぁ、悪くないのかもしれない。

 

「よしお、降りるぞ」

 

 ひか姉に肩を軽く叩かれて、現実に引き戻される。

 

 バスは、いつもの停留所に近づいていった。

 

 

 

 

 

 無事バス会社から戻った一行は、越谷姉妹と合流し、昨日水浴びをした川へと向かった。

 

「成程ね、遊園地の写真のお礼に、こっちで撮った写真を向こうの友達に送りたいと……」

 

「はい。どんな写真が良いか思いつかなくて」

 

「自慢じゃないが、ここら辺で写真映えするスポットは何も思いつかないなぁ……」

 

 小鞠に相談する蛍の声は、どこか真剣だった。

 

 よしおもその会話を横で聞きながら、腕を組んで考える。

 

 都会の遊園地に負けない“何か”。けれど、この村の良さは、派手さではない気がして、うまい言葉が見つからなかった。

 

 その時、川面を割る大きな水音が響く。

 

「ふうー!! 気持ちいい!!」

 

「なっつん、また川に飛び込んでるん」

 

 

 水から顔を出す夏海の髪がきらりと光る。それを見た瞬間、ひかげの目がぱっと輝いた。

 

「そうだ、れんげ! これ! 私も飛び込むから! 飛び込む瞬間を撮って! 東京で自慢するから!」

 

「写真撮って良いん!?」

 

 勢いよく携帯電話をれんげに押しつけるひかげ。れんげは宝物を預かったかのように目を輝かせる。

 

「真ん中のボタンがシャッター、右が確認ね!」

 

 簡単な説明を残して、ひかげは橋へ駆け上がる。夏空を背負い、両手を広げて川の中の夏海へ叫んだ。

 

「よし夏海! 私も飛び込むぞ!」

 

「っしゃあ! 飛んでこいや!」

 

「せーのっ! それ!」

 

 ひかげの体が宙に舞い、次の瞬間、大きな水しぶきが弾けた。れんげはタイミングを合わせるようにシャッターボタンを押す。

 

「れんげ! どうだ!? 姉ちゃんの勇姿、撮れたか!?」

 

「……一応撮れたのん!」

 

「おっし! 流石れんげ!」

 

 

 だが、画面に映っていたのは水しぶきに包まれ、頭と足だけが不自然に飛び出した姿。勇姿というより、どう見ても溺れている図だった。

 

 

 そんな中、蛍が静かに口を開く。

 

「あの……もう一度、飛び込みに挑戦しようと思います」

 

「大丈夫かい? 蛍ちゃん……。無理はしない方がいいんじゃ……」

 

「いえ、無理とかじゃないんです」

 

 まっすぐな目だった。

 昨日、足がすくんで動けなかった同じ橋。その高さも、怖さも、ちゃんと覚えている。それでも——。

 

 よしおは、そんな彼女の決意に思わず目を丸くする。小鞠はその覚悟を感じ取ったように、やわらかく笑った。

 

「じゃあさ、飛び込むところを写真に撮って友達に送ったら?」

 

「でも、良いんでしょうか?」

 

「ひか姉ー! 蛍が飛び込む所、撮ってもいい? 東京の友達に送りたいんだって!」

 

「おっけー! あとでプリントして送るよ!」

 

「す、すみません……」

 

 蛍は小さく頭を下げた。

 

 

 そして——昨日に続き、今日も橋の上に立つ。

 

 

 川面が遠い。足の裏がひりつくように高い。

 

 

 怖い。思わず目を瞑ってしまう。

 

 

 けれど、下を見れば、みんながいる。

 

 笑って、手を振って、待っている。

 

 

 知らないから怖い。

 

 でも、知らないことを知るのは楽しい。

 

 

 よしおに話した言葉が、今度は自分の背中を押す。

 

 

 息を吸う。一歩、前へ。

 

 身体が宙に放り出され、世界が一瞬だけ静まる。

 

 次の瞬間、水面が弾けた。

 

 

「やった! 蛍ー!」

 

「凄いな……あれだけ怖がってたのに、飛び込んじゃったよ……」

 

 水から顔を出した蛍は、太陽よりも眩しい笑顔だった。

 れんげの携帯電話の画面には、水面へまっすぐ降りていく瞬間が、きちんと収まっている。

 

「やるじゃん……、見直したよ!」

 

「ありがとうございます!」

 

「ひか姉どしたの? 真面目な顔して。何か悪い物でも食べた?」

 

 一瞬だけ、ひかげは黙る。バスの中で交わした会話が、胸の奥で静かに蘇っていた。

 

「さっき、みんなでザクロを食べてきた」

 

「あ、ずるい! ウチも食べたい!」

 

「ここから二時間くらい歩いた所に売ってたぞ」

 

 いつもの騒がしさが戻る。

 

 よしおは、川の中央で笑い合うみんなを見つめていた。

 水面に広がる波紋が、やがて静かに消えていく。

 

(蛍ちゃんが勇気を見せてくれたんだ……。オレも怖がってばかりじゃいられないな)

 

 胸の奥が、ほんの少し熱い。

 それは焦りではなく、前へ進みたいと思う小さな灯りだった。

 

 

 

 その夜。

 

 蛍は机の上に写真を並べる。

 

 飛び込む瞬間の一枚。

 全身ずぶ濡れで楽しく会話する一枚。

 夕焼けを背に、みんなで笑いあう一枚。

 

 どれも、この村で過ごす夏そのものだった。

 

 お気に入りを選び、丁寧に手紙を書き、封筒へ入れる。

 

 言葉では伝えきれない分を、写真がきっと補ってくれる。

 

 

 

 そして翌朝。

 

 澄んだ空気の中、蛍は写真を入れた手紙をポストへ投函した。

 赤いポストの口が、かちりと小さな音を立てる。

 

「蛍! 遊ぼう!」

 

「にゃんぱすー!」

 

「今日も秘密基地、行くよ!」

 

 振り返れば、変わらない笑顔。

 

 今日もまた、この村で仲良くなった友達と過ごす。楽しい夏休みの一日が、静かに始まった。




因みに、よしおと卓の、男二人だけで作った秘密基地もある。
そこには女子達には、とても見せられない物品が色々と隠されているとか――
何があるかは、ご想像にお任せします。
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