のんのんびより ― ある田舎男子の日常 ― 【ばけーしょん編更新中】   作:NIZI

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アニメ二期・第十話にあたるお話です。

第九話後半の、ひかなつコンビによる月見団子のエピソードは、原作の完成度が高く、よしおを加えても冗長になるだけでしたので、泣く泣く省略しました。


今回は、今まで勿体ぶってきたこのみの内心に踏み込む回になります。

少し修羅場めいた場面がありますので、苦手な方はご注意ください。


第12話 すごく練習した

 

 富士宮家、よしおの自室。机の上の問題用紙に唸る。

 

 ピピピピピ………。

 

「ぬわーっ、時間切れか!」

 

 目覚ましを止めながら、今回も時間内に終わらなかったことを呟く。

 

 受験勉強を続ける富士宮よしおは今、壁にぶつかっていた。

 

「やっぱ計算に時間掛かり過ぎてんだよなぁ……」

 

 そう言って、空白の残る数学の答案用紙を眺める。

 

 イライラから無意識に消しゴムを齧ろうとすると、ふと、この前の釣りでの出来事を思い出して思いとどまる。

 

「っと……、ダメだ駄目だ。またなっちゃんに軽蔑される……。息抜きに外歩こう……」

 

 

 そうして部屋を出ると

 

 

「ぐはっ!」

 

 何か小さい者に、わき腹をえぐられるような衝撃を受ける。

 

「ほら、だから走ると危ないよって言ったじゃん……」

 

 嗜めるような姉の声がやけに遠い。

 

「うぅ……、よっくん、ごめんなん……」

 

「あたた……、れんげか? 珍しいな、家に来るなんて……」

 

 ぶつかったれんげは、よしおに対して申し訳なさそうに頭を下げる。

 

 よしおは、それはそれとして疑問を浮かべる。

 

 遊ぶときは大体隣の越谷家。富士宮家は狭く、秘密裏に卓を呼ぶくらいしか使われない。

 

「丁度れんげちゃんが、なっちゃんの家に来てるのが見えてね。誘っちゃった♪」

 

 聞けば、隣の越谷家に夏海を訪ねに来たが、丁度、家族全員でデパートに出かけていたので誰もおらず。そのまま帰すのも気の毒との事だった。

 

 

「そういえば、よっくんも妖怪なん?」

 

「妖怪? どうした急に?」

 

「このみ姉が妖怪なら、弟のよっくんも妖怪って事になるん!」

 

「……姉ちゃんって妖怪だったん?」

 

 れんげの発言を聞いて、思わずこのみを見るよしお。

 

「れんげちゃんの反応が面白くて、ついね♪」

 

「何してんだよ……」

 

 そう言って、指が取れるように見える簡易マジックをよしおに見せるこのみ。よしおはそれを見て事情を察すると同時に呆れた顔を浮かべる。

 

「因みによっくんは頭悪いから、妖怪じゃあないよ」

 

「そうなんな」

 

「どんな基準だ……」

 

「そうだ! せっかくだから、息抜きついでに、よっくんも一緒に遊ぶ?」

 

「……遊ぶ!」

 

 れんげの目がきらっと光った。

 

 そうしてこのみの部屋に向かう三人であった。

 

 

 

 

「これは呪文!? ウチ、いきなりとんでもないもの見てしまったん……」

 

「あぁ、れんげちゃんには、その呪文書はまだ早いかな?」

 

「やはりこれは呪文書……、このみ姉こんなものにまで手を出して……」

 

("呪文"じゃなくて"漢文"って言っちゃうのは野暮だよな……)

 

 高校国語の教科書を見て目を丸くするれんげを眺めながら、普段見られない高校数学の教科書をコッソリ開いて流し見るよしおだが。

 

(駄目だ……、まるで意味が分からんぞ……)

 

「れんげちゃんは、掛け算とかを勉強するのはどう?」

 

「掛け算……、確か二年生でやるやつなん……」

 

「一年生で出来たら凄いよ?」

 

「掛け算ってどうやるん?」

 

「"九九"ってのをまず覚えるといいよ。二、三が六、二、四が八。みたいに」

 

「なんか分かりにくいん……」

 

「うーん……、例えば二×三は、二を三回足すって事なんだけど計算に時間が掛かっちゃうからね」

 

「足せば良いのん? じゃあ四×八は、三十二なん?」

 

「んなっ!?」

 

「えっ!? そうだけど……、もしかして足し算で計算したの!? こんな短時間で……」

 

 れんげの何気ない一言に戦慄する二人。このみはとりあえず問題を出すことにする。

 

 

「……五×五?」

 

「二十五」

 

「正解! 九×九?」

 

「八十一」

 

「正解!?」

 

「足したら掛け算出来ちゃったん!? こんな裏技があったん!?」

 

「いや……、裏技というかなんというか……」

 

「やっぱこのみ姉、妖怪のテスト合格しただけあって、教えるの物凄く上手いんな……、姉々より先生向いてるかもしれないのん……」

 

「いや……、れんげちゃんが凄いだけだよ……、……よっくん?」

 

「あ、ああ……、天才はいる、悔しいが……」

 

 今まさに計算時間で行き詰っているよしおからすれば、れんげの飲み込みの速さは、才能の違いを見せつけられたようなもので、少なくないショックを受けていた。

 

 

 窓の外に越谷家の車が入ってくるのが見えた。

 

「あ、なっちゃん達、帰ってきたみたい! れんげちゃん、遊びに行く?」

「あいっ!」

 

「よっくんは?」

「オレは良いや……」

 

「そう、わかった……」

 

 よしおはしばらくその場を動けなかった。

 

「今度は走らないん」

「えらいね! れんげちゃん!」

 

 先程ぶつかった反省からか、ゆっくり階段を降りていくれんげ。そんな少女を褒める姉を、よしおは力なく眺めていた。 

 

 

 

 

 また別の日

 

 ピピピピピ――

 

「だぁーっ! また時間切れかよ! 畜生がぁっ!」

 

 頭を掻きながら、くそ、くそっと悪態が漏れているよしお。そんな時、部屋のドアが開く。

 

 

「よっくん、うるさいから静かにして。私の部屋まで丸聞こえだよ、全く、頭が痛い……」

 

 このみが頭を押さえて苦言を呈する。

 

 

「はいはい、うるさくて悪かったな! ったく……、推薦で大学入学決めてるエリート様は気楽で良いよな!」

 

「……なにそれ? 開き直らないでよ。去年までロクに勉強して来なかったよっくんが悪いんじゃない」

 

「……なんだと!?」

 

「それを今になって急に東京に行きたいだなんて、本当、ちゃんちゃらおかしいよ」

 

「……別に、いいだろ!!」

 

「理由だって、どうせひかげちゃんに置いてかれたくないとか、そんな下らない理由なんでしょう?」

 

「…………(ギリッ!)」

 

「あの時、笑っちゃうくらいこっぴどくフラれた癖に、ホントに未練がましいよね?」

 

 

 ――ダァンっ!!

 

「っ!!」

 

 よしおは、苛立ちから、床を思い切り踏みつけた。このみはその音に反応して、身を固くする。

 

 

「……あぁもうっ!! クソっ! 頭冷やしてくる……!」

 

 

 ――バタンッ!

 

 

 よしおは、居心地が悪さを感じて、家を飛び出す。

 

 

「あ、っうう……」

 

 

 このみは、そんなよしおの様子を見て、言い過ぎたかもしれないと自己嫌悪に陥り、痛む頭を抱えた。

 

 

 

 姉にぶつけてしまった棘の残響を振り払うように、よしおは歩き出す。

秋の風が頬を撫でるたび、胸の奥に滞った言葉までも、どこか遠くへ運び去ってくれる気がした。

 

 行く当てもなく、駄菓子屋に足を運んだよしおは、目の前で自転車の練習をしていたれんげを見つけた。

 

 

 ――ガシャン!! 

 

 

 れんげが乗っていた自転車は倒れた。

 

「!! れんげ!?」

 

「よっくん、にゃんぱすー」

 

「お、おう、にゃんぱす……」

 

 れんげは、夏海と小鞠が、二年生になる頃には補助輪を外していたと聞いて、自分も、一日でも早く自転車に乗れるようになる為に、補助輪を外す決意をした。

 

 そして今、楓に練習を見て貰うようお願いをしに来たが、楓は今日中に片付けなければいけない仕事があって、忙しいとの事で、ならば店の中から練習を見て欲しいと頼んで、今に至る。

 

 

「おい、盛大にコケる音がしたけど大丈夫か!? 店の前で良いなら練習手伝うが……」

 

 楓は、自転車の倒れる音を聞いたのか、店から顔を出してこちらを見た。

 

「大丈夫なん、姉々が迷惑かけるなって言ったん。駄菓子屋、仕事してるから見ててくれるだけで良いん」

 

 れんげは、楓の仕事の邪魔になってはいけないという思いから遠慮をする。それを見たよしおは、ならばと名乗り出る事にする。

 

「れんげ、オレでよければ手伝うよ!」

 

「いいのん? ありがとなん、よっくん!」

 

「悪いな、よしお。れんげの事頼んだ」

 

「任せろ!」

 

 

 そうしてよしおは後ろから自転車を持ってから離したりしながられんげの自転車の練習に付き合う。

 

 れんげは何度も転び、時にはよしおも一緒にコケながら、夕焼け空になるまで練習は続いた。

 

 

「もう日が暮れるぞ! 一生懸命なのは良いが、そろそろ帰っとけ」

 

「んなっ? もうこんな時間か?」

 

 時間が過ぎるのを忘れるほど没頭していたよしおは、空を見て驚く。楓は、れんげとよしおの二人を見比べて顔をしかめる。

 

「あーあー、膝、傷だらけじゃんか、ちょっと待ってろ……」

 

 そういって救急箱を取ってきた楓は、れんげをベンチに座らせて、慣れた様子で膝の消毒を始める。

 

「ちょっと染みるぞ……」

 

「全然自転車乗れなかったん……」

 

「最初はそんなもんだろう?」

 

「ああ、頑張ってたし、絶対出来るようになるって!」

 

 気落ちするれんげをぶっきらぼうにも励ます楓。よしおも優しく言葉を添えた。

 

「よし、こんなもんか。よしお、お前もこっちに座れ」

 

「……え? オレも?」

 

 驚きながら自分を指差すよしお。

 

「お前も盛大に転んでたろ? 消毒くらいしてやる」

 

「今日の楓ちゃん、なんか優しいじゃん。 大丈夫? どこか具合でも悪いの?」

 

「なんでそうなる……。ついでだ、ついで」

 

「はは、ありがとう、楓ちゃん……」

 

 

 おとなしく消毒液を塗ってもらうよしお。 少し染みる傷口を噛み締める。

 

 

「お前、なんか悩みでもあんのか?」

 

「今日はなんか優しいね。本当に風邪でも引いてるんじゃ……?」

 

「別にいいだろ。それで、どうなんだ?」

 

「うーん……、楓ちゃん、二次関数って得意だったりする?」

 

「…………、スマン、力になれそうにない……」

 

「あはは、別に大丈夫だよ……」

 

 苦笑いしながら、今日の出来事を思い返すよしお。

 

(れんげも、例え天才であっても、何でも出来るわけじゃない……。何を不貞腐れてたんだよオレ……。だせぇな……)

 

 時間も経って、少しは冷静に省みる事が出来ていた。

 

(あんな態度取っちまって……。姉ちゃんに謝らなきゃな……)

 

 

「れんげ、もう遅いし、良かったら家まで送って行くか? 自転車はここに置いてっていいから」

 

「大丈夫なん駄菓子屋……、今日は一人で帰るん……」

 

「あ、オレが一緒についてくよ!」

 

 楓の提案を断ったれんげの後をついていくよしお。二人は駄菓子屋を後にするのであった。

 

 

 

 

 

 日が落ちる前に宮内家にれんげを送り届けたよしおは、自宅へ足を進める。

 

 

「姉ちゃん、怒ってるかな……」

 

 謝ると決めたは良いが、気まずい。しかし

 

「れんげがあんなに頑張ってたんだ……。悪い事したなら謝らないと駄目だろう……」

 

 そう言って覚悟を決めて家に入る。そろそろ夕食の時間だ。両親は今日も遅くなるし、リビングで夕食の準備をしているだろうか、よしおがリビングに入ると目に入ってきた光景は。

 

「!? 姉ちゃん!? 姉ちゃん!!」

 

 ソファでぐったりしてるこのみの姿だった。 顔色は悪く、身体は熱い。

 

 よしおはすぐに、ぐったりしてるこのみを背負い、震える手を抑えながらベッドまで運ぶ。

 

 その背中に揺られながら、このみの意識がぼんやりと遠のいていく。

 

 

 

 

 

―――――――――八年前。よしおが小学一年生の頃の話。

 

 

 ある日、よしおは、大きなカマキリを手に、得意げな顔で家へ帰ってきた。このみに見せようと、わざわざ捕まえてきたのだ。

 

「姉ちゃん! 見て見て!」

 

 だが、虫が苦手なこのみは思わず顔をしかめた。

 

「……外に逃がしてきなよ。怖いから」

 

「えー? 姉ちゃんのために取ってきたのに」

 

 少し不満そうに言いながら、よしおは続ける。

 

「ひか姉だって、こんな大きなカマキリを見つけたなんて、すごいって言ってたし!」

 

 その名前を聞いた瞬間、このみの胸がちくりと痛んだ。

 

 最近、よしおはひかげの話ばかりする。

 虫取り、秘密基地、探検――

 

 虫が苦手で勉強ばかりしている自分とは、まるで正反対の世界だ。

 

(私が、お姉ちゃんなのに……)

 

 よしおに悪気がないことは分かっている。

 むしろ、弟なりに自分を喜ばせようとしてくれているのだ。

 

 ――だからこそ、余計に胸が苦しかった。

 

 ――そんな想いが積み重なっていき、ついに言ってはならない言葉を口走ってしまう。

 

 

「よっくんのバカ! そんなにひかげちゃんが好きなら、ひかげちゃんの弟になっちゃえ!!」

 

 

(だって、よっくんは――私の弟なのに)

 

「な……、なんで怒られなきゃいけないんだよ! 姉ちゃんの分からず屋!!」

 

 よしおは思わず怒鳴り返して家を飛び出した。

 

 行き先は、ひかげと作った秘密基地だった。そのまま、そこで一夜を明かしてしまう。

 

 残されたこのみは、その場に立ち尽くした。

 

 

「……馬鹿……、私の馬鹿……」

 

 言い過ぎたことは分かっている。けれど、時間は元には戻らない。

 

「頭が痛い……、痛いよ……」

 

 胸の痛みが本当の熱になり、翌日よしおはベッドで寝込むこのみを見て青ざめた。

 

 

「姉ちゃん、お願い! 早く元気になってよ……!」

 

 涙声で手を握ると、このみは弱く笑った。

 

「ごめんね……、よっくんに酷い事言っちゃったから、罰が当たったのかな……」

 

 その言葉を聞いた瞬間、よしおの顔がくしゃくしゃに歪む。

 

「やだやだ!! 姉ちゃん死んじゃやだぁ!」

 

 必死に泣きながら、このみの手にしがみつく。

 

 その小さな手を、このみは静かに握り返した。

 

 

 ――このみは後になって聞いた話だが。

 

 

 あの日、よしおは「姉ちゃんの病気を治すんだ!」と叫びながら、隣家の池に飛び込んだらしい。

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「……あれ、私……」

 

 このみは、自室のベッドで目覚める。いつの間にかパジャマを着ており、額には冷却シート。枕には氷嚢が使われている。

 

「姉ちゃん、起きたか。気分はどんな感じ? お粥とかならすぐに作れるけど、食べる?」

 

 すぐ近くで看病していたよしおが優しい声色で話しかける。それに対して、彼女も痛む喉と頭を堪えて話をする。

 

「うーん……、ちょっと喉が痛いかな? 食欲は湧かないや……」

 

「たしかに、声が枯れてるな。とりあえず水分はこまめに取った方がいい。ここにスポーツドリンク置いとくよ」

 

 よしおは、慣れた手つきでコップに水を入れて枕元に置く。

 

「ありがと……」

 

「まぁ、今日はゆっくり寝るこった。明日、母さんが仕事休んで、朝イチでお医者さんの所へ行ってくれるってさ」

 

「うん、わかった……」

 

 よしおはそれだけ言うと、静かに部屋を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 静かになった部屋で、このみは天井をぼんやり見つめた。

 

 八年前。

 

 姉の病気を治すと叫んで、池に飛び込んだ弟。

 

 でも今は、慌てることもなく、冷静に看病している。

 

(……よっくん、ちゃんと大きくなってたんだね)

 

 そう思うと、少しだけ胸が温かくなった。

 

 きっとこの子は、今まで――

 

 すごく練習してきたんだろう。

 

 

 

 

 

 翌日の旭丘分校。

 

 いつもと変わらない朝――のはずだったが、今日は一人足りない。

 

 窓際の席を見ながら、よしおはぽつりと呟いた。

 

「あれ、れんげも風邪なのか?」

 

 その言葉に、前の席で振り返った夏海が首を傾げる。

 

「"も"って?」

 

「姉ちゃんも昨日倒れてな……。今頃母さんと病院に行ってる筈だ」

 

 よしおは肩をすくめる。

 昨夜、このみが突然熱を出して倒れた時のことを思い出し、少しだけ表情を曇らせた。

 

 夏海は「そっか」と小さく頷き、机に肘をついて言った。

 

「ウチらは学校が終った後、れんちょんのお見舞いに行こうと思ってるけど、よっくんはどうする?」

 

 よしおは少し考え、それから静かに答えた。

 

「れんげの事も心配だけど、今日の所は、まっすぐ家に帰るわ」

 

「わかった、このちゃんによろしくね」

 

 軽い調子でそう言う夏海に、よしおは小さく手を振って返した。

 

 

 

 

 

 そして放課後。

 家へ帰ったよしおは、自室に荷物を置くと、真っ先にこのみの部屋を訪れた。ドアを開けると、ベッドに寄りかかるようにして座っているこのみの姿があった。

 

 顔色は、昨日よりずっといい。

 

 それを見て、よしおは少し安心したように言った。

 

「元気そうじゃん? 大分顔色も良くなったみたいだし」

 

 このみは笑って答える。

 

「薬飲んだら熱は下がったよ。後は安静にしてれば大丈夫♪」

 

 そう言って笑うが、枕元にはコップと体温計が置かれている。

 昨日は、無理をしていた疲れと、少しばかり溜め込んでいた気持ちが一気に出たのだと、母親から聞かされていた。

 

「そっか、それは良かった」

 

 二人の間に沈黙が流れる。

 

 窓の外では、遠くの田んぼに吹く風の音が聞こえていた。

 

 やがて、このみがふっと懐かしそうに笑った。

 

 

「こうしていると、思い出すなぁ、昔よっくんが私の病気を治すためだって言って、なっちゃん家の池に飛び込んだ時の事……」

 

 突然の話に、よしおは眉をしかめる。

 

「……そんな事あったか?」

 

「よっくんは覚えてない?」

 

 このみは少し意外そうに首を傾げた。

 

 よしおは頭をかきながら答える。

 

「……あんまり思い出したくない、どうせ母さんやおばさんにも滅茶苦茶怒られただろうし……」

 

「私は嬉しかったけどなぁ、私の為によっくんが必死になってくれてたわけだから……」

 

「けど、オレが飛び込んだところで姉ちゃんが元気になるわけじゃねえだろ……、なんの迷信を真に受けてたんだよ、あの時のオレ……」

 

「でも、こうも思うんだ……。もしかしたら、私が酷い事言ったから、よっくんの事を追い詰めちゃったのかなって……」

 

「…………そんな事言ったのか? もし言ったとしても、どうせオレに原因がありそうなもんだが……」

 

 このみは、じっと弟を見た。

 

「……本当に覚えてないの? あれだけの事があったのに……」

 

 よしおは少し考えてから、肩をすくめて言った。

 

 

「人は忘れるから生きていけるんだ。苦しい事や悲しい事を全部覚えていたら、辛くてしょうがないだろ?」

 

「……それ、誰の言葉?」

 

「……湯田浩一*1

 

 このみは思わず笑った。

 

 それから、少し真面目な顔になる。

 

 

「ごめんね、昨日は……」

 

「こっちこそ、つい当たっちゃった……」

 

 

 このみは少しだけ微笑んだ。

 

「それにしても、ここまで一生懸命になれるなんて……、ちょっとひかげちゃんに妬いちゃうな……」

 

 その言葉に、よしおは少し黙った。

 

 それから、ゆっくりと言葉を選ぶように口を開く。

 

「…………、オレさ、この村は好きだし、ずっといたいと思ってる」

 

「……うん」

 

 よしおは窓の外を見た。

 

 見慣れた田んぼ。

 遠くの山。

 小さな村の景色。

 

「けど、今のままじゃダメなんだ。なんとなくだけど、そう思ったら、居ても立ってもいられなくなってさ……」

 

 このみは黙って聞いている。

 

「東京へ行って、その空気を吸うだけで、高く跳べるとか、そう思い込んでるわけじゃない。ないけど……」

 

 よしおは、言葉を探しながら続けた。

 

「でも、ここにいたら絶対に姉ちゃんや楓ちゃんに甘えて、いつまでも変わらないって思って……」

 

「…………東京に行っても、ひかげちゃんに甘えるだけじゃないの?」

 

 このみの少し意地悪な言葉によしおは苦笑する。

 

「それを言われると困るな……」

 

「ごめん、でもこれだけは覚えておいて」

 

 そう言って、このみは軽く手を伸ばし、ぽんっとよしおの頭を叩いた。

 

「いなくなる事が寂しいと思うのは、よっくんだけじゃないって事を……」

 

 昔と同じ、からかうような、でもどこか優しい手つきだった。

 

 よしおは一瞬だけむっとした顔をすると、叩かれた頭を押さえてぼそっと言う。

 

「……病人が叩くなよ」

 

 けれど、その声には怒りも棘もなく、どこか照れくさそうな響きが混じっていた。

 

 このみは小さく笑う。

 

 よしおもつられて、少しだけ笑った。

 

 部屋の中には、また静かな空気が流れていた。

 

 

 

 

 

 体調もすっかり元通りになったこのみは、れんげの自転車の練習を手伝いに行くというよしおと一緒に駄菓子屋へ向かった。

 

 店の近くの空き地では、すでに練習が始まっていた。

 

「ほら、まっすぐな。まっすぐ」

 

 自転車の後ろを支えているのは楓だった。今日は店を休んでいるらしく、一日練習に付き合うつもりのようだ。

 

「お、このみも来たのか。」

 

「楓ちゃん、お疲れー」

 

 楓の言葉にこのみがのんびりと返す。

 

 結局三人で交代しながら、自転車を支えることになった。

 

 

 しばらくして。

 

 よしおがれんげの自転車を後ろから押して走り出す。

 

「いいぞ、れんげ! そのままそのまま!」

 

「わかったのん!」

 

 小さな自転車が、ぎこちなく揺れながら前へ進む。

 

 手持ち無沙汰になったこのみは、隣に立つ楓に声をかけた。

 

 

「楓ちゃん。いつもよっくんの事見てくれてありがとね」

 

 楓がちらりと横を見る。

 

 このみは笑っているが、声は少しだけ真面目だった。

 

「なんだよ、改まって」

 

 楓は肩をすくめる。

 

 このみは、れんげを押して走るよしおを見ながら言葉を続けた。

 

「なんとなくさ。よっくん、役に立ってる? もし迷惑なら、もう行かないように言っておくけど」

 

 

「……アイツには絶対言うなよ」

 

 楓が前置きで一言入れた後答える。

 

「正直、来てくれて助かってる」

 

 このみは少し驚いた顔をする。楓はさらに言葉を続けた。

 

「アイツが来る日は、いつもの何倍も作業が捗るんだ」

 

「そうなんだ」

 

 このみの表情が、少し柔らかくなる。

 

「直接言ってあげないの? よっくん凄く喜ぶよ?」

 

 楓は、遠くで走るよしおを見る。

 

 ちょうどれんげの自転車を支えながら、全力で走っていた。

 

「……言ったら絶対調子に乗るだろ」

 

「たしかに、それで何か失敗しそうだね」

 

「だろ?」

 

 楓も口元だけ少し緩める。

 

 そして少し間を置いて言った。

 

「それに、アイツをここに縛り付けたくもないしな」

 

 このみの視線が楓に戻る。

 

「楓ちゃん……」

 

「なんの遠慮もなく、東京でも何処でも、行きたい所に行けばいい」

 

 楓は淡々とそう言った。

 

 このみは、少しだけ寂しそうに笑った。

 

「そっか……、そうだよね」

 

 

 その時だった。

 

 

「ぶへっ!」

 

 盛大な音が響いた。

 

「よっくん!? 大丈夫なん!?」

 

 自転車を押していたよしおが、見事に転んでいた。れんげも片足をついて心配そうに振り返る。

 

 

「よっくん!?」

 

 このみが慌てて駆け出す。

 

 楓は額を押さえた。

 

「アイツまた……、ったく世話が焼ける……」

 

 二人は転んだよしおの元へ走る。

 

 どうやら足を引っ掛けただけらしく、本人はすぐに起き上がった。

 

 ――まだまだ目は離せない。

 

 

 その後も、三人は交代でれんげの練習を手伝った。

 

 れんげは何度転んでも諦めない。

 

 むしろ、転ぶたびに真剣な顔になっていく。

 

 途中、膝を擦りむいてしまった時は、少しだけその場にしゃがみ込んだ。

 

 唇をきゅっと結び、涙をこらえている。

 

 それでも。

 

「もう一回やるのん!」

 

 立ち上がる。

 

 そしてまた自転車にまたがる。

 

 

 

 日が傾き始めた頃だった。

 

 楓が後ろから支えていた自転車。

 

 その手を、そっと離した。

 

 れんげは気づかないまま、数メートル進む。

 

 さらに進む。

 

 転ばない。

 

 その瞬間。

 

 

「転ば……ない! やった!」

 

 よしおが叫んだ。

 

「よし! よし! よーっし! れんげ!! その調子だ!!」

 

 やかましいほどの歓声を上げながら駆け寄っていく。

 

 このみは、その勢いに思わず笑った。

 

「よっくん、なんかれんげちゃんより嬉しそうだね」

 

 れんげはそのまま真っすぐ走り続ける。

 

 夕日の中を、小さな自転車が進んでいく。

 

 このみは、そんな二人を微笑ましく眺めた。

 

 

「すごいね、楓ちゃ……」

 

 そして楓へ視線を向けると、言葉が途切れる。

 

 楓はその場に立ったまま、れんげを見送っていた。

 

 さっきまで自転車を支えていた手が、ゆっくりと下りる。

 

 れんげは振り返らない。

 

 ただ、前へ進んでいく。

 

 楓は何も言わない。

 

 

 夕日を背にして、遠くへ走っていく小さな背中。

 

 その後ろ姿を、じっと見ている。

 

 

 

「すごいぞれんげ! やはり天才か!!」

 

「よっくん、気が散るから黙ってるん……!」

 

「あ、スイマセン……」

 

(みんな、こうして先に進んでいくんだね……)

 

 このみの胸中にそんな気持ちが、浮かんだ。

 

 何も言わない。ただもう一度視線を向ける。

 

 転ばないよう必死な顔のれんげ。

 

 隣で騒ぎ続けるよしお。

 

 夕焼けの空の下で。

 

 二人は、確かに前へ進んでいた。

 

 

 

 

 

 富士宮家、よしおの自室。

 

 その中央で、よしおは鉛筆を握りしめ、問題と、にらめっこしていた。

 

 ピピピピピ………。

 

「ぬわーっ! また時間切れか! 畜生め!!」

 

 思わず声を上げながら、よしおは目覚まし時計のボタンを押した。

 部屋に鳴り響いていた電子音が、ようやく止まる。

 

 その時だった。

 

 控えめにドアが開き、廊下の明かりを背にして、このみが顔をのぞかせた。

 

「あ、うるさかったか? すまん……」

 

 先日の出来事を思い出したのか、よしおは先んじて謝る。

 

 このみはそんな弟を見て、くすっと笑った。

 

「行き詰まってるよっくんへプレゼントがあるの! はい!」

 

 そう言って、このみは何枚かのプリントを差し出した。

 受け取ってみると、そこには丁寧な手書きの問題が並んでいる。

 

「徐々に難易度が上がっていくように作ったから、とりあえず時間は気にせず解いていってみて!」

 

「姉ちゃんが作ってくれたの?」

 

「そうだよ! 大変だったんだから感謝してね♪」

 

「ありがと!」

 

 よしおは素直に礼を言いながら、さっそく一枚目の問題を見つめる。

 このみは腕を組み、そんな様子を少し誇らしそうに眺めていた。

 

「けど、これ以上は難しいから、一穂さんに頼んで宿題を増やしてもらうようにお願いしようかな?」

 

「えっ……? いや、それは……、先生、毎日授業中に居眠りしてるくらい疲れてるだろうから悪いって……」

 

 宿題が増えると聞いた瞬間、よしおの言葉が急に弱くなる。

 

「いやいや、本職の先生だし、生徒が頑張ってるって知ったら、喜んで沢山宿題出してくれる筈だよ♪」

 

 このみは悪戯っぽく笑いながらそう言った。

 

 その笑みは、本気なのか冗談なのかは分からない。

 

 よしおは「うええ……」とでも言いたげな顔で、がっくりとうなだれた。

 

 このみはそれを見て、くすくすと小さく笑う。

 

 

 鉛筆が紙の上を走る音だけが残ると、このみは小さく息をつき、静かにドアを閉めた。

 

 

 そんな秋も暮れに入った頃の出来事だった。

 

 

*1
出典.パワプロクンポケット8




子供心にひかげに嫉妬していたこのみは、約一年後、性に目覚めたよしおの成長ぶりを目の当たりにして、さらに複雑な心境に。
その結果、よしおのセクハラ絡みのやらかしには、鉄拳制裁も辞さないほど容赦なく叱る日々が始まるのでした。
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