1・2話をガッツリ修正したので、第3話も書き直しました。
翌朝。
朝露に濡れたローブの感触と、石畳の冷たさで俺は目を覚ました。
廃墟の屋根の上での野宿は、想像以上に身体に堪える。
全身の関節が軋む音を聞きながら身を起こすと、眼下で小さな動きがあった。
教会の隠し扉から、一人の少年が出てくる。
昨日の、あの白髪の少年だ。
懲りずにダンジョンへ向かうつもりらしい。
安物の軽装に、心もとない短剣一本。
その背中はあまりに小さく、頼りない。
加えて、右腕を庇うようにぎこちない動きをしている。
昨日の無茶な動きによる反動が、まだ残っているのだろう。
「神の恩恵を受けながら、廃墟を拠点とする冒険者……か」
俺は屋根の上から、呆れたように呟く。
聞けば、この街の神は眷属を抱え、育成する立場にあるという。
だが、彼を見る限りサポートが足りていない。
育てる気があるなら、まずは最低限の環境を整えてやるのが効率的というものだ。
それをせず、ただ精神論で挑ませているのだとしたら、随分と放任主義な神様らしい。
「まあ、他所の教育方針に口を出す義理もないか」
俺は肩をすくめると、情報の集まる市街地へ向けて、屋根を降りた。
***
その日の夕暮れ。
俺は情報収集と食事を兼ねて、大通りに面した賑やかな酒場へと足を踏み入れた。
店内は冒険者たちの熱気と、料理の匂いで充満している。
鉄板で焼かれる肉の香ばしい匂い。
煮込みのスパイスの甘く辛い香り。
酒の泡立つ音。
笑い声、怒号、泣き声。
すべてが混ざり合い、活気と危険が同居する独特の空気を作り出していた。
俺は店内の喧騒を程よく遠ざけられる、壁際の席に腰を下ろした。
パスタと酒を注文し、周囲の会話に耳を傾ける。
ロキ・ファミリアの遠征帰還。上層でのミノタウロスの出現。情報源として悪くない。
カランコロン、とドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませー!」
店員の明るい声に迎えられ、おどおどと入ってきたのは、今朝見かけた白髪の少年だった。
薄灰色の髪をした店員の少女が、親しげに彼を席へ案内する。
「ここなら静かですし、ゆっくりできますよ」
「あ、ありがとうございます、シルさん……」
ベル──そう呼ばれた少年が案内されたのは、俺のすぐ隣のテーブルだった。
だが、その様子がおかしい。
席に着くなり、彼は深い溜め息をつき、食事中も定期的に上の空といった様子でテーブルを見つめている。
(ひどく落ち込んでいるな)
昨日の出来事が尾を引いているのか。それとも自身の弱さに打ちひしがれているのか。
その背中からは、悲壮感すら漂っている。
その様子を横目で見ながら、俺が酒の入ったグラスを傾けた、その時だった。
バンッ!!
入り口の扉が乱暴に開け放たれ、店内の空気が一変した。
我が物顔で入ってきたのは、真紅のエンブレムを掲げた集団だ。
「今日は飲み明かすでー!」
「ロキ様、飲み過ぎないでくださいよー」
彼らが入ってきた瞬間、店内の空気がざわめき立った。
「おいおい、ロキ・ファミリアじゃねえか……」
「遠征帰りか……相変わらずすげぇ面子だ」
「上層のミノタウロス、ロキの連中が狩りまくってたらしいぜ」
周囲の冒険者たちがひそひそと囁き合う。
俺はパスタを巻き取りながら、観察を続けた。
なるほど、あれが都市最大派閥の一つか。
その中には、昨日ミノタウロスを一撃で葬った金髪の少女──アイズ・ヴァレンシュタインの姿もある。
(昨日の連中か……)
ベルは、彼らの登場にビクリと肩を震わせると、メニュー表で顔を隠すようにしてさらに小さくなった。どうやら、彼らが誰であるかを認識しているらしい。
助けられた相手と、自分の無様さを見られた相手。
それが目の前に現れたとなれば、気まずいのも無理はない。
やがて酒が回り始めた頃、一人の男が口を開いた。
周囲からは「ベート」と呼ばれている。
彼が退屈そうに、しかし店中に聞こえる大声で語り始めたのは、昨日のミノタウロス戦での笑い話だった。
「──ッハ! 笑わせんじゃねぇよ!!」
ベートがテーブルをバンと叩き、店中の視線を集める。
「昨日の雑魚の話だ!
ミノタウロスにビビって腰抜かして、最後は逃げ出したあの白髪のガキだよ!!」
ベルが息を呑む気配がした。
聞きたくない現実が、容赦なく鼓膜に響く。
「いやぁ、傑作だったぜ! 俺たちが駆けつけた時には、涙目でガタガタ震えてやがった! 全身返り血で真っ赤に染まってよぉ、ありゃトマトだぜ、トマト!」
ワッと、周囲の冒険者たちがつられて笑う。
その笑い声には悪意がない。
彼らはただ面白い話として笑っているだけだ。
だからこそ、その無自覚な嘲笑は残酷に響く。
「──で、笑えるのがここからだ! ビビりすぎてトチ狂ったのか、破れかぶれで突っ込んで、まぐれで角を折りやがったんだよ!」
「おぉー!?」と店内がどよめく。
上層の冒険者がミノタウロスの角を折るなど、通常あり得ない戦果だ。
だが、ベートはそれを称賛ではなく、あくまで酒の肴として消費した。
「ただの火事場の馬鹿力だ! なのに、そのガキどうしたと思う? 自分のやったことにビビって、そのまま『うわぁぁぁん!』って泣きながら逃げ出したんだよ!!」
ドッ、と爆笑が起きる。
完全なる見下しだ。
結果を出したことすら、マグレとして切り捨て、逃げ出した事実だけを笑い飛ばす。
「せっかくの一撃も、逃げ出しちゃ意味がねぇ! 結局、アイズに助けられなきゃ死んでただけの雑魚だ! 身の程知らずのゴミに生きる価値なんてねぇんだよ!」
ベートの罵倒が続く。
その残酷な一言で、テーブルの中央の爆笑は止まらない。
ベルは、頭を抱えるようにして俯いていた。
彼の唇は噛み締められ、膝の上で握られた拳は白くなっている。
アイズは何も答えない。否定も肯定もしない。
その沈黙が、ベルには何よりも辛いはずだ。
憧れの存在にとって、自分はやはり迷惑で、どうでもいい存在なのだと突きつけられている。
***
ベル・クラネルの心臓は、悲鳴を上げていた。
悔しい。
悔しい、悔しい、悔しい。
反論したかった。僕は違うと叫びたかった。
けれど、ベートの言っていることは全て事実だ。あの角を折った力は自分の力ではない。極限状態で借りた、得体の知れない異物。
借り物の力で格好つけて、逃げ出した恥ずかしい自分。
その事実が、彼の心臓を押し潰している。
憧れ。自尊心。淡い恋心。それら全てが、目の前の圧倒的な事実の前に粉砕された。
視界が滲む。涙が溢れそうになるのを、ベルは必死にこらえた。
これ以上、醜態を晒すわけにはいかない。一刻も早く、ここから消え去りたい。
「──っ!!」
ベルは弾かれたように席を立った。
ガタッと椅子が倒れる音に、店内の視線が一斉に集まる。
(……逃げるか)
ローブを目深に被った男、L.L.は酒の入ったグラスを静かにテーブルに置いた。
その小さな音は、ベートの嘲笑が収まった店内に、不自然に響き渡った。
彼は冷静に観察した。
ここで少年が逃げるのは、感情的な行動だが、ベートの言葉を肯定し、自らの可能性を恥として封印することに繋がる。
L.L.が契約したのは、この停滞した世界に変化をもたらす特異点を観測するためだ。その特異点が、ただの臆病者として歴史の隅に押しやられるのは、彼の目的と反する。
「…やれやれ」
男は深いため息を一つ。
その静かな溜め息は、喧騒の中、不思議とベートのテーブルにだけ響いた。
「高笑いは結構だが、身の程を知れ。お前の遠吠えは、店中の食事の品位を貶めている」
男はグラスに残った酒を飲み干し、冷徹な瞳で狼男を見据えた。
ベートの高笑いが、ピタリと止まる。
ベルは、逃げ出そうとしていた足が、突然の静寂と聞き覚えのある声に制され、ドアの前で立ちすくんだ。
「あぁ? なんだ、テメェ……」
殺気立った狼の瞳が、ローブ姿の男──L.L.へと突き刺さる。
あのミノタウロスを一撃で仕留めた少女とは種類が違う。荒々しく、しかし恐ろしいほどの密度を持つ闘気だ。常人なら動けなくなるほどのプレッシャーが、店内の空気を凍りつかせた。
ベートのセリフは、怒りと傲慢さに満ちていた。
男は口元をナプキンで拭い、冷静を装う。
「あまりにも退屈な話だったものでね。……酒が不味くなる」
一瞬の静寂。
直後、ベートから放たれる気配が変わる。
濃密な殺気が膨れ上がり、店内の空気を鉛のように重く変えていく。
「あぁ? ……今なんつった?」
ベートが低い唸り声を上げ、男の席へと歩み寄る。
誰も声を上げられない。
男は席を立たず、迫り来る青年を正面から見据えた。
「聞こえなかったか? 『遠吠え』と言ったんだ」
「ッハ、いい度胸だ。もう一度言ってみろよ、テメェ!」
ガッ!
男の視界が揺らいだ。
ベートの腕が伸び、男の胸ぐらを無造作に掴み上げる。
抵抗する間もない。圧倒的な腕力によって、男の身体は軽々と宙に吊り上げられた。
「だったら鳴いてみろよ。俺が握り潰す前に、その口でな」
至近距離で浴びせられる、獣の殺気。
弱者を踏み潰すことに何の躊躇いもない、絶対的強者の傲慢さがそこにあった。
吊り上げられた衝撃で、目深に被っていたフードが滑り落ちる。
露わになった男の顔を見て、ロキ・ファミリアのテーブルから声が上がった。
「うわ! えっらいイケメンやな! 見てみぃみんな、こんな顔がオラリオに隠れてたんか!」
「……ロキ、声でかいよ」
「ベート、手を離せ。見苦しいぞ」
主神ロキが騒ぎ出す。周囲の冒険者たちも、その場に不釣り合いな美貌の一般人が、レベル5の怒りを買っている光景に息を呑んだ。
ベルは、ドアの前で立ちすくんだまま、動けない。
(この声……まさか、あの時の……)
彼の脳裏に、ダンジョンでの記憶が微かに蘇る。
疑念と混乱。ベルはただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
胸ぐらを掴まれた男は、苦しげな素振りも見せずにベートを見据える。
周囲が騒然とする中、男は静かに、深く、息を吸い込んだ。
そしてゆっくりと、男の両目に、紅い鳥の紋章が、静かに浮かび上がってきた。