蛇 ~教唆するモノ~ 作:トル
『ふふ、私が何を言いたいかって?
別に何かを言いたいというわけではないよ。
ただ私は、君の世界を広めるだけさ』
『そう、世界。
君の知っていた世界は、
正義と悪が明確で。
悪は正義に裁かれるもので。
人は善意と正義に満ちた存在。
そういう、単純な世界だっただろう?
だけれども、本当の世界はそれほど単純なものではない。
綺麗なものでも、分かりやすいものでもない。
いろんなものが満ち溢れて、ぐちゃぐちゃに混濁したもの。
それこそが世界というものだ』
『そこにあるものは不確実で。
何を信じれば正しい、なんて答えはなくて。
ただ、そこにある。
そんなぐちゃぐちゃな世界の中で、君が何を選びどう生きるのか。
そこに私の興味がある。
限定された用意された世界で、決められたように綺麗に正しく生きる、
そんな生き様はつまらないだろう?』
『だから私は君に世界を教えよう。
君が見ることも聞くこともしてこなかった世界を教えよう。
その広がった世界で君が何を選ぶのかは君次第だ。
君の好みでいい。
君の信念でいい。
ただ「誰かがこう言っているから」と
何も考えず見たくないものから目を逸らして生きるのはやめてほしいものだね。
まぁ、あくまで私の希望なわけではあるが』
『ふふ、急ぐ必要はないさ。
どうせ君に見えていない世界はまだまだ多い。
ゆっくり生きていきたまえ……っと、
そういえばもともとはあの馬鹿の話をするという話だったね』
『そうとも。
では少し、馬鹿のやった馬鹿と、「彼女」の新しい苦難を語ろうか────』
『
──────彼女は「悪」の伝説となった果てに、英雄と出会った。
英雄は正義の象徴であり、彼女と相反する存在だった。
ゆえに彼女と英雄が出会ったとき、戦いとなったのは必然だっただろう。
彼女からしてみれば。
だが英雄は正義を語らなかった。
英雄もかつては正義を振りかざしていた。
けれど英雄の歩んだ軌跡が、見てきた世界が、英雄に「正義」を手放させた。
過ぎた愚劣悪逆を嫌悪することはあれど、ことさらに正義を語ることもなかった。
己の思想に従って、自由に生きていた。
ゆえに、「悪」と「正義」の戦いにはならなかった。
二人の間で起きた戦いは、
あくまで「彼女」と「彼」の戦いだった…… 』
『……迷いながらも目を輝かせているところに悪いのだがね。
それほど格好いい話には……いや、なんでもないとも。格好いいとも』
『……彼女と英雄の戦いは一月にも、及ん、だ。うん。
英雄は歴戦の彼女を知略、に、くくっ、おいて翻弄し、うん。
幾度も彼女を敗北させるに至った。
けれども英雄は彼女を殺すことなく。
敗れてなお挑み続ける彼女を翻弄し続けながら。
語り触れ彼女の孤独と凝固した心を溶かしていった。馬鹿なりに。
一月の戦いの最後。
予期せぬ騒乱が二人を巻き込んだ。
英雄を追う魔の者が、英雄が関わった村を襲った。
英雄はすぐさま察知して駆けつけ、彼女もまた様子見に参じた。
そして英雄と魔が戦い始める。
多くの魔を相手にしてなお英雄は強者だった。
その武は圧倒的であり、魔が幾ら数がいようと関わりなかった。
されどその魔は卑劣だった。
村の子供を質として、英雄の動きを縛った。
英雄が歯噛みし、魔が笑ったとき……
彼女が敵たる英雄に力を貸した。
彼女と英雄二人の力に、卑劣な魔では届くはずもなく。
二人は容易に村を救った。
村の感謝は彼女にも向かい、それもまた心を溶かす温もりとなる。
そうして。
彼女は英雄を認め。
英雄を愛した 』
『英雄はその
人の中で生きよ、という呪いを。
それは彼女の自由を縛るものであり、悪の矯正という説明はなされたが。
彼女を害しえぬように英雄は配慮しており。
彼女が暴力や悪意から離れ、人々と交えることのできる呪い。
それが彼女のことを思っての呪いであることは明らかだった。
英雄は馬鹿で。単純で。考え足らずの暴走気味な存在ではあったが。
それでも正しく「救う者」だった 』
『─────ここまでは、良い話。
英雄は彼女を救うための道を用意した。
けれども。
彼女を救い切る前に、英雄は世界から失われた 』
『英雄は約束していた。
彼女が光に生きれば、呪いを解き自由にすると。
彼女は積極的にではなくとも、英雄の指針には従っていた。
次に英雄が訪れたときに解放されるだろうと信じていた。
決められた土地に縛られて一年。
慣れぬ人の中の生活で、困惑を続けた。
二年。
ある程度の慣れとともに、自らと無縁だったものを楽しんだ。
三年。
そろそろ良いのではないかと、英雄を待つ。
四年。
英雄は現れることがない。
彼女が親しくなった人々がいなくなっていく。
五年。
変わることのない日常。
他の人々には通過点でしかないその場所は、彼女に知己を与えない。
三年も経てば、ほとんどの知己は去っていく。
六年。
努力する目標も、努力する意味も見えない日常。
彼女は孤独に戻りゆく。
七年。
八年。
英雄の用意した彼女の為の道は、彼女を苛むものとなっていく。
九年。
十年。
彼女を救った者は帰ることなく。
彼女を再び救う者は現れない。
十一年。
十二年。
十三年……
自由なき籠の鳥。
意味なき日々の繰り返し。
どうせ過ぎ去るものと、深く近付かなくなった人の森。
彼女は人の中にいながら、避けえぬ孤独を受け入れる───────』
『
……ふふ、そんな顔をするものではない。
まだ「彼女」の生が終わったわけではないのだから』
『さて、ね。
ところで少年。
もし、この「彼女」に出会ったら、君はどうする?』
『……まぁ、確かに父のやり残したことには違いないけれど。
傲慢だね、少年』
『「かわいそう」? たしかに彼女は悲惨すぎる生を歩んだ。
しかし、ね。
君如きに同情されるほど、彼女は卑小な存在ではない』
『同情さ。悲惨な経験を歩んだものを、君は「かわいそう」と思うだろう。
だがそれは恵まれた生を歩んだ者が、上から目線で哀れむ視線だ』
『少年。
悲惨な過去をもつということは、それを乗り越えたということだ。
それを乗り越えられるほどの強者だということだ。
その崇高なる者を、上から目線で哀れむ? 大概にしたまえ。
君が彼女の背負った不運に見舞われたら君はどうなるだろうか?
彼女のように戦い抜けるか?
彼女のように生き延びられるか?
彼女のように強く気高くあれるのか?
分かるだろう?
君が凄絶な過去を持つ者に出会ったときに抱くべきは、同情ではない。
その者の持つ強さの理解と驚嘆と。
己より遥か高き者へ向けるべき思い、だ』
『……君はやはり聡いね。視野が広がれば、理解すべきは理解する。
さて。今日の話はなかなか参考になっただろう?
…………ふふ、君の辿り着く結果を楽しみにしているよ』
『ああ、そうだ。
次に来るときは、可愛く美しい、気高い