「越中さん、“一回しか使ってない”って、何回までだと思う?」
「一回じゃないんすか?」
「だよねぇ」
午後三時過ぎ。
夕方のピークが来るにはまだ少し早く、私はサービスカウンター横で返品された商品の仕分けを手伝っていた。
声を掛けてきたのは、サービスカウンター担当のパート、佐伯さん。
四十代半ばくらい。
いつも穏やか。
面倒なお客さん相手でも、
「そうですねぇ」
「申し訳ございませんねぇ」
「一度確認してまいりますねぇ」
の三段活用で大体なんとかしてしまう人である。
個人的には、この人の血液には赤血球とか白血球じゃなくて慈悲が流れてるんじゃないかと思っている。
「何かあったんすか?」
「これなんだけど」
佐伯さんがカウンターの下から何かを取り出した。
電動丸ノコだった。
「……うわ」
汚い。
めちゃくちゃ汚い。
本体の隙間には木屑。
底面には細かな傷。
コードにも白っぽい粉が付着している。
刃なんて新品特有のピカピカ感とは程遠く、素人の私が見ても明らかに、
使いました。
という顔をしていた。
「これ、“一回しか使ってない”んだって」
「家でも建てたんすか?」
「私も聞きたい」
佐伯さんはいつもの穏やかな顔で笑った。
「返品したいらしいよ」
「返品?」
「うん」
「これを?」
「うん」
「……返品?」
「二回聞くよねぇ」
いや聞くでしょうよ。
「壊れてるんすか?」
「ううん。“思ってたのと違った”んだって」
「うわぁ……」
来た。
返品理由界の万能カード。
思ってたのと違った。
未使用ならまだ分かる。
箱を開けたらサイズを間違えていたとか、用途に合わなかったとか。
そういうのなら規定内で返品できる場合もある。
だが。
「レシートあるんすか?」
「ない」
「箱は?」
「ない」
「購入日は?」
「昨日だって」
「昨日」
「うん」
私はもう一度丸ノコを見る。
「昨日一日でこれ?」
「すごいよねぇ」
「やっぱ家建てたんじゃないっすか?」
佐伯さんが小さく笑う。
「で、購入履歴を調べてみたんだけど」
「はい」
「三か月前だった」
「でしょうね」
驚きがない。
むしろ昨日だったらそっちの方が驚く。
「なんて言ってるんすか?」
「“細かいことはいいだろ”って」
「三か月は細かくないっすね」
「“こっちは客なんだぞ”とも言ってた」
「出ましたね、伝家の宝刀」
こっちは客だぞ。
客商売をしていると、たまに聞く。
個人的には、
だから何?
という言葉を飲み込む精神修行が始まる魔法の言葉である。
「今どこにいるんすか、そのお客さん」
「あそこ」
佐伯さんが視線だけ動かした。
少し離れたところに、六十代くらいの男性が腕を組んで立っている。
見るからに不機嫌。
その少し手前では、田部君が別のお客さんを接客していた。
「この木材なら屋外で使うんですよね?」
「ああ。庭にちょっと棚作ろうと思って」
「ならそのままだと持ち悪いんで、防腐塗料塗った方がいいっすね。こっちの方が耐久性は高いですけど、値段も上がるんで」
田部君が二種類の商品を見せる。
「屋根の下で使うなら、俺だったら安い方でいいと思います。予算もあると思うんで、ご一考までに」
「なるほどなぁ。じゃあ安い方にするわ」
「塗るなら刷毛こっちにありますよ。必要なら案内します」
「ありがとう」
「いえいえ」
普通だ。
普通どころか、ちゃんとしている。
田部君は商品知識もあるし、仕事も早い。
困っているお客さんには普通に親切だ。
というか多分、店員としてだけ見ればかなり優秀な部類に入る。
問題は。
「おい!」
例の男性がこちらへ歩いてきた。
「いつまで待たせるんだ!」
「申し訳ございません。今、責任者を呼んでおりますので」
「そんなもんいいから返金しろ!」
こういう人が相手になった時である。
「こちらの商品は使用済みですし、購入からも期間が経っておりますので、すぐの返金は難しいんです」
「一回しか使ってねぇよ!」
佐伯さんは穏やかに頷く。
「はい。ですが、一度でも使用された電動工具の返品は――」
「一回だぞ!?」
「はい」
「一回しか使ってねぇんだから新品と同じだろ!」
新品と同じ。
私は丸ノコを見る。
丸ノコもこっちを見ている気がした。
いや無理あるだろ。
「それに三か月前とか関係ねぇだろ! 昨日使ったんだから昨日買ったようなもんだ!」
どういう理屈?
買ったのは三か月前だけど、使ったのが昨日だから実質昨日購入。
新しい暦でも制定したんだろうか。
「申し訳ございませんが、購入日は購入履歴で確認できておりますので」
「だから細かいんだよ!」
「細かくはないと思いますけど」
声がした。
あ。
来た。
さっきまで爽やかに接客していた田部君である。
「田部君」
「どうも」
「今まで普通だったのに何で来たんすか?」
「普通だったのにって何すか」
「いや、そのまま普通でいてほしかったなって」
「返品で揉めてるんすよね?」
「そうだけど」
田部君が丸ノコを見る。
「……これ返品?」
「一回しか使ってないんだよ!」
男性が睨む。
田部君は丸ノコを見て、男性を見て、また丸ノコを見る。
「一回でここまで使ったんすか?」
「そうだ!」
「すごいっすね」
「何がだ!」
「いや、一回でこんだけ使い込めるなら普通に作業量すごいなって」
「田部君」
佐伯さんが笑顔のまま呼ぶ。
「はい」
「戻ろうか」
「まだ何も言ってないですけど」
「これから言うから戻ろうか」
「はい」
強い。
佐伯さん、田部君の扱いに慣れている。
田部君は戻ろうとした。
が。
「なんだその態度は!」
男性が呼び止める。
「客を馬鹿にしてんのか!」
田部君が止まった。
あ。
ダメだ。
スイッチ入った。
「別に馬鹿にはしてないっすよ」
「だったら返品しろ!」
「それは無理っすね」
「何でお前が決めるんだ!」
「決めてるの俺じゃなくて規定なんで」
「規定規定って! 客より規定の方が大事なのか!」
「規定無視して何でも返品できる方がヤバくないっすか?」
「田部君」
「はい」
「今度こそ戻ろうか」
「はい」
ギリギリだった。
もう二往復くらいしたら何か余計なことを言う。
田部君の何が厄介って、言っている内容だけなら大体間違っていないところである。
ただ。
接客業には、正しいことなら全部そのまま言っていいというルールはない。
田部君はたまにそこへ反逆する。
「なんだあいつは!」
「申し訳ございません」
佐伯さんが頭を下げる。
「ですが、返品については規定がございますので」
「責任者出せ!」
「今こちらに向かっております」
「遅ぇんだよ!」
「お待たせしました!」
そこへ店長が早足でやってきた。
「店長の――」
「お前が責任者か!」
「はい」
「この店どうなってんだ! 一回しか使ってない商品を返品できないとかあり得ないだろ!」
「まず状況を確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
「さっきから何回説明させるんだ!」
店長の目から少しだけ光が消えた。
あ。
今夜愚痴るやつだ。
佐伯さんが簡潔に説明する。
三か月前購入。
レシートなし。
箱なし。
使用済み。
不具合なし。
返品理由は思っていたものと違った。
店長が丸ノコを見る。
一秒。
二秒。
「……かなりご使用されていますね」
「一回だ!」
「回数ではなく、使用済みかどうかのお話になりますので……」
「じゃあ何か!? 一回使ったら返品できねぇのか!」
「基本的には、そうなります」
「ふざけんな!」
お客さんの声が店内に響く。
近くのお客さんがちらちらこちらを見る。
嫌だなぁ、こういう時。
こっちが悪いなら申し訳なさで胃が痛くなるし。
こっちが悪くなくても注目されるから胃が痛くなる。
どっちにしても胃が痛い。
最終的に。
店長が規定を説明し。
メーカー修理なら受付可能であることを伝え。
お客さんは、
「二度とこんな店来るか!」
とお決まりの言葉を残して帰っていった。
自動ドアが閉まる。
静かになった。
「……」
「……」
「……」
店長が深く息を吐いた。
「疲れた……」
「お疲れ様です」
「佐伯さん、最初からずっとあれ?」
「うん」
「すごいね……」
「店長もお疲れ様」
佐伯さんは相変わらず穏やかだった。
「いやぁ……佐伯さんって本当に怒らないっすよね」
「そう?」
「私だったら途中で顔に出てると思います」
「接客でいちいち怒ってたら身が持たないからねぇ」
「もう仏っすね」
「そんなことないよぉ」
佐伯さんはいつもの優しい笑顔を浮かべた。
そして。
「まあ、今のジジィは二度と来んなって思ってるけど」
真顔だった。
「佐伯さんもちゃんと人間だった」
「失礼だなぁ」
「でも本人も二度と来ないって言ってましたしね」
「あー」
佐伯さんが微妙な顔をする。
「それねぇ」
「なんすか?」
「越中さん、ああいう人って次いつ来ると思う?」
「……二度と来ないんじゃないんすか?」
「来ますよ」
後ろから田部君。
「まだいたんすか」
「仕事してますからね?」
「じゃあ次いつ来ると思います?」
「土日じゃないっすか?」
「早くない!?」
「そんなもんっすよ」
「いやいやいや」
私は笑った。
「今日木曜っすよ?」
「だから土曜か日曜」
「二、三日しか経ってないじゃないっすか」
「来ますって」
「まさかぁ」
「こういう人ほど来るんすよ」
田部君が当然のように言う。
「経験則?」
「経験則っす」
「嫌な経験則持ってんなぁ」
「田部君、その方面だけ妙に経験値高いからねぇ」
佐伯さんが言う。
「その方面だけって何すか」
「クレーム方面」
「不本意なんすけど」
それはこっちも知っている。
田部君は別に、普通のお客さんと喧嘩したいわけではない。
むしろさっきみたいに、困っている人への接客ならちゃんとしている。
ただ理不尽に押し切ろうとされると、
何故か絶対に一歩も引かなくなる。
店員という立場より先に、人間として反論し始める。
そのせいで本部から店長へ電話が来る回数は、うちの店で堂々の一位らしい。
何の一位だ。
「じゃあ賭けます?」
田部君が言った。
「面白そうやん」
いつの間にか中嶋さんまで混ざってきた。
「ウチ、来週!」
「私は一ヶ月くらいっすかねぇ」
「佐伯さんは?」
「来週かなぁ」
「店長は?」
「なんで俺まで参加するの?」
「いいじゃないっすか」
「……二週間」
「じゃあ俺、土曜で」
田部君だけ異様に早い。
「ピンポイントで明後日!?」
「土曜の昼くらいじゃないっすかね」
「時間まで!?」
「買い物来るならその辺っしょ」
「ないない」
私は笑いながら手を振った。
あれだけ怒鳴って。
あれだけ店の悪口を言って。
最後には、
『二度とこんな店来るか!』
である。
普通なら、少なくともしばらくは来ない。
普通なら。
二日後。
土曜日。
午前十一時四十七分。
「越中さん」
「はい?」
サービスカウンターで佐伯さんに呼ばれた。
「来たよ」
「何がです?」
「ほら」
佐伯さんが売場の方を指差す。
見覚えのある後頭部があった。
「……」
私は目を細める。
六十代くらい。
見覚えのある服。
見覚えのある歩き方。
そして何より。
「店員! ちょっと来い! このホースどこにあるんだ!」
「……」
元気いっぱいだった。
「田部君」
近くで品出ししていた田部君を呼ぶ。
「はい?」
「来ました」
「だから言ったじゃないっすか」
「マジで土曜日に来た……」
私は時計を見る。
「しかも昼前」
「惜しかったっすね」
「そこ褒めてない」
田部君が少し得意げに笑う。
「『二度と来るか』って言う人、普通にまた来るんすよ」
「じゃあ二度と来るって何なんすか」
「挨拶じゃないっすか?」
「嫌すぎる挨拶だなぁ」
遠くから声が飛んできた。
「おい! 店員いないのか!」
「いますよー!」
佐伯さんがいつもの穏やかな声で返事をする。
そして私たちの横を通り過ぎる瞬間。
「ほんとに来やがった」
小さく呟いた。
「佐伯さん?」
「行ってきまーす」
一瞬で接客スマイルに戻った。
強い。
「ちなみに越中さん」
「なんすか?」
「あの人、ホース選びで困ってたら普通に接客しますよ、俺」
「そこはちゃんとするんすね」
「そりゃそうでしょ。今は返品ゴネてないんで」
「切り替え早いなぁ」
「客として普通なら普通に対応しますって」
それも田部君らしい。
昨日まで理不尽に揉めた相手だからといって、今日普通に買い物しているなら普通に接客する。
ただし。
また理不尽を言い始めたら多分、同じ速度で反逆する。
「おい兄ちゃん! このホース、俺ん家の蛇口に付くのか?」
「蛇口の形分かります?」
「普通のだよ!」
「普通だと分かんないんで、写真あります?」
「あるぞ」
「じゃあ見せてもらえます?」
田部君が普通に接客を始めた。
「これならこのジョイントでいけます。ただ、こっちのセット買うより単品で揃えた方が安いっすよ」
「そうなのか?」
「はい。長さも十メートルで足りるなら十五メートル買う必要ないんで」
「じゃあそっちにするわ」
「ありがとうございます」
昨日あれだけ揉めた客と。
昨日あれだけ反抗した店員が。
何事もなかったようにホースを選んでいる。
もう分からない。
客商売、分からない。
一昨日、
『二度とこんな店来るか!』
と怒鳴った店に二日後普通に来て。
その時揉めた店員から普通に商品説明を受けて。
「ありがとな、兄ちゃん」
「いえいえ」
普通に帰っていった。
「……田部君」
「はい?」
「この仕事、意味分かんないっすね」
「今更っすか?」
今日も私は笑顔で声を出す。
「ありがとうございましたー」
ただ一つだけ言わせてほしい。
二度と来ないんじゃなかったんかい。