コーインズホームには、白いバッジというものがある。
名札の横に付ける、小さな白いバッジ。
見た目だけなら大したものではない。
だが店員側からすると、少し意味が違う。
接客。
商品知識。
勤務態度。
作業の正確さ。
そういうものを総合的に見て、優秀だと判断された店員に定期的に贈られる。
要するに、
『この人、ちゃんと仕事できますよ』
という店側からのお墨付きみたいなものだ。
しかも給与の査定にも多少影響する。
つまり。
「欲しい」
休憩前、レジ横で私は白いバッジを付けた佐伯さんの名札を見ながら呟いた。
「何が?」
「白いやつ」
「ああ、これ?」
佐伯さんが自分の胸元を見る。
「給料上がる可能性あるんすよね?」
「まあ、多少ねぇ」
「欲しい」
「越中さん、欲望に忠実だねぇ」
金が欲しくない労働者がいるだろうか。
私は少なくとも知らない。
「中嶋さん持ってましたっけ?」
「持ってへんで」
近くにいた中嶋さんが即答する。
「一緒っすね」
「なんやその安心した顔」
「仲間がいるなって」
「ウチは次いけると思ってるからな?」
「裏切る気だ」
「向上心と言って」
そんな話をしている横を、田部君が台車を押して通り過ぎた。
胸元を見る。
当然。
白いバッジはない。
「……」
「何すか?」
「いや」
「めっちゃ名札見てたじゃないっすか」
「白いのないなぁと思って」
「ああ」
田部君は興味なさそうに自分の胸元を見た。
「そりゃないっすよ」
「仕事だけなら絶対ある側なのに」
品出しは早い。
資材も分かる。
工具も分かる。
鍵もいける。
接客も普通に上手い。
困っているお客さん相手なら、下手な社員より説明が丁寧な時すらある。
なのに。
「田部君、今年も本部クレーム店内一位らしいで」
中嶋さんが言った。
「だから俺がクレーム入れてるみたいに言うのやめてもらっていいっすか?」
「でも名指し多いやろ?」
「多いらしいっすね」
「他人事やん」
「俺、数えてないんで」
「普通数えへんわ」
ただ。
田部君について本部に届くのは、クレームだけではない。
むしろ逆方向のものも、かなり多い。
『工具選びを丁寧に説明してくれた』
『予算に合わせて無理に高い物を勧めなかった』
『他店で買った商品なのに使い方を一緒に考えてくれた』
『説明が分かりやすかった』
そういう、お褒めの声。
それも名前付きで。
かなり届くらしい。
だから余計にややこしい。
「今日、本部の人来るんすよね?」
私が聞くと、佐伯さんが頷いた。
「うん。接客とか売場とか見るみたい」
「抜き打ち?」
「一応店長は知ってたみたいだけどねぇ」
「じゃあ今日大人しくしてたらワンチャンあるんじゃないっすか、田部君」
「何のワンチャンっすか」
「白バッジ」
「一日だけ猫被って評価されてもしょうがないでしょ」
「猫被る自覚はあるんや」
「別に普段から普通っすよ」
三人で田部君を見る。
「何すか、その目」
普通。
普通ではある。
理不尽が発生しなければ。
午後一時。
本部から来た人は、思っていたより普通のおじさんだった。
スーツ。
ネームプレート。
五十代くらい。
店長と一緒に売場を回りながら、時々店員に話を聞いている。
私と中嶋さんがレジから様子を見ていると、二人は工具売場の手前で足を止めた。
「そういえば」
本部の人が、手元の資料を見ながら店長に言った。
「田部って人、二人いるの?」
店長が止まった。
「……一人です」
「本当に?」
「一人です」
「『説明が丁寧だった』『予算まで考えてくれた』『他店の商品でも相談に乗ってくれた』ってお褒めが来てる田部君と」
「はい」
「『態度が悪い』『客を馬鹿にしている』『言い返された』ってクレームが来てる田部君」
「はい」
「同じ人?」
「同じです」
本部の人が資料を見る。
店長を見る。
また資料を見る。
「二重人格とかじゃなく?」
「理不尽なことを言われなければ前者です」
「条件があるんだ……」
私は危うく吹き出しかけた。
本部の人がさらにページをめくる。
「でも、お褒めの数もかなり多いよね?」
「はい」
「店内でも上の方?」
「かなり上です」
「じゃあ何で白バッジないの?」
店長が遠い目をした。
「その褒めを全部クレームで相殺してくるんですよ」
「そんな相殺方式ある?」
「私もないと思ってます」
「じゃあ、能力自体は高い?」
「高いです」
「商品知識は?」
「あります」
「仕事は早い?」
「早いです」
「接客は?」
「普通のお客様にはかなり良いです」
「……本当に同じ人?」
「だから一人ですって」
店長の声に少しだけ疲労が混じった。
多分これまで何度も説明してきたのだろう。
そしてその本人は。
「あ」
工具売場にいた。
しかも接客中。
五十代くらいの男性客が、電動工具を二つ並べて悩んでいる。
「この二つ、何が違うの?」
「一番大きいのはバッテリーっすね。こっちの方が容量あるんで長く使えます」
「じゃあ高い方がいい?」
「使い方次第ですね」
田部君はすぐに高い方を勧めなかった。
「何に使います?」
「家の棚とか。たまに車庫で使うくらいかな」
「なら俺だったら安い方にします」
「高い方じゃなくて?」
「性能は高いですけど、その使い方だと持て余すと思います。こっちでも十分ですし、その差額でビット買った方が多分便利っすよ」
「なるほどな」
「ただ、今後ウッドデッキ作るとか、長時間使う予定あるなら高い方でもいいと思います。予算もあると思いますので、ご一考までに」
「じゃあ安い方にしようかな」
「その方がいいと思いますよ」
「助かったよ。ありがとう」
「いえいえ」
普通。
めちゃくちゃ普通。
いや、普通に良い接客。
本部の人は少し離れたところから最後まで見ていた。
お客さんが去ったあと。
「……あ」
本部の人が小さく言った。
「はい?」
店長が見る。
「褒められてる方の田部君だ」
「はい」
「本当にいたんだ」
「だから言ってるじゃないですか」
店長がちょっとだけムッとしていた。
二人が田部君へ近付く。
「君が田部君?」
「はい」
本部の人が田部君を見る。
名札を見る。
また顔を見る。
「……本当に?」
「何すか、その反応」
「いや、失礼」
本部の人が苦笑する。
「名前は何度も見てたから」
「あー」
田部君も察したらしい。
「褒める方っすか、怒ってる方っすか」
本部の人が止まった。
「自覚あるんだ」
「本部から何か来たら店長に言われるんで」
店長が横でため息をついた。
「でも、さっきの接客はすごく良かったよ」
「ありがとうございます」
「無理に高い物も勧めないし、用途も聞いてた」
「その方が後で困らないんで」
「説明も分かりやすい」
「どうもです」
本部の人が店長を見る。
「この子、本当に白バッジないんだね」
「……はい」
「勿体なくない?」
「それはもう、本当に」
「お褒めも多いんでしょ?」
「多いです」
「じゃあ――」
「おい!!」
声が飛んだ。
店長の顔が止まった。
本部の人も振り向いた。
田部君も振り向いた。
私は遠くから、
あ。
と思った。
来た。
よりによって今。
六十代くらいの男性客が、カットされた木材を抱えてこちらへ来る。
「これ長さ違うぞ!」
田部君が木材を見る。
「何センチで頼みました?」
「九十だ!」
田部君がメジャーを出す。
測る。
「九十ですけど」
「違う!」
「九十センチありますよ」
「俺が家で測ったら八十九だった!」
「今ここで九十ありますね」
「家のメジャーが正しい!」
何その信頼関係。
「一応もう一回測りますね」
田部君が端を合わせる。
「九十です」
「だから違うって言ってんだろ!」
「じゃあ、どの辺が違います?」
「八十九なんだよ!」
「今九十ありますよね?」
「お前が測り方誤魔化してるんだろ!」
田部君の顔から、さっきまでの接客用の柔らかさが少し消えた。
本部の人が店長を見る。
店長も見る。
本部の人が小声で聞いた。
「……もしかして」
「はい」
「もう一人の田部君?」
「来ましたね」
「来るの早くない?」
「今日は特に」
本人は一人しかいない。
なのに本部の人の中では、もう二人いることになっていた。
「誤魔化してないっすよ」
「客に向かってその言い方は何だ!」
「普通に説明してるだけです」
「家じゃ八十九なんだよ!」
「じゃあ家のメジャー持ってきてもらっていいっすか?」
「は?」
「ここで比べたらどっちが違うか分かるんで」
「俺を疑ってんのか!」
「いや、メジャーを疑ってます」
来た。
反逆開始。
接客業という巨大な帝国に、一人で反旗を翻す男。
たまにルルーシュかと思う。
残念ながらギアスはない。
あるのはメジャーだけである。
「お前らが間違えたんだろ!」
「今測って九十なんで、少なくとも今ここでは間違ってないっすね」
「じゃあ俺が嘘ついてるって言うのか!」
「嘘とは言ってないです」
「同じことだろ!」
「違いますよ」
「田部君」
店長が静かに名前を呼ぶ。
「はい」
「ちょっとだけ柔らかくいこうか」
「俺、柔らかいっすよ」
「君の柔らかいは世間の普通だから!」
「じゃあ大丈夫じゃないっすか」
「そういう意味じゃない!」
本部の人が横で口元を押さえた。
笑っている場合ではない。
「とにかく作り直せ! あと手間かけさせたんだからタダにしろ!」
「それは無理っすね」
「何だと!」
「商品九十センチありますし、作り直す理由も無料にする理由もないんで」
「客が困ってんだぞ!」
「困ってるのは分かりますけど、だからって九十センチが八十九センチにはならないっす」
本部の人が小さく息を吐いた。
多分、さっきの「勿体なくない?」を若干撤回し始めている。
「本部に言うぞ!」
「どうぞ」
店長が天を仰いだ。
私は思わず目を閉じた。
よりによって。
その本部の人。
今、真横にいる。
「本部に言えばお前なんかクビだ!」
「じゃあ今言います?」
「は?」
田部君が横を見る。
「本部の人、そこにいるんで」
「田部君!?」
店長の声が裏返った。
本部の人も一瞬固まった。
お客さんも固まった。
「……本部?」
「はい」
田部君が普通に指差した。
「ちょうど視察来てます」
「ちょっと田部君、紹介の仕方!」
「いや、言うって言うから」
「そういう問題じゃない!」
本部の人が額を押さえた。
お客さんは一瞬だけ勢いを失った。
が。
すぐに立て直した。
「じゃあちょうどいい! お前、本部なんだな!?」
「はい。本部の者です」
「だったらこいつを何とかしろ!」
お客さんが田部君を指差す。
「客に向かってこの態度だぞ!」
「まず商品の状態を確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「見ろ!」
本部の人がメジャーを受け取る。
木材の端に合わせる。
一度。
もう一度。
「……九十センチですね」
「家じゃ八十九だったんだ!」
「ご自宅で使用されたメジャーとの誤差の可能性もありますので、一度そちらも確認していただければ――」
「俺のメジャーが間違ってるって言うのか!」
「可能性のお話です」
「じゃあお前もこいつの味方か!」
味方とか敵とかの話だったの、これ。
本部の人の顔が少し疲れた。
「いえ、そういうことではなく、現時点でこちらの商品はご指定通り九十センチありますので」
「だったら家まで来て測れ!」
「それはできかねます」
「何でだ!」
「出張測定のサービスは行っておりませんので」
「サービス悪いな!」
そこまでサービスに含めるな。
全国のホームセンター店員が各家庭へメジャーを持って出張する未来が見えた。
地獄である。
「とにかく作り直せ! 無料で!」
「商品に加工上の問題が確認できませんので、無料での再加工は難しいです」
「ほら! 結局こいつと同じこと言ってるじゃねぇか!」
本部の人が一瞬黙った。
「……内容としては、田部の説明で間違ってはいません」
店長が横で小さく頷いた。
田部君も頷いた。
「ですよね」
「田部君は今黙ってようか」
「はい」
そこは即答だった。
「じゃあ何でこいつはこんな偉そうなんだ!」
本部の人が詰まる。
「……それについては」
ちらっと田部君を見る。
田部君も見る。
「……今後、接客態度について指導します」
「ほら見ろ!」
お客さんが勝ち誇った。
田部君が口を開く。
「でも長さは九十ですけどね」
「田部君」
「はい」
「今、黙ってようかって言ったよね?」
「はい」
「じゃあ黙ろうか」
「はい」
三秒持たなかった。
「とにかく俺は納得してないからな!」
「お気持ちは分かりますが、商品はご指定通りですので――」
「もういい! 二度と来るか!」
男性客が木材を抱えて歩き出す。
「ありがとうございましたー」
田部君が普通に声を掛けた。
「田部君!」
「帰るお客さんには言いますよね?」
「言うけど! 今じゃない!」
男性客が振り返る。
「お前! 最後までその態度か!」
「いや、挨拶ですけど」
「もうええわ!」
今度こそ自動ドアの向こうへ消えていった。
静かになった。
「……」
「……」
「……」
本部の人が田部君を見る。
田部君も見る。
「何すか?」
「君さ」
「はい」
「説明は全部合ってるんだよ」
「ありがとうございます」
「そこじゃないんだよ」
「?」
本部の人が店長を見る。
「……なるほどね」
「分かってもらえました?」
「うん」
店長の声には、妙な安堵があった。
多分今まで何度も、
『田部君は仕事はできるんです。ただ……』
と説明してきたのだろう。
そして今日。
ようやく本部の人に、その『ただ』の部分を現物で見せることができた。
「田部君」
「はい?」
「一個聞いていい?」
本部の人がさっきの木材売場を見る。
「今の対応、もしやり直せるとしたらどうする?」
「ああ」
田部君は少し考えた。
本当に少しだった。
「最初に店のメジャーを二本用意しますね」
「二本?」
「一本だけだと『そのメジャーがおかしい』って言われる可能性あるんで、別メーカーの二本で測ります」
「ああ……なるほど」
「できれば金尺も使います。三つで九十なら、少なくとも店側の測定ミスじゃないって説明しやすいんで」
本部の人が頷く。
「それはいいね」
「あと、お客さんの家で八十九だったって話も否定しないです」
「というと?」
「『ご自宅で八十九だったなら、測定器具によって誤差が出ている可能性があります』って説明します」
「うん」
「その上で、必要なのが本当に九十センチの木材なのか、それとも家で測った場所に収まる木材なのか確認します」
本部の人が少し目を見開いた。
「……ああ」
「例えば棚の隙間に入れたいとかなら、九十か八十九かで揉めるより、その場所の実寸に合わせた方が早いんで。寸法を測り直してもらって、必要なら再カットを案内します」
「なるほど」
「有料になるなら先に料金も説明します。加工ミスじゃない以上、無料にはできないんで」
「……それ、かなりいい対応じゃない?」
「普通じゃないっすか?」
普通ではない。
少なくとも私は、今この場でそこまでポンポン出てこない。
本部の人も少し感心していた。
「店長さん」
「はい」
「この子、本当に頭の回転速いね」
「そうなんですよ」
「商品知識もあるし、代替案も出せる」
「そうなんですよ」
「お客さんの目的まで考えてる」
「そうなんですよ」
店長が全部ものすごい勢いで肯定する。
本部の人が首を傾げた。
「じゃあ何でさっきそれをやらなかったの?」
「最初はやろうとしてましたよ」
田部君が言った。
「でも途中で『お前が誤魔化してる』って言われたんで」
「ああ……」
「その辺から、もう説明より『九十は九十だろ』って話になりました」
「そこで乗っちゃうんだ」
「だって九十は九十じゃないっすか」
「田部君」
店長が口を挟む。
「何です?」
「君はね、頭の回転が速いの」
「ありがとうございます」
「褒め終わってない」
「はい」
「相手が何言ってくるかも大体先に分かるでしょ?」
「まあ」
「だから答えるのも早い」
「はい」
「そのせいでたまに、相手が喋り終わる前に正論が飛んでいくんだよ!」
「待つ意味あります?」
「そういうところ!」
本部の人が吹き出した。
「いや、でも分かった」
笑いながら田部君を見る。
「君、煽ってるつもりはないんだね」
「ないですよ」
「本当に?」
「本当に」
「『じゃあ今本部の人いるんで言います?』は?」
「効率いいかなって」
「煽ってるよ!」
「何でですか」
「普通はその場で本部召喚しないんだよ!」
「本人が本部に言うって言ったから、ちょうどいるなって」
「ほら、それ!」
本部の人が店長を見る。
「悪意がない分、難しいね」
「そうなんですよ……」
「でも俺、嘘ついてないですよ」
「それも分かるんだよ」
本部の人が腕を組む。
「多分君、お客さんが普通に相談してくる分にはかなり接客上手いでしょ」
「まあ、普通には」
「だからお褒めも多い」
「らしいっすね」
「でも相手が理不尽なこと言った瞬間、問題解決より正誤判定が優先される」
田部君が少し考えた。
「……それはあるかもしれないっすね」
「お」
店長が少し嬉しそうな顔をした。
「田部君が自覚した」
「ただ」
「ただ?」
「間違ってることを正しい前提で解決策考えたら、後でもっと面倒になりません?」
「正しい!」
本部の人が即答した。
「正しいんだよ!」
頭を抱えた。
「君、ずっと言ってることは正しいんだよ!」
「じゃあ何がダメなんすか」
「伝え方!」
「そこは相手にも改善してほしいっすね」
「相手の改善案まで出すな!」
店長が耐え切れずに笑った。
本部の人も笑っている。
「……本当に二人いるみたいだな」
本部の人がぼそっと言った。
「だから一人ですって」
店長が即座に返す。
「褒められる田部君と、クレーム来る田部君」
「一人です」
「同じ制服着てる?」
「同じ身体です」
「切り替えスイッチとかある?」
「理不尽です」
店長が即答した。
「そこ押すと後者になります」
「分かりやすいなぁ」
「勝手に俺の取扱説明書作らないでもらっていいっすか?」
「もう本部の資料より分かりやすいよ」
「それ褒めてます?」
「半分くらい」
「微妙っすね」
本部の人が田部君の胸元を見る。
白いバッジはない。
「能力だけなら、普通に候補なんだけどなぁ」
「じゃあ下さいよ」
「今すごく迷ってる」
「何でです?」
「君に白バッジ付けた翌日に本部へ名指しクレーム来る未来が見えるから」
「その前日にお褒め来るかもしれないじゃないっすか」
「相殺する気!?」
「してるのそっちじゃないっすか」
本部の人が一瞬黙った。
店長が吹き出した。
「……今の返し、速いなぁ」
「そうなんですよ」
「それが接客に全部いい方向で出ればなぁ」
「本当にそうなんですよ」
「またそれっすか」
本部の人が苦笑する。
「でも、今日でよく分かったよ」
「何がです?」
「田部君が二人いるんじゃなくて」
「はい」
「一人の田部君が、客によって評価を真っ二つにしてるんだね」
「俺が割ってるみたいに言うのやめてもらっていいっすか」
「その言い返しの速さだよ」
「店長さん」
「はい」
「この子、俺にも反逆し始めてない?」
「早かったですね」
「してないっすよ!」
どうやら田部君の反逆に、役職は関係ないらしい。
その日の夕方。
「で、どうだったん?」
中嶋さんが聞いた。
「何が?」
「白バッジ」
「無理じゃないっすか?」
私が答えた。
「何で越中さんが答えるんすか」
「今日の見たら分かるでしょ」
「でも本部の人、仕事自体はかなり褒めてたやろ?」
「褒めてましたね」
「じゃあワンチャンあるんちゃう?」
「あると思いますよ」
田部君が言った。
「強気やな」
「お褒めも来てるらしいんで」
「クレームも来てるけどな」
「プラスマイナスでプラスならよくないっすか?」
「ポイントカードみたいに言うな」
佐伯さんが通りかかった。
「田部君、本部の人に何て言われたの?」
「『能力はあるんだけどねぇ』って」
「あらぁ」
「あと『もう少しワンクッション置けるといいね』って」
「何て返したん?」
「『相手もワンクッション置いてくれたら俺も置きます』って」
「それや!」
中嶋さんが即座に突っ込んだ。
「何で?」
「そこやから白バッジ遠いねん!」
「でも一方的にこっちだけ要求されるのおかしくないっすか」
「また始まった」
私は田部君の胸元を見る。
何もない。
白いバッジはない。
ただ。
前より少しだけ思う。
田部君は、白バッジに届かない店員ではない。
むしろ普通のお客さん相手だけなら、かなり近い。
商品知識がある。
仕事が早い。
頭の回転も速い。
予算も考える。
代替案も出せる。
困っている人には、かなりちゃんと寄り添える。
だから、お褒めも来る。
なのに理不尽な相手が出てきた瞬間。
その長所のほぼ全部が、別方向に覚醒する。
商品知識は反論の材料になり。
頭の回転の速さは即レスになり。
問題解決能力は相手の矛盾を最短距離で突くために使われる。
結果。
お褒めとクレームの両方が、本部に届く。
「田部君」
「はい?」
「やっぱ二人いるんじゃないっすか?」
「一人です」
「本部の人も最初そう思ってたらしいで」
「失礼っすね」
「でもお褒め田部とクレーム田部おるやん」
「いないって言ってるでしょ」
「じゃあクレーマー来た時だけ何なん?」
田部君が少し考える。
「……普通に説明してるだけですけど」
「それが一番怖いんすよ」
「何で?」
本当に分かっていない。
多分そこが、田部君である。
白いバッジ。
優秀な店員の証。
田部君に足りないのは、商品知識でも接客技術でも問題解決能力でもない。
多分、たった一つ。
理不尽を前にした時だけ、頭の回転を少し遅くする能力。
そして多分。
それが一番難しい。