午後七時五十分。
「あと十分……」
私はレジ横の時計を見た。
閉店まで、あと十分。
この時間になると、店員の空気は少しだけ変わる。
レジ周りを片付ける。
釣銭の残量を確認する。
今日やるべきことと、明日に回しても問題ないことを頭の中で分ける。
売場の商品を前へ出しながら、心はもう半分くらい家に帰っている。
「エチっち、顔に出てんで」
隣のレジにいた中嶋さんが笑った。
「だからエチュっちにしてくださいって何回言ったら分かるんすか」
「あと十分やなぁ」
「そうなんすよ」
「今日は平和やったな」
「中嶋さん」
「ん?」
「閉店前にそういうこと言うのやめてもらえます?」
「何で?」
「フラグっぽいから」
「店にフラグとかある?」
「ありますよ。『今日は暇だったな』とか『もう客来ないだろ』とか言った瞬間に来るんすよ」
「そんな都合よく――」
自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませー」
条件反射で声を出す。
中嶋さんを見る。
「……」
「……」
「ほら」
「いや一人入ってきただけやん」
入ってきたのは五十代くらいの男性だった。
急いでいる様子もない。
普通にカゴを持ち、売場案内を眺めている。
何も悪くない。
営業時間内だ。
午後八時閉店の店に、午後七時五十一分に入店している。
何一つルール違反ではない。
分かっている。
分かっているのだが。
「すみません」
「はい」
何故、私のところへ来る。
「ちょっと棚作ろうと思ってるんだけど」
「……棚」
「うん。何買えばいいかな?」
違う。
この人は悪くない。
何も悪くない。
質問も普通だ。
口調も丁寧だ。
私は店員。
答えるのが仕事。
全部分かっている。
ただ一つだけ聞きたい。
何故、閉店九分前にDIYを始めようと思った。
「どれくらいの棚です?」
「幅八十くらいかな。高さは百二十くらい」
「段数は?」
「三段か四段」
「何置きます?」
「本とか、小物とか」
「なるほど」
詳しい人を呼ぼう。
私はそう判断した。
問題が起きてから呼ぶのでは遅い。
問題が起きそうな時点で呼ぶ。
これが私の数年間の接客業で身につけた数少ない能力である。
「少々お待ちくださいねー」
内線を取ろうとしたところで、ちょうど資材側から田部君が歩いてきた。
神。
「田部君」
「はい?」
「棚」
「情報少な」
「幅八十、高さ百二十、三段か四段。本とか小物」
「何で俺に言うんすか」
「閉店まで八分」
「ああ」
田部君が時計を見る。
全てを察した顔になった。
やはり神ではなかった。
同じ地獄の住人だった。
「どういう感じの棚にしたいです?」
それでも田部君は客の方を向くと、普通に接客を始めた。
「できれば簡単なのがいいな。DIYあんまりしたことなくて」
「なら木材から見た方がいいっすね。重い物置かないなら、そこまで厚い板じゃなくてもいいと思います」
「じゃあ見せてもらえる?」
「はい」
客と田部君が歩き始める。
私はレジへ戻ろうとした。
「越中さん」
「はい?」
「一応来てもらっていいです?」
「何で」
「閉店時間近いんで」
「田部君一人でいけるでしょ」
「俺が説明してる間にレジ閉められたら困るじゃないっすか」
「逃げ道潰してきましたね」
「仕事です」
仕方なくついていく。
木材売場。
田部君がいくつかの商品を見せる。
「この辺なら加工もしやすいです。ただ、本置くならあんまり薄いとたわむんで」
「これ切ってもらえる?」
「木材カットは今日もう受付終わってます」
「そうなの?」
「はい。加工受付は閉店より前に終わるんですよ」
「あー、じゃあ自分で切るしかないか」
「今日持って帰るならそうなりますね」
「ノコギリってどれがいい?」
増えた。
質問が増えた。
「手で切るならこの辺でいいと思います」
「電動の方が楽?」
「楽ですけど、棚一個作るだけなら無理に買わなくてもいいと思いますよ」
「じゃあ手ノコでいいか」
「寸法ちゃんと出して切るなら、メジャーと鉛筆もいりますね」
「ああ、それもいるな」
「直角出すなら差し金か小さいスコヤあった方が便利ですけど」
「それ何?」
午後七時五十四分。
ホームセンター閉店前DIY教室。
講師、田部君。
助手、私。
受講生、一名。
開催時刻を間違えている。
「釘とネジならどっちがいい?」
「棚なら俺はネジにしますね」
「じゃあドライバーもいる?」
「持ってないです?」
「ない」
「手回しでもできますけど、何本もやるなら電動あると楽です。ただ、それも棚一個だけなら――」
「ペンキとか塗った方がいい?」
午後七時五十五分。
講座内容が塗装へ進級した。
私は時計を見る。
田部君も時計を見る。
客だけが木材を見ている。
「使う場所どこです?」
「部屋」
「なら絶対塗らないと駄目ってことはないですよ。見た目とか汚れ防止したいなら塗ってもいいですけど」
「何塗ればいい?」
「そこまでやるなら、今日全部決めない方がいいと思いますよ」
「え?」
田部君が棚に戻した塗料を指した。
「初心者なら、無理に今日全部揃えなくてもいいと思います」
客が少し意外そうな顔をする。
「まず置く場所ちゃんと測って、寸法決めてから木材選んだ方がいいです。今日適当に買って、家帰って入らなかったら勿体ないんで」
「確かに」
「工具も必要な物だけでいいっすよ。作り方決めてから買った方が無駄ないです」
「じゃあ今日は見て帰ろうかな」
田部君。
偉い。
非常に偉い。
売上だけ考えたら、今ここで全部カゴへ突っ込ませればいい。
だがこの男は、普通のお客さん相手なら本当にちゃんとしている。
「遅い時間に悪かったね」
「いえ、大丈夫ですよ」
大丈夫です。
店員としては。
心が大丈夫かは聞かないでほしい。
「でもノコギリだけ買って帰るわ」
「はい」
買うんだ。
午後七時五十八分。
私はレジへ戻った。
店内には、閉店前の案内放送が流れる。
『本日もコーインズホームをご利用いただき、誠にありがとうございます。当店は間もなく閉店のお時間となります――』
「あと二分やで、エチュっち」
「今ちゃんと言いましたね」
「今日はサービス」
「明日からもお願いします」
客はまだ売場にいる。
田部君の横でメジャーを見ていた。
ノコギリだけではなかった。
増えている。
午後八時。
店内BGMが切り替わった。
聞き慣れた旋律。
蛍の光。
「エチュっち」
「はい」
「蛍の光やで」
「……」
「ずっと待ってたやろ?」
「待ってましたよ」
「嬉しそうちゃうな」
「これ聞いたら帰れると思ってたんすよ」
私は売場を見る。
普通に客がいる。
「詐欺じゃないっすか、この曲」
「誰も帰れる曲とは言ってへんやん」
後ろから佐伯さんがやってきた。
「蛍の光は閉店の曲じゃないよ」
「え?」
「ここからお客様を帰す時間の始まり」
「夢壊すのやめてもらえます?」
「慣れるよ」
佐伯さんはいつもの穏やかな笑顔だった。
「私はもう、この曲流れたら残ってるお客様の人数数えるから」
「情緒どこ行ったんすか」
「働いてるうちになくなったねぇ」
午後八時二分。
残り三組。
午後八時四分。
二組。
午後八時六分。
一組。
最後の一組。
いや、一人。
例の棚の人だった。
「すみませんね、遅くなっちゃって」
「いえいえ、大丈夫ですよー」
笑顔で答える。
本当にこの人は悪くない。
閉店時間を過ぎているとはいえ、こちらも売場で相談に乗っていたのだ。
急かすのも違う。
だから大丈夫ですと言う。
心の中の私は大丈夫ではないが、それは客には関係ない。
カゴを見る。
ノコギリ。
メジャー。
鉛筆。
小さなスコヤ。
何故増えた。
「袋ください」
「有料になりますけどよろしいです?」
「いくら?」
「五円です」
「じゃあお願い」
「ありがとうございます」
少し前まで、この後は店員による袋詰めが待っていた。
しかし。
ついに。
ついにコーインズホームにも文明が来た。
以前試験導入すると聞いていたサッカー台が増設され、今は袋詰めが原則セルフになっている。
もちろん有料袋を買ったお客様から希望があれば、こちらで袋詰めもする。
完全廃止ではない。
ただ。
毎回毎回、
『洗剤と食品一緒に入れないで』
『これは横にして』
『普通これとこれは分けるでしょ』
と言われながら袋へ商品を詰め続ける時代から、一歩前進した。
やればできるじゃないっすか。
何で今までやらなかったんです?
これはまだ本部には送っていない。
「袋詰めどうされます? あちらのサッカー台でもできますけど」
「あ、じゃあ自分でやるよ」
「ありがとうございます」
素晴らしい。
世界は進歩している。
会計を終えた客がサッカー台へ移動する。
ノコギリを袋へ入れようとして、途中で止まった。
「これ、刃のところ袋から出ても大丈夫?」
「持ち運ぶ時だけ気をつけてくださいね。刃が当たらないようにしてもらえれば」
「分かった」
「木材はまた明日です?」
「うん。ちゃんと家測ってくるよ」
「その方がいいと思います」
「ありがとね」
「ありがとうございましたー」
午後八時九分。
自動ドアが閉まる。
最後の客が出た。
店長が売場を確認する。
「よし」
そして言った。
「閉めよう!」
「よっしゃあ……」
中嶋さんが小さくガッツポーズする。
私も肩の力を抜いた。
「帰れる……」
「いや、前出し残ってますよ」
田部君が言った。
「今それ言わないでもらえます?」
「残ってるんで」
「空気読んでくださいよ」
「仕事減らないですよ」
「知ってますけど!」
「ウチ、サッカー台片付けや」
中嶋さんも現実へ戻る。
「サービスカウンターも返品戻しあるよ」
佐伯さんまで続く。
店長が笑顔でとどめを刺した。
「レジ締めもあるからねー」
帰れない。
客が帰っただけだった。
蛍の光という曲に、私は勝手に夢を見すぎていた。
閉店後もやることはある。
商品の前出し。
棚の乱れ直し。
空いた場所の確認。
レジ周りの清掃。
サッカー台の片付け。
カゴ戻し。
サービスカウンターに溜まった返品商品の売場戻し。
外売場の確認。
レジ締め。
明日また普通に店を開けるために、今日のうちに終わらせておかなければならないことがある。
分かっている。
分かっているんだけど。
「蛍の光返してほしいっす」
「何を返すん?」
中嶋さんに笑われた。
その時だった。
コンコン。
「ん?」
自動ドアの向こう。
さっきの客がいた。
ガラスを叩いている。
店長が近づく。
自動ドアはもう閉めているので、少しだけ扉を開けた。
「どうされました?」
「ネジ!」
客が言った。
「棚作るのにネジいるよね!?」
全員が黙った。
田部君が答えた。
「いりますね」
「買うの忘れた!」
「明日九時から開いてますので」
店長が即答した。
「あ、もう駄目?」
「申し訳ありません。本日の営業は終了しておりまして」
「ああ、そうだよね。ごめんごめん。また明日来るわ」
「お待ちしております」
客は素直に帰っていった。
扉が閉まる。
沈黙。
「……棚作れねぇじゃん」
私が言った。
「ノコギリだけ持って帰ったな」
中嶋さんも言う。
「切るだけ切れますね」
田部君が言う。
「何作るんすか」
「板」
「ただの板ですね」
何故、閉店後にこんな会話をしているのだろう。
「はいはい、喋ってないで終わらせようねー」
店長に促され、私たちは散った。
私はレジ周り。
中嶋さんはサッカー台。
田部君は工具売場。
佐伯さんはサービスカウンター。
閉店した店内で、まだ店員だけが動き回る。
蛍の光は、とっくに終わっていた。
それから三十分以上経って。
ようやく私たちは店を出た。
外の空気を吸って、私は一つ理解した。
蛍の光は、帰れる曲ではない。
客が帰るための曲である。
店員はそのあとも働く。