ブエナビスタのお姉ちゃんのお兄さん   作:幼馴染にされたネクパイ

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 ちょっと遅れたけど、ウマ娘五周年おめでとうございます。
 ルラシちゃんが既におもしれー女だったり、ピサちゃんを見た瞬間に「あ、好き❤️」ってなったりしましたが、とりあえず新シナリオなんも分からん助けてエロい人。
 あ、アイちゃんは当然引きました。来てくれるまでにすり抜けが五人も来るくらい回しました。ガチャは悪い文明。だからごめん、ラヴズの新衣装はスルーさせて……。
 む、無料で、残りの無料分でカジノもエバヤンも完凸させれば良いだけ……。で、できらぁ……(白目)。



とある長女の必修科目

 

 

「はぁ……ふぅ……っく……」

 

 

 

 カラカラ、カラカラ、と。

 空転する回し車の音がする。

 何も入っていないそれを、人が指で弾いて回しているような、無意味で、滑稽な、虚無感。

 

 

 

「お疲れ様、ヴィルシーナ。いい感じだったよ!」

「……いいえ。全然です。こんな走りじゃ、いけない……!」

「そ、そんな事ないって! 良くなってる! 良く、なってるから……」

 

 

 

 ヴィルシーナと、そのトレーナーは……空回っていた。

 トレーニングをしても、手応えがない。

 コミュニケーションだって、すれ違いばかり。

 何もかもが悪い方向へと作用しているような、焦燥感だけが強くなっていく。

 

 

 

「無理に褒めて頂かなくても大丈夫ですから。それよりも、もっと負荷をかけないと……」

「む、無理になんて……。それに、これ以上はただ自分をイジメるだけ。怪我をしたら元も子もないって。アタシの事、信じられない?」

「…………」

 

 

 

 自らを労ってくれるトレーナーに対し、しかしヴィルシーナは返事ができない。

 その言葉を受け止める事が、できない。

 

 

 

(信じられない。信じられるはずがない。こんな私の事なんて)

 

 

 

 もう年の瀬。

 ヴィルシーナのクラシック級はもうすぐ終わり、じきにシニア級となる。

 ……ずっと。同じ相手に負け続けて、もうすぐ、一年。一度も勝てないまま、一年。

 勝った相手が華々しい道を往くほど、自分の立っている場所が、影っているような気がして。

 レースの世界は厳しいものだと、分かっているつもりだったけれど。自分が二番手に屈し続けるだなんて、想像もしていなかった。

 自分自身を、恥ずかしく思う日が来るだなんて。知りたくなかった。

 

 

 

「……そっか。そうだよね。一回も勝たせてあげられない、ダメトレーナーの言う事なんか……」

「っ!? ち、違う! 違いますっ、私は、私が信じられない、のは……っ」

 

 

 

 その沈黙を曲解されてしまったようで、トレーナーは寂しそうに笑う。

 慌てて反論しようとするヴィルシーナだったが、二の句が継げない。

 ヴィルシーナと、そのトレーナーは。

 致命的なまでに、空回りしていた。

 

 

 

「ゔぁあ゛あ゛あ゛……」

 

 

 

 翌日。

 トレーナー寮のサロンにて、ヴィルシーナのトレーナーが唸っている。

 ラフな私服姿でテーブルに突っ伏し、自分の腕……ではなく、ふくよかな大胸筋を枕にして、唸っている。

 もしも男性トレーナーがこの場に居たら、「うおすっげ」と視線を集めていただろう。

 

 そして、そんなトレーナーに話しかける人影が一つ。

 後輩であり先輩でもある、“彼女”だ。

 

 

 

「“先輩”。そんな寝方してると、将来後悔しますよ」

「ふ……。リアル乳枕だゼ……凄いっしょ……。でも自分のだと全然気持ち良くないんだゼ……いやマジで……」

「そうですか。なら私がしてあげましょうか。あいにく平均サイズですけど」

「……遠慮しとく……」

 

 

 

 ごく一部の界隈においては、「キマシタワー!」という黄色い悲鳴が聞こえてきそうなやり取りだが、本人達にその気は全くない。“彼女”からしても、断られると見越しての提案であった。

 そして、今の“先輩”にとっては、遠慮のない言葉の方が、気が楽だった。

 

 

 

「ブエナちゃん、第一線を退くってホント?」

「本当です。引退じゃありませんから、あくまで休養という形ですが」

 

 

 

 かつての現役最強ウマ娘、ブエナビスタが長期休養。

 応援してきたレースファンを大きく悲しませるだろうこの知らせは、意外にも、しめやかに受け入れられた。

 会見時のブエナの様子がとても落ち着いていた……というのもあるが、その時に語った「見守りたい背中が、できたんです」という言葉が、後進育成への意気込みとして受け入れられたという点も大きい。

 むしろ、今まで控えてきたメディアへの露出は増えると予想され、これまでと違った応援も得られる事だろう。

 

 

 

「じゃあ、暇なん?」

「……そうでもないですね。兄がやらかしたので、ブエナと一緒に、最近はそのフォローをしてますから」

「そっか……。じゃあ無理っぽいか……」

 

 

 

 新たな道を進むウマ娘と、それを支える“彼女”。

 前向きに歩み続ける二人に比べ、ヴィルシーナのトレーナーは自罰めいた笑みを浮かべ……。

 

 

 

「ヴィルシーナをさ。預かってもらおっかなー、とか考えてたんだよね。実は」

「……は?」

 

 

 

 唐突に、そう提案した。

 “彼女”は驚きに目を剥き、ポカンと大口を開けて固まってしまう。

 

 

 

「このままじゃ、アタシはヴィルシーナのキャリアを潰しちゃう。あんなに才能に溢れた子を、万年二位にさせちゃう。……だったら。そんな風にするくらい、なら」

 

 

 

 もっと実績のある、良いトレーナーに乗り換えた方が、良いのでは。

 

 秋華賞を終えてからずっと、この考えが頭から離れなかった。

 そもそも、レースを勝つということは尋常でなく難しいことで、それがG1ともなれば、一つ勝っただけでも一生物の殊勲賞だ。

 けれど。

 だけれど。

 自分が才能を見込んで契約したウマ娘の、一生に一度のチャンスをふいにしたという事実は。その重みは、何も変わらない。

 後ろめたさと罪悪感で、押しつぶされそうだったのだ。

 

 

 

「忙しいかも知れないけどさ。本気で考えてくれないかな。きっとあの子も、環境を変えれば」

「ふんぬっ」

「ぶぇっ!?」

 

 

 

 そんな“先輩”に対し、“彼女”は手に持っていたレース雑誌を丸め、頭へと思いっきり振り下ろした。

 ハリセンのような小気味良い音ではなく、「べちんっ」という鈍い音が響いたあたり、本気で打ったのが分かる。

 簡潔に言うと、とっても痛そうだった。

 

 

 

「ななな、何すんの!? 親父にも母さんにもしこたま打たれて来たけど、今のが一番痛かったよ!?」

「痛くなるようにしましたから。……何を言ってるんですか、“貴方”は」

 

 

 

 唐突な暴力に涙目となる“先輩”を、呆れ返った顔で見つめる“彼女”。

 このままでは全てが駄目になると悟り、“彼女”は一肌脱ぐ事に決めた。

 こんな形で終わっては、癒えない傷が残るだけだろうから。

 

 

 

「今の“先輩”に必要なのは息抜きです。一度、頭を空っぽにしましょう」

「え? え? でも……」

「……あ、兄さん? 今大丈夫? うん、ちょっと頼みたい事があって……」

 

 

 

 腕を取って無理やりに“先輩”を立たせ、携帯で兄へと連絡。

 移動しながらプランを組み立てるその姿は、まさしくキャリアウーマンのそれ。

 一方、“先輩”の方は狼狽えるばかりで、肩書きの立場が逆転して見える。

 こうして、ヴィルシーナとそのトレーナーにとって、大きな転機が訪れる事となったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぼうっと曇り空を見上げて、もうどのくらいだろう。

 トレーナーから「急用が出来ちゃって二、三日ほど留守にします」と連絡が来て、ヴィルシーナはホッとすると同時に、不安に苛まれていた。

 これで、申し訳なさを感じながらトレーニングせずに済む。

 ……でも。もしかしたら。このまま、トレーナーさんは……帰ってこないのでは?

 そんな、普段なら思いもしないことが、頭をよぎってしまう。

 

 

 

「……はぁ……」

 

 

 

 知らず溢れた溜め息が、人気のない中庭に溶けていく。

 トレーナーが不在でも自主トレは出来る。むしろ、積極的にしなければならない。

 だが、どうしても、脚が動かない。

 ベンチに根が張ってしまったかのように、体が重い。

 

 

 

「ヴィルシーナ」

「……え? あ……」

 

 

 

 びくん、と肩が震えた。

 声のした方に視線を落とせば、そこには予想通りの人影が……。“彼”が居た。

 ほんの数ヶ月前までは、顔を合わせるのが楽しみだと思うほどに、友情を感じていたのに。

 今では勝手に、声が固くなる。

 

 

 

「何か、御用でしょうか」

「……ああ。君に、用がある」

「では、お早くどうぞ。呑気に歓談している余裕は、ありませんので」

 

 

 

 嘘つき。

 ついさっきまで、ぼうっとしていただけの癖に。どうして見栄を張る必要なんて……。

 いや、違う。

 ただ単に、それしか出来ないだけだ。

 

 

 

(この人に、情けない姿は見せない。……張り子の私であっても、せめて、そのくらいは)

 

 

 

 勝者に矜持があるように、敗者にだって矜持はある。

 どんなに不甲斐ない結果であっても、それを受け止め、前に進んでいると、見せつけなければ。

 どんなに、苦しくとも。背筋だけはピンと。

 もう、そのくらいしか、出来ないのだから。

 

 

 

「……き」

「き? ……何か仰りたいなら、ハッキリとお願いします」

「…………君の時間を、俺にくれ」

「時間を……?」

 

 

 

 なんの用かと尋ねるヴィルシーナに、“彼”は妙に緊張した様子で言った。

 要領を得ない言葉に首を傾げると、何度か深呼吸を繰り返して、今一度。

 

 

 

「ヴィルシーナ。俺と、デートして欲しい」

 

 

 

 真剣な表情で、ヴィルシーナへと手を差し出す。

 デート。

 誰が?

 私が、“彼”と。

 “彼”が、私を、デートに?

 …………ああ、そうか。

 これは夢。いつの間にか、うたた寝していたんだわ。

 

 

 

「……ふっ。ふふふ……っ!」

「ヴィ、ヴィルシーナ?」

「本当に駄目ね、私。こんな白昼夢を……疲れてるのかしら」

「いや、夢じゃないんだけど」

「いいえ夢。これは夢。だって、あの人が私をデートに誘うなんて、有り得ないもの」

「……なんで、そう思うんだ?」

 

 

 

 虚な目で笑いだすヴィルシーナに、ちょっとビビりながらも問い返す“彼”。

 当の本人はまだ夢だと思い込んでいるので、夢に返事をしても意味がないとは思いつつ、生来の真面目さゆえに答えてしまう。

 

 

 

「あの人には、ジェンティルさんが居る。私より強く、私より美しく、自信に満ち溢れた……女王が。それを置いて私を誘う理由が、見当たらないわ」

 

 

 

 それは、まるで言い聞かせているような言葉だった。

 自分にそんな価値はない。

 妹達に誇っていた才能も、所詮は紛い物。

 だから負けたのだ……と。

 

 風が吹くだけで折れてしまいそうな、弱々しい花に見えた。

 以前の立ち居振る舞いからは想像もつかない、自虐的な笑顔まで浮かべている。

 ヴィルシーナもまた、癒えない心の傷に悩んでいるのだ。

 

 

 

「確かに、ジェンティルが女性として魅力的なのは、認める」

「……でしょう? だから、やっぱりこれは夢で……」

「でも、魅力的だからって積極的にデートしたいかと言われたら、頷けないかな。何より、担当ウマ娘とそのトレーナーなんだし。そういうのは良くないよ」

「…………んん?」

 

 

 

 なんだろう。今、全力で地面を叩き割りたくなったような。

 謎の衝動に現実へと引き戻されたヴィルシーナが見たのは、神妙な顔付きをする“彼”。

 そしてそのまま、愚痴でもこぼすように続けた。

 

 

 

「ストイックな姿勢は尊敬するし、人として見習うべき点も多い。でも……休日にまで一緒だと、疲れそうというか。また投げられ続けるのも大変だろうし、たまには癒しが欲しいというか……」

「え……。投げ……? あれぇ……?」

 

 

 

 なんとも実感のこもった言葉を聞かされたヴィルシーナは、この時初めて、ジェンティルに同情した。

 ジェンティルが“彼”をどう思っているかは知らないが、どうあれ女として見られていないのと同義なのだ。これを知れば、貴婦人としてのプライドはいたく傷つくだろう。

 まぁ、“彼”の中でのジェンティルとのデートが、武道場で投げられまくった思い出に支配されている……という、のっぴきならない事情もあるのだが、それはそれ、これはこれである。

 

 ……でも。

 そんな人から、デートに誘われている、という事は……?

 

 

 

「だから、ヴィルシーナ。俺と遊びに行こう。1日だけでいいから、思いっきり遊んで、全力で癒されたいんだ。一人だと寂しいし、助けると思って、どうかお願いします!」

「……は、はい……」

 

 

 

 勢いに押し切られ、思わず頷くヴィルシーナ。

 あれよあれよと言う間に予定が組まれ、明後日……次の週末のデートが決まる。

 そして、妙にフワフワした心地のまま、当日を迎えた。

 

 

 

(やっぱり私、夢を見てるんじゃ……)

 

 

 

 薄曇りの冬空の下、ロングワンピースにウィンターコートを着るヴィルシーナは、都内某所の遊園地に来ている。

 もうすぐクリスマスという時期もあり、周囲にはカップルの姿が多く見られる。

 ヴィルシーナ達も、他の人から見れば……そう見えるのかも知れない。

 

 

 

「疲れた? 少し休むかい?」

「あ、いえ……。大丈夫、です……」

 

 

 

 “彼”はずっと、ヴィルシーナをエスコートしようと頑張っていた。

 アトラクションの待ち時間が短くなるよう計画を立てたり、フードコートの人気メニューをチェックしていたり、デートとしてはかなり良い感じ、だと思われる。

 問題なのは、いつまでも心がフワフワしたまま、反応まで鈍くなっているヴィルシーナの方で。

 

 

 

「飲み物買ってくるけど、何がいい?」

「……お任せ、します」

「分かった。少し待ってて」

 

 

 

 ぼうっとするヴィルシーナをベンチに座らせ、近くの売店に行く“彼”。

 その後ろ姿を見ながら、ヴィルシーナは思いを馳せる。

 誘われた直後は、驚いたのもあって考えがまとまらなかったが、今なら分かる。

 あくまでデートというのは建前で、ヴィルシーナを元気づけるため、気晴らしに連れ出そうとしてくれたのだろう。

 なら、この甲斐甲斐しさも理解できる。

 どうして“彼”がそうするのかは、やはり理解できないけれど。

 

 

 

「どうして……」

「うん?」

「どうして、私なんかを気にかけるんですか」

 

 

 

 だから直接、尋ねてみる事にした。

 買ってきて貰ったはちみーを受け取りつつ、不思議そうな顔の“彼”へと、率直な疑問をぶつける。

 

 

 

「私を励まそうとして下さっているのは、分かります。でも……私にそんな価値は……」

 

 

 

 “彼”は今や時の人だ。

 ジェンティルとのトレーニングはもちろん、雑誌などのインタビューにも忙しく……万年二位のウマ娘にかまけている余裕は、ないはず。

 他にもっと、有意義な事に時間を費やすべき、なのだ。

 

 

 

「秋華賞を思い出す時、真っ先に浮かぶのは、君の走りだ」

「……え」

 

 

 

 隙あらば自分を辱めるヴィルシーナに、“彼”は変装用に被った帽子の位置を直しながら、あの日を振り返る。

 

 

 

「多くの人は、君の華やかな美しさを評価するし、実際、そこは自分も同意見だ」

「…………そ、そうですか」

「でもきっと、君の本質はそこに無い。君がみんなを惹きつけるのは、その精神から滲み出るもの……だと思う」

 

 

 

 最終直線。

 ヴィルシーナをジェンティルが追い抜き、どんどん加速して行く。

 決まった、と誰もが思ったその瞬間、ジェンティルの背後で──蒼い炎が爆ぜた。

 あり得ない。嘘だ。どうしてそこから再加速できる。

 思考がグチャグチャになり、赤と蒼のドレスが織りなすデッドヒートを、ただただ眺めて。

 呼吸を忘れている事に気付いたのは、周囲の人々のどよめきが、耳に届いてから。

 それほどまでに、魅せられたのだ。

 

 

 

「あの秋華賞で勝ったのは確かにジェンティルだ。それに相応しい走りをしてくれた。

 だが、どうしても君の姿が見える。君の走りが、まぶたに焼きついて離れない。

 ……ジェンティルの担当トレーナーとしては失格だろうけど、あの日、一番に俺を震わせたのは、君だよ」

 

 

 

 ヴィルシーナを見つめる瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。

 嘘偽りのない、正真正銘、心からの言葉なのだと、揺るぎない視線が、教えてくれる。

 

 嬉しかった。

 秋華賞の結果が出た後に、ジェンティルからも同じように言葉をかけられた。

 あの時はレースを終えた直後で。……敗北を突きつけられた直後で。ちゃんと受け止められた自信は、なかった。

 ……でも。

 時が過ぎ、自分の不甲斐なさを味わっている最中に伝えられる、その言葉は。枯れた大地が水を吸い込むように、心を潤してくれた。

 

 だと言うのに。

 ヴィルシーナの胸中には、まだ乾いた部分が残っていて。

 

 

 

「もう二度と、あんな走り、出来ません。もう無理なんです。私は……私の気持ちは、もう、途切れてしまった。私の夢は……無様な形で、終わってしまった」

 

 

 

 だから、否定してしまう。

 何も出来なかった。

 大した結果も残せなかった。

 なんの意味も、なかったと。

 ささくれ立った心が、自分自身を傷つける。

 

 

 

「終わってしまった夢に、意味はないと?」

「……ない、ですよ。達成できなかった夢に、意味なんて……。格好悪い姿を晒しただけで、なんの意味も……」

「じゃあ、夢を叶えようとせず、格好悪い姿を晒す事からも逃げた俺は、ろくでなしの卑怯者だな」

「え?」

 

 

 

 “彼”が何を言ったのか、一瞬、理解できなかった。

 卑怯者? なぜ“彼”が、そんな風に自分を罵るのか分からない。

 あのジェンティルドンナのトレーナーが、なぜ。

 

 

 

「な、なんでそうなるんですか……? “貴方”は今、夢を叶えているじゃありませんか……」

「幸運に恵まれて、ね。その幸運がなければ、今、ここに居るかも怪しい。

 俺は、逃げたんだ。妹を言い訳にして、挑戦する事から逃げた。

 トレーナーとしての勉強と仕事の両立を、試しもせず、最初から諦めた。

 あの子の兄を名乗るのすら烏滸がましい、臆病者なんだよ。本当の俺は」

 

 

 

 左右非対称の、歪んだ自嘲。

 どれほど今が充実していても、かつて抱いた暗い感情を、完全に払拭するのは難しい。人はネガティブな感情をこそ、忘れないように作られている。

 だから、“彼”はいつまでも、自分への軽蔑と苛立ちを忘れないし、それ故に自分を変えようとし続けている。

 嫌いな自分を消してしまいたい。ならば奮い立ち、努力し、成長するしかない。

 これが、“彼”の原点。

 

 

 

「……やめて」

「うん?」

「やめて、ください。そんな風に自分を腐すのは、自分を認められないだけの、ただの弱虫ですっ」

 

 

 

 けれど、ヴィルシーナにはそれが、どうにも腹立たしく思えた。

 ヴィルシーナを慰めるために、無闇に自分を傷つけているように見えた。

 ……それを許せないくらいに、ヴィルシーナは生真面目だった。

 

 

 

「“貴方”は今、努力して夢を叶えている最中でしょう。少し始めるのが遅れただけで、決して逃げてはいない!

 私を破ったあの方を育て、導いた“貴方”の尽力を認めないのは、他ならぬ“貴方”自身への……そして、そんな“貴方”達に挑んだ私への侮辱ですわ!

 例え、それをするのが“貴方”であっても、それだけは看過できません!」

 

 

 

 先程までのボヤーっとした雰囲気から一転、激しい語気で言い詰めるヴィルシーナ。

 怒りが湧いた理由は単純。

 自分を破り、輝かしい栄光を手にした人が、それを忘れたように振る舞うのが、嫌だった。

 自分を下した人が、自分自身を認めないなら、そんな“彼”とジェンティルに敗れた者は、立つ瀬がないではないか。

 

 私を倒した人なのだから。

 せめてそれを、誇って欲しい。自慢に思って欲しい。

 そうでないと、あまりにも……惨めで。

 

 

 

「“貴方”は諦めなかった……。現実と向き合って生きながら、ずっとチャンスを伺い、見事に掴んで見せた。

 その在り方はきっと、誰かの希望になれるはず。だから、そんな風に自分を卑下するのは、おやめになって下さい」

 

 

 

 昂った気持ちが落ち着くにつれ、ヴィルシーナの語り口も穏やかになっていく。

 その変化に驚いていた“彼”は、やがて、照れくさそうに笑った。

 

 

 

「……ありがとう。そんなに怒ってくれるとは、思ってなかった。嬉しいもんだね。誰かに、自分の足跡を認めてもらえるのは」

「い、いえ……」

 

 

 

 対するヴィルシーナは肩身を狭く、居心地が悪そうにしている。

 歳上の男性相手に、少し……かなり失礼な物言いをしてしまった。

 怒りに任せて声を荒らげるなんて、女王に相応しくない振る舞い。気をつけなければ。

 ……いや。そもそも女王に必要な冠一つ、持ち合わせていないのだけれど。

 と、また沈み始める気持ちを、“彼”の笑顔が引き留めた。

 

 

 

「じゃあ今度は、ヴィルシーナがヴィルシーナを認めてあげなくちゃいけないな。そうだろう?」

「え? ………………あ」

 

 

 

 言われて、ようやく気付く。

 ヴィルシーナが“彼”に向けた言葉は、ヴィルシーナ自身にも当てはまる部分があるのだ。

 

 

 

「諦めない限り、夢を掴むチャンスはある。君の夢は、トゥインクルシリーズは終わっていない。それに、君が格好悪いと言った姿だって、誰かの希望になれる」

「……そう、でしょうか……」

「そうさ。例えば、君の妹達。あの子達は、君の道程から何も学べないのか? 君が思い悩み、血と汗の滲む努力を重ね続けた姿に、何も感じられないと?」

「そ、そんなはずありませんわ! あの子達は凄いんです! 例え敗北からでも、きっと、何かを学び取って……次に、繋げられる……」

 

 

 

 脳裏に蘇る、妹達の姿。

 桜花賞の後や、オークス、秋華賞の後も。そして、ヴィルシーナの心が折れてしまった時も。あの子達は、ずっと姉を褒め称えていた。

 結果なんて関係なく、ただ、ヴィルシーナの全力を賭す姿を見て、「カッコいい、凄かった」と。

 負けた悔しさに気を取られ、大事な大事な妹達からの言葉すらも、素直に受け止められなかった。

 ……拗ねていたのだろう。今になって、ようやく自分の気持ちを理解できた。

 

 

 

「シュヴァルとヴィブロスに出来るなら、君に出来ない道理はない」

「……ええ。だって、私は。あの子達の、姉なのだから」

 

 

 

 久しぶりに背筋が伸びて、視界が開ける。

 ああ、なんだろう。この清々しい気持ちは。

 ずっと、気持ちも体も俯いていた。どこに向けて歩いていけば良いか、分からなくなっていた。

 まるで霧の中を歩いているようだった。

 

 けれど、もう違う。

 霧が晴れ、前を向く。

 道は……やはり見えないのだが、恐れる気持ちも無い。

 何故なら、ヴィルシーナの歩いた道が、シュヴァルとヴィブロスの道標になるから。

 

 随分と遠回りをして、妹にも、自分のトレーナーにも、情けない姿を見せてしまった。

 今更かも知れないけれど、あの子達が誇ってくれるような、姉で居たい。

 あの子達に誇れる、自分で居たい。

 そういう自分なら、きっとまた、好きになれそうだから。

 

 

 

「私、こんな簡単な事も分からなくなるほど、迷っていたんですね……」

「気付くのに十年以上かかった俺に比べたら、何倍もマシだよ。君は立派なお姉ちゃんだ。保証する」

「……ありがとうございます」

 

 

 

 立派なお姉ちゃん、という響きが、妙にくすぐったくて。ヴィルシーナは思わず苦笑いを浮かべる。

 心の持ち様が変わったからか、周囲の景色まで違って見えた。

 曇り空と同じく灰色だった遊園地が、天気なんてまるで気にしていないように、色鮮やかな活気に包まれて。

 ……もったいない。

 最初からこんな気持ちだったなら、もっともっと、楽しかっただろうに。

 

 

 

「さて。これからどうしようか。まだ帰るには少し早いし、何か、したい事とか。なんでも付き合うぞ」

「え? したい事、ですか……」

 

 

 

 “彼”もまた、同じ気持ちなのだろうか。

 門限までに残された時間の過ごし方を尋ねてくる。

 一つ、真っ先に思い浮かんだ事があり、けれどヴィルシーナはそれを悟られないよう、考え込むふりをして、握り拳で緩んだ口元を隠す。

 

 一緒に居たい。

 もっと、元気づけて欲しい。

 

 ……こんな甘えた感情、知られたくない。

 こんな、甘い気持ち。恥ずかしい。

 

 

 

(な、何を考えているの、私は。今し方、姉としての自分を取り戻そうと決めたのに、これじゃあ……)

 

 

 

 まるで、子供の頃に戻ってしまった感覚だった。

 思えば、“彼”とデートしている間の自分は、まだ一人っ子だった頃の自分だった……気がした。

 幼い時分は、何に対してもぼやーっとしていたと、母からも聞かされた覚えがある。

 歳上の男性に甘えたくなるのは……父のせい?

 見た目も体格も全然違うのだが、少しくらいなら、甘えても許してくれそうな抱擁感は、似ている……気がした。

 

 ……やっぱり思考が鈍っている。

 さっきから、「そんな気がした」ばっかり。

 しっかりしなさい、ヴィルシーナ!

 こんな事では、妹達に笑われるわ!

 

 

 

 

「────ナぁぁぁ」

「ん? 今、何か聞こえたような……」

「ヴィーールーーシィーーナぁぁあああっ!!」

「きゃっ!? と、トレーナーさん!?」

 

 

 

 不意に、突然、全くもって予想外のタイミングで、ヴィルシーナへと一人の女性が駆け寄ってきた。

 もう答えは出てしまっているが、それは珍妙な格好をしたヴィルシーナのトレーナーだった。

 真冬だというのに少し日焼けした肌、ズレたサングラスに半袖アロハシャツ。手に持つのは南国土産っぽい変な彫刻の置物(たぶんシーサー?)。

 日帰りハワイ旅行の帰りと説明されれば、誰もが納得しそうである。しかも似合っているのが余計に奇妙で仕方ない。

 

 ともあれ、息も絶え絶えだったのを、なんとか落ち着こうとして十数秒。

 が、結局は待ち切れずに、ヴィルシーナへと詰め寄る。

 

 

 

「はぁ……はぁ……はぁ……ヴィルシーナ!」

「は、はいっ」

「トレーニングしよう!」

「えっ」

 

 

 

 その格好で? 今から?

 というツッコミを入れたくなったヴィルシーナと“彼”を、誰が責められようか。

 しかし、どうやら真面目に言っているらしく、言葉はどんどん重ねられていく。

 

 

 

「ほんの少しだけど、離れて分かった。アタシにはやっぱりヴィルシーナしか居ない!」

 

 

 

 それは、愛の告白にも似た、情熱という名の炎。

 

 

 

「何をしてても、やってみて欲しいトレーニングが浮かんでくる。

 そうしてヴィルシーナが強くなってくれるんじゃないかって、どうしても期待しちゃう。

 もう何度負けようが構わない! 気にしない! 勝つまでやれば良い! アタシは諦めたりしないっ!!」

 

 

 

 “彼”に置物(恐らくシーサー)を押し付け、ヴィルシーナの肩を掴む。

 瞳は輝いていた。

 ヴィルシーナと自分の、輝かしい未来を見つめているようだった。

 

 

 

「アタシの手で、必ず、貴女に勝利を掴ませる! だから、だから……!」

「……もう十分です、トレーナーさん。もう十分に、伝わりましたから」

 

 

 

 熱くなった目頭を拭って、肩に置かれた手を握り返すヴィルシーナ。

 体が火照るのは、トレーナーの熱がうつったから、だろうか。きっとそうに違いない。

 だって、ほら。

 今にも走り出したくて、堪らない。

 

 

 

「私も、同じ気持ちです。勝利を掴むのなら、貴女と一緒がいい。……これからも、御指導のほど、よろしくお願い致します」

「うん……うん……っ。頑張ろう、一緒に! 打倒ジェンティルドンナ! あの澄まし顔に吠え面かかせたるぞぉー!」

「ふふふっ。ええ! 必ず!」

 

 

 

 拳を突き上げるトレーナー。

 普段なら窘めるだろうけれど、今日だけは、一緒に拳を上げる。

 ふと気になり、“彼”を確かめると。

 少し困ったように、でも、それ以上に嬉しそうに、笑っていた。

 だから、ヴィルシーナも笑った。

 らしくないかも知れないけれど、大きく歯を見せて、子供のように。

 

 

 

「随分と元気になったみたいだけど、何をしたんだ?」

「な、何も……。ちょっと一緒に遊びに出掛けて、そしたら勝手に落ち込んだり変なトレーニング思いついたりして、いつの間にか元気になってた……。何がなんだか分かんない……」

「……お疲れ」

 

 

 

 ややあって。

 ほうほうの体で合流した自分の妹を労い、“彼”は置物(シーサーだったりするかも)をどうしたものか、悩むのだった。

 ちなみに、“彼女”達はハワイではなく、ドナウブルーの管理するリゾートで遊び倒していたのだが、月末のカードの支払い金額を見て、顔色までブルーになったとか。

 それはさておき、これにてヴィルシーナ達は立ち直り、新たなる道を踏み出す事となる。

 その果てに、自分達だけの……自分達だけが描ける、栄光の形を見据えながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『オマケその一 作者の好きな構図』

 

 

 

「ヴィルシーナさんと、デートしたらしいですわね」

「は、はい……」

 

 

 

 ヴィルシーナとのデートから数日後。

 “彼”はトレーナー室にて、床に正座させられていた。

 眼前には、腕組みをしてこちらを見下ろすジェンティル。

 ズモモモモ……と黒い闘気を纏うその姿からは、明らかな怒気が溢れている。

 なお、その隣にはブエナがおり、あまりの修羅場にオロオロとしていた。

 “彼女”が仕事で外しているのは、不幸中の幸い……なのだろうか?

 

 

 

「なんで俺は、正座させられてるんだ?」

「ご自分の胸に聞いてみたら如何かしら」

 

 

 

 怒っている。

 間違いなく、明らかに、怒っている。

 その原因を何かと推察するならば、手掛かりはジェンティルの発言にある。

 すなわち、ヴィルシーナとのデートに、怒っている………………らしい。

 

 

 

「確かに俺は、ヴィルシーナをデートに誘った。でも、何も恥じる所はない」

「……と、言うと?」

 

 

 

 が、“彼”は悪びれることもなく、そう言い放った。

 ピクリ、とジェンティルの眉が跳ねる。

 

 

 

「ヴィルシーナに元気になって欲しかった。またレースを走って、ジェンティルと競って欲しかった。彼女とまた競い合いたいという気持ちは、君だって否定できないはず。

 デートという建前を使ったのは…………。そうだな。その点だけは別の手段もあったと思うけど、あの時のヴィルシーナは頑なになっていただろうから、インパクトも必要だったんだ。

 俺は、自分の行動を間違っているとは、思わない。そんな風に思うのは、誰に対しても失礼だ」

「…………」

 

 

 

 胸を張り、言い切った“彼”。

 ジェンティルの放っていた怒気が、徐々に落ち着いていく。

 同時に、その心も意気消沈してしまう。

 

 事情は分かった。

 “彼”の言い分は理解できるし、見方を変えれば、ジェンティルのためとも言える。

 ……でも。

 理解できるのなら何故、こんなにも胸が、締め付けられるのか。

 

 

 

「お兄さん。そんな言い方、良くないよ?」

「……エナちゃん」

 

 

 

 沈黙が広がる中、動いたのはブエナだった。

 “彼”の隣に座り込み、シワの寄った眉間を人差し指で、つん、と。

 たったそれだけで、剣呑になりつつあった表情が和らいだ。

 かと思えば、立ち上がってジェンティルの隣に来て、同じく頬を、つん、とする。

 

 

 

「ジェンティルさんも。……もう少し、素直になりましょう?」

「……わたくし、は……」

 

 

 

 諭すような口ぶりに、知らず、顔を背けてしまうジェンティル。

 歳下のはずのブエナが、何故だか急に大人びて見えた。

 

 

 

「お兄さん。ジェンティルさんはね、ヤキモチを焼いてるんだよ」

「へ? ヤキモチ? ……ジェンティル、が?」

 

 

 

 “彼”は、きょとんと表情を落っことした後、信じられないものを……まるで幽霊でも見たかのような顔をした、

 ブッ飛ばしてやろうかこいつ、とジェンティルは思った。

 実際にやると、壁に完熟トマトを投げつけるよりも酷い事になるので、絶対にしないが。

 ……デコピンくらいなら? いや、駄目だ。我慢しないと。

 

 

 

「お兄さんがヴィルシーナさんを“ライバルとして”大切に考えてるのは、素敵な事だと思う。

 でも、自分のライバルと当たり前みたいにデートされたら、気にしちゃうに決まってるよ。女の子、なんだから」

 

 

 

 その間も、ブエナは複雑怪奇な乙女心を説き続ける。

 説法を受ける“彼”はというと、変わらず正座したまま、ジェンティルの胸中に想いを馳せた。

 

 

 

(ジェンティルがヤキモチ……。俺とデートしたい……って事なのか? ……また武道場で? いや流石にそれは無いか)

 

 

 

 ジェンティルとのデートといえば、武道場での勝負。

 好き放題に投げられて、体捌きを指導され……という繰り返し。

 どうしても、こんな光景が目に浮かんでくるのだが、ブエナの意見を踏まえると、違う気がした。

 ならば、ジェンティルは何を望むのか。

 過去に一緒に出かけた時のように、また鉄球でも買いに行く、とか?

 でも鉄球だしなぁ……。装備したら筋力が上がる代わりに、女子力がダダ下がりしそうな鉄球だからなぁ……?

 

 顎に手を当て、四苦八苦しながらも考える“彼”。

 その一生懸命な様子に、ブエナは柔らかく微笑み、そして、更なる爆弾を投下する。

 

 

 

「ちなみに、私も焼いてるよ。ヤキモチ」

「はぁ……。はっ? え、あ、え!?」

「じぃー……」

 

 

 

 前屈みに、“彼”を覗き込むブエナ。

 ブエナの整った顔と距離が近くなり、上気した顔で大慌てする“彼”。

 そんな二人を眺め……見せつけられて、ジェンティルは疎外感を覚えつつ、思考を巡らせる。

 

 ……仮に。

 もし仮に、ヴィルシーナとブエナが、“彼”に想いを寄せているとしたら。

 特に理由はないけれど、そこに、ジェンティルも加えてみよう。

 その上で、“彼”が三人の中から、人生のパートナーを選ぶなら。一体、誰を選ぶだろうか。

 

 常識的に考えれば、“彼”を婚約者候補としているジェンティルが、一歩先を行っているはず。

 だと言うのに、逆に二人が先を行っている気がしてならなかった。

 自分だけが、蚊帳の外に置かれているような気がして、また胸が苦しくなる。

 

 

 

(……もしかしたら。一番出遅れているのは、わたくし?)

 

 

 

 ようやく自覚し始めた感情は、剛毅であるはずの貴婦人の心を、無遠慮に踏み荒らしていく。

 どんなに強靭な肉体と精神を誇っていても、一度も芽生えた事のない蕾では、傷つきやすくて当然。

 果たして、ジェンティルは認められるだろうか。

 己が胸に芽生えつつある想いを。

 筋力では決して鎧う事のできない、柔らかな感情を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『オマケその二 君の名は』

 

 

 

「そう言えば、どうしてお兄さんは、私を『エナちゃん』って呼ぶの?」

 

 

 

 ヴィルシーナとのデート糾弾会が終わった後。

 二人きりになったタイミングで、ブエナはかねてからの疑問を口にした。

 それは、他の誰も使わない呼び名のこと。

 “彼”だけの特別と思えば、くすぐったくなるような嬉しさも感じるのだが、その理由を覚えておらず、ずっと気になっていた。

 

 

 

「やっぱ覚えてないかぁ……」

「え? ……という事は、もしかして……?」

「うん。君にお願いされたから、だよ」

 

 

 

 質問を受け、ソファで正座による足の痺れを取っていた“彼”は、少し寂しそうに笑う。

 お願いされた……。

 全く覚えがないけれど、懐かしい思い出話が話を継ぎ、エナちゃん呼びの経緯が語られる。

 

 

 

「まだ引っ越したばかりで、それでも“あいつ”とエナちゃんが凄く仲良くなって。

 そうしたら、『ぶうちゃんも、おねえちゃんみたいによばれたい』って、お願いされて。可愛いワガママだったなぁ」

「う。そ、そうだったんだ……。全然覚えてないや……」

「うんと小さい頃だし、仕方ないさ」

 

 

 

 幼い頃……。まだ学校にも通えないくらい小さな頃のブエナは、自分を「ぶうちゃん」と呼んでいた。

 もちろん「ブエナビスタ」の頭文字から取った呼び方だが、“彼女”と触れ合ううちに、普通の人間のような呼ばれ方に興味を持ったのだとか。

 そうして始まったのが、「エナちゃん」という呼び方。普通の女の子にもありそうな名前だし、きっと幼い頃のブエナも、違和感なく受け入れていただろう。

 今となっては、この呼ばれ方を気に入っている。

 

 

 

「じゃあ……。じゃあ、ね……?」

 

 

 

 ……でも。

 ほんの少しだけ、違う呼ばれ方にも、興味が湧いた。

 今とは違う関係性を、夢想した。

 

 

 

「もし今、違う呼び方をして欲しいってお願いしたら……。困る?」

「え……?」

 

 

 

 何故だか、気恥ずかしさが込み上げてきて、俯き加減に尋ねてみる。

 戸惑って見える“彼”だったが、逡巡の後、「仕方ないなぁ」と微笑んだ。

 

 

 

「どんな風に呼ばれたいかによる、かな。どんな呼び方をして欲しいんだい?」

 

 

 

 駄々をこねる幼子に対し、仕方なく折れる父親のような、そんな表情。

 それがちょっと、悔しくて。

 優しい父親の演じる“彼”に、それこそ子供じみた悪戯で返す。

 

 

 

「……ひみつ」

「秘密って……それじゃあ流石に呼んであげられないぞ?」

「そうだけど、でも……。やっぱり、ひみつ」

「……こ、困ったな」

 

 

 

 唇の前に人差し指を立てて、小悪魔のように笑うブエナ。

 今度は苦笑いを浮かべ、後頭部を指で掻く“彼”。

 昼下がりのトレーナー室には、どこか甘ったるい空気が広がっていた。

 

 

 







 え? ヴィルシーナ生きとるやんけ?
 これから死ぬのさ……。恋という名の罠に堕ちてな!(ズキュゥゥゥン)

 何はともあれ、これにてシーナちゃんも本格参戦です。
 自分の立ち位置を理解し、確実に距離を詰めるブエナちゃん。
 なんだかんだと言い訳しつつ絡んで来そうなシーナちゃん。
 そして、婚約者候補でありながら実はしっかり一線を引かれていたじぇんちるさん(笑)。
 三つ巴の乱戦を制するのは一体誰なのか。今後に御期待下さい。

 そろそろ作中でも最後の一年が始まりますし、ダークシュヴァちとか背中が叡智なピサちゃんのおかげでtntnもbnbnなので続きます。
 次回、バレンタイン狂想曲。

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