ブエナビスタのお姉ちゃんのお兄さん 作:幼馴染にされたネクパイ
ヴィルシーナが“彼”に気付けなかったのは、あまりにも覇気が無かったからだ。
ジャパンカップでの借りを返すべく、今日もトレーニングに励み、一息つこうとトラック内で夕陽を眺めていた所、客席に座っている人影を見つけた。
誰だろうと目を凝らし、それが自分のよく知る人物だと分かった時の驚きたるや……。
慌てて側に駆けて行っても、“彼”は全く気付かず、項垂れたまま、ぼうっと地面を見つめ続けている。
尋常ではない様子に、心臓が嫌な早鐘を打ち始めた。
「あの……。あのっ、トレーナーさん!」
「──え?」
何度か声を掛け、肩を揺らしてようやく、反応が返ってきた。
それでも、ヴィルシーナに目の焦点を合わせるのには時間を要しており、何があったのか心配が尽きない。
「すみません、大声を出して。全く反応してくださらないから」
「……大丈夫。何か用かい?」
「嘘。大丈夫じゃ、ありませんよね」
どうにか取り繕おうとする“彼”を、ヴィルシーナは信じられなかった。
気配り上手で、不安に襲われる事があっても、堂々と胸を張ろうとする努力の人。それがヴィルシーナの“彼”に対する印象だ。
そんな“彼”だからこそ、ジェンティルドンナのトレーナーにも関わらず、好…………好感を抱く事ができた。
それが今、人前で茫然自失するほどに、余裕を失っている。純粋に心配だった。
心当たりがあるとすれば……。
「もしかして、シュヴァルの事でお悩みを? 申し訳ありません、唐突でしたよね。でも、あの子は本気で……」
「違うっ。……違う、そうじゃない。そうじゃないんだ……」
ジャパンカップから間を置かず、ヴィルシーナの妹であるシュヴァル……シュヴァルグランは“彼”に、逆スカウトを持ちかけた。
同日の夜、「どうしよう勢いで変なお願いしちゃった……!」と、泣きそうになりながら相談してくるという体たらくではあったが、悪い選択ではないと思った。
少し、時間が欲しい。
“彼”もこう返事をしたらしく、夏合宿の件もあったので、姉としては良い返事を期待している。一個人としては複雑だが。
しかし、強めに否定されたのを考えると、原因は他にありそうだ。
「言いにくい事なら、無理には聞きません。私には力になれない事かも知れない。ですが……。そんな“貴方”を、放っておきたくありません。“貴方”が私を、放っておかなかったように」
思い起こされるのは、去年の冬のデート。
あの時、“彼”の言葉に救われた身として、恩返しがしたい。そう思うのは自然な事だろう。
もちろん、ただ恩返しをしたいだけ……ではないのだが、それは置いておく。
“彼”は何度か言いあぐねた後、根負けしたように口を開いた。
「……トレーナーを……。ジェンティルのトレーナーを、辞めろと、言われた」
「……………………は?」
内容を理解するのに5秒。噛み砕くのにさらに5秒。「なんでそんな!」という言葉を飲み込むのには、加えて10秒を必要とした。
自分の耳を疑いたいヴィルシーナだったけれど、わななく“彼”の口元が、真実だと物語る。
「そう言われて、ただ納得するような“貴方”ではないはず。なら、納得せざるを得ない人物から言われたのですね。ジェンティルさん本人……? いいえ、絶対に違う。…………まさか」
「ジェンティルの、父親だ。もう、後任も決まっていると」
思わず、言葉を失ってしまう。
両親が著名であるが故に、いわゆる上流階級に近しいヴィルシーナだからこそ、ジェンティルの一家の“力”を知っている。
娘がトゥインクルシリーズを走るようになってからは、URAにも多額の献金をしているという話だし、無視できない影響力を持っているのは間違いない。
だが、あのジェンティルの父が、こんな形で権力を行使するだろうか? という疑問も湧く。
いくら“力”が全てという家に生まれても、そんな人物をジェンティルが尊敬するはずもない。
けれど、“彼”が嘘をつく理由もないはず。
何が何だか分からない。
結局、そんな結論しか出せなかった。
「俺は、夢でも見ていたんだろうか」
ぼうっとヴィルシーナを見つめ、“彼”は呟く。
……いや、違う。何も見ていない。
目の前にいるヴィルシーナを無視して、遠くを……目に見えない何かを、見つめている。
「ずっと昔に諦めた夢を、掴もうとして。ちょうど良く、才能溢れるウマ娘と出会って。仲間に恵まれて。前人未到の偉業を達成して。……まるで、古臭い小説みたいだ」
決して若くない主人公が、遅まきながら夢を追いかけて栄光を掴む。
昔からよくある題材で、使い古されたテンプレートの物語。
それを悪いとは言わない。王道は王道だからこそ好まれる。
問題なのは、それが破綻したという、残酷な現実。
「そうだよ……。俺にそんな才能、あるはずない。出会いを引き寄せる運もない。目が覚めたらきっと、また、あの日々が始まる。……全部、諦めて。ただ、生きているだけの人生が」
両手で顔を覆い、暗い感情を吐露する“彼”。
そうさせるのは、心の奥底にこびり付いた、劣等感。
どれほど努力しても、実績を積み上げても、完全には自分を信じきれないという、市井の生まれならば、誰もが少しは持ち合わせる感覚だ。
用心深いと評価する人間も居れば、小心者と罵る人間も居るだろう。
きっと、ジェンティルは嫌う性格で、だから“彼”は常に虚勢を纏い、自分自身をも騙しながら、トレーナーとして歩んできた。
だが、そうさせてくれたのは、トレーナーという立場があってこそ。強者たらんとする担当ウマ娘が居てこそ。
それを奪われたら、もう。
「トレーナーさん。失礼します」
「え……? うぐっ」
気がつけば、ヴィルシーナは“彼”を抱きしめていた。
真正面に立ち、頭を胸に抱え、幼い妹達へとそうしたように、頭を撫でる。
「夢なんかじゃありません。“貴方”はちゃんとここに居ます。“貴方”の……貴方達の歩んで来た道のりを、知っています。夢だなんて、“貴方”自身にだって言わせませんから」
思い出す度に、歯痒い気持ちにさせられるクラシック級。
悔しくて悔しくて、でも、あの日々があったから、今のヴィルシーナがある。
そうでなければ、先日のエリザベス女王杯だって負けていたかも知れない。
ライバルという立場だけれど、確かに同じ道を歩んだウマ娘として、あの日々を否定されたくはなかった。
腕の中で、“彼”が震え始める。
掻き抱くように背中へ腕が回り、しばらくすると……強めに腕をタップされた。
なんで? 嫌がられ…………あっ。もしかしてこれ、息できてないんじゃ?
「す、すみません、苦しかったですか!?」
「ブハァ!? はぁ、はぁ……」
「本当にすみません……。妹達にするつもりで、つい…………? どうかなさいましたか?」
「ぃい、いや、その、あれ、が、お、おっ、すご、か、た…………うっ」
「ああっ、トレーナーさん!?」
慌てて“彼”の頭を解放するが、グルグルと目を回したかと思ったら、そのまま鼻血を噴いて倒れてしまう。
コンプライアンス違反を考慮して構成要素だけを列挙すると、式は以下のようになる。
現役女学生の美少女+生地の柔らかい体操服+運動直後+ウマ娘特有の高い体温+頭を抱え込む抱擁=十割コンボの成立、である。
こうして、やけに幸せそうに気絶する顔を見つつ、今度は急いで介抱するはめになるヴィルシーナだった。
や、やり過ぎちゃった、かしら……?
“彼”が幸せな夢に沈んでいる頃。
星と月が見下ろす学園の中庭で、一人のウマ娘が立ち尽くしていた。
オルフェーヴル。
闇の中でも金色の光を背負っているように見える彼女は、背後を見もせずに言い放つ。
「何用か」
その言葉に誘われ、現れたのは、同じく光り輝くような美しい少女──ブエナビスタ。
「こんばんは、オルフェさん。少し、お時間を頂いても良いですか?」
「……その目。拒否した所で食い下がるのであろう。疾く申せ」
「あはは。バレちゃった」
いつも周囲に気を配り、誰からも好かれるブエナは、オルフェと対極の存在だが、一目置いている理由はそこにない。
オルフェがブエナを侮れない理由は、その、目だ。
「じゃあ、お言葉に甘えて。……有馬記念、出走しませんか」
「断る。余は休養中である。走る理由もない」
「いいえ、あります」
「……ほう?」
優しげな癖に、絶対に折れず、曲がらず……否。
折れようと曲がろうと、絶対に朽ちはしない意志の光。
それがオルフェの興味を引く。
「私のために走ってください。私が、あなたに勝つために」
思わず、目を丸くしてしまった。
どんな理由を並べるのかと思っていたが、これには意表を突かれた。
「……ふっ。貴様、休養中に漫才でも齧ったか。不遜もそこまで行けば──」
「見て貰いたいんです。私を」
言葉を遮るようにして、ブエナは語る。
普段なら不作法を叱責しようものだが、そうはさせない迫力が、小さな体から発せられている。
「“あの人”は、私との約束を守ってくれた。だから、今度こそ私の番」
胸の前で拳を握るブエナが、脳裏に思い浮かべる光景は、ジャパンカップでの“彼”とジェンティルの姿。
喝采を浴び、降り注ぐ祝福の中、並び立つ二人を見て感じたのは……羨望。
私があの場に立ちたかった。
あの場に立つ私を、みんなに見て欲しかった。
ああ。今すぐにでも、走り出したい。
それは、ブエナ達がトリプルティアラを達成した時に、“彼”が抱いた感情と、どこか似ていた。
「世界に示されたオルフェさんの光で、私をライトアップして。前人未到の偉業をも凌駕して、目に焼き付けてもらうんです。私が本当に見せたかった、私を」
「……貴様は……」
大言壮語と、笑い飛ばせばいい。
自信過剰な愚か者と、蔑まれても仕方ない物言いだ。
……が、できない。
単なる誇大妄想狂には宿らないだろう、強い、とても強い輝きが、やはりその目にある。
「クハハハ……! そうか、そうであったか。余が見誤るとはな……。貴様の根底にあるものは、どこまでも貪欲な、自らの信奉者をも飲み込む──我欲か」
オルフェはようやく、ブエナビスタという存在の正体を理解した。
誰かのため……と言えば聞こえは良いけれど、突き詰めればそれも、そうしたいという自己の欲求に違いない。
今、ブエナの我欲は極限まで高まっている。
オルフェですら無視できないほど……目が眩むほどに。
王に対し、なんたる不遜。なんたる傲慢。
これを正さず、王は名乗れぬ。
「よかろう。怖けず曝け出した度胸に免じて、余に伏する機会をやろう。有り難く思うがいい」
「……はい。ありがとうございます」
オルフェーヴルとブエナビスタ。
二人は真正面から、互いの瞳を見つめる。
自尊心と渇望。
王を自負するウマ娘と、かつて女王とも呼ばれたウマ娘。
宿命かと思える戦いは、ここに確約された。
そして、有馬記念へのオルフェーヴル参戦は広く周知され、日本中が沸き立つ事となる。
否が応でも、期待と注目は高まっていった。
日が経ち、年の瀬間近。
とある会場で開催された、有馬記念公開枠順抽選会を終え、ジェンティル達は帰路についていた。
「有馬記念、勝ちしかあり得ませんわね」
「そうだな」
今年が初めての試みとなる、枠順抽選会。
これまでは機械による抽選などでランダムに決めていたのだが、今回は司会進行が出走者の名前でくじ引きし、選ばれた陣営が好きな枠番を決定できる。
ジェンティルの名前が真っ先に呼ばれ、選んだ枠順は2枠4番。先行策に有利な枠番だった。
ヴィルシーナとの一件以降、調子を取り戻した“彼”は、ジェンティルに有馬記念出走を打診した。
最後の思い出作りなどではなく、相応しい相手に勝利し、ジェンティルのトレーナーの座を勝ち取るためである。
日を同じくしてオルフェーヴルが出走表明をしたのも幸いして、ジェンティルの家族を観戦に引き出す事も成功。
かなりのハードスケジュールとなったが、初めての長距離レースにも対応するトレーニングも積んだ。準備は万端である。
なお、“彼”がヴィルシーナから十割コンボを喰らったことは、もちろん秘密にしてある。
対抗心を出されて同じコンボを喰らわされたりしたら、今度こそ命が……トレーナー人生が危ない気がしたからだ。
「そう言えば。シュヴァルさんへのトレーニング、本格的に始めるそうですわね」
「ああ。他の同期の子からは遅れているけど、すぐにデビューできると思う。それだけのポテンシャルは持っているよ」
話は変わり、逆スカウトを受けたシュヴァルとは、正式に担当契約を結ぶ事となった。
タイミング的には良くないのだろうが、彼女の振り絞った勇気を、無碍には出来なかったのだ。
その存在は、しかし長距離に挑むジェンティルにとって良い刺激ともなり、夏からもトレーニングを積み重ねたのか、デビュー前とは思えない走りの安定感から、「将来が楽しみね」と言わしめるほど。
この新しい契約はまだ非公開だが、いずれ公表されれば、大きな話題となるだろう。
「興味本位で聞きますが、どんなプランで成長させるつもりかしら」
「ふむ……。本人との擦り合わせ次第で変わるとして、個人的には……目標を一つに絞りたいな」
「と、言うと?」
「グランプリでの勝利。それ以外のGⅠは、いっそ無視してもいい」
契約に際し、シュヴァルが語ってくれた、レースを志したきっかけ。
誰もが期待する三冠バを有馬記念で破った、偉大なるウマ娘の姿。
自分もそうなりたいと語るシュヴァルを育てるなら、有馬記念を始めとする、トゥインクルシリーズにおけるグランプリでの勝利が最終目標だろう。
先に挙げた有馬記念、ジャパンカップ、宝塚記念などが該当し、どれも距離適性的に問題ない。
「シュヴァルは君と真逆だ。自分に自信が無くて、自分を信じきれない。でも、それが強みにもなる」
「自信の無さが、強み……」
「自分に自信が無いから、他人の意見によく耳を傾けられる。間違えないように何度も確かめて、確実に出来るようになるまで練習を重ねられる。こんなウマ娘、そうそう居ない」
夏合宿の時から分かっていたが、シュヴァルはトレーニングに対して真摯に取り組んでくれる。
生来の真面目な性格と、スタミナが伸びやすい恵まれたバ体という下地があるため、辛くとも投げ出さず、理解できていない点があれば逐次確認し、確実に自分のものにしていく。
文字にすれば簡単に思えるこれを、実際に行えるウマ娘が、どれだけ居るだろうか。
誠実にトレーニングと向き合えるというだけでも、十分なアドバンテージなのである。
「言い方を変えれば、他人の意見に振り回されやすく、間違いを信じさせられてしまう事も、あり得ますわね」
「……ははは」
「何を笑っていますの」
「そんな風に、悪し様に言っても無駄だよ。ジェンティルのトレーニングに短期間とは言え食らいついて、君自身も見放さなかった。それがシュヴァルの資質を証明してる」
あまりにも“彼”が褒めるものだから、ちょっと意地悪をしてみるけれど、それもすぐ見破られる。
流石はヴィルシーナの妹、と思っていたのも確か。
少し悔しいが、ここは素直に負けを認めるジェンティルだった。
「狡い人。わたくしを物差しに使うだなんて」
「立ってるものは親でも使え、って言うだろう。まぁ、だからこそ、トレーナー次第で伸びもするし、伸び悩みもする。クラシック級を丸ごと使う事も考えないと」
「そうなれば、“貴方”は批判の的になりましてよ?」
「だろうね……。覚悟してるさ。君のおかげで少しは慣れたしな」
「まぁ」
小さく笑い合い、会話が途切れる。
少しだけ……。ほんの少しだけ、寂しいと感じるのは、二人きりの時間が終わってしまうから、だろうか。
随分とセンチメンタルな自分に、ジェンティルの顔に苦笑いが浮かぶ。
「……着いたな」
やがて、車が音もなく停車した。
そこはハロンタワーの真下。せっかくのクリスマス、ただ帰るのは勿体無いと、珍しくジェンティルが寄り道を願ったため、足を運んだのである。
ライトアップされたタワーは煌びやかで、同じ目的の人々が、車の窓越しにもごった返しているのが見える。
……と、先に降り立った“彼”がドアを開け、恭しくジェンティルへと手を差し伸べた。
「お手をどうぞ。My Lady」
「ええ。ありがとう。……もう手慣れたものですわね」
「君の薫陶の賜物だよ」
社交界に慣れたジェンティルからしても、“彼”のエスコートは様になっていた。
積み重ねた経験で、堂に入った振る舞いができるようになったのだろう。
チラと周囲を見れば、見事な紳士の立ち姿に、見惚れている女性も幾人か。
……少しは目端の利く方も、居るようね。
悪くない気分で手を取り、車を降りるジェンティル。
ところが、離れるはずの手は重なったまま。
“彼”は、静かにジェンティルを見つめていた。
「……トレーナー?」
「俺は」
途方もない“力”を秘めているとは思えない、細く柔らかな指を握り、“彼”は言う。
「誰に何を言われても、自分からこの手を離す事はない。易々と、
音が、消えた。
まるで、世界から他の人々が消え去って、二人きりになったよう。
いけない。
こんなに静かでは、騒々しい鼓動の音が、“彼”に聞こえて……。
『きゃぁあああっ!!』
「うぉ!?」
唐突な歓声。
こちらを見ていたらしい周囲の人……特にウマ娘達が、目をキラキラとさせていた。
何やら、「ねえねえ今の聴いた!?」「流石はジェンティル様とトレーナー様だわ!」「やっぱジェン×トレしか勝たん!」「突然の尊みぃ!!」などと言っている。サンタ衣装のバイトが一人、卒倒したように見えたが大丈夫だろうか?
“彼”は声を張った訳ではないのだが、雑踏に紛れるような音量でも、ウマ娘の聴覚は拾い上げたようだ。
「あらあら、大変。騒ぎになってしまいましたわ」
「や、やっちまった……っ」
「ふふふ。期待されていますわよ、トレーナー? さあ、エスコートして下さらないと」
「……ええい、分かった! ぃ、行こう!」
やらかした自覚はあるのか、頬を引き攣らせる“彼”だったけれど、ジェンティルが腕に手を添えると、背筋をピンと伸ばす。
その後は、写真を撮ろうとする野次ウマから、居合わせたファン達が守ってくれたりなど、クリスマスは騒がしく過ぎて行った。
そして、程なくその日がやって来る。
多くの人々の、運命の岐路となる、レースの日が。
地震かと思えるような震えが、届いている。
もうすぐパドックが始まろうかという控え室で、“彼”はジェンティルと共に、静かに時を待っていた。
(いよいよ、か)
この有馬記念で、全てが決まる。
ジェンティルのトレーナーを続けられるか否か。
再びの前人未到を達成できるかどうか。
……あの子が、有終の美を飾れるかも、今日、決まる。
ここ一カ月前後は、妹とも会う機会はめっきり少なくなった。
会ったとしても、当たり障りのない話ばかりで、双方が有馬記念を話題に挙げる事を避けているようだった。
“彼女”は、このレースにジェンティルとの今後が賭けられていると、知らないはずだ。
だから、という訳ではないが、考えてしまう。
ジェンティルが勝ったとして、あの子のレース人生に、悔いを残させてしまうのではないか。
もしジェンティルが負けたなら、自分が勝ったせいで契約を解除させたと、気に病まないか。
……どうしても、考えてしまう。
その時、控え室のドアをノックする音が。
「どうぞ」
「失礼します」
ジェンティルの許しを得て入って来たのは、私服姿のヴィルシーナだった。
正直、思考が堂々巡りしていたので、有り難い来訪だ。
「ヴィルシーナ。来てくれたのか」
「はい。……ジェンティルさんには、激励など不要でしょうけれど」
“彼”に笑顔を向けた後、ヴィルシーナは精神統一を終えたジェンティルと対峙する。
二人の間に走る緊張感は、レースで対峙する時のそれと、全く遜色がない。
「意外でしたわ。わたくしはてっきり、貴女も出走すると思っていましたのに」
「徒に無様を晒すのは、勇気でも挑戦でもありません。私に長距離適性は“まだ”無い……。
せいぜい今のうちに、冠を増やしておいて下さい。そうすれば、私の栄光はより輝きますので」
「……ほほほ。そうしましょうとも」
笑顔で睨み合う姿は、ある意味で安心する光景だったけれど、やはり“彼”には気掛かりが残る。
ヴィルシーナが出走しない事を選んだのは、本当に距離適性を考慮してなのだろうか。
あの日、彼女に悩みを吐露してしまった事で、レースに全力を傾けられない状況へと、追い込んでしまったのでは。
……自分の未来に、わずかでも影を落とさないよう、出走を断念させてしまったのではないか、と。
尋ねたとしても、きっと答えてはくれないだろう。
ヴィルシーナの真意がどうあれ、今は目の前のレースに集中しなければ。
「そろそろ時間だ。行こうか」
「分かりました。では、ヴィルシーナさん。祝福の言葉を用意しておいてくださるかしら」
「……ええ。今回だけ、特別ですわ。御武運を」
いつも通りのようでいて、どこか、ぎこちなくもあるやり取り。
それでもパドックの時間は迫っており、違和感を抱えたまま控え室を出る。
ヴィルシーナと“彼”が見送る中、ジェンティルは地下バ道の出口へと向かい……いや、向かおうとして、足を止めた。
背後に、とてつもない存在感が現れた。
ゆっくりと近づいてくるそれを確かめようと、振り返る。
見覚えのある勝負服。
見覚えのある顔立ち。
なのに最初、誰だか分からなかった。
「……ブエナさん」
心優しいルームメイトである、ブエナビスタ。
見違えるほどの存在感を背負った彼女が、そこに居た。
「ジェンティルさん。また、一緒に走れますね。今日はよろしくお願いします」
「……ええ」
気圧されている……? わたくしが?
ただ笑顔を浮かべているだけのブエナの挨拶に、なぜか言葉を詰まらせるジェンティル。
それは、様子を見守っていた二人も同じであり、ブエナはそれに気づくと、ヴィルシーナに綺麗な一礼をした後、“彼”の前へ。
「お兄さん。ジェンティルさんの、トレーナーさん」
確かめるような呼びかけに、“彼”は答えない。答えられない。
だが、何故だか満足そうな表情で、最後にもう一度、“彼”を呼ぶ。
「……お兄ちゃん。私を、見ててね」
返事を待たず、ジェンティルを追い越して、地下バ道から姿を消すブエナ。
ジェンティルは、呆然と見送っていた自分にハッとし、次いで、自らのトレーナーの様子を探る。
“彼”もまた、ブエナの背中を見つめていた。
もう姿なんて見えないはずなのに、目を離せないまま、ずっと。
(胸が、ザワつく。手が……震えて……?)
レース前の一幕とは言え、“彼”の、そしてジェンティル自身の視線を、攫われた。
その事実が、肩に重く、のし掛かる。
これまでに持ち上げてきた、どんなウェイトよりも。それは重たく感じられた。
『さぁ、いよいよ始まります、有馬記念。今年も錚々たるメンバーが揃いました』
場面は移り変わり、中山レース場のトラック。
パドックを終えたウマ娘達が、続々とゲートに入っていく。
『注目のオルフェーヴルは8枠15番、その終生のライバル、ウインバリアシオンは5枠9番。
同じく追い込みの凄まじいゴールドシップは7枠14番、ゴールドシップを確保できるか、フェノーメノ、5枠10番となっています』
実況の紹介する面々は、すでに実力を証明された強者ばかり。
活躍を期待するファンも詰めかけていて、観客動員数は過去最多を更新していた。
『そして、この有馬記念をラストランとするブエナビスタ、1枠2番に入っていきます。これはどう見ますか?』
『後方脚質の多い中での1枠ですから、不利は否めませんね。序盤の動きが肝要となりそうです』
中でも人気を博しているのは、実戦から遠のいて久しいはずのブエナビスタ。
パドックでも分かる素晴らしい存在感に、誰もが「もしや」と期待を抱いている。
そして……。
『最後は2枠4番ジェンティルドンナ。史上初の十冠達成が掛かるこのレース、奇しくもトレーナー同士の兄妹対決でもあります』
『妹同然に育ってきたブエナビスタを、トリプルティアラへと導いた才媛。その兄であり、遅咲きながらトレーナーとして完全無敗を維持する鬼才。果たして軍配はどちらに上がるのか! 目が離せません!』
間違いなく今回のキーパーソンである、ジェンティルドンナが今、ゲートインした。
地下バ道での動揺はすでに無く、レースに集中できている。
当たり前だ。集中を欠いて勝てるような相手など、この場には一人たりとも存在しない。
軽く深呼吸。
緩やかに首を動かし、片足を一歩後ろに、体は前へ。
静寂。
『ゲートイン完了。出走の準備が整いました。………………スタートです!』
ゲートが開いた途端、蹄鉄の音が鳴り響く。
逃げを得意とするウマ娘が、ハナを奪おうと我先に突出していった。
しかしここで、思わぬ出来事が。
『ああっとブエナビスタ、ゲートを出ない! 大きく遅れて今スタートします! 何故だかゴールドシップが凄い顔をしているぞ!?』
『いや、これは作戦でしょう。彼女には爆発的な末脚があります! ゴールドシップの変顔については、分かりません!』
他が飛び出していく中、ブエナだけはゲート内に残り、数秒遅れてやっと走り出す。
そのことに気付いた少なくない面々は、誰もが怪訝な表情を浮かべている。
(ブエナさんが出遅れ……? いいえ、違う。バ群を避けるために遅れても問題ない、という事ね)
この事態を、ジェンティルはブエナ陣営の作戦と見た。
レースにおいて、どんな強者でも恐れなければならないのは、バ郡に紛れること。
無理に出ようと接触すれば危険行為で降着。出られなければ言わずもがな。
それを避けるため、わざと出遅れるというのは有り得る作戦だろう。
最終直線までに、遅れを取り戻すだけの走力があれば……の話だが。
(息は続く。脚も動く。ペース配分は問題無し。オルフェさん達のおかげか、マークも分散している)
以降は澱みなくレースが進み、中盤戦に差し掛かっても順位の変動は少ない。
逃げ・先行組はジェンティルとフェノーメノが睨みを利かし、後方脚質組はオルフェ、ゴルシ、シオンを警戒して動きが鈍い。
ブエナは……相変わらず最後方。不気味なほど、静かだ。
(中山レース場の最終直線は短い。彼女達はその直線に賭ける。ならばわたくしは、早めに抜け出す必要がある)
余力がある内にハナを奪い、他が焦る中で先行する。
普通なら早過ぎるだろう仕掛け所も、オルフェ達が相手とあれば、選択肢に入る。
コーナーでの膨らみを利用して位置取りを調整したジェンティルは、外目から前を行った。
『第3コーナーを過ぎ、ジェンティルドンナが早くも上がってくる! これは速い!』
『最終直線での混雑を嫌ったのかも知れません。しかし、掛かっている可能性もあります。冷静に事を運べれば良いのですが』
『後を追うオルフェーヴル、バ群を抜いた! ゴールドシップとウインバリアシオンが続き、フェノーメノも負けじと喰らいつく! ブエナビスタは未だ最後方、やはり距離適性の壁は厚いのか!?』
ジェンティルが牽引し、一気にレースが動いた。
ペースがどんどん上がって行き、垂れるウマ娘も出始める。
間もなく最終コーナー。リードは3バ身。
(このまま、突き放す!!)
残していたスタミナを全て吐き出すつもりで、ジェンティルは全力でのスパートを掛ける。
外への膨らみはまた大きくなるが、それでも後ろとの差は縮まらない。
踏み込む度にゴールは近づき、速度も伸びて。
行ける。
勝てる。
有馬を制し、十冠を達成して、更なる世界へ。
これで、奪われずに──
「行くよ。みんなの“力”を、私に貸して」
聞こえるはずのない声が、聞こえた気がした。
時間が止まったような感覚。
遠く、背後で巨大な“何か”が、動いた。
『ブエナビスタ! ブエナビスタだ! ブエナビスタが、ガラ空きだった内ラチを突いて来た! 見事なゴボウ抜きだ!』
ジェンティルに釣られてか、バ郡は横へ大きく広がっており、閑散とした内ラチを最短距離で、ブエナが突貫する。
稼いでいたはずのリードが消えていく。
巨大な気配が、近寄ってくる。
背筋が粟立つ。
(……駄目よ、振り返っては! わたくしは、前だけを! 見てはいけない、見ては、見──)
見るつもりなど、無かったのに。
その背中は嫌でも視界に入って来た。
まるで太陽を背負っているかのような、輝き。
知らず、手を伸ばそうとして。
気がついた時には、もう、手遅れだった。
『ブエナビスタ猛追! ブエナビスタ猛追っ! ……差し切ってゴール!! 距離適正に涙を飲んできたかつての女王が、有馬記念で有終の美を飾ったぁあああっ!!』
音が、聞こえない。肌の震える感覚だけが、爆発する歓声の凄まじさを伝える。
汗を拭うのも忘れ、掲示板を見上げる。
二位。
三位は、オルフェーヴル。
「……フ、ククク……ハハハハハッ!!」
ようやっと復調した聴覚が、オルフェの哄笑を捉えた。
片手で顔を覆い、天を仰ぐようにして、笑っている。
ブエナの勝利に沸いていたはずの会場も静まり返り、視線が、カメラが、集音マイクが向けられる。
「なんたる、無様か」
そう吐き捨てると、オルフェは心配げな顔のブエナの元へ。
「礼を言うぞ、果敢なる女王よ」
「オルフェさん……?」
戸惑うブエナを他所に、オルフェの表情は晴れやかだった。
憑き物が落ちた……のとは、少し違う。
ようやく見るべきものを見据えたような印象だ。
「余の心は倦んでいた……。彼の地で、二度も同じ結果しか出せず。これが余の限界か、とな。実に狭量であった」
そこで言葉を区切り、一度、地面へと顔を落とす。
次に上げられた眼には、燃え盛る感情が宿っている。
「認めぬ」
それは、己への怒り。
たったの二度で諦めてしまった自分が腹立たしく、拳を握り締める。
「このままで終われようか。否! 余は王である。王であると余が定めた。なれば示さねばならぬ。王たるに相応しい威光を」
朗々と歌い上げるは、オルフェーヴルをオルフェーヴルたらしめる矜持。
目の前に居る女王が出来て、自分が出来ないなど有り得ぬ。
幾度でも泥に塗れよう。
幾度でも屈辱に塗れよう。
その程度で、王の威光は翳りはしない。
「其方の見せたものに誓おう。余は今後、誰にも負けぬ。どのようなレースでも。どのような場所でも。信じられるものだけ、着いてくるが良い。……我こそは」
外套を翻し、ブエナに背を向ける。
彼女の背は曲がってなどいなかった。
敗北を経てなお、黄金の輝きは増していた。
「覇道を往く者なり」
オルフェーヴルは、確かに王であった。
静寂ののち、どよめきが広がり、そして、また爆発する。
『これはもしや、三度目の挑戦、という事でしょうかっ? オルフェーヴルが、また凱旋門賞に!?』
『と、とんでもない事になりましたね……!』
地下バ道へ消えていく背中に、信奉者達が口々に近いの言葉を投げる。
貴方だけが私の王です。一生着いて行きます。
オルフェーヴル。オルフェーヴル。オルフェーヴル!
勝利を。勝利を。勝利を……!
うねる感情の波が、レース場を包み込んだ。
もう誰も、ジェンティルを見ていないようだった。
奥歯が軋む。
けれど、顔を歪めはしない。それは貴婦人の行いではない。
深呼吸をして、悔しさを飲み下し、ジェンティルもブエナと挨拶を交わす。
「お見事でしたわ。ブエナさん」
「ジェンティルさん……。ありがとうございます。ようやく、お見せすることが出来ました」
疲れ果てているはずなのに、ブエナの笑顔は眩しくて。
そんな彼女の見せた絶景だから、オルフェの心にも火が付いたのだろう。
「本気で引退を? これほどの“力”を見せながら」
「……はい。最後だからこそ、こんな“力”を出せたのかも知れません」
「そうですか……。借りを返せないのは不本意ですが、これ以上は無粋ですわね」
オルフェが去り、会場は再び、ブエナを讃える声で満ちる。
見れば、ウィナーズサークルではブエナのトレーナーが、涙も隠さず手を振って。
「ほら、貴女のトレーナーが呼んでいますわよ」
「あ、はい。それじゃあ、また後で!」
ブエナはその場から駆け出すと、トレーナーの……“お姉ちゃん”の胸に飛び込んだ。
泣き笑いで抱きしめ合う二人を、柔らかな拍手が改めて祝福する。
敗者であるジェンティルには、目が眩む光景だった。
逃げるように、それでも背筋だけは伸ばして、ゆっくり、ゆっくり、地下バ道へ。
「ジェンティル」
出迎えてくれる“彼”は、なんとも形容し難い、複雑な表情を浮かべていた。
妹達を祝福したい気持ちと、全てが終わってしまった悲しみとが、せめぎ合っているのかも知れない。
「情け無い姿を、お見せしました」
「……今回は、あの子が……ブエナビスタが、全てを攫っていったな」
そう。攫っていった。
勝利も。喝采も。祝福も。……未来も。
「油断などしていませんでしたわ。わたくしは今まで通り、勝ち取るつもりでいた。
……ですが、違った。いつの間にか、勝つためではなく、奪われないために走ってしまっていた。……勝てるはずがありませんわね」
いつからだろう。
ひょっとしたらレース直前の、あの時だろうか。
“彼”の視線を奪われた瞬間、無意識に悟っていたのかも知れない。
今日が、その日なのだと。
「だが、これで君はもっと強くなれる。ジェンティルドンナは、負けを知って、それに甘んじられるようなウマ娘じゃない。
……だから、これで良かったんだ。……これが、俺が君に、教え、られる…………最後…………の…………っ」
平静を装っていた“彼”も、やがて言葉を詰まらせる。
認める事を拒むように顔をしかめ、歯を食いしばり、ジェンティルからプレゼントされたネクタイピンを、強く握って。
震える拳に、手を添えてあげたいけれど。その資格すら失われた。
心に、深く、重く。影が染み込んでいく。
これが絶望という感情、なのだろう。
……胸が、痛い。
「最後って、どういうこと……?」
背後から、戸惑いの声が届いた。
早々に勝利者インタビューを終えたのだろう、ブエナと“彼女”が立っていた。
喜びで満ちていた表情が抜け落ち、今にも倒れそうなほど顔面蒼白だ。
「お前、聞いてたのか……」
「どういうこと!? 答えて兄さん!!」
「お、落ち着いて、お姉ちゃん」
「落ち着けるわけない! 最後? 最後って何……なんでっ!?」
もはや絶叫に近い声を受け、“彼”は諦めて全てを語る。
ジェンティルの父親との確執。
未来を賭けた勝負。
そして、敗北した今、もう為す術は失われた事を。
「兄さんが、トレーナーを、ジェンティルの、トレーナーを、辞める……?」
フラフラと後退り、熱に浮かされるように呟く“彼女”。
最愛の幼馴染と掴んだ勝利が、同じく最愛の兄の未来を閉ざしてしまった。その心中は如何許りか。
俯く背中になんと言えば良いのか、ブエナも分からないまま、ただ寄り添い続ける。
「ジェンティル。今日、来ているんだよね」
「……ええ。そのはずですが……」
「会わせて」
しかし。
程なく“力”を取り戻した声には。
その顔には──
「そのバカに会わせなさい。今、すぐに」
純粋な怒りが、湛えられていた。
まだ噴火していないのは、相手が目の前に居ないから。煮えたぎる熱に、ジェンティルすらもが一瞬、喉を凍りつかせた。
こ、これは……怒りを通り越して、もはや殺意では……?
「お、“お姉ちゃん”が本気で怒ってる……」
「マズい……マズい事になった……!」
事の深刻さを、“彼女”をよく知る二人の怯え様が教える。
普段は大人しい人が怒ると、ギャップで怖さが倍増すると聞くが、倍増どころではない。
こんな、修羅のような一面を隠しているだなんて、知らなかった。知りたくなかった。
ジェンティルは抵抗する気も起きず、言われるがままに、父が居るはずの席へと“彼女”を案内する。
「あ、トレーナーさ──ひっ」
「丁度良いわ。ヴィルシーナ、貴女も来なさい」
「え、え、あ、はい、分かり、ました……」
途中で心配そうなヴィルシーナにも出くわすが、“彼女”の顔を見た途端に全身を震わせ、有無を言わせずに従わされる。
ある程度は事情を知っていたからだろう、向かう先が分かると、静かに後に続いた。
やがて、入り口を警備が固める、屋内観客席に辿り着く。
熟練の警備員ですら、ジェンティルの背後に立つ“彼女”から立ち上る怒気に、冷や汗をかいていた。
戸惑う彼等を促しドアを開けさせると、“彼女”は「失礼します」と一応の礼を置き、待ち受けていたジェンティルの父と対面する。
「君は……ブエナビスタのトレーナー君か」
「初めまして」
先頭に立つ人物が、予想とは違ったのだろう。その声には、わずかな揺らぎがあった。
けれども、そこは年の功。表情を一切変えず、怒り心頭に発する“彼女”を迎え撃つ。
「単刀直入に申します。楽しいですか?」
「……何がかね」
「上から目線で引っ掻き回すなんて無粋な真似は楽しいですか? と、お聞きしています」
「なっ!? お父様になんて口を──」
「子供は下がっていなさい。邪魔よ」
「う……っ」
あまりにも失礼で、無礼千万な物言い。思わずジェンティルの弟が口を挟もうとするも、文字通り一蹴されてしまう。
これ以上、邪魔をしたら殺される。
そんな、あり得ない光景を幻視するくらいに、“彼女”の形相は凄絶だったのだ。
全く嬉しくないが、どれだけ姉が手加減してくれていたのか、実感する機会となった。
「より良い選択肢を提示したまでのこと。部外者にとやかく言われる筋合いは、ないだろう」
「部外者はそちらです。より良い選択肢? 貴方にとって都合の良い選択肢、の間違いでしょう」
「ならば、今回の負けの責任はどうするのかね」
「語るに落ちましたね。そんな言葉が出てくること自体が、何も分かっていない証拠です」
いかに怒髪冠を衝く状態とはいえ、政財界の大物に対して、全く物怖じしない“彼女”の胆力もまた凄まじい。
話の主役であるはずの“彼”とジェンティルも、今回ばかりはただの置き物となっていた。
だが、冷静さは失っていないようで、言葉尻に論破の糸口を掴み、畳み掛ける。
「トレーナーは、単なる指導者ではありません。担当ウマ娘は、単なる教え子ではありません。二人三脚でレースに挑み、共に勝ち、共に負け、一緒に成長する存在です」
人間とウマ娘。
似た形をしているけれど、決定的に違う種族。
なのに共存できている理由は、生物学的な理由だけではない。
人間だけでは辿り着けない領域がある。
ウマ娘だけでは越えられない壁がある。
互いに手を取り、共に歩んで、初めて見える景色がある。
「たった一度の負けが、なんだって言うんですか。この二人なら、負けからだって成長できる。私とブエナがそうしたように」
後ろを振り向いた“彼女”は、打って変わって普段通りの……優しく温かな笑顔で、ブエナを見た。
ドリームジャーニーに負けた有馬記念の悔しさ。海外への挑戦よりも優先した天皇賞・春で勝てなかった悔しさ。それをバネにして、二人でトレーニングを積んできた。長い距離を走るために、一年以上も、ずっと。
その結果として今日の絶景があるのだ。
誰にも否定なんてさせない。させて堪るものか。
「どんな理由があろうと、本人達が望まない契約解除を押し付けるなんて、言語道断です。恥を知りなさい!」
凛とした声が、皆の耳を叱咤した。
誰もがその言葉に胸を打たれる中、ジェンティルの父は、しばし無言で“彼女”を見つめ、やおら口を開く。
「では、君は何を望む」
「発言を撤回して下さい。この二人はこれからです。これからもっと成長して、貴方が望んだ成果の、何倍もの結果を出すでしょう。私が保証します」
「……ほう。言ってくれる」
より良い未来を見つめる瞳と、確かな現実を見据える瞳が、睨み合う。
おいそれとは立ち入れない、息の詰まる緊張感。
そこにあえて踏み出すのは、やはり“彼女”の教え子であり、幼馴染でもある、ブエナだ。
「私からもお願いします。私が走ったのは、成長した姿を見てもらうためです。誰かの未来を奪うためじゃありません。どうか、私の最後のレースを、そんな形で終わらせないで下さい」
“彼女”の……“お姉ちゃん”の隣に立ち、その手を握って、純粋な願いを言葉に乗せる。
未来を諦めかけていたオルフェが、ブエナの背中に後押しされたように。
ウマ娘の走る姿は、誰かに希望を繋げられるのだと、信じたい。
綺麗事だと言われたら、否定はできない。けれども、綺麗だからこそ人は惹かれ、憧れるのだ。
その気持ちは、確かに尊いのだ。
「私も同じ気持ちです。私が勝ちたいのは、ジェンティルさんだけじゃない……。ジェンティルさんと“彼”、この二人だから勝ちたいのです。勝ち逃げなんて許せません! どうか、お願いします!」
ヴィルシーナもまた、我慢できずに進み出る。
ブエナのそれより自分本位な言葉だったが、故に掛け値無し。本音の言葉は、虚飾に慣れきった耳も無視できない。
三対の眼に見つめられ、しかし尚、ジェンティルの父は揺るがない。
真っ向から言葉を受け止め、そして……。
「そこまで!」
突如として、涼やかな声が空気を割った。
勢いよく開け放たれたドアから入ってきたのは、若草色のジャケットが似合う、長い黒髪のウマ娘だった。
「全く、悪役が似合うのは結構ですが、このままだと我々も悪役にされそうなのでね。割り込ませて頂きますよ」
「貴方は…………まさか、スピードシンボリ!?」
スピードシンボリ。
その名が示す通りシンボリ家を代表するウマ娘で、過去には有馬記念に五度も出走。連覇すら果たした傑物である。
驚く“彼女”を始めとしたURA所属の人間なら、知らぬ者のない人物だ。
「おや。新進気鋭のトレーナー君にも知られているとは、私も捨てたものではないかな。とは言え、礼儀として自己紹介はさせて貰いたい。私の名はスピードシンボリ。URAの海外事業部を管轄している」
「同じく! URA所属、学園強化部門の佐岳メイだ。以後よろしく!」
加えて、スピードシンボリの影に隠れていた小柄な少女……いや、女性も挨拶をする。
ダメージシャツが印象的な彼女、佐竹メイも、URAでは有名な存在である。
この二人は、共通して海外への事業に携わっているのだ。
スピードシンボリに至っては、初の欧州長期遠征を敢行したパイオニアでもある。
「まずは誤解を解いておこう。ジェンティルドンナのトレーナー君。君はジェンティル君の父上に、トレーナーを辞して欲しいと言われたね。あれは嘘だ」
「……う」
「そ……」
「ですって……?」
渦中の兄妹と、ジェンティルまでもが、大口を開けて驚く。
嘘。嘘? ここまで大事にしておいて、嘘?
あまりの衝撃を受け止めきれない三人に、メイとスピードシンボリも苦笑いを禁じ得ない。
「私達も驚いたもんさ。いずれ必ず海外を目指すだろう君達のために、事前に顔合わせをしておきたいという話だったのが……」
「いきなり『“彼”を試させて貰いたい』と事後報告で言われて、巻き込まれたのさ。この一カ月、気が気ではなかったろう。口止めされたとは言え、本当にすまない事をした」
「……どういう事ですの、お父様」
メイやスピードシンボリ程の人物に頭を下げられ、どうにか飲み込む事はできた。が、圧倒的に説明が足りない。
ジェンティルは憤りをなんとか抑えて、父に詰め寄る。
すると、嘆息一つ。ようやく真意が語られる事となった。
「私はかつて、あらゆる辛酸と苦渋を舐め尽くした。侮られ、恥辱に塗れ、それでも尚、強く求めたからこそ、今の私がある。
スピードシンボリ殿は嘘と言ったが、簡単にジェンティルを手放すようであれば、本気で辞めさせていた。
意に沿わぬ選択肢を押し付けられ、望まない結末を用意され、しかしそれを否とする胆力がなければ、とても世界になど飛び立てん」
市井の出自ながら、一代で富と名声を掴んだ英傑。
言葉にすると陳腐にも聞こえる表現だが、その道のりは険しいという表現を通り越し、過酷そのものであった。
あらゆる場面で下に見られ、功を立ててもまぐれと蔑まれ、悪意に満ちた嫌がらせは絶えず、胃には常に穴が空きかけていた。
胸に巣食う“力”への衝動さえ無ければ、とっくに自死を選んでいた日々を乗り越えて、今や世界にも手を掛ける存在となったのだ。
自分と同じ道を歩め……などとは言わない。そもそもが違う人間なのだ、歩めるはずがない。
しかしながら、苦難を前に逃げ出すようであれば、娘を預けるには値しないとも思っていた。
これは、巣立ちを控えた娘を持つ、父親からの試練。
勝とうが負けようが関係なく、立ち向かう姿勢を見せて貰えれば良かった。
つまり、言いつけに歯向かった時点で合格なのだった。
「要するに、もう何も心配することは無い、という事さ。こちらとしては、今後こういった行為は遠慮願いますが、ね……?」
「御二方にも申し訳ないことをしました。この埋め合わせは、出資額の増加という形で、一つ」
「うっ。それを言われると、弱いんだよなぁ」
事が済んだからか、ジェンティルの父は素直に頭を下げ、彼なりの謝罪を示す。最善の形ではないという自覚もあったのだろう。
金に物を言わせる謝罪というのも下品な話であるが、URAも慈善事業団体ではなく、受け入れざるを得ない選択だった。
海外事業というのは、兎角、資金が必要なものなのである。
「……あの」
急転直下と言っても過言ではない展開だったが、聡い“彼女”はしっかりと事情を把握し、俯き加減に進み出る。
先程までの、相手が誰だろうと食ってかかる気概は、消え失せていた。
「す、すみませんでした……っ! 私、あの、勘違いをしたまま、とても無礼な物言いを……いやでもやっぱり酷いような……ええと、ええっと……」
どんな理由があろうとも、自分より歳上の立場ある男性に、怒鳴りつけてしまったのは事実。教育者として恥ずべき行いに、深々と頭を下げる。
いや、正直に言うと半分くらいしか納得できていないし、早々にネタばらししなかったのは単なる意地悪としか思えないけれど、まぁとにかく謝っておこう……という感じだ。
「頭を上げなさい、お嬢さん」
意外にも、返ってきた声は穏やかで、優しげな響きを宿す。
顔を上げた“彼女”が見たのは、自嘲気味に微笑むジェンティルの父。
政財界の英傑ではなく、愛娘へと不器用な愛を示す、ただの父親がそこに居た。
「こんな立場になると、誰も叱ってはくれなくてね。久しぶりに、身の引き締まる思いでしたよ」
「い、いえ……そんな……」
“彼女”も戸惑っているが、もっと酷いのは傍観者になっていたジェンティルの弟だ。
滅多な事では見られないのだろう、父の穏やかな表情を、ポカンと見上げている。
それに気付いたらしく、やや気まずそうに咳払い。
今度は娘のパートナーに相対する。
「トレーナー君」
「……はい」
空気が緊張感を取り戻し、皆が固唾を飲む中で、最後の問いかけがされる。
「貴殿はこれから、私が味わった以上の辛酸を、苦渋を舐めさせられるかも知れない。今回の負けも必ず槍玉に挙げられるだろう。貴殿に、覚悟はあるかね」
覚悟。
海外へと挑戦する覚悟。
ジェンティルのトレーナーを続ける覚悟。
敗北を重ねても、前へ進む覚悟。
きっと、全てを含んでいるその問いに、どう答えたものか。
ふと、ジェンティルの父の視線が、胸元に向いている事に気付いた。
確かめてみれば、強く握り過ぎて、形の歪んでしまったネクタイピンが。
それに己の未熟さを見た“彼”は、小さく笑って、肩から力を抜く。
「言葉でなら、幾らでも言い繕えます。だから、見ていてください」
覚悟なんて形式ばった言葉、なんの意味もない。
何故なら、自分達は挑戦者なのだから。
どんなに負けても最後に勝てば良い。
失敗上等、批判も非難も歓迎だ。
それを“力”に変える術は、既に知っている。
どこまでも負けず嫌いな、唯一無二のウマ娘を。
だから、誇りを持って宣言しよう。
胸を張って、誓おう。
「ジェンティルドンナのトレーナーは、俺だ」
“彼”の言葉に、ジェンティルの父は口角を釣り上げた。
そして、無言のうちに観客席から去って行く。
慌ててその背中を追うジェンティルの弟だが、何を思ったか振り返り、“彼”と“彼女”……。二人に向けて一礼。再び後を追う。
少しは認めて貰えた……のだろうか。
視線でジェンティルに問いかけると、「可愛らしいでしょう?」とでも言うように微笑む。
本当に、不器用な家族だ。
それはさて置き……。
「二人とも、こっちに」
「え? は、はい……」
「あの、兄さん。私──わっ」
「ひゃっ」
ブエナと妹を呼び寄せた“彼”は、そのまま二人を抱き締める。
驚かれるのも当然だが、どうしてもそうしたかった。
どうしても、伝えたかった。
「ありがとう」
たった一言に、万感の想いを込めて。
熱くなる目頭も隠さず、強く、強く。
「苦しいよ、兄さん……。でも……っ……良かった……っ、良かったぁ……!」
「うん……! 良かったね、“お姉ちゃん”……。ぐすっ……本、当に……ううぅ……っ!」
涙ながらに抱きしめ合う家族を邪魔しないよう、ジェンティルは、もらい泣きするヴィルシーナの手を引き、空気を読んだスピードシンボリ達と扉の向こうへ。
こうして、波乱に見舞われた有馬記念は、幕を下ろした。
ジェンティルドンナとの契約は無事に継続され、敗北からの再出発を宣言した翌年には、海外への挑戦という新たな道を歩み出す。
ヴィルシーナは国内に留まったものの、彼女もまた前人未到の偉業……。ヴィクトリアマイル連覇を成し遂げ、貴婦人のライバルたる所以を見せつける。
ブエナビスタは予定通りに引退。普通の学生生活を謳歌した後、その凄まじい好感度を活かしたタレント活動を通じて、レースの魅力を世界に発信した。
最後に。
オルフェーヴルも有馬記念での誓いを果たし、以降、どんな場所の、どんなレースでも、負ける事は無かった。
のちの歴史家はこう語る。
その振る舞いは暴君と呼ばれるに相応しい荒々しさであったが、同時に、その背中で多くの民を導く、名君でもあった……と。
更に時は過ぎ去り、七年後。
多くの場面で世代が移り変わる中、かつてレース界を席巻した“彼”らは……。
はいここでカーット!!
ちょいと変なタイミングですが、読後感を重視して本作のまとめをば。
まずは、こんな脳みそtntnな欲望丸出しの拙作を最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。⭐︎謝意⭐︎謝意⭐︎
今回のシナリオを考える上で重視したのはバランスです。
キャラの登場頻度もそうですが、特にレースでの勝ち負けを揃える必要があると考えました。
ジェンティルさんがブエナちゃんの勝ち星を奪ったのなら、ブエナちゃんもジェンティルさんの勝ち星を奪うべき、と思ったのです。
そして、ゲームでは育成目標未達成で「はい終了ー!」となりますが、現実にはそうはならない。敗北の先にも道がある。それを描きたかった……というのもありました。
まぁ、逆張りと言われると否定できないんですが。わしゃあ捻くれモンじゃけぇのぉ(誰やねん)。
ブエナちゃんの幼馴染ぢからに惑わされて始まった本作も、ジェンティルさんが加わり、気付けばシーナちゃんまで登場してしまい……。
途中で「やり過ぎやろこれ」と正気に戻る瞬間もありましたが、どうせやるならとことん盛ってやろうと暴走し、その集大成が本作のエピローグです。もうシリアス終了後のお祭りシナリオ的なノリで描いています。
最後にちょっとしたアンケートもありますので、参考までに投票して頂けると助かります。集計は今月末を予定。
それまでちょっとお休みしつつ、温め過ぎたアルヴさんの方のオマケを描くつもりです。待たせてしまい申し訳。
んじゃあ最後にまた乞食るよ! 感想とか評価とかお気に入りとかここすきとか全部ください! 宣伝してくれたって良いんだZE!
一言でもいいので足跡を残して行って貰えると、ブーケちゃんに天井を叩かされた作者の心が癒されますのでぜひ。
もう石が6万切ったよ……。こんなのってないよ、あんまりだよ……。鬼畜企業サイゲはもっと石配れ……。というか天井低くしろ……。頭ぶつけても文句言わないからお願いします……。
では、愚痴も書き終わったのでこの辺で。
どうぞエピローグをお楽しみください。