ブエナビスタのお姉ちゃんのお兄さん 作:幼馴染にされたネクパイ
「ふんっっっ!」
「く……っ!?」
一歩。
たったの一歩、全力で踏み込んだだけで、アーモンドアイとジェンティルドンナの距離は大きく開いた。
練習用トラックの最終コーナーは過ぎ、もう最終直線。
どれだけギアを上げても、ジェンティルとアイの差が縮まらない。
結局、ゴールまで順位は変わらなかった。
「勝負ありましたわね」
「はぁ、はぁ……! 本当にこれが、現役を引退したウマ娘……っ?」
午後の一コマ授業を終え、多くのウマ娘たちが注目する中での模擬レースは、こうして終了する。
涼しげな顔のジェンティルと、肩で息をするアイ。
二人の対比には、実力差がそのまま現れていた。
「喰らいつく気概はよろしい。ただ、如何せん、経験不足ですわね。才能に乗せられていましてよ」
「……っ。ありがとう、ございました。ジェンティルさん。勉強になりました」
「ほほほ。精進なさいな」
ジェンティルが第一線を退いてから、おおよそ五年。
普通のウマ娘であれば、それほど時間が経てば本格化期間から抜け、身体能力も相応に落ち、現役のウマ娘とは勝負にもならない。
それが、この結果。引退後も弛まず鍛え続けて来たのだと、アイは身をもって思い知る事となった。
以前、“彼”を追いかけた時のレースでは、服装も靴も走るのに適していなかった。本気ではなかったのだろう。
3バ身差もつけられるだなんて……。悔しい……っ!
「残念だったな、アイ。でも、課題は見えた。次に活かそう」
「……もちろんよ。絶対に、糧にしてみせるわ……!」
拳を握り、唇を「へ」の字に結んで悔しがるアイに、“彼”はアイシング用の塗れタオルや氷嚢などを渡す。
まだ中等部である事を考えると、その身体能力は極めて高い。加えて伸び代もあり、かつてのジェンティルと比べても、才能に遜色は無い。
が、ジェンティルが強過ぎる力という欠点を抱えていたように、アイもまた、体に熱が篭りやすいという欠点を持つ。
特にレース後は、体温が38度を優に越える事も珍しくなく、迅速なアイシングが重要だった。
そして、現担当ウマ娘が火照った体を休めている間に、過去の担当ウマ娘へと話しかける。
「ジェンティルも、ありがとう。わざわざ時間を作ってくれて」
「いえ。わたくしも退屈しておりましたので、良い刺激になりましたわ」
「にしたって、相変わらずだ。現役時代より、むしろ今の方が走りにキレがある」
「あら、どうも。“貴方”も相変わらず、お上手ですこと」
苦笑しながらの褒め言葉に、ジェンティルは心の中でガッツポーズを取る。
目の前に居る唐変木のせいで、溜めに溜めた鬱憤をトレーニングにぶつけていた日々は、決して無駄ではなかった。剛毅なる貴婦人は未だ健在、と示せたのは大きいだろう。
しかし、得意気で居られたのも束の間。“彼”は懸念でもあるように眉を寄せた。
「ただ、一つだけ良いか」
「……何か気になる事でも?」
「ジェンティル、一人でトレーニングしていただろう? 変な癖がついてる」
「癖、ですか」
「腕を振る時に、肘が少しだけ外向きになっていた。今は大した差は無いだろうけど、このままだとフォームが崩れる。
早めに矯正しておきた……あ、いや、レースに出る訳じゃないんだから、急がなくても良いんだろうけど」
「……ふふふっ」
慌てて言い直す“彼”が、かつての日々そのままで、思わず笑みが浮かぶ。
ああ。
“貴方”は本当に、変わりませんのね。
「たった一度の模擬レースで、よくそこまで。“貴方”のトレーナーとしての力量も、磨かれているようですわね」
「当たり前だろう? それに俺は君のトレーナーだったんだ。ずっと隣で見ていたんだから、すぐに分かるさ」
「…………そういう所でしてよ」
「ん?」
歯の浮くような台詞が嬉しくて、けれど、それを表情には出せず、ジェンティルは薄く頬を染める。
本当に、昔からこうだ。
レースに関しては臆面もなく恥ずかしい言葉を言い放ち、何一つ見逃さんと目を凝らすというのに、肝心の乙女心には無頓着とは。
「俺なにか変なこと言った?」みたいな顔しないで頂戴。
少し前に、ウマ娘十人以上にあれだけ追い回されておいて、なのにコレなのだから筋金入りだ。今後もアピールを欠かすわけにはいかない。
目下の警戒対象は……氷嚢を頭に乗せ、膨れっ面でジェンティルを見つめる、現担当と、その母親──フサイチパンドラ。
特に母親の方は、その気になれば強引に既成事実を作って……という手も有り得る。二重三重に対抗策を用意しておくべきだろう。
「ほら。“貴方”の今の担当がむくれていますわ。ちゃんと指導しておあげなさいな」
「おっと、そうだった。じゃあ、このお礼はまた後で」
「ええ。楽しみにしております。今後は、 二 人 き り で 、お願い致しますわ」
「あ、はい……」
最後にガツンと圧をかけられ、“彼”は頬を引き攣らせながらアイの元へ。
またタキオンにお薬発注しなきゃ……と戦々恐々していたが、それを知ってか知らずか、アイが真剣な表情を浮かべていた。
「ねえ、トレーナー。話したい事があるの」
「話したい事? トレーニングの内容とか……」
「それもあるけれど、もっと大事なことよ」
「……今すぐに? それとも、トレーニング後?」
「トレーニング後でお願い。今は……とにかく走りたい!」
「分かった。厳しく行くぞ!」
「ええ!」
背後に、ウマ娘達にサインを求められるジェンティルを見ながら、二人は頷き合う。
眼前に聳える高い壁。
普通なら諦めてしまうだろうそれも、この二人には挑み甲斐のある目標に過ぎない。
一層、熱の篭ったトレーニングは、その日の夕暮れまで続いた。
ややあって。
すっかり日が暮れた学園内を歩く、華やかな雰囲気のウマ娘が一人。
「ふう。ようやく終わったわ……。はようトレーナー室に行かんと」
光の加減によっては、紫色を帯びて見える艶やかな髪を、サイドアップにまとめる彼女の名は、ラッキーライラック。
アイの同期の、才気溢れる少女である。アイや友人からはララと呼ばれていた。
メイクデビューを目前に控え、忙しい日々を送る中、今日のトレーニングは全休。
空いた時間を先生方の手伝いで埋めていたのだが、その途中、窓からアイとジェンティルの模擬レースを遠目に見た。
(なんやねん、あの化けもん……。アイさんを子供扱い? いや実際子供やけども、全盛期を過ぎとるはずのウマ娘が? あかん、思い出すだけで寒気するわ……)
ララは、かつてジェンティルとも鎬を削ったウマ娘……オルフェーヴルを敬愛している。
故に、オルフェに幾度も煮湯を飲ませたジェンティルに対し、苦手意識を抱いていた。
が、実際に走っている姿を、遠巻きにとはいえ目にした結果、それは恐怖に似た感情へと変じてしまう。
今までアイと競った模擬レースを、ララは一度も勝てていない。
そんな相手を容易く捩じ伏せるウマ娘が存在し、しかもその担当トレーナーが今、アイの隣に立っている。
焦りを覚えた。
本当に自分はこのままで良いのか。
デビュー前に、まだ何かするべきでは?
そんな気持ちが、足を自然とトレーナー室へと向かわせていた。
『────!』
『──! ──!』
「……ん? なんやろ、この声……」
ふと、ウマ耳が声を捉えた。
場所は……ちょうど、アーモンドアイのトレーナーの部屋だ。噂をすれば、というやつだろうか。
トレーナー室はそれなりに防音されているが、完璧とは言いづらく、ウマ娘の聴覚ならば、中の声が聞こえてしまう事もある。
なんとなく興味をそそられ、ララは耳を側立てる事にした。
もしかして、模擬レースの結果にアイさんが駄々っ子しとるんか?
負けず嫌いやしなぁ、あの子。ぐぬぬ顔が目に浮かぶわ。
『──い、どう──も──いの!』
『無──! 自分の体──を考────!』
……や、そんな雰囲気ちゃうなあ。
妙に深刻っぽい空気が……。
何を言い争っとるんやろか。
『私なら大──。だって“貴方”が……。ト────がサポートして──るでしょう?』
『……そ──言い方、ズル──』
あ、また雰囲気が変わった。
んん……? アイさんがトレーナーさんを困らせとんのか……?
そういえば、あのトレーナーさん怪しい噂があるんよなあ。
実は三十人くらい子供居るとか、目にしたウマ娘を全員食い散らすとか、うまぴょい伝説を見せつけて赤さんホニャララさせるとか。
一つ目はよう知らんし、二つ目はうちが無事やから事実無根で、三つ目に関しては……新手のSCPなん? はよう隔離収容してもろて。
『本気、な──』
『ええ。──よ。私、ど──ても、“貴方”と……』
……あれ、なんやろ、マジで雰囲気が……。
ま、まさかアイさん、もう“そういう関係”なんか!? アンタら、うまぴょいしたんか!? うちらまだ中等部やで!?
トゥインクルシリーズもこれからやのに、そっち方面でゴールインしてどないすんねん! は、早まったらあか──
『クラシック三冠とトリプルティアラ路線、両方に出たいの!』
「んなこったろうと思ったわー!」
どんがらがっしゃーん。
脳内妄想とは全く違うベクトルの単語に、ララはツッコミながらトレーナー室に転がり込んだ。
驚いた“彼”とアイが、目を丸くしている。
「ララ? どうしたの、いきなりドアから転がって来るなんて」
「い、いややわ。ちょっとバランスを崩してしもうて………………ちょい待って。アイさん、今なんて?」
「だから、いきなりドアから転がって……」
「せやのうて、その前! クラシック三冠と、トリプルティアラ、両方……?」
倒してしまったゴミ箱を支えに立ち上がったララだが、入室直前のアイの言葉を思い出し、耳を疑った。
クラシック三冠と、トリプルティアラ。
トゥインクルシリーズを大きく二分するレースのローテーションであり、そのうち一つを勝っただけでも、素晴らしい栄誉と讃えられる。
が、二分するというだけあって、三冠路線の皐月賞・日本ダービー・菊花賞、ティアラ路線の桜花賞・オークス・秋華賞は、ほぼ重なるような日程なのだ。
それを、両方出たいだなんて、前代未聞である。
「アイ。これが普通の反応だ。確かに三冠路線とティアラ路線、レースの日時はズレている。だが、その間はせいぜい一週間前後しかない。これは挑戦じゃない、無謀だ」
どうやら“彼”も、噂と違って理性的な判断は出来るらしく、窘めるようにアイへと語りかける。
過去のレース史において、三冠路線とティアラ路線が交わった記録は、数えるほどだが存在する。
かの名ウマ娘ウオッカの、桜花賞からダービーへ向かった変則ローテは、あまりにも有名だ。
しかし、同時に二つの路線を走ったウマ娘は……居ない。この世界に、ただの一人も。
それを知らないはずがないのに、アイは食い下がる。
「分かっているわ。でも、そのくらいの勢いが、決意が必要だと思ったのよ。私がジェンティルさんを越えるためには、常識を打ち破らなくちゃ」
ジェンティルドンナを、越える。
無敗九冠達成後、海外へと舵を切り、最終的にドバイ、凱旋門でも栄光を勝ち取って、宝塚の勝利をもぎ取り、最終的に有馬記念を勝って引退した、世界に誇る至宝のウマ娘。
これほどの記録を打ち破るには……。これ以上の栄光を掴もうとするならば、確かに、同時に二つの三冠を達成するくらい、しなければならないか。
「アイさん。うちが口を挟むべきではない思うけど……。友達として言わせてもらいます。無茶や。絶対に体を壊してまう。そないなったら、お母様が悲しむで」
「……そうね。なんの助けも得られなければ、間違いなくそうなる。でも、トレーナー。もう考え始めているでしょう? どうすれば、この無謀な無茶を成立させられるのか」
「……っ……」
図星を突かれた。
“彼”はそんな顔付きで沈黙する。
無謀な無茶。本人も自覚している事なのに。
この提案を聞いた瞬間、胸が高鳴った。
直後、理性が働き「不可能だ」と判断したが、アイを説得する裏で、頭をフル回転させていた。
どうすれば、こんな無謀を挑戦として成立させられるか。
無茶に決まっているローテーションを走り切るために、どんなケアが必要なのか。
……ああ、確かに。確かに、考えていたのだ。
「問題は体調面だけじゃない。インターバルを全て休養に回すとなれば、レースへの調整も、ほぼできなくなる。
つまり、来年の四月までに、皐月賞、桜花賞、ダービー、オークス、これらのレースで勝ち切れる程に、能力を高めなければならない」
クラシックレース戦線が始まる四月から、中盤戦の終わる五月までの期間、調整も何もかも捨てて休養に充てれば、体調はなんとかなる、かも知れない。
が、そうなると、四月までに全ての準備を終えなければ。
マイルの桜花賞、2000mの皐月賞、そして2400mのダービーとオークス。
速度とスタミナ、そして戦略眼も十二分に養い、過密ローテの反動で蓄積するだろう、疲労によるパフォーマンスの低下を考慮し、ライバルの存在も加味して戦い抜く……。
前代未聞どころじゃない。荒唐無稽。机上の空論。それこそ、子供が思い描く妄想の類い。
だというのに。
「自主トレ厳禁。休みも絶対厳守。食べる物だって徹底的に管理・制限しなければ。……地獄を見るぞ」
どうしてこうも、滾るのか。
不可能だ、無茶が過ぎる、無謀にも程がある。
理性がそう訴えかけるのと反比例して、沸々と心が燃え上がる。
まだ見ぬ地平に挑戦するという、久方ぶりの高揚感。
それを感じているのは、“彼”だけではないようで……。
「覚悟なら出来ているわ。それに私は、一人じゃない。私よりも私を知ろうとしてくれるトレーナーが……。“貴方”が守ってくれる。そう信じているもの」
宝石のように輝く瞳が、見つめている。
“彼”の瞳を。未来を。そして、勝利を掴む自分自身を。
色こそ違うが、この輝きを、知っている。
それに導かれ、かつて成し遂げた自分達が偉業を、覚えている。
一人ではなく、二人なら。
……これはもう、止められない、か。
「はああぁぁぁ……。この、聞かん坊めっ」
「きゃっ、ちょ、ちょっと、トレーナーっ……!」
深い溜め息をついた後、アイの頭を、ちょっと乱暴に撫で回す。
慌てるアイだったが、どうも嫌ではないらしく、されるがままになっている。
しばらくすると、“彼”は再びアイに向き直り、大きく頷いた。
「責任は俺が取る。君が本気でやりたいと言うなら、やろう」
「ちょっ!? 正気なん、トレーナーさん!?」
「ただし!」
まさか!? と止めに入ろうとしたララは、しかし続く言葉で逆に止められる。
その瞳には、熱に浮かされているだけではない、冷静さが光って見えた。
「さっきも言ったが、指示には絶対に従ってもらう。
加えて、もう限界だと判断したら、トレーナーとして君を止める。
仮に、三冠やトリプルティアラが目前でも。いいな」
「……分かった。“貴方”に任せるわ」
頷き合う二人を見て、ララは思う。
こんな提案を呑む事自体、やはり正気と思えない。
アイは……決して長くない付き合いでも、“そういうウマ娘”だと分かっているし、ある意味、らしい行動だろう。
だが“彼”は、どうなのか。
こんなローテを発表すれば、間違いなくバッシングの嵐となる。
下手すると、才能あるウマ娘の選手生命を使った、売名行為として扱われる可能性も……。
「無茶や……。あかんて! アイさんの体も心配やけど、トレーナーさんかて何言われるか……!」
「大丈夫。誹謗中傷なんて慣れっこさ。何せ、昔の担当が担当なんでね」
どうにか説得を試みるも、苦笑いで返す“彼”。
ララは悟った。
このトレーナー、アイと同類だ。
自分がこうと信じたなら、どこまでも一直線に突き進み、結果を掴んでしまう。過去の経歴が、それを物語っている。
……なんちゅうこっちゃ。
こないにけったいな人が、アイさんのトレーナーやなんて。
似たもの同士、惹かれ合ったんやろか……?
「ララ。ありがとう」
「へ? な、なんやの、急に」
「私達の事を、心配してくれて」
ララが途方に暮れていると、乱れた髪を整えるアイが進み出て、感謝を告げる。
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていると、自分でもよく分かった。
……ズルいわ。
これだから、嫌いになれへんのよな。
「そんなん、当たり前です。無茶して倒れられでもしたら、張り合いがのうなってしまいますから」
「うふふ。大丈夫! きっと、なんとかしてみせるわ!
だから、レース場で会った時は、本気で勝負しましょう。
私の事情なんて構わないで、全力でぶつかって来て頂戴。私も全力を尽くすから」
「……ほんまに、アイさんは……」
この同期は、一体どこまでレースが好きなのやら。
心配しているのがバカらしくなるくらい、自信たっぷりで希望に溢れた、愛すべき(?)レース狂いに向けて、ララは姿勢を正し、微笑む。
「レース界の花形になるんは、うちや。絶対、負けへんで」
向かい合う二人の間には、確かな友情の温もりと共に、ライバルとしての熱い火花も散る。
トゥインクルシリーズにおいて、彼女達が対決する日は、遠くない。
『オマケ 走れヴィブロス』
ヴィブロスは激怒した。
必ず、このクソボケトレーナーを分からせねばならぬと決意した。
「とれーにゃーしゃんはー! お姉ちゃんをどー思ってるんれすかー! うぃっく」
「ヴィ、ヴィブロス、落ち着いてくれ。飲み過ぎだ……」
もっとも、酒を力を借りて、ではあるが。
二人は今、とある居酒屋の座敷席に居る。
オシャレでセレブな物が大好きなヴィブロスであるが、何がセレブであるかを見分けるには、プレーンでオーディナリーな物も知らなければ。
という建前で“彼”を呼び出し、酒の席特有の砕けた雰囲気を作り上げ、姉を袖にする男の真意を問い質そう……という訳である。
まあ、渋い顔の“彼”が言う通り、酔い過ぎにも思えるけれど。
当たり前の事だが、ヴィブロスはちゃんとアルコールを摂取できる年齢に成長している。
そして、一人では絶対に外飲みせず、信頼できる人に側に居てもらうよう、しっかり言い付けられていた。
その結果がチューハイ片手にクダを撒いているんじゃアカンやろ? それはまぁ……。
「ヴィルシーナの事は、魅力的な女性だと思っているよ。……本気で、そう思ってる」
「らったら、にゃんで応えてあげにゃいの……? おねーちゃんの気持ち、もう分かってるんれしょ……?」
「分かっているからだよ」
お気楽な雰囲気もそこそこに、話は真面目な方向へと変化する。
数ヶ月前の、あの夜のレース以降、“彼”も自分が、複数の女性から好意を寄せられている事を自覚した。
喜ばしい事だ。
歳も歳だし、本当なら早く誰かの手を取り、もう結婚してしまうべきなのだろう。
……だが、それは出来ない。
「仮に今、ヴィルシーナとそういう関係になれば、俺は彼女に首っ丈になる。夢中になってしまう。……アイの事を、蔑ろにしてしまうかも知れない」
ヴィルシーナは、誰もが認める美女だ。
外見は元より、内面的にも尊敬できる。恋人としても、将来的に母親としても、きっと素晴らしいパートナーとなってくれるように思う。
しかし、その素晴らしさが、今回は仇となる。
新しい担当ウマ娘を迎えたばかりなのに、同時にヴィルシーナのような恋人ができたとしたら、まず間違いなく仕事への集中を欠く。
それどころか、仕事を放り出してでも恋人を優先し、愛欲に溺れる可能性も大いにある。
そんなのは、ダメだ。
人生を預けてくれたアイと、信頼してくれたパンドラに対する、最低最悪の裏切りだ。
「そうなったら、俺は自分を許せない。誰にも誇れない自分になる。だから今は、応えられない」
「うう……しょの気持ちも、分かるけろぉ……ひっく」
ハイボールを呷る“彼”の言葉を、自らもトゥインクルシリーズを走ったヴィブロスは、否定できなかった。
もしも自分のトレーナーが、自分を放って恋人を優先したりしたら、とても悲しいし、怒るだろう。最悪、契約解除だって視野に入る。
アイとの契約が成立する前であれば、これほど悩む事もなかったはずだが、現実は既に契約済み。人生とは斯様に、ままならない物であるようだった。
とれーにゃーしゃんのこういう所を、お姉ちゃん“も”好きににゃったのかにゃ……。
「酷な事を言ってるよな。女の子が一番輝ける時間を、ふいにしろって言っているようなもんだ」
ヴィルシーナだけではない。
ジェンティルドンナも、ブエナビスタも。二十代という輝かしい時間を、“彼”のために浪費していると言える。
ならば、“彼”に出来る事は、ただ一つ。
……選ぶ事だ。
「三年だ。三年の間に、必ず結論を出す。……でも。待っていて、くれるだろうか」
アイとのトゥインクルシリーズが終わる、三年後。
それだけ時間があれば、誰を人生の伴侶にするのか、選べるだろう。
問題は……彼女達がそれを待っていてくれるか。
愛想を尽かして、そっぽを向かれてしまわないか。
いざ向き合うとなると、不安はとめどなく溢れてくる。
そして、そんな“彼”をヴィブロスは……呆れた目で見ていた。
「分かってにゃい」
「え?」
「もう十にぇん近くも好きにゃんだよ? あとしゃんにぇん位、にゃんて事にゃいよ! やっぱり全然わかってにゃーい!」
「へ? あ、ご、ごめん……?」
にゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃん。
酔っ払って猫化しているヴィブロスに怒られ、反省すれば良いのやら、可愛いと思えば良いのやら。
とりあえず、励ましてくれているのは確かだろうし、ありがたく受け取っておこうと、“彼”はそう思う事にした。
「ありがとうな、ヴィブロス。話を聞いてくれて。こんな事を相談できるの、身近に君しか居なくてさ……。聞いてくれるだけでも助かるよ……」
「……ま、まあ? 色々と勉強してまふから? 相談くらい、いつでもにょってあげちゃうよー?」(実しぇん経験ゼロらけど……)
頼りにされて得意満面、胸を張るヴィブロスだが、内心では冷や汗びっしょりだった。
ちょっと危険で情熱的で、ドラマチックな恋に憧れてはいるけれど、その相手は未だ現れていない。
母親譲りの華やかさはヴィルシーナにも負けず、街を歩けば寄ってくる男は無数に出てくるが、多くの場合、その隣に居る家族のガードを越えられない。
加えてヴィブロス自身も、誰彼構わず適当に声をかけるような、軽薄な人物とお近づきになるのは遠慮しているため、尚のこと出会いは少ないのだ。
う〜ん……。
やっぱりお付き合いするにゃら、パパみたいに包容力と頼り甲斐があってぇ、優しくって力持ちでぇ、でも時々は弱みも見しぇてくれるようにゃ、おとにゃの人が良いにゃー。
……あれ? にゃんか、すっごく身近に心当たりがあるようにゃ、にゃいようにゃ……?
「さて。今日はそろそろ帰ろうか。タクシーを呼ぶから」
「えー? もう帰るのぉ……? もうしゅこし、にょみたい……」
「呂律も回ってない癖に。ほら、もうお終い。な?」
「ん゛〜……。おんぶ」
「ヱ。……ゑっ?」
「おんぶしてくれにゃきゃ、帰れにゃい。おねがーい……」
“彼”の顔が劇画調になった。
それは何故か。もちろん原因はヴィブロスにある。
春先を過ぎ、夏を待つ時期に相応しい、少し露出の多い服装。
酔いが回って赤らみ、汗ばんだ肌。
そしてそして、出会った当初から重戦車級だった体付きは、成人してから更に分厚く、女性らしい柔らかみを帯びている。
そんな美少女……いや、美女となったヴィブロスが両腕を広げ、ハグを待つようなポーズで小首を傾げて。
ダメだ。
この「おねがい」を聞いてしまったら、詰む。
“本能”で直感した“彼”は、断腸の思いで「おねがい」を断る。
「ぉ、おんぶはダメ」
「むー。にゃんでぇー?」
「なんでも! ワガママ言わない!」
「ぶぅー。じゃあ、らっこ」
「らっこ? ……い、イタチ科の、哺乳類の?」
「ぶつよ」
「ごめんなさい」
「んーっ、お姫しゃまらっこ!」
「…………」
お姫しゃまらっこ=お姫様抱っこ。
場所は居酒屋。視線を感じて周囲を見回せば、慌てて顔を背ける客達と、wktkしてこちらを見続けるウマ娘の店員が。
なんなんだその「おうおうお盛んですなぁ。そのまんまホテル直行ですかぁ? うちの店はお持ち帰りOKですヨォ?」とでも言いたげな顔は。
……それはさて置き、考えられる選択肢は三つ。
1、あくまでお断り。無理やり手を引いて帰る。ただし、ヴィブロスが「やーだー!」とか泣いてぐずったりしたら通報の可能性も。
2、衆人環視の中では厳しいので、おんぶ解禁。ただし、理性は一撃で吹き飛ぶので、食いしばりスキルの発動必須。
3、諦めてお姫様抱っこする。ただし、非常に恥ずかしい。
“彼”が選んだ選択肢は………………3だった。
恥はかき捨て、である。
「こ、今回だけ、だぞ」
「あ……。えへへー。やったー」
「何が嬉しいんだか……」
ニヤニヤしている店員を呼び、先に会計を済ませ、いざ。
ジェンティルドンナのトレーナーとして、最低限の言い訳ができるよう鍛えていたおかげか、ヴィブロスの体重は軽く感じた。
そんなものよりも、周囲からのバカップルを見るような視線と、火照ったヴィブロスの体の体温と柔らかさの方が、よっぽど精神を抉る。
理性をフル動員し、先んじて呼んだタクシーが来るはずの駐車場へと、“彼”は歩き出す。
(とれーにゃーしゃんの手、おっきい)
歩く揺れを感じながら、ヴィブロスは記憶を振り返る。
トレっち……。ヴィルシーナも担当した女性トレーナーと契約し、トゥインクルシリーズを駆け抜けた日々を。輝かしい青春時代の、“彼”との思い出を。
トレっちの相談に親身に乗ってくれて、影から支えてくれたこと。
トリプルティアラを目指したものの、桜花賞、オークスを逃してしまい、家族達の前では強がっていたヴィブロスの本音を……。弱い部分を、受け止めてくれたこと。
死に物狂いで掴み取った秋華賞を、自分のことのように喜んでくれたこと。
そのお祝いにと、姉が皆での小旅行に誘ったのに、「家族水入らずを邪魔なんてできないよ」と断られてしまい、全員で「こいつホンマに」と思った事もあった。
なんだかんだ、父や母とも意気投合しているし、トレっち同様、もはや家族同然の存在なのだ。
(とれーにゃーしゃんと、おねーちゃんが結婚したら……もう甘えるの、らめ、らよね……)
……でも。だからこそ。今、この時が、切ない。
“彼”を想う姉の気持ちを知り、その想いが遂げられて欲しいと願っているのだから、こんな風に甘えてはダメだ。
この温もりを、断ち切らなければ。
(ちょっとらけ、しゃみしい……にゃ……)
微睡みの中、ヴィブロスは思う。
あと少し。ほんの少しだけ、この時間が続いて欲しいと。
そうすればきっと、別れの寂しさにも、耐えられるだろうから。
なお、タクシーに乗っても、実家に到着しても、寝入ったヴィブロスが離してくれず、“彼”はスーツのジャケットを置いていくハメになったのだった。
戻ってくるのに、何故か一ヵ月も時間が掛かったのを、気にしてはいけない。
『本日のフサイチパンドラさん 可愛い愛娘のメイクデビュー』(作者註:手抜きで申し訳!)
「ねぇねぇアイちゃん。メイクデビューの時に着ていく服、何が良いかな? 派手目なのとシックなので迷ってるんだー」
『そうね……。個人的には、しっかり着飾ってるママも素敵だと思うんだけど、それだと主役を奪って悪目立ちしちゃうから、シックな方が良いかも。それに……』
「それに?」
『最近、トレーナーへのアプローチが増えているみたいなの。ガンガン攻め立てられて疲れているだろうから、少し休ませてあげた方が、むしろ良いアピールになるかも知れないわ』
「なーる。さっすがアイちゃん! 頼りになるぅー! じゃ、大人しめで応援に行くねー」
『ええ。楽しみにしていて。絶対に勝ってみせるから!』
メイクデビュー当日……。
「アイちゃん行っけー! もうすぐゴールだぁー!」
「ん……? あ、これマズいかも」
「へ。なんで? ……あ、あれ? なんかズルズル下がってく……? あああ、差されたぁー!?」
「勝ちたい気持ちが強すぎて、かかっちゃったかぁ……。これも今後の課題だなぁ……」
「ア、アイちゃあーん……ドンマイだよぉ……」
ニシノウララさんに差し切られたアーモンドアイさんの一言
「 ぐ や゛ じ い゛ っ 」
皆様、お久しブリーフ(抱腹絶倒ギャグ)。という訳で、AE編第一話でございました。
もうお分かりかと思いますけど、メインとなるのはアイちゃんとパンドラさんですが、ジェンティルさん達も普通に出ます。延長戦突入です。
レース描写に関しては、作者の力不足により「結果を見る」状態になると思われますが、その分、他のイベント事で補う予定。むしろレースがサブイベ。
三冠ルートにも被害者が増える? でもアイちゃんなら、やれそうだったらやるかなって……。
最終的に勝ち星はいくつになるのか、どのレースを勝つのか、どうぞ予想してみて下さい。
ちょっとだけ内容を補足すると、ヴィブロスに追い剥ぎ(?)されたジャケットは、クリーニングに出しているという体で、三姉妹が替わりばんこにクンカクンカしてました。他の事にも使われてそう。
まだ三人とも実家住みなので、お姫様抱っこされてるヴィブロスを見たシーナ&シュヴァルが、それはそれは荒ぶったとか。
ちなみに、お持ち帰りしなかった事で、大魔神パパとハルーワママの好感度はアップしました。ああ外堀が埋まって行く……。
前に似たようなイベントがあったブエナちゃんも、定期的に家に上がり込んでは、隠れてスーツをクンカクンカしたり、匂いの薄くなってきたワイシャツと、別の使い古しのワイシャツとを入れ替えて楽しんでたり。
「もう、これがないと眠れなくって……」だそうです。なんかヤバいフェロモン出てない? やっぱ新手のSCPだよこの人。
さてさて、次回はジュニア級の秋から冬にかけての捏造イベント。
本編で描写の少なかった子(シュヴァルとかディーナとか)を先に出したい所ですけど、ブエナちゃんもシーナちゃんも出したいし、誰の何を描くかは未定!
ではまたいつか。