ブエナビスタのお姉ちゃんのお兄さん 作:幼馴染にされたネクパイ
この日、トレセン学園のトレーニングコースは揺れていた。
誰もが注目するマッチアップ……ヴィルシーナとジェンティルドンナのレースが行われ、たった今、終了したからだ。
デビュー前でありながら、抜群のセンスとスピードを評価されていた青鹿毛のウマ娘──ヴィルシーナを、“7バ身差”の圧勝。
観戦していたトレーナー達は、こぞってジェンティルドンナへと駆け寄っていく。
「ジェンティルドンナ! ぜひ契約を!」
「いいえ、ぜひ私のチームに!」
これでもかと賞賛を浴びせられ、しかしジェンティルドンナは動かない。
勝手にアピールし始める人垣を、ただ静かに眺めている。
そして、ブエナビスタとそのトレーナーも、ジェンティル達を遠目に見守っていた。
「ジェンティルさん、やっぱり凄いなぁ。今の私でも、勝たせて貰えるかどうか」
「そんなこと。勝負するとしたら、絶対に勝たせるよ。例えあの子が相手でも、ブエナなら勝てる」
最終直線前、先に仕掛けたヴィルシーナを、余裕を持って捉える加速力。それを支えるパワーを見せつけられ、それでも不敵に笑う“彼女”。
本当に、頼もしい。
そんな風に期待されたら、絶対に応えたいと思ってしまう。
近く、ジェンティルとは併走の約束もしている事だし、頑張らねば。
と、その時突然、「パァンッ!」と大きな破裂音がした。
ジェンティルが一つ、柏手を打ったのだ。
「失礼、待ち人が来ましたの。道を開けてくださる?」
静まり返るトレーナー陣の輪が、進み出たジェンティルによって割れていく。
皆、その行く先に視線を向け、そしてブエナは息を飲む。
「……え。お兄、さん……?」
「……はい? な……え……?」
どくん。
ジェンティルに向けて歩くその人は、二人にとって見知った存在だった。
いつも通りの背広姿。いつも通りの穏やかな表情。
一つだけ違うのは、その襟元に、真新しいトレーナーバッジが輝いていること。
「お待ちしていましたわ」
「すまない、待たせてしまって」
気安い挨拶とは程遠いが、間違いなく知己の間柄であることを示すやり取りに、周囲がざわつく。
それもそのはず。ジェンティルは今まで、ほとんどのトレーナーからのスカウトを……かなりの経歴を持つベテランでさえも、煙に巻いてきた。
こんな風にトレーナーと対面する姿は、彼らにとって初めての光景だった。
「おい、どういう事だ? 誰だ“あいつ”?」
「ド新人のトレーナーですよ。まさか、家の繋がりか……?」
「いやでも……」
事情を知らないまま、好奇の視線を向けるトレーナー陣。
そこへ、ようやく再起動した“彼女”が駆け寄り、更なる燃料を投下してしまう。
「に、兄さん……!? なんで兄さんがここに……!?」
「兄さんって……え? ブエナビスタのトレーナーと、兄妹なのか!?」
「嘘でしょ? 何がどうなってるの?」
気付けば、騒ぎはかなり大きくなっていた。
ある意味、“目論見通り”ではあるのだが、このままだと悪戯に混乱を大きくするだけ。
“彼”はジェンティルと目配せし、妹の手を取る。
「場所を移しましょうか。お話をしなければならない方々も居ますし」
「……そうだな。行こう」
「ね、ねえ兄さんっ、一体どうして……」
「説明するから、今は行くぞ! エナちゃんも!」
「は、はいっ」
走り出す四人を、しかし積極的に追いかける者は居らず、ただただ困惑している様子だった。
程なくして辿り着いたのは、“彼”に充てがわれたのだろうトレーナー室。
まだ荷物の運び込みも終えていないのか、最低限の据え置き家具しかなく、少々殺風景である。
四人はそれぞれ、思い思いにソファへ腰を落ち着かせた。
奇しくも、“彼”とジェンティル、“彼女”とブエナが対面する形だ。
が……。
「むうぅ……っ」
“彼女”だけは落ち着くどころか、とても、とっても不服そうな顔で兄を睨んでいる。
子供のような膨れっ面は、元凶である“彼”からすれば可愛らしさしか感じられないけれど、発せられる声はやはり硬い。
「どういう事なの。なんで兄さんがトレーナーに? 警備の仕事は? どこでジェンティルドンナと……」
「やっぱり、まだ話していなかったんですのね」
「いや、どう話せばいいか悩んでいるうちに、こうなって……」
「しっかりなさいな。全く」
矢継ぎ早に繰り出される、抱いて当然の疑問。
情けない顔の“彼”を、ジェンティルは呆れた溜め息で後押しする。
逡巡の後、躊躇いがちに“彼”は語り出した。
「ええと……。まず、仕事は、辞めた。トレーナーになるために。ずっと前から考えていたんだ」
「嘘……。そんな素振り、ブエナの誕生日会でも、ちっとも……」
「まぁ、隠してたからな」
「どうして!」
「……なんとなく?」
「 兄 さ ん ! 」
「お、お姉ちゃん、落ち着いて、ね?」
肝心な部分をはぐらかされて憤る“彼女”を、どうにかブエナが落ち着かせた。
しかし、立場と心情的にはもちろん味方なので、“彼”らしくない、誠実さに欠ける物言いを咎める。
「お兄さんの言い方も良くないです。茶化さないで、ちゃんと説明してあげてください。
それに、さっきトレーナーさん……お姉ちゃんも聞きましたけど、ジェンティルさんとは、どこでお知り合いに?」
「あー、うん……それ、なんだけど……」
言葉を濁らせ、言い淀む“彼”。
ジェンティルがそれを肘で小突き、またしても促すようにしている。
……何故だろう。
いつの間にか二人が仲良くなっていて、多分それは良い事のはずなのに、モヤモヤする。
ともあれ、答えを知れば解決するはず。
深呼吸をする“彼”を見つめ、ブエナ達は返事を待つ。
「去年の暮れに、お見合いするって言ったじゃないか。その相手が……ジェンティルだったんだ」
「は……?」
「……へ?」
ところがどっこい。
その口から放たれた言葉が理解しききず、右から左に通り過ぎて行った。
ぎこちない動きでジェンティルの方を見やれば、「本当の事ですわ」と鷹揚に頷いて。
お見合い……。
結婚する相手を探すために、男の人と女の人が、ほんにゃかふんにゃか?
ジェンティルさんとお兄さんが、結婚……? あれ? なんだか、頭がふわふわして……?
「──きものぉ……」
ゾクリ、とする低い声が、ブエナの隣から響く。
無理矢理に意識と視線を引き戻された結果、その瞳に映し出されたのは……。
「このっ、浮気者ぉーっ!!」
「ぬぉっ」
「ブエナというものがありながら、そのルームメイトともだなんて……最低! 最低だよ! お兄ちゃんのバカぁ! すけこまし! ロリコーン!」
真っ赤な顔で兄に詰め寄る、涙目の“彼女”だった。
あまりの勢いに仰反った“彼”を、更なる言葉の暴力が襲う。
もうしっちゃかめっちゃかである。
「ちょ、ま、待て、人聞きの悪いことを連呼するなっ!」
「そ、そうだよ、落ち着いてお姉ちゃん! それに、私とお兄さんは“そういう関係”じゃ……」
「あら。でしたら、わたくしが“そういう関係”になっても、問題ないですわね?」
『えっ』
ピタリ。
唐突な横槍を受け、三人が同じタイミングでジェンティルを見る。
それが全くもって同じ顔なものだから、思わず笑みが零れてしまった。
「ふふふっ。冗談ですわ」
「し、心臓に悪い冗談はやめてくれ……」
「ううう……認めない……私は認めないんだからぁー!」
「あ、お姉ちゃん!?」
妙に親しげな雰囲気を醸し出す二人。
いよいよ堪え切れなくなったか、“彼女”は捨て台詞と共にトレーナー室を飛び出していく。
その背中に手を伸ばし、けれど、追いかけて良いものか迷う。
部屋の入り口とジェンティル達を見比べ、ブエナがオロオロしていると、“彼”は軽く頭を下げて。
「ごめん。追いかけてあげてくれないか、エナちゃん。落ち着いたら、もう一度ちゃんと話すから」
「……はい。絶対ですよ? それと……」
頼まれたということもあり、入り口へ向かおうとするブエナ。
その途中で、視線がジェンティルに止まった。
ジェンティルもまた、ブエナを見ていた。
眼差しが絡み合ったのは、ほんの一瞬。
……どうしてだろう。
胸が、ざわつく。
「いえ、なんでもないです。失礼します」
奇妙な感覚を無視して、ブエナは部屋を立ち去った。
残された二人の間にも、奇妙な空気が漂っている。
「嫌われてしまいましたわね」
「そりゃあ嫌いにもなるだろ……。
ほとんど自分と変わらない歳の子と見合いしてたんだぞ? 面と向かって罵倒されないだけマシだ……。
はあぁぁぁ……エナちゃんに嫌われた……軽蔑された……思ってた以上に辛いぃ……どう弁明すれば……」
「いえ、“貴方”ではなく……。まぁ、そういう事にしておきましょうか」
ガックリと気落ちし、ソファにもたれる“彼”。
だらしない格好を注意しようかとも思うジェンティルだったが、その姿がまるで、思春期の娘に嫌われた父親のようでもあり、目を瞑ることにした。
ブエナとは寮の同室。
否が応でも、相対するのだから。
「にしても……。わたくし、そんなに幼く見えますかしら。ボディラインには自信があるのですけど。“貴方”はどうお思い?」
「……ノーコメント」
「ほほほ。賢明ですわね」
「お姉ちゃん。やっと見つけた」
トレーナー室から青春ダッシュをかました“彼女”を探して、約20分ほど。
屋上で膝を抱える姿を見つけたブエナは、自然とその隣に腰を下ろす。
「こうしてると、昔、隠れんぼしてた時を思い出すね」
「……うん。一回、迎えに来た兄さんからも隠れて、怒られたっけ」
「あ、そんな事もあったね。懐かしいな……」
苦笑いと共に思い出される、幼い頃のブエナと、お姉ちゃんの姿。
遊ぶのに夢中になって、夕暮れの中、名前を呼ぶ“彼”からも隠れてしまい、心配をかけた事を軽く叱られた。
叱られた後は、“彼”とお姉ちゃんの間に入り、両方の手を繋いでもらいながら、家に帰ったのだ。
言われるまで……。今の今まで、忘れてしまっていた。
あんなに楽しかったのに。
「私、本当は知ってたんだ」
「え?」
「兄さんが、トレーナーになりたがってたこと」
訥々と、“彼女”は語り出す。
トレーナーになりたいと告げた時の、“彼”の複雑な表情。
知人から貰ってきたという古い教本に書き込まれた、見知った癖の文字。
現在進行形で勉強していた“彼女”の疑問に答えられる、膨大な知識量。
そのどれもが、“彼”が諦めた夢の大きさを物語っていた。
「私自身がブエナのトレーナーになりたかったのは、もちろん本当。でも、同時に兄さんのためでもあった。……私のために、夢を諦めてしまった、兄さんの」
トレーナーになるには、かなりのお金と時間が掛かる。
両親の遺してくれた遺産はあったけれど、二人が揃って試験に集中して、何年も生活できるほどではなかった。
学費、生活費、合格してから必要になる資金……。
その後の生活を考えれば、どちらかが諦めるしか、なかったのだ。
そして、“彼”は夢を諦められるくらいに、世の荒波に揉まれていた。
妹の未来を考えて、手に職をつけ、ずっとずっと、支え続けた。
……自分の夢を、夢焦がれる自分を、殺しながら。
逆の立場だったら、どうだろう。
ブエナの隣に立てないまま、夢を諦め、ただ仕事をするだけでなく、同じ夢を目指す家族を支え続ける。
考えただけで、苦しかった。辛かった。叫び出したいほどに。
そんな苦しみを、押し付けた。
自分の夢を叶える為に、“彼”の……兄の人生を、犠牲にした。
「私、ダメだったのかな。私が頑張ってもダメだから、兄さんは……」
「そんな事ないよ!」
罪悪感に押し潰されそうな“彼女”に、ブエナは声を張り上げる。
真正面から向き直り、震える手を握って、思いの丈をぶつける。
間違いに気付いてほしい、ただその一心で。
「お姉ちゃんは頑張ってくれた……。私のトレーナーさんになるために頑張ってくれたし、私だって、トレセン学園に入るために頑張った!
お兄さんは、それをずっと側で見てたんだよ? 夜食を作ってくれたり、自作の問題集を用意してくれたりもしたんでしょ?
お姉ちゃんの事も、私の事も、いっぱい、いっぱい、褒めてくれたよね。自分の事みたいに喜んでくれたよね。
そんな風に支えてくれた人が、ダメだなんて思うはずない! 絶対にないよっ!!」
「ブエナ……」
“貴方”は、知っているはず。
あの人がどんなに、“貴方”を大事に思っているのか。
どんなに大事で、大切で、愛しているのか。
それを思い出して欲しくて、ブエナはひたすらに、“彼女”の瞳を見つめる。
あまり強くしてしまわないよう、痛くしてしまわないよう。気をつけながらも、出来る限りの想いと力を込めて、手を握り締める。
どれだけそうしていたのか。
やがて“彼女”は、照れ臭そうに苦笑いしてくれた。
「そうだよね……。兄さんがそんな風に思うわけ、ないもんね。私、どうかしてた」
「ううん。色んな事が一気に起きて、ちょっとビックリしちゃってたんだよ」
ジェンティルドンナとヴィルシーナの、デビュー前とは思えない好レース。
突然、トレーナーとなって現れた“彼”。
そして、ジェンティルと“彼”の意外な関係性。
これだけ濃い情報を渡されて、混乱しない方が難しい。
きっと今なら、“彼”の話も落ち着いて聞けるはず。
問題は、“彼”がちゃんと話してくれるかだが……。
もしまた誤魔化したりするようなら、今度は“彼”の方を叱ってあげなければ。
想い合う家族がすれ違ったままなんて、そんなのは……悲し過ぎるから。
ともかく。
すっかり気力を取り戻したらしい“彼女”は、勢いよく立ち上がり、ブエナに手を差し伸べる。
「帰ろっか。兄さんと、ちゃんと話さなきゃ。後は……ブエナのためにも、頑張ってジェンティルドンナとの関係を問い質さないとだね……」
「えっ。あの、それは……頑張らなくても、良いんじゃないかなぁ……?」
「安心して。ジェンティルドンナは確かに女性として魅力的だけど、兄さんの好きなタイプはブエナの方だから!」
「ふぇっ? ……そ、そう、なの……?」
お兄さんの好みが、私……?
予想外の情報が飛び込んできて、“彼女”の手を握り返しながらも、変な声が出てしまった。
確かに、“彼”の事は憎からず思っている……というか、間違いなく信頼しているし、好感の持てる人だと思う。交際相手が居ないのが不思議なくらいだ。
だからと言って、突然に好きなタイプと言われても、なんと言うか……困る。
決して嫌ではなくて、むしろ嫌ではないから困ると言うか、最近、“彼女”の気の迷いや冗談だと、聞き流せなくなっているのが、とても……やっぱり、困ってしまう。
「うん、絶対に。だって、こんなに可愛くて優しい子、好きにならないなんて無理だもの。私が男だったら、絶対に放って置かないのにな」
「……っ!? も、もうっ、またそういうこと言うんだから……!」
そんなブエナの気も知らず、歯の浮くような追撃まで。
時々、こうやって不意打ちをしてくるから、こちらもこちらで困っている。
本当に、この兄妹は。
……でも。
もし、お兄さんがこんな風に言い出したら、私は……?
(な、なに考えてるんだろ。今はお兄さんとの仲直りが最優先! ……なんだし)
不意に湧いた疑問を、ブエナは振り払う。
手を握り合って向かうは、“彼”が待っているはずのトレーナー室。
何故だか高まっていく、緊張感。
その原因はきっと……二人が上手く仲直りできるか、心配だから。そうに違いない。
……私、変な顔しちゃわない、よね……?
あっという間に、ブエナ達はトレーナー室の前に戻ってきた。
戻ってきたのだが、すぐにはドアを開けられない。
“彼女”は大きく深呼吸をし、チラッとブエナを見る。
頷き返してあげれば、ようやく覚悟が決まったのだろう、控えめにドアをノックした。
「は、入っていい……?」
ほんの少しだけドアをスライドさせ、顔を覗き込ませる。
“彼”が手招きでもしてくれたのか、そのまま部屋へ入っていく背中を見守り、今度はブエナが部屋を覗き込む形に。
入らないのは、邪魔をしないため。
決して、まだ“彼”の顔を見られそうにないからではないので、勘違いしてはいけない。
影から見守るのも大事なのである。うん。
「ジェンティルドンナは……?」
「寮に戻ったよ。お邪魔でしょうから、ってさ」
どうやらジェンティルも同じ考えだったらしく、姿は見えない。
この騒動の原因……というのも可哀想だが、ともかく緊張の元が側に居ないおかげで、“彼女”はまだ冷静だ。
机の向こうで椅子に座る“彼”と、しっかり向き直っている。
後は、どう話を切り出すか。
頑張れ、お姉ちゃん……!
「あ、あの……っ」
「俺はさ。お前が羨ましかった。エナちゃんの隣で、トレーナーをやってるお前が」
「……え」
どくん。
また大きく、ブエナの心臓が高鳴る。
“彼”の言い方が、まるで……。ブエナのトレーナーになりたかった、と。言っているようにも聞こえて。
けれど、ブエナの動揺に気付くはずもなく、“彼”は続ける。
「秋華賞を勝って。ウィナーズサークルに立つ姿を見て……あんな風になりたいって、思ったんだ。……憧れたんだ。妹の背中に」
「憧れ……? 兄さんが、私に……?」
席を立ち、“彼女”の前へ。
そこでブエナを見つけたようで、“彼”は「仕方ないな」という風に苦笑いを。
……顔が熱い。
「だから、今さらだけど始める事にしたんだ。
お前のおかげで……それとエナちゃんのおかげで、俺は自分を諦めずに済んだんだよ。
……恥ずかしいから、一回しか言わないぞ」
優しい眼差しと、静かで、落ち着いた声。
“彼女”の肩が震えているのが、分かる。
それが悲しみからではなく、喜びからだというのが、痛いほど分かる。
もしそうでないのなら、ブエナの視界が、涙でボヤける理由がない。
「……ありがとうな。俺の、新しい目標になってくれて。絶対に追いつくから、待っててくれ」
「に、兄さぁん……っ」
“彼”の胸に顔を埋めて、小さな嗚咽を漏らす後ろ姿は、まだ幼い少女にも見える……気がした。
断言できないのは、もうブエナも我慢できず、滂沱と涙を流しているから。
「エナちゃんも、そんな所で立ってないで、入っておいで」
「……っ、はい……っ」
少し迷ったけれど、手招きに誘われ、ブエナも室内へ。
振り返る“彼女”の顔は、やはり涙に濡れていて。しかし同時に、満面の笑みでもあって。
温かい感情が、とめどなく溢れ出す。
「お姉ちゃん……良かったねぇ……ぐすっ……」
「うん……! でも、どうしてブエナまで泣いちゃってるの? ぶぅちゃんに戻っちゃった?」
「だって……見てるだけで、胸が一杯で……私も嬉しくて……っ」
二人、涙を拭うのも忘れて、ただただ微笑み合う。
何か忘れている気もするけれど、今はもう、この兄妹が仲直りできただけで、満足だった。
「ほらほら、もう泣くな二人とも。カフェテリアにでも行って、甘い物食べよう。な?」
いつまでも余韻を味わっていたかった気もするが、“彼”としては、妹たちが泣いているのは居た堪れなかったらしく、両手で二人の頭を撫で回す。
少し乱暴だけれど、温かい手だった。
耳の上から、髪を梳くように指が動くと、くすぐったくて、でも気持ちが落ち着いて。
……なんだか、懐かしい……ような……?
(あ、終わっちゃった……)
よく考えれば、懐かしくて当たり前だろうか。
“彼女”はよく兄に甘えていたし、そのついでにブエナも頭を撫でて貰っていた……の、かも知れない。
その事に思い至ったせいか、本当に子供の頃の自分……ぶぅちゃんに気持ちが戻ってしまったようだ。
大きな手が離れていくのを、妙に寂しく感じた。
「そう言えば、エナちゃんの次走はヴィクトリアマイルなんだよね。現地に応援に行くよ」
「えっ、本当に? じゃあ絶対に勝って、カッコいい姿を見せなきゃね! 頑張ろう、ブエナ!」
「……うん! 頑張ろうね、お姉ちゃん……ううん、トレーナーさん!」
わだかまりも、先程までの涙も忘れて、三人は部屋を後にする。
やがて来る5月に、ブエナはシニア級での初戦──ヴィクトリアマイルへと出走する。
ブエナ以外にも有力なウマ娘が出走するのだから、甘えた気分ではいけない。気を引き締めなければ。
……でも、今だけは。
遠慮なく二人に甘えられる、ぶぅちゃんで居たい。
二人の妹で居ても、良い気がした。
『オマケ じぇんちるさんの初ホワイトデー』
「ああ、そういえば。忘れるところでしたわ」
“彼女”が青春ダッシュで逃走してしばらく。
今後の予定を軽く擦り合わせ、トレーナー室を立ち去ろうとする間際、ジェンティルは不意に何か差し出した。
反射的に受け取ると、それは手の平サイズの小さな箱で……。
「こちらを」
「……? これは……」
「もう過ぎてしまいましたけれど、ホワイトデーの返礼品です」
「えっ」
あまりに素っ気無く渡された、ホワイトデーのお返し。
予想もしない贈り物に驚いていると、ジェンティルはどこか不服そうな顔をした。
「なぁに、その顔は。まさか、わたくしが礼を弁えない女だとでも?」
「い、いや。そうじゃないんだけど。貰うつもりなんて無かったから、ビックリして……。開けてもいいかな?」
「ええ。どうぞ」
ひょっとしたら食べてくれるかも……。
という程度の気持ちで、多めに作って渡した、ブエナへのチョコレート。
お返しなんて初めから期待していなかったが、それでも貰えれば嬉しい。
単にリボンを巻いただけの簡単な包装だし、本当にちょっとした物だろうと思って開けたのだが……。
「え」
入っていたのは、鈍色に輝くネクタイピンだった。
素人目にも分かる、精緻な彫刻がされた、お高い逸品。
持ち上げた手が、震える。
「……なんか、めっちゃ高そうなんだけど」
「いいえ、それほどでも。そうね……。せいぜい、一般的な会社のサラリーマンの月収と同じ程度、かしら」
「ぶっ!?」
サラリーマンの月収。
思わず取り落としそうになり、慌ててキャッチする。
ネクタイピンに、ネクタイピン一つに、うん十万。
ブルジョアジーとパンピーの金銭感覚の違いを、まざまざと見せつけられた気分だ。
どうしよう、これ……。
「そそそ、そんな、大したチョコじゃ、なかったと思うのですが……」
「あら。ブエナさんに贈ったチョコレートは、大したものではないと?」
「む……」
そう言われると、素直に頷けない。
材料は普通のもので、原価なんて高が知れてるけれど、丁寧に、喜んで貰えるように、気持ちを込めて作ったのも確か。
いくらお高いネクタイピンを貰ったからと言って、大した物ではない、安物だと卑下するのは、贈った相手にも失礼な気がした。
「少なくとも、ブエナさんは笑顔で食べていましたし、わたくしとしても、味わったことのないものでした。……素直に受け取りなさいな」
きっとジェンティルは、贈られた物の価値ではなく、込められた気持ちを汲んでくれたのだろう。
ならば、それに応える方法は、たった一つ。
今まで付けていた、正真正銘、安物のネクタイピンを外し、贈られたネクタイピンと付け替える。
ズシリ、と来る重みを感じた。
「まだ、俺には重たい気がするけど……。なら似合う自分になればいい、だな」
「……ふふ。良い心掛けですわね」
重みに負けないよう、ピンと背筋を伸ばす。
するとジェンティルは、満足そうに眼を細めて笑うのだった。
ある時はブエナちゃんのお姉ちゃんのお兄さん。
またある時は警備会社の平社員。
しかしてその実態は! ちょっと生まれる時期を間違えた、ジェンティルドンナのトレーナーだったのです!
はい。これが作者のやりたかった事です。流石はジェンティルさん、初手から装飾品で男を自分好みに仕立て上げるとか、強者過ぎる。
果たして、段々と妹ぢからを発揮してきているブエナちゃんは対抗できるのか? こうご期待。
それにしても、キャラストで出てくるぶぅちゃんが可愛い過ぎてtntnが……irir……いやぁ推定一桁はキツいでしょ。
という訳で、このtnirは新しく登場する“お姉ちゃん”にぶつけます(酷いとばっちり)。
次回、勝者の杯。