わたしに家族ができたのは、今から一〇年前の事。
……全てを失ってからの事だった。
◆
病院で目を覚ました時、少女は何も覚えていなかった。
自分が誰なのかも、過去の記憶も――隣にいる少年も。
医師に問われても『何も覚えてません』とだけ返し、ただ胸の内の空虚さを感じていた。
隣の少年は同じ境遇ではあるが、胸の空虚が
「……………………」
――わたしは誰なんだろう。
真っ白な心で窓の外を見る。
――わたしは何なんだろう……。
感情の表し方さえ忘れた顔でぼんやりと空を見る。
何もない。
親はいない。家もない。自分が誰かもわからない。
あまりの悲しさに、一周回って『悲しい』とは何なのかを忘れてしまった……結果、この
……悲しくもないくせに、これから自分はどうなるんだろうと、漠然とそんな事を思い、
「ね、ねぇ……」
――――ふと、手が暖かくなった。
「――――、……ぁ、え?」
見れば、隣の少年がいつの間にかベッド脇の丸椅子に座り、自分の両手を掴んでいた。
……しかしその顔は緊張感と気恥ずかしさに支配されており……少年は気づいてないだろうが、必死に作った笑顔さえもプルプルと震え、ぎこちない笑みへと変わっていた。
「だ、……だ、」
それでも真っ直ぐに、確かな温もりを含む黒い瞳は、白い少女の目を真っ正面から見つめ、
「だ、だいひょうぶ、はよ……?」
――――あ、噛んだ。
少女でもわかるくらい緊張から震えていた声だったのに、その上で噛んでしまったからか言葉が止まり、頬を赤くしながら目線を逸らしている。
「え、えーと……え~~~、と――――」
気まずい雰囲気をなんとかしなくちゃ、という気配が見ているこちら側にも伝わってくる。
羞恥を漏らしながら悩んで目を逸らす少年の姿は……可愛かった。
その可愛さと、失敗をなんとかしようとする姿に……真っ白だった心が――ほんのちょっとだけ色づいた。
(ぷっ、――普通噛む? こんなところで……)
ふと、生意気な事を思ったが、“自分が言える立場ではない”とすぐに考え直す。
彼とは話そうとも思わなかった自分。
それに比べて――話したいと思い、おろおろしながらも一歩を踏み出した少年。
幼心ながら、人生の見本にしたいくらいこの少年は立派だった。
――そして、
「――――
自分でも驚くくらい自然に、弾むような
「ふふっ、ははっ――」
――きっと、嬉しかったのだ。……
お礼を言いたかった。心に踏み込んでくれたことに。
大きな一歩は
少女が
一気に気持ちは軽くなった。
この子ともっと話したいと思った。
だから――歓喜からか、それとも噛んだことが不意打ちすぎて面白かったのか、
「ひひっ――」
気づけば、笑っていた。
新しい人生を歩み出して、初めて笑った。
頬が
――少年と一緒にいることで、心が落ち着くだけでなく……暖かくなるようになった。
「っ――えへ――」
少女の笑った顔を見て、安心したように少年も笑う。
誰かが今のふたりを見ていればこう思ったであろう。
――ふたりの笑った顔は、とても可愛いと。
「――じゃあ、改めて」
笑みを残したまま、少年は少女の手を優しく握って、
「大丈夫だよ。きみはひとりじゃない、ぼくもきみと一緒だから――一緒に、
幼い少年は先を導くようにそう告げた。
その時の、春の日差しのような微笑みを――わたしは決して忘れない――。
◆
ふたりのその先が大きく変わったのは、それからすぐのことだった。
少年と少女が、兄と妹のように仲が良くなった後に――その人はやって来た。
「はじめまして。お可愛い兄妹さん♪」
肩口までのサファイアのような髪を持つ成人の女性だった。
子供心のふたりが見ても恐らく二〇代後半……の筈だが、それにしては若い顔立ちをしていて、顔は
その人の隣を歩いてきた医者の話によれば、その女性はふたりを引き取りたいとのこと。
それを聞いて、“あぁ……お父さんやお母さんはやっぱり”という思いと共に、ふたり一緒に暮らせるの? という喜びが沸き上がってきた。
同じベッドの上に座っていた少年も同じ気持ちだったのだろう。
「あの……ぼくたちのお母さんになってくれるんですか?」
「もっちろん! 私もふたりのお母さんになりたくて来たの。――どうかな? ふたりさえよければ、私の子にならない?」
そっと近づくように前屈みになって元気に質問を返してくる。
少年は自然と息を呑む。答えは決まっているが、少女の答えも聞こうとして、
「――っ」
華奢な両手で少年の手を強く握る。
言うまでもなく、それが少女の答えだった。
「――うん。わかった」
少女にだけ聞こえるよう小声で呟き、万感の思いと共に顔を上げた。
「
◆
鈴杷市の一角に立つ一軒家の前で、母親はふたりの肩に手を置きながら、
「
母親が自分たちにくれた名前を口にする。
少年の名は、
少女の名は、
そして――ふたりを引き取った母親の名は、
「同じ家に……家族で住む――ずっと」
同じ苗字を持ち、同じ家で過ごすということが、ここまで幸福なことなのだということを、初めて知った。
小さなことで喜んで、
何気ないことで笑いあって、
誕生日にはみんなでお祝いして、
家族みんなでお風呂に入った時には母親がくすぐってきたり、
寒い日には同じベッドで寝たり、
――とにかく、楽しいことばかりの日々が続いた。
こんな日々がずっと続くのだと思うと笑顔が絶えなかった。
…………
◆
……もう名前を呼んでくれない、
あんなに急にお別れがくるなんて、思わなかったんだよ……お母さん……
◆
「お母、さん――」
懐かしい夢から覚めていく。
目を開ければそこは見慣れた天井。
体中には包帯が巻かれ、顔にも片目が巻き込まれながら包帯が巻かれていた。
「――っ! 優花! 目が覚めたの?」
声をかけられ、
目を動かせば、そこには心配一色に顔を染めた親友の姿があった。
「美亜……」
「……はあぁぁぁ――よかった……っ――」
大きく胸を撫で下ろしながら椅子に座る。
見ればここは美亜の家。
……どうやらレイシとの戦いの後、気を失っているうちにここへ運ばれたらしい。
「ありがとう、美亜……助けてくれて」
「間に合ってよかった。……本当に心配したんだから――っ」
「うん……ごめん、心配かけて……」
「謝らなくていいよ。優花だって、必死にアイツと戦ったんでしょ……」
その言葉を聞いた途端、
レイシとの戦いのみならず……刺され、裂かれた……兄の事を思い出した。
「! お兄ちゃんはッ――、つ、ぐ……!」
反射的に上半身を起こした瞬間、腹部の打撃跡や、顔の裂けた部分に電流のような激痛が走った。
「動いちゃダメ! 病院に混んでたからウチ運んで治療したけど、私じゃ全然治療は――」
「お兄……ちゃん、は――?」
「え? 先輩……?」
はぁ、はぁ……と苦しそうにしながらなんとか声を絞り出す。
「美亜が来る前……お兄ちゃんと、わたし、戦ってて……お兄ちゃん……アイツに刺され、ちゃって……」
「え――!?」
息を飲む音が聞こえた。
やはり美亜はその事は知らなかったらしい……だったらなおさら早くしなければ――。
「だから……早く、お兄ちゃんを……助け、ないと――!」
ベッドから立ち上がろうとするも、顔と腹部の痛みがそれを邪魔する。
それを美亜が黙って見ている筈がなく、
「っ――ダメ! 傷口が塞がってないんだから動かないで!」
「止めないで、よ! ――お兄ちゃん……お兄ちゃん、が……!」
立ち上がろうとするが、頭が上手く働かない。
……結局崩れ落ち、そのまま床へと体を投げてしまう。
それを美亜がさっと受け止め、
「優花……」
優花の心を――同時に自分の心も――落ち着かせるようにそっと抱きしめた。
「アンタの気持ちはわかる……私も同じだから。
私がアンタの立場だったら、私だってすぐに彼を助けにいきたい」
そう……優花の気持ちはよくわかる。
何故なら――美亜にとってこの兄妹は、かけがえのない
◆
美亜の父親は肉体的、精神的にも家族を追い詰める、いわゆる『DV』と呼ばれる人だった。
酒に酔った勢いで車を運転して事故を起こし、もう亡くなってはいるが……その
それから一人となった美亜の心の支えとなってくれたのは親友の優花と、母親のお見舞いにも来てくれて、何度も自分を気遣ってくれる、先輩の燁斗だった。
心に傷を負い、一人この家で過ごす寂しさに耐えきれず泣いていた時、優花が『ウチにおいでよ』と声をかけてくれて……それから数年の間を
学校に通うのも、
寝て起きるのも、
お風呂に一緒に入るのも、
――すべてはその緋月家だった。
◆
この兄妹には返しても返しきれないほどの恩がある。
親友で、先輩で、そして家族であるからこそ……いま優花の言葉に頷くわけにはいかなかった。
「でもね、いまアンタを行かせるわけにはいかない。
そんな大怪我を負って、無理してまで行って苦しむアンタを、私は見たくない」
「――――」
優花の体から無理してまで入っていた力がほどけていく。
優しく抱きしめたまま、ベッドへと戻す。
「だから、私が行ってくる。……私が『他者の零気』を感じ取れるほどの零士なこと、アンタも知ってるでしょ?」
だからそこで安静にしていて、と。
言葉にはせず、優花の頭を撫でることで伝えた。
「――――」
優花はしばらくの間、撫でられるがままにされていたが――こくん、と。
その思いに甘えるように頷いた。
「よし――じゃあちょっと行ってくるね」
身を
「――美亜」
部屋を出ようとすると優花に呼び止められた。
「どうしたの?」
優花は
「お兄ちゃんをお願い……美亜のこと、頼りにしてるから。
親友としても、家族としても」
「――――」
突然の言葉に、一瞬頭が真っ白になってしまうが、すぐに、
「任せておきたまえ、我が妹よ♪」
ピースまでして、いたずらっぽく微笑んで返答した。
「ちょ! そこはわたしがお姉ちゃんでしょ!?」
「ふふん――♪」
可愛らしい抗議の声を背に、美亜は部屋を出ていった。