つまりはより大きなものの力を借りねばならない。それは国家であり、国民である。
時勢は平民達の関心と支持を求める段階に至ろうとしている。
国家がその総力を単一の目的に投じようとしている。
私はこれを『総力戦』と呼ぶ。
ルイーゼ・アウグスタ・シュヴァーベン・フリーデリーケ・フォン・プロシア
ベルン宮殿 南苑
空には紫色と橙色の端正なグラデーションが広がり、遠くの藍色が夜の訪れを告げていた。
象牙細工が施された黒檀のサイドテーブル。
その上に鎮座するのは、純銀製ビードロマイヤー様式の呼び鈴と、青薔薇が描かれたマイセン工房『アクアティンタ』のティーセット。
添えられたチョコクッキーは、一流の菓子職人が腕によりをかけて香ばしく焼き上げたものだ。
ティーポットの蓋の取手は、咲きかけの青薔薇を模している。
暖炉の炎を映した金と橙の光が、ゆっくりとその花びらの上を滑っていった。 カップに注がれた紅茶は、炎を反射してさらに色を深め、誰の口に運ばれることもなく、華やかな香りと湯気をゆらゆらと立ち昇らせている。
この部屋に、常ならば控えている従僕はいない。
深緑と濃茶で統一された静寂の中にいるのは、皇太女ルイーゼとハイドリヒ侯爵エレオノーレ――二人の女だけであった。
開け放たれた窓から、純白の梟(ふくろう)が音もなく舞い込み、ルイーゼの肩に止まった。 彼女は慣れた手つきで、その羽毛を撫でてやる。それを見て、エレオノーレはわずかに眉を上げた。
「おや、梟が人に慣れるとは」
「エレオノーレ、貴公にこの子を贈られるまでは、犬の方が良いと思っていたのだがな。中々梟も良いものだ」
「それは重畳でございます、殿下。そういえば、殿下も狩りを趣味とされておりましたね」
「あぁ。卿も同じ趣味を?」
「ええ、鷹狩りですが。もっとも、私はデスクワークと監察が仕事。職務柄、殿下と同じく趣味に割ける時間はございません」
ルイーゼの驚きを含んだ言葉に、エレオノーレは懐かしそうに、それ以上に脱力気味に答えた。
本来、武門の出ではない彼女は、狩猟や乗馬をことさら好む性質ではなかった。しかし、体を動かす爽快感と獲物を仕留める達成感を知ってからは、シーズンになれば親しい者や娘を連れ、狐や貂を狩りにいくようになっていた。
もっとも、帝国の秘密警察長官にして大貴族。多忙を極める彼女に、悠々自適な生活など望むべくもない。
貴族階級としての付き合い、会食や酒宴への参列,自らの職務。
それらに追われる身として、時折こうして脱力気味になるのも、やむを得ないことだった。
ルイーゼは優雅な微笑を浮かべた。
「ふふふ、それは卿も大変なことだな」
主人がこちらに関心を示さないと見るや、梟は指を甘噛みし、そのまま主人の元を離れて飛び去っていった。
「おや、行ってしまった。せっかく我が元に来たというのに、悪いことをしたかな?」
「仲がよろしいようで何よりです、殿下。……おや、あれは。随分と体躯の良い鷹ですね」
エレオノーレが呟いた。
空を切る影。
堂々と翼を広げた猛禽が、庭園の上空を旋回している。
「ここでも鷹狩りのために何羽かイヌワシを飼育しているのだ。シーズンには、皇帝陛下がアウグスタ叔母上を誘って、狐や貂を狩っておられる」
ルイーゼの説明を聞き、エレオノーレは感嘆の視線を向けた。 皇帝の鷹はそれほどまでに大物であり、鮮やかな色合いを持った逸品であった。
「皇帝陛下が薔薇の世話以外にも趣味をお持ちとは意外ですな。いつか陛下にお誘い頂きたいものです」
エレオノーレがルイーゼを訪ねるのは、これが初めてのことだった。
両者は知己というわけでもなく、異なる派閥の長同士。軽々しい接触は許されない。ハイドリヒ侯爵家はこれまで、皇太女派とは「付かず離れず」の距離をお行儀よく保ってきた。
しかし、その均衡をルードヴィヒが壊した。 少数派帝国軍部の取り込み、派閥の急拡大。
既定路線だった盤面を、ルードヴィヒが掻き乱し始めたのだ。
彼の動きに同調するように、支持者である貴族や青年将校たちの間には「主戦論」がじわじわと浸透している。支持基盤である地方貴族たちは、本来は伝統や秩序を重んじる保守層であり、主戦論者ではないはずだ。 この違和感の正体を確かめるべく、エレオノーレは『公人』として素早く動いた。
「陛下は特段、鷹狩りを好んでいるわけではないのだが……アウグスタ叔母上が好んでおられるのだ。陛下は彼女を可愛がっておられるからな」
アウグスタ・フォン・ミヒャエルハウゼン帝国軍中将。 旧姓はアウグスタ・フォン・エーデルツォレルン。現皇帝フェルディナント2世の従妹であり、皇族きっての問題児である。
彼女は幼少期から軍人に憧れ、近衛兵を勝手に従えて「戦争ごっこ」に興じていた。
帝国軍幼年学校に入り、偽名を使って帝軍士官学校を受験、合格。
教官たちは「厳しく指導すれば辞めるだろう」と考えたが、彼女は食らいつき、あろうことか一桁の席次で卒業してしまった。
軍を諦めさせるための最後の手段として、武力闘争が続く植民地の補給科へ配属された際も、彼女は周囲の想像の斜め上を行った。
熱病による指揮官不在という窮地において、アスカリ兵を含む部隊を勝手に掌握。軍用サーベルを手に敵の撃退・殲滅の陣頭指揮を執ったのだ。
剣林弾雨を突き進み、頬や肩に傷を負いながらも兵を差配し,サーベルを振るうその姿は上官たちの胃を粉砕するに十分だった。
「結婚させれば大人しくなるだろう」と、わざわざ武門の家柄ではない大人しいミヒャエルハウゼン侯爵に嫁がされたが、息子一人に娘を2人産むなり彼女は軍に戻ってきた。
「跡継ぎは産んだから問題ない」という事らしい。
制止すべき夫は、すでに完全に尻に敷かれていた。
実直な性格、高貴な血統、そして圧倒的なカリスマ。
天に二物も三物も与えられ,軍大学を次席で卒業した彼女は、今や帝国軍中将にして帝国近衛艦隊総司令官の地位にあった。
「かの御仁は物怖じされぬ性格ですから。植民地時代の上官、ヴァッサーブルク伯爵には少々同情いたしますが」
「まったくもってその通りだ。もっとも、そのおかげで優秀な者が身分を問わず集っているのだがな。貸し借りを根に持たず、身内思いな豪放磊落さゆえに。……とは言え、あの性格では鷹が集っても鳩は逃げてしまうが」
ルイーゼは微笑を浮かべ、紅茶で口を湿らせた。
「……ある意味、表裏がなく、古き良き武門貴族らしいのですけれども」
「アウグスタ叔母上は、武門貴族出身ではないはずなのだがな……」
当たり障りのないやり取り。だが、その裏には情報が潜んでいる。
皇位継承権第2位のルードヴィヒは、没落貴族や非主流派の代弁者として派閥を築き、そこにミヒャエルハウゼン中将を引き込もうとしている。
統一帝国の組織において特に 実力主義の帝国軍では、派閥に属さない高級将校は稀だ。
軍部は主流派が皇太女を支持するが故にルイーゼ皇太女の牙城であるが、中立の立場をとるミヒャエルハウゼン中将は、皇族の血を引く名門というだけでなく、近衛艦隊内に多くの子飼いを持つ魅力的な存在だった。
さらに、彼女の教え子にはルードヴィヒがいる。 彼女は「主戦論」とまではいかないが「攻勢主義」を掲げており、ルードヴィヒ派の軍人たち――その多くが攻勢派、あるいは主戦派――と親和性が高い。
現状、彼女に最も近いのはルードヴィヒということになる。 そしてエレオノーレは、ルードヴィヒ派が抱え込んだ主戦論者のいずれかが、ヴァザンティンでの不祥事に関与していると踏んでいた。
帝国の闇を支配してきた彼女の嗅覚は、間違いなく事件の臭いを捉えている。
問題は、その目的だ。
主戦派は軍内派閥において最も過激な一派だが、手段と方法を取り違えるような間抜けではないはずだった。
「武門貴族と言えば……ヴァザンティン帝国の件、お聞きになりましたか?」 「あぁ、本国の監察将校が現地入りしたとか」
「エルヴォルト伯も不憫なことです。わざわざ引き立てていた飼い犬に、手を……いえ、腕まで噛まれたのですから」
「ヴァザンティンには外務省の優秀な職員も大勢いる。彼らの助力が有れば、なんとか大怪我で済むだろう」
不祥事の責任を負い、エルヴォルト伯爵は近々退役させられるだろう。
その後任には、当然のように皇太女派の人間が据えられる。エレオノーレは静かに盤面を思い描いた。 南苑の静寂とは裏腹に、帝国は,世界の情勢は荒々しく,そして確実に次の段階へ進もうとしている。
動かぬ者は、淘汰される。
カップの紅茶は、すでに少し冷めていた。
ヴァザンティン。 その旧き帝国の地を覆う陰謀は晴れず、ルイーゼ派の外務尚書コンラート伯子飼いの諜報部が、現地で工作を続けている。 エレオノーレは、ルイーゼの真の目的を嗅ぎつけた。
公然の機密,ヴァザンティンの将官による麻薬密売。
そこには統一帝国の師団長が関与し、資金はヴァザンティンの過激派へ流れている。
コンラート伯の部下たちが猟犬のように素早く現地へ展開しているのは、単なる「不始末の火消し」にしては大袈裟すぎた。
間違いなく、ルードヴィヒの一派もこの件に関与している。 主要な支持層の地方貴族は現状維持を望んでいるはずだが、ルードヴィヒは「欧州以外なら戦乱が起きても良い」と判断したのか。
ヴァザンティンに戦乱の火種を仕込むために、見捨てても惜しくない駒を使ったのか。 なるほど平民を使った事にも納得がいくが,ルードヴィヒはあまりにも見通しが甘すぎた。
ヴァザンティンはもはやかつての歴史と列強の都合でなんとか保たれている朽ちかけての大樹だ。
そして今回の不祥事はきのこの胞子のように芽吹き、すくすくと育っている。
もし真実が公になれば彼の地に生きる民の誇りを塵芥の如く扱い,列強の国を国とも思わぬ仕打ちにヴァザンティンの民の反列強感情は爆発し,列強間の緊張が激化しかねない。
ルイーゼ皇太女は帝国に降りかからんとする戦禍の火種を消し去ろうとしているのだろう。
ヴァザンティンは朽ちかけの大樹だが、その根は深い。
もし不祥事の真実が公になれば、列強間の緊張は激化し、欧州の調停者たる統一帝国の威信は失墜する。
反戦派も主戦派も、同じ船に乗っている以上、帝国全体が戦争へと一歩近づいてしまう。
ヴァザンティンの反列強感情が爆発すれば、盤面が荒れれば,帝国が穏健路線を歩む事も困難になるだろう。
ルイーゼ皇太女は、その戦禍の火種を必死に消そうとしているのだ。 ルードヴィヒは、ヴァザンティンを「重要度の高い植民地」と軽視しすぎた。
彼の地はアルビオンの生命線というのに。
帝国に端を発する不祥事の影響は間違いなく欧州情勢にも波及し,ガラス細工の如く脆い欧州の平穏に罅が入る。
帝国がすでに勝ち得た地位と富を喜んで賭けるほど、ヴァザンティンに端を発する戦争の配当に価値を見いだせないと皇太女も認識している。
故にこの件から帝国は手を引かなければならない。第二のユベールのが誰であれ燃えるのはロンディニウムだけで十分なのだから。
エレオノーレは内心でほくそ笑んだ。
この件によって,ルイーゼ皇太女は特定の長が居ない中立派の一角占める反戦派を味方に引き入れる事が出来る。
好戦的な者たちをルードヴィヒが派閥に取り込んだ後だ。
皇太女派閥はルイーゼとルードヴィヒの派閥に中立的だった者達を取り込み更に躍進するだろう。
そして、数だけは多いルードヴィヒ派がヴァザンティンの対応に釘付けになっている今こそ、エレオノーレが政財界で思う存分幅を利かせる好機であった。
秘密警察内のルードヴィヒ派を根絶やしにし、帝国貴族院への影響力を拡大する。邪魔な当主を隠居させるのも忘れてはならない。 だが、彼女にはさらに重要な目的があった。
「帝国貴族を存続させること」
戦争によって権勢を失ったり、臣民の敵対心が貴族へ向く事態は何としても避けねばならない。 民は愚かだ。しかし、それは教育も情報も与えられず、思考の養分を奪われているがゆえ。操ることは、そして支えられることは容易い。彼らの求めるものを与えてやればよい。
そして、民は賢い。彼らが選んだ方が「正しい」のだ。
もう少し正確に言うならば,彼らが選んだ方が”正しい”。結局のところ、世界は導く者逹ではなく支える者達が選んだようにしかならない。
いついかなる時においても導く権利は上に立つ者に,裁定権は下で支える者に与えられる。
帝国は安寧と平和を手放してまで博打を打つべきではない。
優秀な平民を主に取り込んでいるのは門閥貴族です。
その点エルヴォルト伯爵は地方貴族でありながら平民を取り立てていたので開明派です。
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前話(昏き黎明のアリア)の話の続きに関してなのですが,創作意欲の欠乏によりしばらく延期いたします。