血・鉄・権謀   作:帝国軍司令部付研究監査群

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貴方が慕う誰よりも、貴方を大切に想っています。
だから、今は眠っていて。
    新しい夜が来て、悪夢に醒めるまで。
               恋しい吾子よ。


————————————-

この話には胸糞,露悪的な描写が特に強い為苦手な方はブラウザバックして下さい。


コッペリアの逆罰

 全寮制である帝立貴族学院は夏休みを迎え,貴族の子女,子弟たちが家へと帰って居る時期。

夏の夜のことだった。

 親元を離れ,寮生活を送っていたマリアは、自分の部屋で最愛の母であるエレオノーレが帰ってくるのを楽しみに待っていた。  

心をときめかせ,その幼さの色濃く残る美貌に笑顔を浮かべながらマリアは窓辺で使用人に髪を梳かさせていた。  

「……あれ、今なにか」  

 満月に照らされた庭園の中を、何かが動いた気がする。

マリアは少し迷って、用意させた手持ち燭台を手にして階段を降りた。

 

先日、庭園に迷い込んだ手負いのうさぎを手当てしたばかりだ。同じ子が迷子になっているのかもしれない。  

靴を履き、裏口から庭へ出る。  

夏の夜風がマリアの纏めていない髪を撫でるように揺らしていった。

風上からは青々とした草のにおいと、わずかに獣臭さを感じた。

  「出ておいで、怖くないよ」    

優しく声をかける。  

精緻な細工に施されたブロンズの燭台に灯った火が風に吹かれて揺らめき、影が道脇の草原を駆け抜けていく。  

庭園の中で何かが枝を踏んだ音がする。  

うさぎではない。

もっと重い生き物の音だ。

マリアは少し悩んで、進むことを選んだ。

 

ハイドリヒ侯爵家の屋敷の周囲は多数の警備隊が巡回し,目を光らせている。

不埒な者が侯爵家に足を踏み入れたとして,その者は『相応』の対価を支払う事になるだろう。  

 

それにマリアの周囲にはハリケーンランタンを手にした護身の心得のある使用人が1人付き従っているし,お気に入りの庭師からも動物の世話や手当ての仕方をよく学んだ。

代々ハイドリヒ侯爵家に仕える従士家の出であり,自身も長年庭師を務めるアドルフの知識は確かで、マリアは幼いにも関わらず多くの野生に生きる生物を知っていた。  

だから、マリアひとりでもなんとかなると思ったのだ。  

「おいで、こっちだよ」    

 

声をかけながら、燭台を向けたその時だった。

 

「――こんにちはお嬢さん、一つ恵んでいただいても?」  

 思わず固まった。

 闇の中に誰かがいる。  

使用人が主人の前に踏み出し,幼い声が誰何の声を叫ぶ。

「何者ですか! 当地をハイドリヒ侯爵家の土地と知っての狼藉ですか!」

「ははははは、凄むねえ」    

 

何か、いや、誰かが闇の中から近づく。  

ハリケーンランタンを声の方へ向けながら使用人が懐に手を伸ばし,主人の盾となるべく護身の短剣を手に取る。

「マリアお嬢様,今すぐお屋敷に戻りましょう」

 マリアはなんとか頷き、ゆっくりと屋敷に戻る道を後ずさりした。  

「怖いのか? 怖いよな? 怖がらせる気はなかったのですが?」

 

「ッ……目的はなんですか!」  

 使用人の叫びが闇に消え去り,マリアが枝を踏んだ音がやけに大きく聞こえる。  

「言っただろ? ちょっと恵んでほしいんだよ。殿上人の方々からすれば俺達みたいなのはいつもさもしいらしい」  

 

 声は響いた。

それは不安定で掠れていてよく耳に残る声だった。 

 

「なあ、一つ恵んでくれよ」    

 

マリアの眼がぼんやりと人影を見つけると、そこにはひとりの男がいた。  

尋常では有り得ない程に血走った目の瞳孔は開ききっていて、喉は獲物を前にした獣のように鳴っている。

その音は地獄の門を押し開けるかのように低く、夜闇と混じってマリアの原初の恐怖を煽る。  

そして、剥き出しにされた薄汚れた敵意が、マリアを狙っていた。  

「お嬢様お逃げ下さいッ!」  

大声で叫び、咄嗟に使用人は自身の持つランタンを投げつける。

短剣を携え主人を守らんとする使用人の後ろ姿をチラリと見たマリアは狩猟園の奥へ駆け込んだ。

 

 

 

ふんわりと波打つ金髪のブロンドに、極上の宝石の様な瞳。

 

とても愛らしい女の子。

 同じ帝国貴族であるはずなのに、その様子はまるで違う。

 

彼女が着こむのは、繊細な柄の浮かんだ小綺麗な天鵞絨のワンピースに絹の靴下。

歩幅の小さな歩き方からして気品を感じる。

美しいフリルとリボンが愛らしく、その維持や制作にはどれほどの金を費やせば良いのか。

 なにより目を引いたのは、彼女を守る使用人。

 亜麻色の髪の美しい娘だ。

 

 下級貴族達が零落してなお大貴族達は昔と変わらず贅を尽くした生活を送っている。

 

 

 美しく手入れされた髪を靡かせ,使用人を帯同した少女は,子供ながらに優雅な足どりで庭園を歩むその少女は、優しそうな、本当に優しそうな笑顔を浮かべていた。

 あの少女が、マリア・フォン・ハイドリヒ。

 それを見た男の心には、羊皮紙にこぼしたインクのように、じわじわと広がっていく感情が灯った。

それはいまにも喉元をせりあがり、あちこちに叫んで撒き散らしてやりたいほどのものだった。

 

 

平民共に貴族が負ける事を許せず、忌避する。

それ故に彼らはそんな『卑しい血』を捻じ伏せるために自らを磨くのだ。

そして力ある貴族はそれでいい。

では力なき恵まれぬ貴族は?

貴族にもなれず,平民にもなれず,恵まれる事すら出来ぬ我らは蔑まれて生きていけというのか?

 

 

今尚権勢を誇る貴族達が連綿と受け継ぐそれは誇りと呼ぶには歪んでいた。

歪んだ選民意識と特権意識、それこそが生き残った奴らの力の源だ。

だからこそ、力ある貴族共は皆基本的に冷酷で冷淡で、高慢で尊大なのだ。

それは有能でも無能でも変わらない。いや、ある意味では有能な方が余計質が悪いかも知れない。

 

 

 

 

 

闇よりその姿を露わにした男は叫ぶ使用人に取り出した短剣を構えて走り出した。

 投げつけられたランタンをはたき落とした男は歯を食いしばりながら、左腕で短剣の重い一撃を受け止める。

 奴らが、俺たちのものを奪っていく。

 奴らのせいで、俺たちはこんな目に遭う。

 奴らがいるから、俺たちはこんな気持ちになる。

 憎くて憎くてしかたがない。

 

骨身に染み渡る様な貧困も、奴らの輝かしいその様も、平民の蔑視ですら、これまで耐えてきた。

 

しかし男にとって少女の暢気な怯えた顔だけは、なにがあっても許すことができなかったその笑顔を剥いで、全てを奪ってやりたいと思った。

 

だから使用人にナイフを力一杯刺した。

 

殺した。

 

 

刺された腕はじんじんと鼓動し,酷く熱を帯びていて,渇望と憎しみと妬みが男を動かしていた。

 

燃え広がりかけている地の如く男の心は情熱的な情動に溺れ,焦がされていた。

 

 

 

 

 

 「貴様に用はねえ!」

 

 少しして人一人が倒れ込む音がして,しばらくした。

 

その後に足音が駆けてくる。

まるで飢えた獣の如く駆けてくる。

 夜闇の中で、自分の記憶だけを信じてマリアは庭園を抜け,狩猟園の中を走り回った。

 マリアは無策で狩猟園の中に逃げ込んだわけではなかった。

ここの区画は庭園に隣接しており庭師が獣除けで置いた罠がいくつもある。

中には鹿などの危険な大型の動物を捕らえるためのものも。

 

「糞、なんだこれは……聞いてた話と違うぞ、ったく」

闇の中、幾度か大型の獣用の罠に引っ掛かりそうになりながらも、執拗に男は追いかけてきた。

 常人の膂力ではありえない力と持久力で、その男はマリアを追い回している。

 

「傷はつけるなって話だが、こんだけ苦労させられたんだ。味見くらいいいなあ?」

 

 味見。

 その言葉に先ほど見えたあのねっとりと絡みつくような殺意を思い出して、マリアの背筋に怖気が走った。

狩猟園の中に敷かれている屋敷に通ずる道まで駆けていく。

そこは警備隊が巡回している筈だ。

 マリアは道に近づき、そして――

 

「つーかまーえた」

 

足を土と泥で,胸を血で汚した男がニタニタと笑いながらマリアの腕を掴んでいた。 

「――残念でしたねぇ、お嬢さん」

 

男の頭の中にいる下劣な思考が鎌首をもたげる。

 マリアは必死に祈った。

 誰でもいい。誰か、私に助けの手を。

 その時だった。

 

静かで恐ろしげな暗闇の中から巨大な何かが襲いかかり、その牙は男の腕に食い込んだ。

 

「ちっ、なんだ、糞!」

 

 大きな銃声が響いた。

「ぎあっ!?」

 次第に暗闇に慣れてきたマリアには、その正体がわかった。

使用人の叫ぶ声を聞きつけた兵士と警備隊の大型犬が駆けつけたのだ。

 その大きな犬は唸り声を上げ,腹から血を流しながら暴れる男の腕に喰らい付き続けた。

 

「ぐ、う、やめろ、離せ、このクソ犬!」

 2人,3人と警備隊の兵士が駆けつけると、暴れる男を殴り飛ばし、取り押さえる。

マリアの救出に間一髪間に合ったのは灰色の機能性に優れた軍装を土と泥とで汚した兵士達であった。

その出で立ちをマリアは良く知っていた。

無自覚に、マリアは呟いていた。

 

「衛兵……?」

 

 その出で立ちは間違い無い。

ハイドリヒ侯爵家の屋敷を警備する警備兵の軍装であった。

 

 マリアが放心している中マリアを兵士の一人が抱きかかえる。

 

 「お嬢様、さぁもう御安心で御座います。御無事で何よりで御座いました」

 

 

 警備兵達は心底安堵し、機嫌が良さそうに優しい笑みを浮かべてマリアを丁重に連れだす。

 

他の兵士が獣の如く暴れ狂う男を取り押さえ,連行する。

兵士達が振るった,血に濡れた拳銃の銃床に,警棒。

 

月光を受けて嫌な輝きを見せていた。

マリアはかすかに聞こえる呻き声から、男がまだ死んでいないことがわかった。

直後,マリアは気を失った。

 

ーーーーーーーー

 

 そして、しばらくして。

「お前達は我が家から無駄に禄を食むだけの役立たず共なのですか?

なぜ薄汚い獣が我が家に土足で踏み入り、マリアの目前にまで迫っていたのです?」

 

 屋敷の執務室で万年筆の叩きつけられる音と共に凄まじい憤怒を溶かし込んだ声が静かに響いた。

屋敷の執務室で黒と銀の華麗な礼装で着飾りつつも少し髪形が崩れているハイドリヒ侯爵家現当主であるエレオノーレ・エリザベート・フォン・ハイドリヒ侯爵は失態を犯した兵士どもに対して仄暗い水の底のような冷たさを想起させる澄んだ蒼瞳からを塵芥を見るかの如き冷ややかな目線を向け、しかし彫刻の如く美しく整った顔立ちに優し気な表情を浮かべて問いかける。

 

足元には叩きつけられ,軸が歪み最早使い物にならない万年筆が打ち捨てられており恐る恐ると使用人達が回収する。

歴戦の兵士達が恐る恐る弁明と釈明を話し出した。

丁寧な物腰で能無しに詰問するエレオノーレは表情こそ微笑みを浮かべているがその実、側仕えの使用人達や側近である付き人すら視線を逸らす程の怒りが烈火の如く滲み出ていた。

 

ーーーーーーーー  

 

 しばらくして大失態を犯した警備隊指揮官を下がらせ、エレオノーレは大きく息を吐いた。

 

 エレオノーレは、マリアの部屋に一人分の紅茶を用意させるよう命じて使用人と付き人を下がらせると、護衛騎士が左右を固めるその部屋のドアをブーツの踵を鳴らし敬礼する彼らを受け流し,静かにゆっくりとノックした。

「マリア、私です。入りますよ」

 

 

そこにはこの世で最も美しい娘が居た。

初雪の如く白く透き通る肌,薄ピンク色の艶やかな唇。

そして極上の宝石すら霞ませる程に美しく,朝露に濡れたような潤んだ碧瞳。

 

 ベッドの上で、愛娘マリアはシーツにはしたなくくるまっていた。

 エレオノーレが到着してすぐのころに比べれば落ち着いていたが、それでもまだ手に震えが見て取れる。使用人に用意させたココアには手もつけていないようだった。

 足早にエレオノーレがベッドの縁に腰掛けると、マリアは母の手を握りしめた。

 

「怖かったですね」

「はい」

「傍にいてあげられなくてごめんなさい、マリア」

「いいんです。でも……今夜は私と一緒に寝てくださいますか?」

 そう聞いてきた愛娘に頷く代わりに、マリアの頭そっと優しく撫ぜる。

 

 

「……もう少しだけ」

 

 

 怯えの残る,安堵混じりの甘えた声。

 

 

「もちろんですよ」

 

自然と娘抱きしめる。

娘の細く,程よく鍛えられ引き締まった体を全身で感じる。

 他人の温度は馴染みがないが、不思議と安心を感じさせるモノだった。

 

 エレオノーレは激怒している。

エレオノーレは恐怖している。

 だが、それと同じくらい、別の感情もあった。

 娘が襲われた。

 間一髪だった。

 それでも生きている。

 可愛らしくて、誇り高くて、勇敢で、愛しい娘。

 生きている。

 そこに安堵している。

 

 

マリアがくぐもった声を上げたのも気にせず、首筋にすり寄った。

頸動脈からすら拍動を感じそうなほど、己の心臓が唸っているのを感じる。

 世界は残酷だ。

 こんな最愛の我が子に運命は戦いを強いる。

 

この血は呪われている。

我らが称えるべき祖先の残した、永代に続く血の呪いによって。

 

青き清血の遺志に依って長きに渡り紡がれた歴史が囁くのだ。

   永代に続く運命と血脈からは逃れることなどできないのだと。

 

 

 

貴族達が受け継ぐ爵位や身分社会も、その成立当初は決して大層な物ではなかった。幾ら口で、あるいは皇帝の元で上下関係を決めようとも、そこに実質的な影響力や権威は無かった。

 

中世の暗黒時代,戦乱と混沌の中にあってその権威を保証したのはそれぞれの家の自前の財力や当主の才能、そしてそれらに裏打ちされた「強制力」であった。

 

そして連綿と紡がれた歴史は張り子の虎であった名に実を与えたが、だからこそ生じた伝統と権威がその子孫を縛るとき,それは尊く決して逃れ得ぬ呪いへと変わった。

実力が無くとも、関わりたくなくとも、逃げようとも、宮廷の陰謀と抗争は高貴な血を受け継いだ者を逃がさない。血を受け継いでいる事、それ自体が暗闘を繰り広げる者達にとって無視するには重要過ぎるのだ。

 

 だからこそ、エレオノーレはこの世界を踊りきってみせる。

 

「お、お母様?」

「もう少し、このままで」

 

娘の愛らしい姿にじんわりと暖かく,そしてエレオノーレの心中は凍土の如く固く冷えきっている。

 

 

エレオノーレは静かに思索から離れた。

 

 

何はともあれ,折角の親子の触れ合いが大変な始まりになってしまった。

 まさかマリアが薬物中毒の落ちぶれた下級貴族の子弟に襲われるとは。

 エレオノーレが優しく愛情を込めてマリアを撫ぜていると、マリアが小さく声を上げた。

 

「あの、お母様。あの人は……」

「秘密警察に引き渡しましたよ。殺人、不法侵入に器物損壊、暴行未遂。

政治犯矯正収容所行きでしょう。

貴方に手を出そうとしたのですから」

「はい。その……さっき思い出したのですが、変なことを言っていたんです」

 

 変なこと。

部屋の扉がノックされ,ちょうど使用人が銀のトレイに乗せたティーカップを部屋に置き,頭を下げてから退出して扉を閉める。

一口紅茶を飲み,エレオノーレがティーカップを銀のトレイに置いて続きを促すと、マリアは震える声で語りはじめた。

 

「話が違うとか、あと、誰かと傷は負わせないって約束をしてたみたいでした」

「ふむ……」

 

 努めて冷静にしながら、エレオノーレは思考を全力で回転させていた。

 つまり、誰かがマリアを薄汚い畜生に襲わせたのだ。

それもただの畜生では無い。薬でタガが外れた害獣だ。

 愛娘に手を出した愚か者がいる。

 それは万死に値する行いだが、現行法では私刑で報いることはできない。法治国家は暴力による私人の復讐を肯定しない。

 しかし、エレオノーレにはもっと合理的で合法的な復讐の手段がある。

この悪事を企てた者に生まれてきたことを後悔させてやろう。

 穏やかにマリアの手を撫でながら、エレオノーレはそのような結論に至った。

 「その事は私が考えておきます,貴方は少し眠りなさい」

「そうですね、私もそうしたいと思います。でも、今はもう少しだけ……」

 

母の指は一度だけ、マリアの細い金髪をするりと撫でた。

 母の複雑な感情を娘は察することができなかった。

 それは群青よりも深く、浅瀬に寄せる漣よりも不可解で、複雑で、火砕流の如く熱を帯びて悍ましい情感だったからだ。

 

 

 きっと、昨夜は一睡もできなかったのだろう。

 エレオノーレが手を撫でているうちに、マリアは寝息を立てはじめた。

まだ少し震えがあるが、それでも表情は穏やかになりつつあった。

 頭を優しく撫で,軽く額にキスをした後に部屋に控えていたマリアの付き人に女中頭を呼ぶよう言伝を言いつけた。

蒼白な顔色も露わに女中頭はすぐに現れた。

 

「エレオノーレ様、なんとお詫び申し上げればいいか」

「言い訳は無用です」

「しかし、私めは自分が恥ずかしゅうございます。マリアお嬢様が抜け出したことを気づきすらしないなどと……命を持って償いをしなければならないほどの愚かさにございます……」

 

 老いた女中頭のユーリエはハイドリヒ侯爵家に長く仕えているローヴァン従士家の出の上級使用人の一人だ。

 彼が涙を流して詫びるのを、エレオノーレは娘を起こさぬよう静かに一喝した。

 

「二度はない」

「は、エレオノーレ様の寛大さに感謝いたします……」

「勘違いするな。失態を犯したお前を自裁させぬのは、我が娘が悲しむからです。……マリアはお前を大切にしています。家族だとすら思っているでしょう。その信頼を二度と裏切らないよう」

「もちろんでございます……ユーリエは命尽きるまでお仕えいたします」

エレオノーレは静かに控えていた家令のセバスティアンに声をかけた。

「セバスティアン、侵入経路の特定。それから家の警備体制の見直しをしなさい。

あとは私が始末をつける」

「「仰せのままに」」

 

 家令と女中頭を下がらせた後,エレオノーレはため息を吐いた。

それから紅茶の入ったティーカップを手に取った。しかし、飲む気にはなれず、結局ティーカップを戻して思わず叩きつけてしまった万年筆を懐から取り出して弄んだ。

 おそらく、これは警告だ。

 エレオノーレの動きを嫌がっている誰かがいる。

それも、エレオノーレに背後関係を調べられても懐が痛まないか、暴力的な手段に訴えることを選択肢に入れざるを得ない誰かだ。

 心当たりはある。

没落貴族に伝手を持ち,配下を動かすことができて、使い捨ての駒がどう証言しても都合のいいように片付けることができて、エレオノーレに悪意を向けている人物。

そして落ちぶれ,食い詰めた貴族達を子飼いにして,其奴らを嗾けてまでこちらを脅す人物はただ1人。

皇位継承権第2位ルードヴィヒ。

ルードヴィヒ派には忠実で有力な臣下がいない。

彼らは寄せ集めのつぎはぎ派閥で有り,その内訳は

金があるが政治力に乏しいが門閥貴族の栄達を目指す野心的な家。

困窮し,ルードヴィヒの子飼いになった家はそもそも没落貴族であるが故に政治力も経済力もなく,数を揃えないと使えないし,ヴィッセル家譜代臣下では無いので信用できるわけでは無い。

 

 影響力を及ぼすことができる範囲は広いが、ヴィッセル家やルードヴィヒ個人に従っているわけではない。金、コネ、権威、そういったものに服従しているつぎはぎの寄せ集めに過ぎない。

 だから、ルードヴィヒは手駒を使うのではなく、暴力で脅すなどという危険を冒す必要がある。

 

有力門閥貴族家に警告出来るほどの権勢はない、しかし態度は示しておきたいという葛藤が滲んでいる。

 

 

 

「ルードヴィヒ フォン ヴィッセル……」

 

思わず、エレオノーレは絞り出すようににその言葉を吐き出した。

そこには言い知れない重圧のようなものが煮えたぎっていた。

 それはきっと恐怖と怒りだった。

悪夢がエレオノーレの全身を支配して、血管を逆流するように寒気と憤怒が全身を包んでいた。

 

しばらくして,エレオノーレの側近衆の1人にして腹心であり秘密警察本部の要職に就くイルベリン従士家当主ゲルハルトが部屋を訪れた。

「エレオノーレ様,失礼いたします」   

 エレオノーレは軸が歪んだ万年筆を指先で弄んでいた。

 黒を基調に金細工の為された重厚な万年筆には削った金剛石の粉末で紋章が刻まれている。

代々帝国の闇を司るハイドリヒ侯爵家は珍しく梟を紋章とする。

 「……如何なさいますか?」

「いい質問です」

 

 白く細い月光が、梟を妖しく煌めかせる。

 

 

 

「……ルードヴィヒがなにを懸念しているのかは知りません。しかしその諜報部門の中枢にいる我々を彼は敵に回すつもりの様ですね」

 

 秘密警察の手にかかれば、一個人を罪に陥れることなど容易なことだ。こと、彼女の後ろには諜報のプロフェッショナルであるゲルハルトがおり、当主の意のままに動く多くの有能で忠実で狡猾な駒達がいる。

「……脅すおつもりですか?」

「いいえ」

 部屋に微かに響くゲルハルトの声にエレオノーレは即答した。

「そんなつもりなぞ”全く”ありませんよ」

 小首を傾げると長い金色の髪がその動作にあわせて揺れる。頭髪と同じ金色の睫毛をまたたかせたエレオノーレは目の前にあるティーカップに手を伸ばしながら静かに言った。

 

 

「しかし、あの愚か者はここが罪を作り出す本拠地だと言うことを失念されていると伝える必要がある」

 

ぞっとするほど静かに響いた声に呼応するかのように部屋が黒々と染まる。

帝国法廷に出廷を命じられる「犯罪者」たちは多かれ少なかれ秘密警察と強い関係を持つ刑事警察、あるいは秘密警察で訊問を受け捜査される。

 罪を作り出す場所――。

 そして帝国法廷は、その罪を断罪し、処罰する場所であるということ。

 つまるところ、エレオノーレの言葉は暗に告げているのだ。

 ――自分たちは、陥れることが可能なのだ、と。

 

「勇ましいのは”結構なこと”だが、敵とする相手を間違えれば寿命を縮めることになるとな」

 言葉はひどく物騒であるというのに、彼女の笑顔は変わらない。

 まるで静かの海のような。そして大海の闇であるかのようなそんな双眸にゲルハルトは静かに問うた。

 

「エレオノーレ様,見せしめの処分を致しますか?」

エレオノーレは万年筆を見つめていた瞳を上げた。

 まるでその瞳は目の前の小石でも眺めているようだ。

 狩人の如く透明な殺意をたたえながら、どこまでも残酷に無関心。

「我々は神のオルガンに合わせて踊ってるに過ぎない」

 感慨のひとつも見せずにエレオノーレは言った。

 そう。

 彼女は相手がそれなりに権勢を持った有力な皇位継承者であることもわかっている。

 

けれども、エレオノーレにとってルードヴィヒが有力な皇位継承者であることなどどうでもいいことのひとつでしかない。

 要するに、犯罪を犯していない人間にとって、警察官が無意味でしかないことであるように、彼女にとってルードヴィヒはその程度の存在でしかない。

情報組織に伝手も,確固たる派閥すら持たぬ弱者にはハイドリヒ侯爵家という絶対的な権力に君臨し,守られた彼女を裁くことなどできはしない。

 

そして秘密警察の職責はただ一つ。

 

   帝国の敵を掃討するために存在している。

牙を抜き、屈服させ、服従させることは帝国の治安維持と体制維持の恐ろしい夜と霧の鞭として真価を発揮している。

 

 

 

 

 

 

 

 

「潰してしまいましょうか、卑しい穢れた血」

野良犬使いのルードヴィヒ風情が。

この落とし前は必ず付けさせる。

 しかし、復讐程度に拘泥していられるほどエレオノーレは暇ではない。

無論,復讐は高貴なる血の欲する所ではあるが、復讐だけを求める時間ほど非生産的なものはない。

 

 

 

が,臣従も協力も信頼と敬意あってこそということをヴィッセル家はまた忘れたらしい。

 

復讐は高貴なる血の欲する所。

 

行儀の良い振りは,もうやめだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「かしこまりました」

 

 

 

静かに,ゲルハルトは頭を垂れた。

 

やがて窓から差し込む月光が主人の横顔を照らした。

 

静かな月光が、月を瞳に宿した彼女の銀灰の瞳を露わにした。

エレオノーレはいつものように穏やかに、声は静かだった。

 

 

 だが、透き通った美貌に仄かに映るその笑みは静かで、だからこそゲルハルトは主君であるエレオノーレが恐ろしかった。

 

 

 そして、その恐ろしさは美しくもあった。

澄んでいて、同時に息が詰まるほど昏いものを孕んだ深淵を目にしたような、そんな不気味で身を竦ませる気配。

引きずり込まれる夜の色を纏った神々しさとおぞましさを煮詰めたようなえもいえぬものが、ゲルハルトを呑み込んでいた。

 




マリアが滞在していたのはベルン宮殿ではなくハイドリヒ侯爵本邸です。
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