何一つ欠いてはならぬ。
貴族が国を忘れれば、腐敗が始まる。
国が民を蔑ろにすれば、革命が起きる。
民が義務を放棄すれば、国家の基盤が失われる。
国家が失われれば,全てが失われる。
身分は名誉感を伴い、身分的特権はこの名誉感に裏打ちされて義務意識を伴うこととなる。
しかしフランソワ革命はまさに貴族がノブレス・オブリージュを失って、たんなる「特権」に堕したところにおこった。
統一帝国第二代皇帝コルネリアス著作 『国家三体』より抜粋
注】間違えて旧定版を投稿していたので新しく投稿し直しました。
アジアから程遠い欧州の一角、そこは欧州大陸を二分する列強の中心地があった。
欧州の列強国において最強の一角である統一帝国。
人口6500万人、世界第三位の人口を有するその国の帝都は統一帝国の繁栄を体現していた。
現在では三百数十万の人口を擁し、欧州第三位の人口を有する欧州最大級の政治・文化・学術・商業都市として知られるこの都市も、しかしその成立当初は地域の一小都市にすぎなかった。
ヴァルテンべルク辺境伯が東方植民の拠点としてこの地を整備し、やがてシュヴァーベン家が勢力を確立、プロシア王国の首都に定めた当時、ベルンの人口はせいぜい数万程度であった。
その後、宗教戦争や周辺地域の混乱にともなう難民の流入、さらにその後の近代国家建設に向けた計画的な都市改造により、ベルンは欧州北方の中心都市へと成長した歴史を有する。
そのようにしてプロシア王国の中心地として欧州近代史の舞台中央へと歩み出したベルンであるが、空から地上に目を向ければ、その幾何学的な模様を描く美しく機能的な都市構造を持つ大都市が見えるだろう。
シュヴァルレー川を挟んで東西に広がる都心部、ヴァルデンベルク門とロートドールン・シュトラーセを軸とする世界でも有数の近代的な超巨大都市、統一帝国の帝都ベルンの姿が。
欧州北部を支配する帝国の中心都市には国家機能の集約する省庁街、皇族の住まう瀟洒な宮殿「ベルン王宮」の荘厳にして壮麗な姿を見る事が出来る。
帝都郊外には貴族達の壮麗にして広大な帝都別邸が立ち並ぶ。
宮殿は政務と国事を行う東苑、皇帝と皇族の生活の場となる南苑、帝国陸海空軍の参謀本部を有する西苑、広大な狩猟場となる北苑の四つ、その外側に広大な敷地を有する外苑からなる宮廷は、主要な四つの内苑のみで十平方キロメートル、外苑を含めると一八平方キロにも及ぶ。
宮殿を守護する近衛軍団は宮廷内部を銀色の飾緒に銀絨漆黒の美麗な軍服と暗赤色のペリースを纏い,宮殿を警邏する約八百名の衛兵隊。
そしてより実戦向きの戦車・航空機・航空艦艇まで保有する約八千名の帝都近衛兵団を合わせた精鋭からなり、都市内には不穏分子に対して秘密警察が目を光らせ鉄壁の警備体制を敷いていた。
列強国においてもここまで優美でいて、広大で、そして安全な場所は他にないであろう。
世界随一の発展を遂げ帝国の富と栄華を集約させたそこは見る者を圧倒する正に大国の都と呼ぶに相応しい威容を誇る。
尤も、そのような楽園の住民が必ずしもそれに相応しい才覚を有するとは限らない。
東苑の一角、黒真珠の間――五つある謁見室のひとつで、男は報告を受けていた。
五十二歳。年齢だけを見れば壮年である。しかしその顔には、時代そのものが刻んだ疲労が沈殿していた。かつて活力を宿したであろう端正な面差しは、いまや孤独に覆われ、ほんの僅かな魂と肉体だけが遅れてこの世に置き去りにされたかのようであった。
豪奢で格式ある椅子に座るその存在は、しかしその美に彩られた空間の出で立ちと正反対に酷く陰気な君主に見えた。
その男の顔立ちは、どこかに優雅な気配を秘めていて、決して醜いものではなかった。むしろ平均という尺度を軽く越え、静かに整った線を保っている。もしそこに生の温度――活力や、柔らかな微笑が差し込むならば、振舞い方次第では多くの女たちの視線を惹き寄せ、名士たちに好印象を与える初老の紳士へと変貌するに違いない。
だがその表情は、まるで魂の抜け殻だけがそこに置き忘れられたような、乾いた孤独の影がぬめりつくように貼りついた顔であった。
見る者の胸の奥を、ひやりと湿った指先で撫でまわすような、そんな不気味な静けさが漂っていた。
その端正な顔はまるで無気力で,厭世的で,虚弱そうな印象を謁見する者に与えている。
老人、とまでは言えない年齢ながらその全身に纏う虚しさすら感じさせるほどの厭世観を纏う姿は見る者に実年齢より10歳程歳を重ねているようにも窶れて見えた。
だが、そんなことはどうでも良かった。
その眼はどんよりと濁っていた。闇の中で不意に燐光を放つ腐朽した樹木のように、見つめられる者の心に不吉な、そして拒みがたい戦慄を刻みつける瞳……それに比べればその外見なぞ取るに足らない。
本当に見かけ通りの人物であればそんな瞳なぞ持っていない。
統一帝国第三代皇帝フェルディナント二世はこの年五二歳。
元より虚弱気味であった体を病魔に体を蝕まれ,薔薇の世話を趣味として生きる男は頬杖をしながら今一つその感情を伺いしれない表情でその報告を受けていた。
「……陛下?僭越では御座いますが御聞きでいらっしゃいますのでしょうか?」
余りに反応が無いために国務尚書ベルグホーフェン侯は不敬である事を承知でも、ついそのように確認してしまう。
内務・宮内・財務・国務尚書を歴任した前任者の国務尚書ハーフェンシュタイン公の引退と共に昨年その職務についた彼は、門閥貴族の中でも名門中の名門であった。
ベルグホーフェン家は宮中28家に含まれる帝国開闢以前から皇帝家に付き従ってきた大貴族である。
そして本人の保守的で独創性は無いが誰もが無難と認める仕事振り、そして財務尚書、内務尚書を歴任し,その役職に任じられていた。
「……うむ、聞いておる。確か,ヴァザンティン帝国での我が軍の麻薬問題であったか?」
そんな背景を持つ新任の国務尚書の質問に漠然と思い出に浸っていた心を引き上げ,我に返ったかのように瞬きをした皇帝は、過去の追憶から思考を戻してその頭脳を働かせ、その報告の内容を答える。
「その通りで御座います、陛下。
かつての予算金の不足により行われていた麻薬の密売を継続し、ヴァザンティン帝国にて麻薬を売り捌き、横領まで働いていた不逞の輩についてですが特務憲兵調整局が自裁許可を求めております。
つきましては此度の件の許諾を頂きたく思います」
「ふむ,相分かった、そちらの準備については卿に任せる。
関係各所と良く話して形式と進行を決めよ。………それからこの件については外務尚書とも協議し,我が国から件の薬が供給されていたことを必ず隠蔽せよ」
コホコホと咳をすると、皇帝は気怠そうに席を立ち歩き始める。
「陛下?」
「おお、伝え忘れていたな。
まだ薔薇の世話をしていないのだ。
一日でも手入れを怠れば薔薇園はすぐに荒れてしまう」
そう口にしてフェルディナント2世は傍らに控える初老の侍従武官ヴァルグベルグ准将を連れ若干危なげな足取りで「謁見の間」より立ち去る。
国務尚書ベルグホーフェン侯にそれを止める権限は無く、残る報告は薔薇園の世話の後にと判断して少なくとも形式的には敬意を込めて、恭しく頭を下げそれを見送った。
「陛下,お体に差し障りがあるのでは?」
暗に皇帝に養生を勧めたヴァルグベルグ子爵に対して自嘲気味にうっすらと、陰気な笑みを浮かべる皇帝。
「引き継ぎはすでに進んでおる,我が娘であれば帝国の舵取りも安泰であろう。
それにルイーゼは何やら興味深い論を書いておった。確か………」
「皇帝機関論,で御座いますか?」
言葉に詰まるフェルディナント二世に、ヴァルグベルグ子爵は尋ねる。
「おお、確かそのような名であったな。
我が娘であるが其の英邁さには驚かされてばかりだ」
フェルディナント二世は柔らかい微笑を浮かべた。
その言葉に宿る言葉はどこか柔らかさを帯び,今までになかった温かみが、灰色の皇帝の声に宿っている。
「左様でございますな」
「……………もはや余に残された猶予は短い,幸い英邁な後継も育ってきておるのだ,少しは好きにしても良かろう?」
侍従武官は、皇帝のその言葉に答える言葉が無く、唯静かに皇帝の傍に付き従った。
皇帝と侍従武官が薔薇園に着くと、園の一角に置かれたベンチにその老人の姿があった。
今は亡き皇后ツェツァーリエと同じグレーの瞳が、愛おしそうに薔薇を見つめていた。
「これは陛下、本日はお日柄も良く薔薇を愛でるのに実に良いでございますな」
典礼尚書エーデルシュタイン侯爵は至高の存在の前でゆったりとした口調で答える。
「ふむ、誠にその通りであるな、エーデルシュタイン侯」
皇帝に対して非礼とも言える侯爵の態度に、しかしフェルディナント二世は朗らかに微笑みながら応じた。
ヴァルグベルグ子爵と同じくその皇太子時代に何度も世話になった恩義が有り,今は亡き皇后の兄でもある老人に対し人目に触れるなら兎も角このような他者の視線が無い場所でそこまで厳しく礼儀を求めるつもりは無かった。
「亡きツェツァーリエ皇后様との茶会もここでよくしておられました」
「………懐かしき事を言うの。
この薔薇園は永遠ぞ。
余が冥府に去ろうとも、枝は伸び花は開き続ける。
されど、導く手を失えば、大輪の花を咲かす事能わず野放図に伸びた果てに自らの根を枯らすやもしれぬがな」
其の声には帝国の支配者たるに相応しい背筋の通った、冷たく揺るぎない威厳があった。
「では、庭師が必要で御座いますな」
「あぁ、よい庭師でなければならぬ」
薔薇を見上げて並ぶ様は、まるで懐かしき過去について老人達が語り合っているようであった。
しかし、ふたりは薔薇を通して語りあっていた。
帝国の後継者の選別,そう遠く無い日に訪れるであろう未来の話だった。
「……ツェツァーリエが生きておる頃は新しき世継ぎに期待もした」
「陛下,しかし……………」
ヴァルグベルグ子爵の言葉が空気に溶けていく。
「左様。しかし、あれは余とルイーゼを遺して逝ってしもうた」
骨ばった指先が赤い薔薇にそっと触れた。肉厚の花弁が老人の指先を受け入れ、慰めるように震えた。
その震えは、まるで疲れ切った指にぬるい慰藉を流し込むかのようで、静かなフェルナントの胸懐に、ほのかな哀憐を残した。
「ルードヴィヒ如きでは我が国を導く大任には相応しく無かろう,ザミエル侯アルフレートはそう思っておらんようだがの」
薔薇を見ながらも過去の追憶に思いを馳せていた皇帝はポツリと吐き捨てた。
「陛下……」
侍従武官が皇帝の言葉の意味を理解し、力無く呟く。
皇帝は剪定鋏を手に取り、薔薇にあてがった。
どうやら話は終わりのようだった。
「……では失礼致します」
「うむ」
退出するエーデルシュタイン侯爵を一瞥した皇帝は黙々と薔薇の手入れを続けた。
澄み渡った青空には薄っすらと溶け残った月が浮かぶ。
薔薇園の静寂は、老いた皇帝の影をひときわ長く伸ばしていた。
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同時刻 南苑の某所
「エレオノーレ,卿はどうやら、純血主義者ではない。そして、それを多くの人々に誤解させたままどちらつかずの立場を維持している。そうだな?」
どの派閥にも属さずたとえ同格の者であろうと、自分に仇なすような愚か者には躊躇せず制裁を加える。
そうしても問題ないだけのコネと権勢を有し、反撃を完璧に封じるほどに人の弱点を見つけるのが上手い。
本質的には、彼女は誰の味方でもない。
それが彼女――エレオノーレ エリザベート フォン ハイドリヒの恐ろしさだ。
「……純血と平民がより正確な意味で等しく権利と義務を持つようになれば良いと、そう考えております。殿下」
エレオノーレは純血主義者ではない。
貴族主義者は純血の価値を疑わない。純血貴族の,自らの家系を存続させることは大義であると考え、貴族どうしの婚姻が最も尊い契約であると信じている。
それはもはや純血というステータスへの愛であり、妄執である。
しかし、もはや純血は貴種であって貴族ではない。
かつての世界において貴族はそれだけで価値ある存在であった。
しかし,国家が中世という服を脱ぎ捨てた時に,貴族はその権利を,価値を喪失したのだ。
貴族という立場は富を生まない。
現に,赤暗色の改革の後,特権という翼を失い、名に実を伴わぬ一門は次々と失墜し零落の道を歩んだ。
貴族であることによって生じる権利など公的には既に存在しないし、多くの貴族家の主張に反して高貴なる者がなさねばならないことなど法には何も定められていない。
そして、新たなる時代の波が持ち込む近代的で啓蒙的な価値観が蔓延するにつれて、富を生まないステータスはみるみるうちに軽視されていく。
ましてや、それが実利を含まず,伝統にのみ裏打ちされた保守的なステータスであればなおさらのことだ。
現に今の帝国貴族達は爵位では無く、その実力で権勢を維持している。
かつての貴族は歴史ある名家へと成り下がり,爵位はその権利も,義務も,誇りも,覚悟も,おおよそ貴族たる者の精髄を失い,歴史の遺物に成り下がろうとしつつある。
エレオノーレは貴族主義を、純血を愛したことなど一度もない。
親しい者達が幸せに生きていくために、家を保つ為に最も使いやすいステータスが純血だった。ただ、それだけのことだ。
「とても……そう、興味深い。前ハイドリヒ侯爵家当主マテウスは卿を後継者に選んだ。卿は夢を見ている,天秤がいつまでも均衡を保ち続ける、そんな夢を」
「殿下はどうお考えなのですか?」
「私か? そうだな……」
給仕が昼食のデザートであるチョコレートアイスクリームをよそったグラスを卓上に並べる。
ルイーゼは考えるように顎に手を当てた。
「私は貴種を再び貴族にしたいのだ。
歴史と伝統を背負い,自らが働かず土地や利権から富を得る上流階級、単なる貴種ではない。
真の貴き存在、目指すべきものにしたいのだ。
そして、その先には優秀な平民生まれや半純血,下級貴族を貴族が囲い込む秩序が待っている」
「…畏れながら殿下,徐々に平民が台頭し,知恵を学び,力を持ち,理性を得て貴族と平民生まれが共に生きていく社会はもはや必然的になる一方で、そんな日が訪れることに対して,決して訪れて欲しくないと思う自らも御座います。
しかしながら優越は増長を,増長は分断を,分断は差別を生みます」
「貴族と平民生まれ、どちらかが突出した社会は望ましくないと?」
「その通りでございます,殿下」
エレオノーレ エリザベート フォン ハイドリヒ侯爵
全ての陣営が帝冠を掌握する上で誰よりも陥落させたいと願う人物。
ハイドリヒ侯爵家は代々帝国の闇に潜む一門であり、その立場と権限は帝位争いには欠かせぬ物だ。
そして、もしかするとその立場は、統一帝国の複雑な立場,そして緩やかに,そして確実に終焉を迎えていく貴族制と台頭する平民を誰よりも直視させられる存在だったからなのかもしれない。
調和。決して融和ではない。
エレオノーレは自らの純血の誇り高き貴族というステータスを捨てたいわけではない。
しかし、純血至上主義の台頭は望んでいない。
かといって、平民生まれに対して積極的に融和的な立場を取るわけでもない。
だが,少なくともかつての絶対王政や旧秩序へ強制的に戻ろうとする考え方は、市民革命と産業革命により台頭した市民階級の要求と乖離していた。
「卿は夢を見ているのだな。天秤がいつまでも均衡を保ち続ける、そんな夢を」
しかしそれには一つ難点が存在する。
少々悪意的な見方になるが,民衆の正義とは、富豪や、資産家や、貴族や、その他の幸福なものに対して、利己的な嫉妬を感ずることである。
そして民衆には数の力がある。動機がある。
社会の規範とは少数者によっては成立しえない。
貴族社会は個々による勝ちを選んだ瞬間に緩やかな衰退への道を辿りはじめる。
市民による市民の為の新たなる社会に呑み込まれ,歴史の彼方へと消えてゆく。
要するに,優雅なる没落という事だ。
アイスは陽光を浴び,静かに確実に溶けてゆく。
「もはや天秤が貴族に傾く事は無く,仮に傾く事があるとしてもその対価を帝国の未来で贖う事になると思ったのです、殿下。
そして殿下は、それを壊そうとしていらっしゃる。
いえ,違いますね。
殿下は新しい天秤を立てようとしていらっしゃるのですか」
ルイーゼはこともなげに言い放つ。
「半純血や平民生まれの締め出さず,優秀な平民生まれや下級貴族,混血のパトロン,あるいは主人として貴族たる純血が君臨する、純血派閥による貴族の貴族による帝国の為の秩序を作ろうと思うのだ。
私は決めたのだ。私が貴族中心の秩序を復古させてやろうとな」
『文明的』な政治運動の文化が統一帝国に根付いていれば、そういった経験が平民達にとっての発散の場となりえたかもしれない。
しかし,夥しい血を流し,悲劇と過ちに彩られた革命により生まれ,育まれたフランソワでさえ市民が市民自身を統御し、社会が社会自身を統御する事が出来て無い。
革命を経験したことのない統一帝国は、こと政治において言えば、市民としての帝国臣民はあまりにも無垢で、未熟で、幼い自分の意見を主張するやり方というものを知らない。
そして統一帝国には身内で争う事など許されない。
周辺を列強に囲まれており、その成立上多くの係争地を持ち、それら全てを仮想敵としている帝国が割れる時,それは統一帝国という民族国家の崩壊を齎すのだから。
「殿下は……貴方様は、本当に面白い方だ。
純血の者共を,貴族社会を蘇らせると? 社会の中心を再び貴族にしてみせると?」
「ああ、そのとおり」
「茨の道でございます」
「無論,承知の上だ」
「例え築き上げたとしても貴族制度はやがて革命によって焼かれるでしょう。
100年ともたぬ事でしょう」
「エレオノーレ,果たして、100年もった政体がどれだけあった。
私は千年帝国を築きたいわけではない。
その100年の間に貴族が平民生まれ達にとって尊敬できる先達になれれば、それで十分ではないか」
「我らは認めざるを得ない。
かつての祖先が神より簒奪せしめた主権は我らの手中を離れつつある。
今や主権を握る者は王ではなく、貴族でも無い。
主権を握る者は市民だ。
だが,その市民は政治に対する正しい怒り方を知らないまま規模を拡大しつつある。
誰も自分自身の手綱の握り方を知らないまま」
今までに見たことのない深刻な表情でルイーゼは要点を告げた。
「つまり,貴族と農奴の間には身分・能力・経済力に絶対的な差があったため、互いに『それ相応に、自制心を持って』向き合った。
しかしデモクラシーでは、全員が平等であり、そこに『自制』はない。
そして人類は今に至るまであらゆる形の政体、 王政、貴族政、立憲君主制,共和政果ては共産主義政体まで考え出し実行もしてきたが、 統治する者と統治される者の二分離の解消にはついに成功しなかった。
となれば、政体が何であるかには関係なく、 本質的に統治者と被統治者の二分離は存続するということである。
存続せざるをえないのが現実である以上、 被統治者は統治者に次の三条件を求めるものだと私は思う」
「それは何で御座いましょうか,殿下」
「統治するうえでの、正当性と権威と力量である」
そして貴族とは権威だ。
そして、純血貴族とはすなわち、世代を超えて長い年月を己が土地とともに過ごした権威なのだ。
帝国の陰影を,輪郭を理解し、歴史を紡ぎ,導いて行くのは、代々帝国に仕える者でなくてはならない。
そしてルイーゼは話の本題へと舵を切った。
「ところでエレオノーレに一つ問いたい事がある。帝国,其は勝利である,それを聞かずに育った帝国人はいないだろう」
「その通りで御座いましょう,殿下」
「それ程までに我らは勝ち続けた。しかしそれが何を産むのか」
エレオノーレは苦々しく答えた。
「周辺国からの潜在的脅威と恐怖,…………そしてあらゆる諍いに対し,戦争を望む民と,それを支える揺るがぬ勝利への信仰で御座います」
新興国家にもかかわらず技術・経済・軍事、どれをとっても周辺列強諸国より頭一つか二つ飛び抜けており世界の大国の一角である。
これこそ先人の努力の結果であり帝国を縛る呪いであった。
つまるところ、帝国は“中途半端”に強かったのだ。
合州国ほど遠く,かつその力が隔絶しているのであれば諦めもついた。
共和国程度の実力であれば周辺諸国も警戒せず、欧州のバランスが失われることもなかったであろう。
しかし、帝国は強かった。強かったが囲んで殴ればなんとかなる程度でしかなかった。
――帝国は一度も戦争に負けたことがない――これは揺るがぬ事実であった。
かつて帝国は二正面作戦を見事に成功させたが、それは巧みな外交戦略により徹底して相手を不利な状況に置き,かつ一対一の戦争によって得られたものである。
しかし、帝国は周辺諸国を相手に勝ちすぎた。
民族国家を成立させる為に奪った領土とそれを支える経済を凄まじい勢いで拡充し列強まで上り詰めた帝国は、周辺諸国の恨みを盛大に買ってしまっていた。
統一帝国はその立地条件敵を阻む要害に乏しく常に外圧に晒される宿命にある。
故に帝国は二重帝国に積極介入を進め,更に二正面作戦の呪縛を解こうとしていた。
しかしそれは帝国の勝利と同義である。
フランソワもアルビオンもそれを許すはずがなかった。
西方要塞線を築き,軍縮条約を締結してなお共和国とルーシー連邦からの圧力は依然としてあり続けた,いやますますその外圧は高まりつつある。
それに対して、帝国は外交で包囲網を崩すだけでなく、内線戦略による多正面作戦の完遂へと舵を切ってしまう。
帝国は常に全面戦争に巻き込まれるか,それとも戦争を避けるかの二択を迫られている。
すなわち、次の戦争が始まった時点で帝国の敗北は喉元にまで迫りかねない死活問題であったのだ。
「ではまた一つ問いたい事がある。
エレオノーレ,卿は列強国とは何と思う?」
「…………産業革命を終え,膨大な工業力とそれに支えられた強国では無いのでしょうか?」
「いや,違う。
国を愛し,土地を愛し,そこに住まう同胞を愛する国民。
つまり民族国家への忠誠と服従を持ち,民族的自我を持つ国民に支えられた国家。
要するに列強,それすなわち近代的軍備を持ち国家『総力戦』が可能な国家である」
そして本質的に,群衆とは理性を解し得ぬ獣である。
「ッ! まさか」
「あぁ,帝国は敗北を認めない。
もし帝国の敗北が決まるその時、帝国は勝利の為,敵対者に夥しい同胞の屍と戦費と憎しみを与えているだろう。
帝国にはそれを成しうるだけの力が有る。
そして帝国の崩壊した時に抑圧されていた帝国への恐れ,憎悪は開放される。
多大な犠牲を支払った主権者が為政者に何を求めると思う?
私は帝国という悪夢の抹殺を要求すると思う。
すなわち、帝国は敗北を迎えるその時,文化も誇りもその全てを奪われ,否定され歴史の遺物となる」
さっさと負けてしまえば、帝国が滅ぶことは無いだろう。
相手が溜飲を下げ、恨みや憎しみを抱きながらも存続できたかもしれない。
しかし、帝国は大真面目に戦争をしてしまえる。
中途半端に強かったがために国内世論は負けることを認めなかった。建国以来敗北を経験していないというのも大きかっただろう。
悲しいことに、軍人達も同じような思いであったという。殴りかかってきた分からず屋に泥の味を教え込む以外に、帝国は紛争解決手段を知らなかった。
結果、帝国を相手に戦った国々は無視できない人的及び経済的損失を被り、それを補填するため帝国の解体を是としてしまう。
いや,せざるを得ない。
故にもし仮に再び欧州が,そして帝国が戦禍に包まれる時,それは帝国存亡の危機になり得るだろう。
銀灰の瞳と、澄んだ青の瞳が、互いの内側を測るように向かい合った。
「話はわかりました。興味深いとも思います。
少なくとも帝国の未来について主張を展開した者の中では限りなく現実を見ているでしょう。
貴族が国を支え導かなければならないという考えをお持ちである事もその理由も十分に把握いたしました。
しかし、致命的な問題があると私は思います」
「なんだ?」
「殿下の仰る改革は必ず反発を生みます。
力を付けつつある平民生まれやその擁護派、平民融和派,あるいは調和派は殿下のような貴族擁護派の台頭することを警戒し,快く思わないでしょう。……つまり」
紅茶を一口飲み,喉を潤すとエレオノーレはティーカップを置き、チョコレートアイスを口に含んでいる皇太女を正面から見下ろした。
「時遅くその改革の半ばで欧州を焼き尽くすほどの大戦争が生じ,手遅れになるやもしれません。
或いはその改革の半ばで改革が失敗するやもしれません。
果たして殿下はどうされるのです?」
瞳が静かに問うていた。
大戦争が起きれば,帝国は亡国の道を歩む事となる。
改革に失敗すれば,貴族の居場所はなくなり勝利を信奉する帝国はいずれ破滅する。
ルイーゼは笑顔で答えた。
「わからん!」
「……ほう?」
「いい答えが見つからん。
理想的な着地点をどうにかして見つけねばならんのだがな」
「なるほど」
「そういうわけなので、とりあえずそれを考えられそうな奴を呼んでみたのだ」
エレオノーレはぽかんとして、目を瞬かせた。
改革はひとりで成し遂げるものではないし、表から正しい主張を唱え,愚直に正しく訴え続ければ成し遂げれるほど簡単で単純なものでも無い。
ルイーゼはエレオノーレに笑いかけた。
「エレオノーレ。卿には帝冠を掴み取る事に協力して欲しい。
貴種が貴族らしく生き、そして帝国の民が健全に成長できる次世代の國を。
私が目指す改革を、卿の手で支えてはくれないだろうか」
ルイーゼはエレオノーレに改革を認めさせようと思っているのではない。
本質的には帝冠を掴み取る事に協力させたい訳でも無い。
エレオノーレに改革を共に進める同志になってもらいたいと思っているのだ。
ややあって、エレオノーレが小さく呟いた。
「……夢見たことがなかったわけではございません。
アルビオンのように先進的で現代的な貴族の貴族による帝国の為の政体をこの帝国に取り入れることを」
「その夢を果たすのは、今しかないと思っている」
「今、で御座いますか」
エレオノーレは目を閉じ、静かに息を吐いた。
支える奉仕者として、帝国と共に歴史を刻む貴族達はその高責さを発揮する必要がある。
その為にも新時代の貴族は平民生まれから,新たな隣人から利益を得る賢さと知見、したたかさをより『深く』会得しなくてはならない。
もはや国が貴種と平民によって成り立つ時代は終わりを迎える。これからは国民が国を支えるのだ。
ミネルヴァが誰に微笑むのかは分からない,しかし確かに新たなる秩序がその萌芽を見せつつあった。
積み上がった雪を溶かすに十分なだけの熱を齎す者。ようやく太陽が動き始める。
新たなる黎明は
近い。
この話だけほぼ書き終えていたので投稿します。
追記
エレオノーレの立場
彼女はこう考えています。
もはや「純血=貴族=支配者」という時代は終わった
近代化と啓蒙によって、平民は知識と力と理性を獲得する
その結果、
貴族だけが上
平民だけが上
という社会は必ず歪み、
「優越 → 増長 → 分断 → 差別 → 内部崩壊」へ進む
だから必要なのは
どちらも突出しない“天秤の均衡”
彼女の言う「調和」とは、
身分を消すこと(革命)ではなく
しかし身分で固定すること(復古)でもない
力と責任が拮抗した緊張状態の維持
つまり
永遠に不安定だが、だからこそ崩れない均衡秩序
です。
② ルイーゼの立場
一方ルイーゼは、エレオノーレの理想を
天秤が永遠に釣り合う夢
と断じます。彼女の思想ははっきりしています。
均衡は必ず崩れる
ならば最初から「支配する側」を固定すべき
その支配者にふさわしいのは
歴史
土地
血統
帝国運営の記憶
を世代を超えて蓄積した純血貴族である
ただし彼女は旧来の閉ざされた貴族制を復活させたいわけではありません。
彼女の構想は
純血貴族:支配階級(頂点)
優秀な平民・混血・下級貴族:貴族に取り立てられ、保護され、しかし従属するエリート層
その他の平民:被治者
つまり、
開かれているようで、頂点だけは閉ざされた身分制国家です。
能力は評価するが、支配権は血統が独占します。
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2人は戦争が起こった場合に全面戦争しかないと考えていますが,この時代の制限戦争はあくまで(植民地争奪戦争等の)代理戦争で起こすものという認識があるからです。
仮に列強同士が欧州で争う事になると,どの国も総動員令を前提とした軍事行動を開始します。
故に開戦してしまうと,皇帝ですら戦争を止めれなくなります。