田中葵の幻想入り   作:宮間太郎(ITARIA-DOITU)

1 / 2
序章:日常の終わり

田中 葵は、ごく普通の高校一年生だった。成績は中の上、運動は苦手だが、美術の授業だけは誰にも負けないくらい好きだった。彼女の日常は、登校して、授業を受け、放課後はキャンバスに向かう、という静かで穏やかなものだった。

 

その日も、いつもと変わらない放課後。葵は自宅の古い木造アパートで、一人、水彩絵の具のパレットを洗っていた。窓の外は、梅雨の晴れ間に現れた夕焼けが、鮮やかな緋色と橙色に空を染めている。

 

「綺麗な色……」

 

ふと、机の上のスケッチブックに目を落とす。そこには、先日描いた、近所の神社の大きな欅(けやき)の木の絵があった。樹齢数百年と言われるその木は、まるで空を掴もうとするかのように枝を広げ、葵にとっては何よりも荘厳な風景だった。

 

絵を眺めていると、なぜかその欅の木が描かれたページだけが、周囲の空気を吸い込むように薄暗く見えた。そして、絵の具の皿を洗い終え、顔を上げた瞬間、部屋の壁全体が、先ほどの夕焼けと同じ、いや、それ以上に禍々しい真紅の光に包まれた。

 

「え、なにこれ……停電?」

 

蛍光灯が点滅を繰り返し、やがて完全に消えた。部屋は真っ暗になり、唯一の光源は窓の外の――そして、スケッチブックの絵から滲み出すような――真紅の光だけ。

 

その光の中、葵の目の前に、光の粒が集まって形を成したような扉が現れた。それは、古い神社の拝殿にあるような、黒く、荘厳な観音開きの扉だった。扉には、見たこともない複雑な模様が刻まれており、中央には、先の欅の木と同じ、太い幹と枝のレリーフが彫られていた。

 

恐怖で声も出ない葵。しかし、その扉からわずかに漏れ聞こえてくる音に、彼女は引きつけられた。それは、風鈴のような、水琴窟のような、澄んでいて、どこか懐かしい不思議な音色だった。

 

「どこ、これ……」

 

好奇心と、この非日常から逃れたいという漠然とした衝動に駆られ、葵は震える手でその扉に触れた。木ではなく、まるで液体の膜を触ったかのような、ひんやりとした感覚。

 

次の瞬間、扉は音もなく開き、真紅の光は一気に強烈な白光へと変わった。葵は目を閉じ、抵抗する間もなく、その光の中へと吸い込まれていった。

 

第一章:霧の里と博麗の巫女

どれほどの時間が経っただろうか。葵が次に目を開けた時、彼女は柔らかい草の上に横たわっていた。

 

「……いたたた……」

 

体を起こすと、目の前に広がる光景に息を飲んだ。

 

そこは、彼女が知る世界ではなかった。空は高く、澄んだ青色。周りには、見たこともない、太古の森のような巨大な木々が生い茂り、濃い霧がその足元を覆っている。空気はひんやりとして、まるで山奥の湧き水のように澄んでいる。

 

そして何より、遠くに見える家々や、空を飛ぶ影、すべてが非現実的だった。

 

「ここはどこ……夢?」

 

混乱していると、足元から「よう、珍しい客だね」という声が聞こえた。

 

見下ろすと、そこにいたのは、黒と白のフリルがついた服を着て、大きな蝶々結びのリボンをつけた、一人の少女だった。いや、少女にしてはどこか大人びた雰囲気を持ち、その瞳には、退屈そうな、しかし全てを見透かしているような光が宿っていた。

 

その少女は、宙に浮かぶお札を指で弄びながら、ため息交じりに言った。

 

「また、外の世界の人間か。ご苦労なこった」

 

葵は恐る恐る尋ねた。

 

「あの……あなたは、誰ですか? そして、ここは……」

 

少女は、面倒くさそうに頭の後ろで手を組み、答えた。

 

「私は博麗 霊夢。見ての通り、ここの巫女よ。そして、ここはお前が住んでいた世界とは違う、幻想郷(げんそうきょう)っていう場所。結界の薄いところに迷い込んできたみたいね。ラッキーなのか、アンラッキーなのか」

 

「幻想郷……?」

 

霊夢は、ふと葵の手に握られているものに目を留めた。それは、彼女の愛用していた、例のスケッチブックだった。

 

「ふぅん、絵描きか。ま、とりあえず、いつまでも境内にいても面倒事しか起きないから、私のとこに来な。永住(ながいき)したいなら、外の世界のルールは全部忘れることね」

 

霊夢はそう言い残すと、ひらりと空中に浮かび上がり、霧の奥へと飛んで行った。

 

呆然と立ち尽くす葵の耳には、風に乗って、先ほど扉から聞こえてきたような、あの不思議な音色が、再び微かに響いていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。