博麗霊夢に連れられて、葵は山を下った。博麗神社は、想像以上に質素で、訪れる者もいない寂しい場所だった。霊夢は、「私は仕事に戻るから、人里で大人しくしてな」とだけ言い残し、すぐに空を飛んでどこかへ行ってしまった。
残された葵は、言われた通り、鬱蒼とした森を抜けて人里を目指した。道中、空を高速で飛び去る魔女のような人物や、小さな光を纏って漂う不可思議な生き物を見かけたが、彼女たちはこちらに興味を示す様子もなく、葵はただ、足早に道を進んだ。
やがて、霧が晴れ、視界が開けた先に、石畳の道と、茅葺き屋根の家々が見えてきた。そこが幻想郷の人里だった。
見た目は日本の古い宿場町のような風景だが、活気が段違いだ。道行く人々は皆、笑顔で挨拶を交わし、子供たちが元気よく遊び回っている。しかし、よく見ると、人間の他にも、獣耳や尻尾を持つ者、奇妙な帽子を被った者、さらには手のひらサイズの小さな生き物までが、当たり前のように混じって生活している。
「すごい……本当に、こんな世界があるんだ」
好奇心と緊張で胸が高鳴る。
ちょうど昼時だったのだろう。辺りには、醤油の焼ける香ばしい匂いや、出汁の効いたうどんの匂いが漂っている。腹の虫が鳴いたことに気づき、葵は思わず顔を赤らめた。
彼女は、人の賑わいの中心にある、大きな暖簾のかかった店に引き寄せられた。暖簾には「鯢呑亭(げいどんてい)」と書かれている。
店に入ると、活発な声が響いていた。
「へい! いらっしゃい! 今日は里芋と鶏肉の煮っ転がしが美味いよ!」
店を切り盛りしていたのは、三つ編みのおさげ髪で、常に忙しそうに動き回っている、明るい笑顔の女性だった。
葵は恐る恐る、一番奥の席に座り、小さな声で「あの、煮っ転がしを……」と注文した。
料理を待っている間、葵は周囲を観察した。隣の席では、鴉のような羽を持つ女性と、長い耳をした少女が、楽しそうに酒を酌み交わしている。彼らが話す内容は、外の世界で聞くニュースやゴシップとは全く違い、**「最近の異変」や「妖怪の山の天狗のこと」**など、驚くべきものばかりだった。
やがて、湯気を立てる煮っ転がしが運ばれてきた。出汁の効いた優しい味に、葵は涙が出そうになった。
「美味しい……」
その時、調理場から出てきた店主が、客の様子を見ながら、葵の席の前に立ち止まった。
「あんた、見ない顔だね。どこか遠い所から来たのかい?」
葵は少し言葉に詰まったが、正直に答えることにした。
「はい……私は、外の世界から、迷い込んできました。田中葵、といいます」
店主は驚く様子もなく、「ふうん、やっぱりね」と頷いた。
「私は飯綱丸 景虎っていうんだ。里の外れの酒屋だけど、まぁ気にしなさんな。ここじゃ、外の人間が迷い込むなんて、数年に一度のちょっとした出来事さ」
景虎は、そう言って笑った。その笑顔は暖かく、葵は少しだけ緊張が解けた。
「しかし、お嬢ちゃん、手ぶらみたいだけど、お金は持ってるのかい? 人里では、一応、物々交換の他にお金も使うんだよ」
葵は慌ててポケットを探ったが、あるのは外の世界の紙幣数枚と、携帯電話、そしてスケッチブックだけ。携帯電話は当然、圏外だった。
「ごめんなさい……外の世界のお金しか……」
景虎はそれを見て、困ったように笑いながら、優しく言った。
「まぁ、いいさ。あんたの絵描き道具、持ってんだろ? それで、一つ里の風景を描いておくれよ。それが今日のご飯代わりってことでどうだ?」
葵は、自分の特技がこんな形で役に立つとは思わず、心から安堵し、深くお辞儀をした。
「はい! ありがとうございます! 精一杯描きます!」
こうして、田中葵は幻想郷で初めての居場所と、自分の役割を見つけることができた。彼女のスケッチブックには、この賑やかで、どこか懐かしい人里の風景が、鮮やかな色で刻まれていくこととなる。