死がふたりを分かつまで 作:自棄ノ原
シリーズ「夜のオルクセン王国史」完結編。
ディネルースは思い出す。
数週間前、エルフィンドの無条件降伏が決まり、彼女が戦線から総軍司令部に呼び返された時のことだ。
軍使によれば、降伏文書への調印式に出席せよということだった。アンファングリア旅団長としてではなく、闇エルフの種族代表としての仕事だ。
その打ち合わせを終えて、他の種族代表と参謀たちが退出し、ふたりきりになった執務室で、グスタフは静かに口を開いた。
珍しく前置きのない、唐突な宣告だった。
君は――と、グスタフは選択肢を提示した。
「これからどうする? 何処へ行くのも、何をするのも君の自由だ」
ディネルースは言葉を失った。
エルフィンドは降伏した。闇エルフの復讐は終わり、故郷を奪還できた。アンファングリア旅団もその役目を果たした。
だから、もうお前に用はない。お前も私に用はないだろう。さっさと生まれ故郷に帰って、村を再建するなりして、勝手に暮らせ。お前はそうしたいのだろう、私は止めない――と、あたかも、そのように聞こえる言葉だった。
用済みになった女に別れ話を切り出すような。
「……っ!」
ディネルースは眉を逆立て、彼女の牡を睨みつけた。息がうまくできない。言葉もでてこない。いっそ、ここで死んでやろうか――とまで思いかけたところで、別れ話にしては、グスタフの様子がおかしいことに気づいた。
少し目を伏せ、ただし背は真っすぐに、この上なく真摯な顔をしている。
すぐに本意がわかった。
彼女を尊重し、選択肢を示しているつもりなのだ。この牡は。圧倒的に優位な立場にある、自分の望みは押し殺して。
ということは、彼自身の思いは、態度の対極にあるに違いない。
――これで外交は上手だと聞くが、本当か? その類の才能はぜんぶ、そっちで使い切ってるんじゃないだろうな。
とことん真摯なくせに、その示し方が実に下手な牡なのだ。敢えて技巧を用いずに、気遣いがないように振る舞って、それで誠実なつもりなのに違いない。
――全く、この馬鹿め。人の気持ちも知らないで……いや、知っていればこそか。
腹いせにぶん殴って、少しは目を覚ましてやろうかと思ったが、今は勘弁してやることにした。歴史的な降伏式典まで数日しかないからだ。女に殴られた痣つきの顔写真で、歴史書に載りたくはあるまい。
自分は、ほとほと甘い女だと思いながら、殴るかわりに拗ねてやることにした。
「そうだな……国王陛下の、愛人のひとりにでもなろうかと思う。まずは、それを望むかどうかも貴方の自由だが」
「そうか」
グスタフは少し照れた様子で、腕を広げた。
ディネルースは直ちに牡の腕の中へ飛び込んだ。
牡は彼女を抱きしめて、背中を撫でたが、いつものように彼女を求める様子はなかった。久々の再会だというのに。
その手つきだけで、彼女は牡の遠慮と、躊躇いと、悲しみさえ感じることができた。
「……どうした。もう新しい愛人でも見つけているのか? それとも私には飽いているのか? もしそうなら遠慮はいらない、正直に話すといい」
ごく僅かな不安を抱きながら彼女は尋ねた。
「そうじゃない、そうじゃないんだ。私にとって君は、無二の存在だ」
珍しくはっきりそう言うと、牡は少しずつ話し始めた。
「聞いてくれ、ディネルース。これからのエルフィンドのことだ。降伏を受け入れた後の」
「オルクセンに併合するのだろう? そのために白エルフの誇りや、多種族を見下す教義を破壊するんだと」
「ああ、そうだ。しかし、叩くだけでは駄目だ。エルフの社会構造を作り変えないと、文化は変わらない――」
「そしてオルクセンに溶け込ませなければ――」
「オルクセンの側も、変わらなきゃいけない。ロザリンドの恨みは終わったんだと、そう思い切らなければ――」
「しかし、白エルフはオークに次ぐ第二勢力になる。それでは闇エルフ族の不満が――」
国王から将軍への説明は、ずいぶん詳細だった。長い長い前置きを終えて、牡はやっと告げた。
「そして、そのためには、象徴となる事実が必要だ。人間族の歴史では珍しいことじゃない。二つの国、二つの民族が和解して、やがて一つになるために。色々な国に先例があるし、その効果は確かだ。エルフィンドとオルクセンにも当てはまると思う」
そこで言葉を切り、そして告げた。
「だから、だから……私は君を妃に迎えたいんだ」
そう言われるのではと、途中から予感はしていた。しかし、そんなことはあるまいと、心中で否定していた。
そんなはずはない。彼はオーク。自分は闇エルフ。亡命を認められ、重臣として遇されているだけでも望外の扱いだ。
深い仲になってからも、王に仕える愛妾としてではなく、ただの恋愛相手のように扱ってくれた。旅団長としての仕事を取り上げられることはなく、特別扱いもせずにいてくれた。だから周りの将軍たちからも、ディネルースは己の能力と人格だけで評価されることができた。
それで十分以上だと、彼女は心から満足していた。やがてグスタフがオークの妃を娶れば、その時は仕方がない。潔く身を引くなり、妃が納得するなら密かな愛妾に収まるなり、なるようになる。それに耐えられるかは別として。
でも、もしもグスタフが他の誰とも結婚せずに、ずっと今のまま、自分だけを見ていてくれたなら――というのが、彼女の最大の願いだった。
しかし彼女の牡は、それ以上の扱いをしたいという。
「正気なのか? 信じられない……」
ほとんど王の知性を疑うような口ぶりで言ってしまった。
しかし、次第に思い直した。確かに政治的には、あらゆる難題を一手で解決する妙手だった。
そしてグスタフのことを最も理解してあげられる女は自分だという、この戦争の間にますます固くなった自負もまた「それでいいじゃないか」と言っている。
アンファングリア旅団を迎え、見守ってくれた衛戍地近在のオークたちを思い出す。白銀計画を提示した将軍会議で、ディネルースを認めてくれたツィーテンやゼーベックのことも。
他の国民たちだって、ディネルースが妃になると聞けば、驚きはするだろうが、受け入れてくれるに違いない。祝福もしてくれるだろう。そう信じられるだけ、彼女自身もまた、既にオルクセンの国民になっている。
だから直ちに納得し、返すべき答えは決まっていた。しかし、しかし、である。彼女はまた当然の権利を行使し、拗ねた答えを返すことにした。
「酷い求婚もあったものだ。もう少し、こう……甘く夢でも囁くようにできなかったのか。おそらくだが、貴方。生涯にわたって私にその点を詰られ続け、ことあるごとに持ち出され、尻に敷かれ続けることになるぞ」
そんな私でよければ、生涯一緒に過ごそうという、彼女の声は確かに彼に届いた。グスタフはくすくすと笑い出している。
「それは構わない。それが私の望み、私にとっての幸せ、私の求めるものだ」
そして口づけが来るかと思えば、グスタフはまた何かを堪えるような表情に戻った。
「だがどうか、返事はこのあとにしてほしい。ここからが、本題なのだ。いったいこれがどれほど大それ、傲慢で、君に迷惑ばかりをかけることになる望みなのか。そして私が何故この戦争を欲したのか。これから何をしようとしているのか―――」
そして、また長い話が始まった。グスタフの癖なのである。こうであるからして。そのように考えると。歴史的にみても。そうだとするならば。長々と前置きし、大事な結論は最後に。
「そして、恐らく。これはあくまで恐らくだが……私の寿命は、オーク族の者としてはとても短いものになる。魔種族の、特にエルフの時間感覚からすれば、私は君を置いて、すぐに死んでしまう」
「……え?」
あの魔術のせいだ――と、グスタフは言った。天候を操作するという、神話にも出てこないほどの大魔術。グスタフだけが使える超常の力に、代償がないはずがない。
あの術を使う度、歩けなくなるほどに体力を消耗する。体力が戻っても、より根源的な力、魔力とも生命力ともいうべき何かが、自分から目減りしたのを感じる。
休んでも、エルクシエルでも、それは決して回復しない。溶けた蝋燭が再び伸びることがないように。あの魔術は恐らく、限りある命を燃やしているのだ。
「直ちに死ぬわけじゃないが、たぶん、まだ人間の一生分くらいの命はあると思う」
五十年か、百年か。人間の夫婦なら一生だが、しかしエルフの寿命は数千年もある。それに比べれば、ディネルースの生涯の中の、ほんの僅かな部分しか、結婚生活は続かないということだ。そして彼女は独りきりで残される。
「そんなっ――」
ディネルースは激昂した。思わずグスタフを叩きそうになるが、何とか怒鳴りつけるだけで抑えた。
「そんなものを、分かってて使ったのか! 私たちを助けるために」
ディネルースが一万二千の同胞をエルフィンドから救出した時のことである。あとはシルヴァン川を越えるだけという時、雨が降り、渡河を妨げていた。グスタフが魔術で雨を止めてくれたおかげで、ディネルースは仲間と共に生還できた。
「私たちの時だけじゃない。あの演習の時もそうだったな。溺れた兵士、たった一頭を助けるために、貴方は自分の命を……?」
増水した川に転落したが、雨が上がったおかげで何とか助け出されたコボルトの一等兵がいた。彼はその後、この戦争でパイロットとして活躍し、先ごろ戦死したという。
「……何てことを。貴方は何てことを。どうしてそこまでするんだ。命を粗末にして!」
「粗末になんてしていない」
「してるじゃないか! 何度も!」
「その価値があると思ったんだ。私は君と違って臆病者だ。自分の命は大切に……大切に、使ってきたつもりだよ」
グスタフの言葉には一切の迷いがなかった。
その澄明な表情を、彼女は今ほど憎らしいと思ったことはなく、また今ほど愛おしいと思ったことはなかった。
自分が好きになったのは、まさにこの男なのだと、そう観念する他になかった。
怨むべき男は続けた。
「だから、ね。君と一緒になりたいが、ずっと一緒にいてあげることはできないんだ。そう知っているくせに、君を好きになった。妻に迎えたいとまで思っている。無責任にも……」
「私を馬鹿にするなっ!」
怒鳴りつけて、ディネルースは自分から唇を重ねた。牡の唇を割り、侵入し、舌を絡め、執拗に貪る。
やがて離れると、牡の目を見据えて宣告した。
「結婚するぞ」
「……いいのかい。本当に」
「当たり前だ! 一分一秒だって惜しい。結婚する。今すぐ結婚する! 一体どうすればいいんだ!?」
戦機は今だ、突撃だと言わんばかりに迫る女に、グスタフの方がたじろいだ。
「いや、今すぐというわけには……」
「直ちに、遅滞なく、可能な限り早く! 貴方の妃になる。貴方のことだ。色々と案は用意してあるんだろう。場所は!?」
「エ、エレントリ館で……」
「なるほどな。教義信仰の中心地でか。効果的だ」
敵の中枢に一撃。妥当な選択であろう。
「日取りは!?」
「できれば……半年以内に」
「遅すぎる。二ヶ月でやろう」
悠長な参謀を急き立てるようにディネルースは言った。グスタフはオロオロとしている。
「待ってくれ。準備に、段取りに、諸外国への招待も必要だ。衣装だって作らないと。出席者は何百名もになる。千を超えるかも」
「八千名の旅団を新編するのと、どっちが大変だ。私は二ヶ月でやったぞ」
「なるほどな」
グスタフはようやく笑顔になった。アンファングリアの大急ぎで新編しろと、それを命じたのは彼で、実現したのはディネルースであった。
「それは道理だ。我が国の強みは段取りがいいことだ。八十万の軍を動かせるんだからな」
「全くだ。自慢の参謀本部は何のためにある?」
「結婚式のためでないことは確かだが」
「ふん」
常勝将軍にして闇エルフ種族代表、そしてオルクセン国民でもある女は、誇らかに王に教えた。
「我が王よ、オルクセン王国が何と呼ばれているか知ってるか? 軍隊が動かす国、というんだ。私もそう思う。それなら王の結婚式だって軍事作戦だ。電撃の勢いでやろう。さもないと戦機を逃すぞ?」
彼女は不敵に笑い、王もそれに倣った。
「了解だ。エルフィンドの敗戦気分が濃厚なうちに、やってしまおう」
「うむ。そして貴方の妃の気が変わらないうちにだ」
「……気が変わる可能性があるのかい?」
ディネルースは、両手で未来の夫の頭部を挟み込んだ。
「変わらないように、しっかり捕まえていてくれる?」
今度はグスタフが彼女に唇を寄せ、貪り、やがていつものように抱き上げた。