流星群は燃え尽きない 作:アグロニ
トレセン学園の空気は、いつだって夢と希望と情熱と、そしてほんの少しの焦燥で満ちている。
ターフを駆けるウマ娘たちの蹄鉄の音、声援、息遣い。
それら全てが混ざり合い、一つの巨大な熱量となって敷地内を渦巻いている。
だが、その熱も俺のいるオンボロのトレーナー室までは届かない。
俺の名前は神崎健人。かつては、この熱狂の中心に立つことを夢見た、しがないトレーナーだ。
机の引き出しの奥には、小さな賞状が埃をかぶって眠っている。
あれから何年経っただろうか。今では教官の手伝いをしながら、トレーニングメニューのデータ入力や備品管理といった雑務をこなすだけの毎日。
燻り続ける夢の残骸に蓋をして、諦めることに慣れてしまった、うだつの上がらないおじさん。それが俺の現在地だった。
「神崎さん、この間の模擬レースのデータ、まとめ終わりました?」
「んや、もうちょいかな」
教官室で声をかけてきた若手トレーナーに、俺はPC画面から目を離さずに答える。
いつだって新人は希望に満ち満ちている。きっと、ダイヤの原石を見つけ出し、磨き上げる未来を信じて疑っていないのだろう。
眩しくていやになっちゃうね。
才能あるウマ娘を担当し、二人三脚でトゥインクル・シリーズを駆け上がり、URAファイナルズの舞台で勝利の美酒を味わう。
そんなありふれた、しかしトレーナーにとっては至上の夢。俺も一度だけ、その夢に目を焼かれていた。
小柄ながら、バネの効いた走りで俺を魅了した彼女。俺は彼女の才能に惚れ込み、ただがむしゃらに駆け抜けた。
だが結果は伴わなかった。俺の未熟さが、焦りが、彼女の繊細な心と体を蝕んでいった。結局彼女はターフを去った。
それ以来、俺はウマ娘と深く関わることを避けてきた。俺のような三流が彼女たちの眩い未来を曇らせてはいけない。
そんな俺の耳にも最近、嫌というほど一つの名前が届いていた。
リュウセイグン。今年入学してきた、規格外の新人。
曰く、驚異的な観察眼で他人の不調を見抜く。
曰く、どんなペースのレースでも完璧に折り合う天性のレースセンスを持つ。
曰く、一口食べただけで隠し味に使われている調味料を当てた。
曰く、曰く、曰く…。
その噂は尾ひれがつき日に日に大きくなり、もはや伝説上の生き物のようだった。
「神崎さんは見に行かないんですか? リュウセイグンの模擬レース」
「興味ないね。どうせ俺には縁のない話だ」
そう。縁ってやつがないからな。
賢い言い訳ってやつだ。
とは言ったものの、俺は結局、ターフが見えるスタンドの隅に立っていた。人間とは矛盾した生き物だ。
興味がないと言いながら、本物を一目見ておきたいというトレーナーとしての本能には抗えなかった。どうせ野次馬の一人でしかないのだから、誰にも迷惑はかかるまい。
自前の双眼鏡を構え、ターフを見渡すと件の彼女が見つかった。
濃い灰色の長髪には青のメッシュがところどころ流れ、小柄な体格のわりに大きな耳。
ハイライトの薄い藍色の瞳は大きなメガネの下で忙しなく動いている。
起伏の薄い体は風の抵抗を受けにくい。走りにおいて一つのアドバンテージとなるだろう。
ゲート裏で軽く体をほぐしていた彼女は、ちらりと周りを流し見し、離れたところでストレッチをする子の蹄鉄の緩みを指摘していた。
慌ててお礼を言うその子に、にこやかに返した彼女は、そのままゲートへと入っていく。
スタートは完璧だった。
ゲートが開かれるのを予測していたかの様に、コンマ数秒の遅れもなくするりと抜け出し先頭に躍り出る。かと思えば、すぐにペースを緩め、隣から勢いよく飛び出してきた逃げウマに先頭を譲った。自身は先行集団の前目、いつでも抜け出せる絶好の位置にぴたりとつける。
レース運びは圧巻の一言だった。
中盤、後続が焦れてペースを上げても、前の逃げウマがリードを広げても、彼女は決して変わることなく、まるで教科書に載っているかのような理想的なフォームで走り続ける。その瞳は常に冷静で、周りなど歯牙にもかけず一人で完結しているレース運びだった。
そして最後の直線。スタミナが切れて脚色が鈍り始めた先頭をひらりとかわしての堂々の1位。
跳ねた泥を避ける余裕まで見せる姿には正直驚いた。
所詮は噂、そう高を括っていたが、実際に見てみると否定も出来ない。むしろ噂以上の傑物だった。
「ほー…居るとこには居るもんだなぇ」
とはいっても、教官と他トレーナーの手伝いをするだけの零細トレーナーである俺には、関係のない話だ。
俺はため息一つついて、その場を後にした。高嶺の花とはこのことだろう。
そう、思っていたのだが。
「トレーナーさんはバランスがいいですね。お名前は何というんですか?」
「私はリュウセイグンと言います。それにしても」
「やはりバランスがいいですね…!」
なんでこいつが俺のオンボロトレーナー室にいるんでしょうね?
ドアを開けるなり、模擬レースの衝撃も冷めやらぬ傑物が、俺の顔を分析するように見つめながら、そんなことを宣っていた。
「…あ、ああ。俺は神崎。神崎健人だよ」
狼狽えつつも名前を名乗ると、彼女は「悪くないですね」と小さく頷いた。その表情は、レース中の無機質な雰囲気とはまた違う、純粋な好奇心に満ちているようだった。
「それで、俺のどこがバランスがいいんだ?」
「あっ、えっとですね…」
俺の問いに、リュウセイグンは少し首を傾げ、最適な言葉を探すように宙を見つめた。
「伝わるか不安なんですが、他のトレーナーさんとは違って、態度とか言葉とか…とにかくバランスがいいんです」
さっぱり意味が分からないが。
「だから、私のトレーナーになってください」
「待て待て待て! いきなりすぎるだろ!」
理論の飛躍が常人には理解できない。
俺は思わず叫んだ。
「君ほどの逸材なら、他のトレーナー達が放っておかないだろう。なんでよりによって、こんな実績もない零細トレーナーのところに…」
「他のトレーナーの方々は、ちぐはぐなんです。声と表情、呼吸、心音…色々ですが、なんだか噛みあっていないように感じまして」
彼女は少しだけ、困ったように眉を寄せた。
「トレーナーさんはシンプルです。私のレースを見終わった後のあの項垂れる感じ、すごく身の程を知っていらっしゃるというか…?」
俺も少しだけ、困ったように眉を寄せた。
こいつ、思ったより癖ウマ娘かもしらん。
「んー悪いが、その話は受けられない」
俺は断ることにした。ま、これがお互いのためだ。
「君の言う通り、俺はうだつの上がらないトレーナーだ。君の才能に見合うだけの知識も経験もない。君は、もっといいトレーナーの下へ行くべきだ」
「どうしてですか?」
彼女は、心の底から不思議そうに問い返してきた。
「私の才能が本物なら、トレーナーさんの実績は関係ないのでは?それに、自分の意思に反したトレーナーを選んでもいいことは無いのでは?」
痛いところを突いてくる。だが、ここで頷くわけにはいかない。
俺は彼女の目を真っ直ぐ見て、少しだけ声を低くした。
「……いいか、勘違いするなよ。君の才能は本物だ。俺の腐った目でもそれくらいは分かる」
俺はため息交じりに続けた。
「だがな、この世界は『才能』だけで勝てるほど甘くないんだよ。レース選び、ローテーション、体調管理、メディア対応、政治……。ウマ娘一人の力じゃどうにもならない壁がいくらでもある。それをサポートするのがトレーナーだ。」
「俺みたいな三流がつくと、そういった壁にぶつかった時に君を守り切れない。潰れちまいたく無いだろ。分かったら、とっとと帰りな。トレーナーってのは好きとか嫌いとかで選ぶもんじゃないんだよ」
そう締めて自嘲気味に笑う。
あまり強い言い方はしたくないがこいつの未来のためだ。
「ふふ…」
「あ?」
「あ、失礼しました。いい人ですね。トレーナーさんは」
彼女は、ふわりと微笑んだ。
「正直で取り繕わない。そういう人、私は好きです」
ダメだ、勘弁してくれよ。話が通じないじゃないか。
俺はガシガシと頭を掻いた。
「……はぁ。分かった、少し落ち着こう。コーヒーでも飲むか? 安いインスタントしかないが」
追い返すのも骨が折れる。とりあえず何か飲ませて、機を見て退散願おう。
俺は給湯室で二人分のコーヒーを淹れ、彼女の前に置いた。
「ありがとうございます」
「ブラックでよかったか? まあ、砂糖もミルクもないんだが」
「はい、大丈夫です。…いい香りですね」
「だろ? 特売品だが、香りだけは一級品なんだ」
俺は自分の分をすすりながら軽口を叩く。
彼女は一口飲み、カップを置いた。
「んー…なんだかよく分からないです」
おこちゃまだね。
まあ、おこちゃまの舌にはこの安物の丁度いい感じが分からないだろうね。
「お代わりいるか?」
「結構です。喧嘩したくないので」
「お、そっか」
こわ。ウマ娘に力振るわれたら無様に土下座するしかなくなるからな。
尊厳のためにいじるのはやめておこう。
と、そんなタイミングで、ファンファーレの練習音が聞こえてきた。GⅠのファンファーレだ。
「鳴ってるな。……これを聞くと、どうも俺は胃が痛くなるんだが、君はどうだ? やっぱり高揚したりするのか?」
彼女は窓の方を一瞥もしなかった。
「いえ、特には。でも嫌いではないです」
「…それだけか?」
「はい。それ以外に何か?」
彼女はきょとん、として俺を見た。
俺は肩をすくめた。
「いや、なんでもない。随分と冷めてるんだなと思ってな」
「そうですか?」
そうですよ。
天才は変わり者が多いっていうけどまさにだな。
「話を戻しますね?是非契約していただきたいんですけれども?」
俺はカップに残ったコーヒーを飲み干し、目の前の少女を見た。
相変わらず、こちらを見る目だけは期待に満ちている。
エリートたちが血眼になって欲しがる才能が、なぜ俺のような掃き溜めに転がり込んできたんだ。
全くわからん。だが。
追い返しても、また来るんだろうな。この目はそういう”諦めないやつ”の目だ。
…はぁ、やだやだ。
「……あー、もう、分かったよ」
俺は降参したように両手を上げた。
「契約すればいいんだろ、契約すれば」
「本当ですか?」
「ただし!」
俺は人差し指を突きつけた。
「条件がある。俺は無理なもんは無理と言うし、できない約束はしない。それでもし、君が俺の指導に不満を持ったり、勝てないと思ったら、即刻契約解除だ。他のチームへ移籍しろ。俺も君の将来を潰したくはないからな」
これなら、彼女にとってもリスクは少ないだろう。どうせすぐに愛想を尽かされるに決まっている。
俺の言葉に、リュウセイグンはパァッと顔を輝かせた。
「はい! ありがとうございます!」
彼女は立ち上がり、ペコリと頭を下げた。
「よろしくお願いします、トレーナーさん。あ、それと」
「ん?」
「私のことは君ではなく『リュウちゃん』と呼んでください」
「…ああ、分かった。リュウちゃん、な」
これ大丈夫?
おっさんが担当の子をちゃん付けはあんまりよくないと思うんだけどなぁ。
「じゃあ、今日はもう帰って休め。手続きは明日だ」
「はい!」
足取り軽く部屋を出ていく彼女の背中を見送りながら、俺は深いため息をついた。
とんでもない爆弾を抱え込んじまった気がする。
机の上には、彼女が残したマグカップ。
一口しか飲まれていない冷めたコーヒーが、黒く澱んでいた。
「……お前も可愛そうに。飲んでもらいたかったよな?」
俺は独りごちて、残りの書類仕事に向き直った。
明日来ないで欲しいなぁ。