流星群は燃え尽きない 作:アグロニ
「なにやってんの?」
「なにって…掃除ですが」
その前になんでいるのかな。
朝。
オンボロトレーナー室のドアノブに手をかけた俺は、中から聞こえる微かな物音に首を傾げる。
俺以外にこの部屋の鍵を持っている者などいないはずだ。まさか泥棒か? いや、こんな何もない部屋に盗めるものねーけどな……。
恐る恐るドアを開けると、そこにいたのはエプロン姿のリュウセイグンだった。
彼女は窓を全開にして空気を入れ替えながら、俺の私物が乱雑に積まれた棚をせっせと整理している。
右手で埃を払い、左手で書類を種類別に分け、足で掃除機のスイッチを器用に入れている。なんだその曲芸は。
「……まぁとりあえず、おはよう。それで?なんでエプロン? というか、どうやって入ったんだ?」
「おはようございます。鍵は開いていました。エプロンは掃除のためですね。なんだかバランスが悪かったので。どうにもむずむずして」
「バランス……」
俺は開けっ放しで帰ったのか。不用心にもほどがある。
彼女が言う『バランス』の基準は相変わらず謎だが、おかげで雑然としていた室内がいくらか見られる状態になっているのは確かだった。
机の上には、湯気の立つコーヒーカップが置かれている。昨日俺が淹れたものとは違う、豆から挽いたであろう豊かな香りが鼻腔をくすぐった。
「これも君が?」
「あ、君ではなくてリュウちゃんですね」
「…これもリュウちゃんが?」
「えぇはい。備品室にあったので持ってきました」
自由な子だなぁ。
「いい香りですよね。どうぞお飲みください」
「いやまぁ、いい香りだけども…では一口」
俺はコーヒーを口に含み、その本格的な味わいに目を見開いた。
昨日俺が出したインスタントコーヒーへの、静かなる復讐のようにも感じられる。
「美味いなぁ…! でも、君はこういうの、よく分からないんじゃなかったのか?」
「あ、君ではなくリュウちゃんですね」
…
「…リュウちゃんは良く分からないんじゃなかったっけ?」
「いえ、これならわかります。でも、豆を挽く音と、お湯を注いだ時の匂いと、味、濃い黒色はバランスが良くてすごく好きです。総合点高めですね」
「さいですか」
俺も君のことが良くわからんよ。
俺がコーヒーを味わっている間に、リュウセイグン――リュウちゃんは、テキパキと、いや、テキパキという言葉では生ぬるいほどの効率で室内の整理を終えてしまった。
散らかり放題だった資料は年代順、種類別にファイリングされ、くたびれたソファのクッションは太陽の匂いがするように干されている。
ものの十分も経っていない。
「よし、と。だいぶバランスが良くなりました」
満足げに頷く彼女を見て、俺は思わず呟いた。
「……リュウちゃん、家事代行サービスでも始めた方が儲かるんじゃないか?」
「それも面白そうですね。でも、私は走るのが一番好きです」
彼女はエプロンを畳みながら、屈託なく笑った。
その笑顔を見ていると、昨日までの鬱屈とした気分が少しだけ晴れるような気がした。もちろん、とんでもない爆弾を抱え込んだ事実に変わりはないのだが。
「飲み終えたら本契約しに行きましょうか。書類はこちらに用意してあります」
見れば、綺麗になった机の上には契約書類一式と、俺のお気に入りの万年筆が丁寧に置かれていた。
ご丁寧にも、リュウちゃんの記入欄はすべて美しい文字で埋められている。準備が良すぎる。
「なぁ、マジで俺と契約すんの?自分で言うのもあれだけど、もっといい奴沢山いるぜ?」
俺も欲がないわけではない。だが、それ以上に怖いかった。失敗することも、才能をつぶすことも。或いは成功することさえも。
正直に言うと”才能”っていうやつがひたすらに怖かった。
俺の葛藤を見透かすでもなく、リュウちゃんはあっさりと頷いた。
「んー、そうですね。おっしゃる通りだと思います。多分トレーナーさんよりも、もっと相性のいい方もたくさん居るでしょうし、私を勝たせてくれる確率が高い人もいると思います」
「なら」
「でも、わたしが最初に見つけたのはトレーナーさんでしたから」
彼女の言葉は、道端で綺麗な石を見つけた子供のようだった。
「わたし、結構運命を信じるタイプなんです。トレーナーさんと出会ったのも、何かの縁です。それに運命じゃなくたって、後から思い返して『あれは運命だったね』って言えるようにすれば、それはもう運命じゃないですか?」
わけのわからない理屈だが、妙な説得力があった。
彼女の瞳は、一点の曇りもなく俺を射抜いている。この目を前にして、これ以上無粋な問答を続けるのは野暮というものだろう。
俺は大きく、本当に大きくため息をつくほかなかった。
「……分かったよ。後で後悔しても知らねぇからな」
「しませんし、させませんから問題ないですね?」
自信満々に言い切る彼女に、俺は苦笑するしかなかった。
万年筆を手に取り、震えそうになる指に苦笑しながら、トレーナー欄に『神崎健人』と署名する。
これで後は事務に提出したら晴れて契約完了だ。
そう考えると全てがリュウちゃんの思惑通りに行っていそうで少し癪に触った。
このままじゃただ流されるだけの情けないおじさんだ。せめて、ほんの一矢だけでも報いたい。
「なぁリュウちゃん」
「はい?なんですか?」
「俺のこと、これからけんちゃんって呼べよ」
「…えと、トレーナーさん?」
「あ、トレーナーじゃなくてけんちゃんだな」
「…けんちゃん」
きょとんとした顔で俺の言葉を繰り返すリュウちゃん。
いやー、いいあほ面だぜ全く。
学園の事務局へ向かう道すがら、俺たちは奇妙な視線を浴び続けていた。
そりゃそうだ。今年の目玉である超新星、リュウセイグン。その隣を歩くのが、万年係長のような俺なのだから。
「美女と野獣」ならぬ「天才と凡夫」。ひそひそと交わされる噂話が、俺の自虐心をチクチクと刺激する。
「……あー、なんか言われてるな」
「そうですね。右後方の二人は私の脚質について、左前方の集団はけんちゃんの……えっと、今日のネクタイの柄について話していますね」
「なんでそんなことまで聞こえてんだよ。地獄耳か」
「ウマ耳です。聞こえてしまうのでしょうがないですね」
彼女は涼しい顔で言った。
ネクタイの柄が変だと言われている事実に俺が傷ついている間も、彼女は空を飛ぶ鳥を目で追いながら、遠くの校舎でチャイムが鳴るタイミングを指折り数えて当ててみせた。
そんなことを考えているうちに、俺たちは事務局を通り越し、なぜか理事長室の前に立っていた。
契約書の提出なら窓口で済むはずだ。しかし、呼び出しを食らったのだ。
理由は明白。
『あのリュウセイグンが、神崎健人と契約した』という異常事態について、最高責任者への説明が必要になったのだろう。
「失礼します」
重厚な扉を開けると、そこには秋川理事長が扇子を広げて待ち構えていた。
「入りたまえ!」
相変わらずの圧だ。俺は縮こまりながら入室し、リュウちゃんは堂々とした足取りで後に続く。
「神崎トレーナーにリュウセイグン君、よく来てくれた!」
理事長は満面の笑みで俺たちを迎えると、鋭い眼光を俺に向けた。
「前置きは不要!まずは神崎トレーナー。契約に至った経緯を教えてもらおう! 君が現場を離れて久しいことは把握している。それが何故、今になって復帰を決意したのか!」
俺は居住まいを正した。
この問いに対する答えは、ここに来るまでに整理しておいたつもりだ。
「……おっしゃる通り、俺は一度夢破れて、この世界から目を背けていました。ただの事務として定年までやり過ごすつもりでした」
俺は横に立つ少女をちらりと見た。彼女は興味深そうに、理事長の扇子の動きを目で追っている。
「ですが、彼女は……リュウセイグンは、そんな俺の諦めを許してくれませんでした。俺が自分を卑下しても、実績がないと突き放しても、彼女は真っ直ぐな目で俺を見続けてくれた」
俺は息を吸い込み、言葉を紡ぐ。
「何より、ここまでリュウセイグンに……」
「あ、けんちゃん。リュウセイグンではなくリュウちゃんですよ」
しん、と空気が止まった。
理事長の扇子がピタリと止まる。
俺は引きつった笑みを浮かべたまま、口の端だけで小声で返す。
「……今、めちゃくちゃ良い事言ってんだけど?」
「呼ぶときはリュウちゃんという約束でしたよね?」
「いや、そうだけど、今はTPOっていうか……」
「場所や状況で呼び名が変わるのはバランスが悪いです。一貫性がありません」
彼女は一切悪びれない。むしろ「契約不履行ですよ?」と言わんばかりの澄んだ瞳だ。
この子に「場の空気」という概念は通用しない。忘れていた。
俺は観念して、こめかみを抑えながら言い直した。
理事長の前で、アラフォーのおっさんが、自分の担当ウマ娘をちゃん付けで呼ぶ。
公開処刑だ。
「……コホン。ここまで……リュウちゃんに背中を押されたら、男として覚悟の一つや二つ、決めなきゃ嘘でしょう。彼女の才能を預かる恐怖はありますが、それ以上に、彼女と共に走ってみたいと思ったんです」
言い切った俺の額には、変な汗が滲んでいた。
理事長は瞬きを数回繰り返した後、困惑したように扇子で口元を隠した。
「ふ、ふむ……? なるほど?けんちゃん…? リュウちゃん……?」
明らかにリズムが狂っている。
だが、俺の羞恥心をよそに、理事長の矛先は隣の少女へと向いた。気を取り直したようだ。
「つ、次にリュウセイグン君!」
「はい」
「君ほどの才能があれば、選び放題であったはず! ベテランから新進気鋭のエリートまで、引く手あまたであったろう! なのに何故、彼なのか!?」
リュウちゃんは俺の横で、やはり小首をかしげた。
「バランスが良かったからです」
「バランス?」
「はい。他のトレーナーさんは、心音と呼吸と言葉がバラバラで、あまり好みではありませんでした」
リュウちゃんは淡々と言葉を紡ぐ。
「ですが、けんちゃんは違いました」
「けんちゃんはため息をついたあと、ちらちらと目だけをこちらに向けたまま、まるでやる気のなさそうな姿で去っていきました。その態度と、体の反応と、感情がすべて『諦め』と『未練』で一致していました。とても綺麗なバランスでした」
褒められている気が全くしないのは何故だろう。
「嘘をつかない正直な人です。それは私にとって何よりも大事なことです」
理事長はしばらく微妙な顔をしていたが、やがて大きく「うむ!」と頷いた。
バヂンッ!
理事長が高らかに扇子を鳴らした。
「驚愕ッ!! そして……感動ッ!!」
「は?」
「形式や常識にとらわれぬ、独自の信頼関係! まさに規格外!」
いや、信頼関係っていうか、俺のささやかな抵抗の結果なんだけども。
「よかろう! 契約を受理する! 神崎トレーナー、いや、けんちゃんトレーナーよ! 彼女の『バランス』を崩さぬよう、精進たまえッ!」
「は、はぁ……」
俺は力なく返事をした。
こうして俺とリュウちゃんの契約は、理事長公認のものとなってしまったのだった。