白狼救済録 作:らんらん出荷マン
レナはヘルメット側面のIRストロボを起動し、夜空へ向けて軽く顎を上げた。
「エンバー46、こちらWOLF1。
『WOLF1、こちらエンバー46。ストロボ視認。これより降下する』
通信の直後、暗闇の上から強烈なダウンウォッシュが叩きつけられた。
ナビゲーションライトを消したエンバー46が、夜そのものから滲み出るように姿を現す。
黒い機体は庭園上空で一度ホバリングし、それから獲物へ爪を下ろす猛禽のように、ゆっくりと高度を落としてきた。
風圧に煽られ、枯れ葉と土煙が舞い上がる。
庭木の枝が、見えない巨人の手で押さえつけられたように大きくしなった。
機体側面のスライドドアが開け放たれる。
ランディングギアが芝生を踏み潰し、柔らかな地面へ深く沈み込んだ。
接地を確認したクルーチーフが、身を乗り出して手招きする。
『乗れ! 急げ!』
メイとスイが、麻袋を被せたキサラギを両脇から抱え、機内へ引きずり込む。
キサラギは抵抗しようとした。
だが拘束された腕では、身を捩ることしかできない。
麻袋の奥から、くぐもった声だけが漏れた。
リノは回収バッグを背負い、もう片手で開発端末のケースを押さえながら続く。
誰も喋らない。
叫ぶ者もいない。
勝利を告げる者もいない。
ただ、命令された手順だけが、機械的に消化されていく。
最後にレナが周囲の安全を確認し、キャビンへ飛び乗った。
その瞬間、クルーチーフが叫ぶ。
『回収完了!』
『上昇開始!
四枚のローターブレードが空気を押し退ける。
ブラックホークは機体を震わせながら、夜空へ向かって急速に高度を上げていった。
キャビンの開口部から見える邸宅は、みるみるうちに暗闇の底へ沈んでいく。
任務は終わった。
終わったはずだった。
それなのに、誰一人として「終わった」とは言わなかった。
レナを含めたWOLF全員が、押し黙っている。
[作戦目標:達成]
[対象KISARAGI:確保]
[副次損害:許容範囲内]
そんな空気など意に介さず、アノラは淡々と告げた。
直後、HUDに新たなログが表示される。
Mission accomplished.
Well done!
その文字列の横で、デフォルメされた連邦生徒会長が、にこやかに親指を立てていた。
(……ずっと見ていたのか)
ヘルメットを被った瞬間から。
俺が迷った瞬間も。
撃った瞬間も。
見逃した瞬間も。
全部。
見られていた。
指先が、わずかに震えた。
[心拍に異常値]
「……」
重苦しい空気の中、クルーチーフは一切気にした様子も見せず、黙々とキサラギの拘束ベルトを床のアンカーへ固定していく。
「む……ぐ……ッ!」
麻袋の奥から、またくぐもった声が漏れた。
誰も反応しない。
誰も、目を向けない。
固定を終えたクルーチーフは向き直り、WOLF全員を一瞥した。
『……野良犬ども。ASH LINEへようこそ』
一拍置いて、クルーチーフは続ける。
『歓迎しよう。盛大にな』
抑揚のない声だった。
少なくとも、何かを祝う時に使う声ではなかった。
歓迎――。
その言葉が、レナの奥底を鈍く打った。
(……人を攫って歓迎されるとは、キツい冗談だ)
喉の奥が貼り付く。
ヘルメット内の内気循環も、呼吸補助も、すべて正常値を示している。
それなのに、息だけが重かった。
吸っているはずなのに、肺が苦しい。
吐いても、吐いても、胸の奥に何かが残り続けている。
血の臭いも。
焼ける臭いも。
声も。
全部、置き去りにしたはずなのに。
[呼吸数増加]
[心拍数増加]
[皮膚電位上昇]
[手指振戦を検知]
[バイタルの異常値を記録]
[WOLF1、応答を――]
レナは耳鳴りのように響くアノラの声を振り払うように、ヘルメットのロック解除スイッチへ手を掛けた。
押せば、戻ってくる。
指先が、自分の意思とは裏腹に微かに震えだした。
分かっている。
この下に押し込めたものが、全部溢れることは。
それでも。
脱げなくなる前に、レナはスイッチを力強く押し込んだ。
直後――。
プシュッ、と気密シールの抜ける音が鳴った。
ヘルメットを持ち上げ、頭部から引き抜く。
それを合図に、Renegade Systemによる「麻酔」が唐突に切れた。
罪を数えない兵器から、大上レナへ戻される。
「……は……ぁ……は……ぁ……」
レナは顔を顰め、荒い息を吐き出した。
肺に穴が空いたようだった。
吸っているはずなのに、空気が入ってこない。
喉の奥を、見えない何かに締め上げられている。
視界の端が灰色に染まり、耳の奥で甲高い音が鳴り始めた。
キィィィン――。
炸裂音。
衝撃。
鈍い発射音。
白い炎。
頭の奥から、ノイズ混じりの声が聞こえる。
『た、助け……』
パスッ――。
『や……やめ……!』
パスッ――。
それは、邸宅の地下通路で聞いた声だった。
乾いた音が、記憶の蓋を抉じ開けた。
次に戻ってきたのは、もっと古い声だった。
「……あ……ぁ……」
額に脂汗が滲む。
『火が! 早く降りろ!』
『あぁ!! クソッ! 足が!』
『アァぁ!! あぁアああ!!』
迫る炎。
焦げた臭い。
ここではない戦場の記憶が、焼けた臭いを連れて戻ってくる。
真っ赤な両手。
押し寄せる影。
ここではない戦場。
ヘイローのない世界。
倒れれば、二度と起き上がらない場所。
そこに積み上がっていた、名前のある肉の山。
「……ッ!」
レナの手から、ヘルメットが滑り落ちた。
ゴトッ、と鈍い音が機内に響く。
ヘルメットが床を転がり、足元で止まった。
その音に、隣に座っていたリノが弾かれたように顔を向ける。
普段の冷静な彼女には珍しく、わずかに目を見開いた。
そしてすぐ、レナの様子を上から下まで隈なく確認する。
生気が抜け落ちた青白い表情。
焦点の合わない赤い瞳。
過剰に繰り返される呼吸。
膝の上で震え続けている両手。
「隊長ッ!」
リノが咄嗟に呼び掛ける。
反応はない。
ズレた瞳は、虚空を見続けていた。
呼吸は浅く、速い。
震える指先は、膝の上で何かを掴もうとするように曲がっている。
「隊長、聞こえますか! 私の声が分かりますか!?」
視界の中で、リノの顔が別の誰かに重なった。
「……は……ッ……は……」
返事はない。
ただ、喉の奥から、壊れた笛のような呼吸音だけが漏れていた。
「や……つらが……くるッ!」
スイの小さな身体が、塹壕の底で震えていた子供の影に見えた。
「立てッ! ま……守れッ……!」
メイの白い翼が、血に塗れた布切れに見えた。
「あ――ぁぁ! あ゙ぁああ゙あ゙!!!」
レナは金切り声を上げ、膝上のARへ手を伸ばす。
指がグリップを探り、無意識にセーフティへ触れようとした。
その動きだけは、異様なほど正確だった。
意識はここにない。
それなのに、銃を扱う手順だけは身体に残っている。
「メイさん! 武器を!」
「え!? あっ……!」
『何をしている!! 武器を奪え! トリガーから指を外させろ!』
初めて、クルーチーフの声に温度が混じった。
それは焦りではない。
機内で起きた危険事態に対する、反射的な警告だった。
メイが慌ててレナからARを引き離す。
スイもシートから腰を浮かせ、レナの腕をそっと押さえた。
「隊長……大丈夫。ほら、もう終わったよ? 撃たなくていい……撃たなくていいから」
「ぼ――防衛――を、やられる――!」
再び叫び声が上がった。
「あ゙あ゙ぁ゙――!!!」
その叫びを聞いた瞬間、クルーチーフは判断した。
疲労ではない。
負傷でもない。
機内で放置していい異常ではない。
『機長!! WOLF1に異常あり!!』
「これは……ただの発作じゃない。
戦闘後の反応としても、明らかに度を越しています」
リノの声が低く沈んだ。
廃墟任務の帰りも。
廃工場の時も。
レナの手は震えていた。
だが、これは違う。
あの時の震えとは、深さが違う。
今、目の前で起きているのは、身体の疲労ではない。
もっと深い場所で、何かが決壊している。
「メイさん、武器を近付けないで。スイさん、隊長の肩を押さえてください」
「う、ウィルコ!」
「砲撃だ!――伏せろ――ッ、伏せろ!!」
リノはインカムに向かって声を張った。
「チーフ! 連邦生徒会長へ緊急コードを送信!
WOLF1、大上レナ隊長に異常が発生!
意識混濁、過呼吸、手指振戦、幻覚と思われる言動あり!」
『了解。……機長! 緊急連絡です!』
「
それは、今のレナの言葉ではなかった。
古い戦場で。
未熟な若い声で。
生き残るためだけに吐き出していた、前世の命令だった。
「あ゙あ゙あ゙ァ゙!! ア゙あ゙ァ゙――! 殺せぇぇっ――撃ち殺せェ!!」
「た……隊長……」
殺せ。
撃ち殺せ。
その言葉に、メイの手が一瞬だけ止まった。
キヴォトスで、そんな命令は普通出ない。
不良の生徒でさえ「ぶっ飛ばせ」や「蜂の巣にしてやる」とは言っても、本気で相手の命を奪う前提の単語は、そう簡単には口にしない。
死を連想させる言葉は、この世界ではほとんど禁忌に近い。
だが、今のレナの声にはあった。
相手の命を確実に終わらせる、純粋な殺意が。
(……隊長……以前は、どこにいらしたんですの……?)
メイはこの時、初めて薄々と勘付いた。
自分たちが頼っていた隊長の背中が、底知れない屍の上に立っていたことに。
「――くッ!? メイさん! 一緒に押さえて!!」
「う、うん!」
「あああああ――!!」
「お、おい! 何が起きている!」
麻袋の中から、キサラギのくぐもった声が上がる。
「貴方は黙っててください!!」
リノの声が、鋭く機内を裂いた。
普段の彼女なら、ここまで声を荒げることはない。
だが今だけは違った。
キサラギの恐怖も。
抗議も。
事情も。
すべて後回しだった。
今、目の前で壊れていく少女が最優先だった。
「――ッ!! 離せェッ!」
「隊長……大丈夫です。もう終わったんですよっ……!」
リノは悲痛な声で、それでも必死に堪えながらレナを宥める。
その直後、クルーチーフが機内壁面のファーストエイドボックスを乱暴に開けた。
中から引き抜かれたのは、赤いキャップの付いた
『WOLF2! これを使え!』
チーフがインジェクターをリノへ放り投げる。
『緊急鎮静剤だ! 太ももに押し当てろ!
一度打てば、どんな生徒でもおねんねだ!』
リノは空中でそれを受け取ると、一瞬だけ躊躇した。
薬物による強制的なシャットダウン。
それが隊長の身体にどんな負担をかけるのか、分からない。
「ぐあああ!!」
レナが身を捩る。
押さえつけていたメイとスイの身体が、まとめて浮き上がりそうになった。
こんな細い身体のどこに、そんな力が残っているのか。
「リノちゃん!」
メイの悲鳴に近い声が飛ぶ。
「……しっかり押さえて!」
リノは迷いを捨て、赤いキャップを引き抜いた。
錯乱した隊長を止めるには、これしかない。
そう思わなければ、押せなかった。
「……ごめんなさい……ごめんなさい」
リノはレナの太ももへ、コンバットパンツの布地越しにインジェクターを強く押し当てた。
カチッ、という機械的な音。
内蔵されたスプリングが針を打ち出し、薬液が急速に筋肉へ流し込まれていく。
「が……ッ、……あぁ……」
数秒。
たったそれだけで、レナの身体から急速に力が抜け落ちた。
血走った赤い瞳が力なく閉じる。
虚空を掴もうとしていた両手が、だらりとシートの横へ垂れ下がった。
「隊長……? 隊長ッ…………」
スイが震えた声で呼び掛ける。
だがレナの頭はシートに倒れ込み、浅い寝息を立て始めていた。
『機長より各員……連邦生徒会長からの入電だ』
機長の声が、緊迫感を帯びて響く。
直後――。
誰もが知っている、どこか浮世離れした声色が、全員のインカムに流れた。
『状況は伝わっています。エンバー46、予定ルートを変更してください。
対象と回収物を積んだまま、その状態の小隊長をSRTへ運ぶわけにはいきません』
『エンバー46了解。新たな合流地点へ進路を変更――』
『皆さん……いいですか。D.U.郊外の旧第7浄水施設、指定ポイント・ロメオに回収車両が待機しています。
そこで対象と回収物を引き渡し、WOLFは偽装車両へ乗り換え。SRT医療部の地下搬入口へ直行させます』
一拍。
『なお、この件は正式な救急搬送としては扱いません。
記録上、エンバー46は存在しない機体で、WOLFは現在も移動中です』
「……会長」
リノが息を呑む。
『必要な措置です。彼女を守るためにも、あなたたちを守るためにも…………いいですね?』
その言葉に、リノは一瞬だけレナを見た。
シートに沈み、力なく眠る隊長。
誰よりも前に立ち、誰もが“最強”と口を揃えていた少女は、呆気なく壊れてしまった。
それが今は、呼吸を確認される側に回っている。
「……了解しました」
『高嶺リノさん……今は貴女がWOLFの指揮官です』
連邦生徒会長はそれだけ言い残し、通信を切った。
機内に静寂が満ちる。
誰も答えない。
ただ、ターボシャフトエンジンの轟音だけが響いている。
そんな中、キサラギは自分を攫った少女が壊れていく声を聞いていた。
麻袋の中で、彼は初めて理解する。
自分を襲ったのは、完全な兵器ではない。
壊れながら兵器の真似をしている、ただの子供だったのだ。
「何が……なんだと言うのだ……」
――
――D.U.郊外・旧第7浄水施設。
ブラックホーク《エンバー46》は、深夜のD.U.郊外に位置する旧第7浄水施設へひっそりと着陸した。
そこには連邦生徒会長の手配した無地の黒いバンが二台、ヘッドライトを消して待機していた。
ランディングギアが地面に触れるや否や、黒いバンから降りてきた生徒たちは、どこの制服も着ていなかった。
代わりに着ているのは、私服。
数人はメイクとヘアセットまで整えている。
休日のショッピングモールで見かけても、誰も振り向かないような外見だった。
これでは、ASH LINEとは誰も気付けないだろう。
彼女たちは言葉を交わさず、エンバー46のキャビンへ駆け寄る。
クルーチーフが、床に固定されたキサラギを指差した。
『……あれだ』
一人が頷き、麻袋を被せられたキサラギの頭部を確認する。
「……識別完了。あとは、我々が引き継ぎます」
「む……ぐ……ッ!! んん――!!……ッ!」
キサラギは何かを叫ぼうとした。
だが、口元まで縛られた布と麻袋のせいで、意味のある言葉にはならない。
彼女たちはまるで荷物を扱うように、キサラギの身体を持ち上げた。
「む……ッ!! んん!!」
キサラギは必死に身を捩り抵抗する。
しかし、それも虚しく、彼はバンの荷台へ詰め込まれた。
「回収物は?」
リノは一瞬だけ言葉に詰まり、それから背負っていた回収バッグを降ろした。
「……これと、キャビン内のバックパックの中に」
「受領します」
生徒の一人がタブレットを取り出した。
そこに表示されていたのは、署名欄ではなかった。
ただのチェックリスト。
それも、引き渡し元の名前を記入する欄すらない。
「この引き渡しは、正式な記録に残りません。
あなた方はここに来ていない。私たちも、あなた方から何も受け取っていない」
「……」
リノは唇を噛んだ。
自分たちが何をしたのか。
それを、改めて突きつけられた気がした。
任務は成功した。
だが成功したものは、表に出せない。
褒められるものでもない。
記録されるものでもない。
誰かに胸を張って報告できるものでもない。
『WOLF2』
クルーチーフの声が飛ぶ。
リノは顔を上げた。
『今はお前が指揮官だ。ぼうっとするな』
「は、はい……」
リノは短く返し、回収バッグを私服姿の生徒へ渡す。
その横で、メイとスイはレナを支えるようにして機内から降りていた。
鎮静剤が効いているのか、レナはぐったりと力を失っている。
白い髪が頬にかかり、赤い瞳は閉じられたままだ。
肌は青白く、まるで死人のようだった。
さっきまで狂ったように叫んでいた少女とは思えない。
もう一台の偽装車両が、無言で後部ドアを開いた。
防弾ガラス。
プライバシーフィルム。
内張りの補強。
外からはただの輸送車にしか見えないが、中身は明らかに普通ではなかった。
担架に寝かされたレナが、その荷台へ運び込まれる。
「……おっと……」
「足元、気をつけて」
メイとスイが、担架をそっと荷台に置いた。
通常、SRTの生徒が作戦中に負傷すれば、救護用のヘリが医療部か提携病院へ直行する。
だが、今回は違う。
彼女たちが今日行った任務は「存在しない」ことになっている。
だからこそ、隊長が壊れたとしても、裏口からコソコソと運び込むしかなかった。
WOLFの全員が荷台に乗り込む。
クルーチーフはドアに手を置き、彼女たちを一瞥した。
『……閉めるぞ』
「あ、あの……キサラギはどこへ?」
リノが問う。
運転席の生徒は答えなかった。
代わりに、クルーチーフが短く言う。
『知らない方がいい』
「……」
リノはそれ以上、聞かなかった。
聞いたところで、誰も答えないのは分かりきっていた。
後部ドアが、ゆっくりと閉められる。
重い音を立てて、外界が隔てられた。
リノは担架の隣に座り、レナの呼吸を確認した。
浅い。
だが、規則的な呼吸。
少なくとも今は、安定している。
「……」
無地の黒いバンはヘッドライトを点けず、敷地の奥にある搬出路へ静かに滑り出した。
それと同時に、エンバー46は再び夜空へと上がっていく。
ローターの音はすぐに遠ざかり、やがて完全に消えた。
まるで、最初から何も無かったかのように。
――
――SRT特殊学園・医療部地下搬入口。
黒いバンは深夜のD.U.を静かに走り抜け、SRT特殊学園の医療部――
その地下にある搬入口へ滑り込んだ。
そこは本来、医療物資や大型機材を搬入するための出入口だった。
だが今夜だけは、救急搬送のための入口になっていた。
シャッターが内側からゆっくりと上がる。
その先には一台のストレッチャーと、白衣姿の少女が待っていた。
トリニティ出身のメディック。
かつて、廃墟調査任務の帰還後にレナの傷を手当てし、祈ってくれた少女。
バンが搬入路を通り、メディックの側で止まる。
後部ドアが開け放たれ、担架に寝かされたレナが運び出された。
彼女は担架の前で、静かに十字を切るような仕草をした。
「……話は聞いています。
インジェクターの種類と、投与時間は?」
「……十五分前に投与しました。種類は……確認しませんでした。申し訳ありません」
メディックは無言のまま、担架をストレッチャーに寄せるよう手招きした。
担架を持ったメイとスイが、慎重に距離を詰める。
メディックは手際よくレナをストレッチャーへ移した。
即座に首元へ指を当て、脈を測る。
「恐らく、強力な中枢神経抑制剤……少なくとも、SRT医療部で正式採用されている薬剤ではありません。
今、息をしているのは……本当に幸運です。
呼吸抑制……いえ、心停止も十分あり得ました」
心停止――。
その言葉が、三人の間に深い亀裂を入れた。
「「「…………」」」
「責めているわけではありません。
暴れる彼女を止めるには、これしかなかったのでしょう」
メディックはそう言いながら、レナの瞼をそっと持ち上げた。
ペンライトの細い光が、赤い瞳孔を照らす。
反応はある。
だが、とても鈍い。
次に呼吸を確認し、胸郭の動きを見る。
浅い――。
規則性はあるが、通常の睡眠とは明らかに違っていた。
「…………呼吸は浅いですが、止まってはいません。脈も弱いですが、保っています」
メディックはレナの冷たくなった指先をそっと包んだ。
「報告では錯乱状態と、お聞きしましたが……」
リノが呟く。
「はい……何か、“恐ろしいもの”と戦っているような言動を繰り返していました」
メディックはレナの顔にかかった白髪を払い、静かに息を吐いた。
「この子は、戦闘中に感じるはずだったものを、全部あと回しにしていたのでしょう。
怖さも、痛みも、罪悪感も、悲しみも。
全部が終わるまで押し込めていた」
一拍置き、メディックは目を伏せた。
「それが今、一度に戻ってきている……。
心が……耐えられる量を、超えてしまったんです」
メディックはレナの頭を優しく撫でる。
反射で獣耳が一度だけ、ぴくりと動いた。
「以前にも、似た症状はありましたか?」
メディックの問いに、リノはすぐには答えられなかった。
廃墟調査任務の帰り。
ハンヴィーの中で、レナの手は小さく震えていた。
廃工場での訓練後。
ヘルメットを脱いだ瞬間、レナは椅子に座り込んだ。
そして、今回の錯乱。
いや――錯乱という言葉で片付けていいものではなかった。
ずっと疲労だと思っていた。
頑張り過ぎただけだと思っていた。
でも違った。
今までのは、“前兆”だったのだ。
「あ……ありました……」
リノは顔を歪め、声を絞り出すように言った。
「副官なのに……ずっと気付けなかった……。
私がもっと――」
「リノさん」
メディックに遮られ、それ以上は続かなかった。
「……この子は、自分の痛みを隠すことに、慣れすぎています。
きっと、貴女が気付いて声を掛けても、誤魔化したでしょう」
「ですが! 私は副官です! 気付かなきゃいけない立場なんですよ!!」
リノは震えながら、声を張り上げた。
「では、今から気付いてください」
「……今から?」
「はい、今この瞬間からです。
この子が『大丈夫』、『問題ない』、『気にするな』と言っても決して信じないこと。
その時は必ず、目を見てください。兆候があるはずです」
リノは息を呑んだ。
これは、慰めではない。
命令でもない。
これから自分が背負うべき役割だった。
「できますか?」
「――できます」
リノは一切迷わず即答した。
「貴女たちもです」
メディックは鋭く言い放ち、メイとスイの顔を交互に見た。
「一度こうなってしまえば、再発は必ず起きます。しっかり、支えてください」
「「――はい」」
「今日はこのまま、ここの地下病室で休ませます。鎮静剤が抜けるまで、数時間は目を覚まさないでしょう」
「……私たちは、ここに残ります」
リノが食い下がるように言ったが、メディックは静かに首を振った。
「だめです。休んでください。これは医療部からの『命令』です」
「……」
「彼女が目を覚ました時、あなたたちまで倒れていたら……彼女はきっと、もっと自分を責めますよ」
その言葉に、リノは唇を噛み締め、深く頭を下げた。
「了解しました。隊長を……よろしくお願いします」
メディックは一度、眠るレナへ視線を戻した。
その視線には、医療者のものとは別の、トリニティ出身者としての迷いが混じっていた。
「……メイさん。今、貴女に伝えるべきか迷いましたが……」
本来なら、今この場で切り出すべき話ではない。
だが、伝えずにおけば、次に傷つくのは目の前の少女だけでは済まないかもしれない。
意を決したメディックはメイの側に近寄り、耳元で囁いた。
「……後輩のシスターから聞いた噂ですが、何やらトリニティで、キナ臭い動きがあるようです」
「……医療長。それは一体――」
その呼び名は、メイがトリニティにいた頃、シスターフッドで彼女を呼ぶ時に使われていたものだった。
「メイさん。今は、ただのメディックです」
メディックはそう言ってから、声を落とした。
「ですが、トリニティにいた頃の繋がりが、完全に切れたわけではありません。後輩のシスターから、少し気になる話を聞きました」
「気になる話……?」
「詳しいことは、まだ分かりません。ただ……
「おかしい?」
「表向きは静かです。けれど、静かすぎる。
祈る者たちの間で、噂だけが増えています」
「一体……何が……」
「分かりません。ですが、トリニティで何か大きなことが動き始めています」
――
――数時間後。
レナが目を覚ました時、最初に見えたのは白い天井だった。
(どこだ……ここは、知らない天井だ)
赤い機内灯ではない。
HUDでもない。
デフォルメされた会長のロゴでもない。
ただの、医務室の天井。
「……」
身体を起こそうとした瞬間、全身に鉛を流し込まれたような重さが押し寄せた。
「起きないでください」
横から声がした。
メディックが、椅子に座ったままこちらを見ていた。
「任務中、貴女は倒れました」
「倒れた?」
レナは掠れた声で問い返した。
記憶が混濁している。
最後に覚えているのは――。
「……」
覚えているのは……。
「何も……思い出せない」
「鎮静剤を打たれて眠っていたんです。リノさんたちが、貴女をここまで運び込みました」
メディックは立ち上がり、ベッドの傍らにある電子カルテのモニターを操作した。
――
所見:戦闘後急性反応。
精神負荷過多による意識混濁、過呼吸、手指振戦、幻覚様言動を確認。
継続観察、および作戦任務からの一時隔離を推奨。
――
「戦闘後急性反応? 一時隔離?……な、何を言って……」
「本当に、何も覚えていませんか……」
「……覚えていない」
レナはそう答えた。
嘘ではなかった。
だが、正確でもなかった。
覚えていないのではない。
思い出そうとすると、何かが喉元まで迫り上がってくる。
レナの様子を観察していたメディックは、クリップボードにペン先を走らせた。
「ふむ……記憶の欠落……。
貴女は、貴女自身を守るため、記憶を閉じたのでしょう」
メディックの言葉に、レナは反論できなかった。
無理に手繰り寄せようと思うと、額から脂汗が滲み出た。
背筋が凍る、冷えた感覚だった。
「無理に思い出す必要はありません。
……今の貴女には、休息が必要です」
メディックはカルテを閉じ、レナの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「私たちは銃で撃たれても倒れませんが、心まで同じように頑丈とは限りません。
以前、言いましたよね。人の心は……繊細なんです」
メディックはそう言って、ベッドサイドの端末を操作した。
モニターに、見慣れた連邦生徒会の紋章が浮かび上がる。
『よかった……目が覚めたようですね』
スピーカーから響く連邦生徒会長の声には、珍しく不安が滲んでいた。
「……会長」
『高嶺さんから報告は受けています。SRT医療部からの診断結果も確認しました』
モニターの向こうの彼女には、いつもの知り尽くしたような雰囲気は無かった。
むしろ――。
何かを失敗して、親から隠そうとする子供のようにも見えた。
『レナちゃん……一旦休んでください』
優しく、労うような言葉。
「それは、命令か?」
『……そう解釈しても……構いません……。
当面の間、出撃および訓練、部隊指揮の権限を凍結します』
一方的な通告。
メディックは静かに一礼し、気を利かせて病室から出て行った。
『アビドスの件は心配しないでください。支援は継続するつもりです』
(これは……保守点検だ)
壊れたままでは、次の任務で使い物にならない。
だから、修理して、熱を冷まして、また動けるように「休ませる」。
優しさの形をした、徹底した管理。
兵器というのは、メンテナンスが付き物だ。
「そうか……了解した」
レナは無感情に答えた。
これ以上、会長の優しい声を聞いていたくなかった。
振り払うように、指先で通信を切った。
モニターが暗転し、病室内に再び静寂が戻る。
「俺は……正常だ」
一人になったレナは、誰に向けたかも分からないまま独りごちた。
もっとマイルドな表現にするか悩みましたが……。
妥協は良くないと思い、少し生々しくしました。