白狼救済録 作:らんらん出荷マン
またまたオリジナル要素が爆発します。
――キサラギ拉致から翌日。
SRT医療棟・地下病室。
消毒液の臭い。
真っ白な壁。
必要最低限の家具だけが置かれた、殺風景な個室。
パジャマ型の病衣。
ポタ、ポタ、と一定の間隔で落ちる点滴。
物音ひとつない。
清潔で、静かで、息苦しいほど整えられた空間。
レナはただじっと、天井の眩い蛍光灯を見上げていた。
(『何もするな』というのも……苦痛だな)
ふと、この世界に来たばかりの頃を思い出す。
乾いた砂。
焼けるような陽射し。
喉の奥に貼りつく、埃の味。
あの時は、水も武器もなく、ただ死にかけていた。
それなのに――。
「ここは綺麗過ぎる。“砂”の方がマシだ」
思わず、掠れた声が漏れた。
コンコン――。
病室のスライドドアが叩かれる。
「どうぞ……」
返事をすると、白いドアがガラガラと音を立てて横に流れた。
蒼黒の長髪を揺らし、凛とした表情の人物が入ってくる。
「どうやら、元気そうだな。上級小隊長」
威圧ではない。
だが、逆らいがたい重みを含んだ声だった。
「……ッ! 総司令……」
レナは反射的に起き上がろうとし――。
「寝ていろ。君は“病人”だ」
短く窘められ、動きが止まった。
総司令は当然のようにベッド脇の丸椅子へ腰を下ろす。
それから一度だけレナの瞳を見つめ、手に提げていたビニール袋を軽く掲げた。
「見舞いだ。差し入れを買ってきたぞ」
総司令が袋から取り出したのは、菓子でも花でもなく――。
一房の黄色いバナナと、高カロリーの栄養バーだった。
「バナナとカロリーマイトだ。糖質、電解質、最低限のカロリー補給にはちょうどいい。疲れた時は、これに限る」
「お……お気遣い、感謝します」
(何だ……そのラインナップは)
「……見舞い品というより、補給物資ですね」
「花を買う趣味はない」
「それで……総司令。何の用ですか?」
「見舞いだと言っただろう」
「“それだけの理由”で多忙な貴女が、ここまで来るとは思えません」
「……相変わらず、可愛げのないことを言う」
総司令はバナナを一本もぎ取り、ベッド脇の小さなテーブルに置いた。
「会長から、必要な範囲だけは聞かされた。……任務後、君は機内で錯乱状態に陥ったそうだな」
「も……申し訳ありません。そのことは、記憶に無く……」
「そうか」
総司令は短く頷くと、バナナの皮を剥いて齧りついた。
「医療部の所見も読んだ。戦闘後急性反応。精神負荷過多。意識混濁。過呼吸。手指振戦。幻覚様言動。記憶の欠落」
淡々と並べられる言葉の列が、冷たい鉛のようにレナの胸へ沈んでいく。
それは症状の羅列ではなかった。
レナという兵器に刻まれた、損耗記録のように聞こえた。
「……私は、任務を完遂しましたか?」
「キサラギは確保。回収物も引き渡し済み。安心しろ、WOLFは任務を完遂した。――だが、一つ問題を挙げるとすれば……」
総司令はそこで初めて、わずかに目を細めた。
「君は、壊れかけた」
短い言葉だった。
だが、その一言だけで病室の温度が下がったように感じた。
総司令は一拍置き、バナナの皮をゴミ箱へ投げ入れる。
「任務を達成した者を、私は責めない。だが、達成するたびに壊れていく者を、見なかったことにはできない」
「……」
「まあいい」
総司令は再び、別のバナナへ手を伸ばした。
「一夜で……状況は一変した」
皮を剥きながら、何でもないことのように告げる。
「カイザー本社は早かった。夜明け前には声明を出したぞ。カイザー・インダストリーの一部役員、および現場責任者の独断。未承認の高反応性化学物質、および関連装置の不適切な管理について、本社は関与していない。管理体制に不備があったことは“誠に遺憾”であり、調査に全面協力する――」
総司令は鼻で笑うように息を吐いた。
「要するに、尻尾切りだな」
「……カイザー・インダストリーを、切ったんですか?」
「ああ。親会社のカイザー・コーポレーションが、インダストリー側の独断として処理した。事実上の切り捨てだ。だが、本体は生きている」
総司令はバナナをひと口齧る。
「カイザーは、キヴォトスの雇用と物流を支える太い血管だ。癪な話だが、簡単には潰せない。仮に潰せばどうなるか……想像に難くない」
レナは天井を見つめたまま、薄く息を吐いた。
「……」
「そして、君たちが回収した証拠を基に、防衛室の幹部数名を事情聴取の名目で隔離した。今は矯正局の管理区画で、外部との接触を遮断されている」
「……」
「完全に切れたわけではない。だが、腕の一本は折ってやった。……気分が良いな」
総司令は淡々と言い、またバナナを齧る。
「それと……FOXが地下で見つけたサーモバリック弾頭だが。
「空……?」
そこで、総司令の声が初めて低くなった。
「外殻、散布機構、点火系は完成していた。だが、肝心のA液とB液は、まだ充填されていなかった」
「……ッ」
レナの喉が、小さく鳴る。
「完成間近。ギリギリだったな、上級小隊長」
ギリギリ。
その言葉だけが、妙に耳の奥に残った。
完遂した。
止めた。
間に合った。
そう言われているはずなのに、胸の奥には何も満ちない。
達成感も。
安堵も。
勝利の実感も。
何もない。
むしろ、空の弾頭という言葉が、別の爆発を呼び起こした。
雷帝拉致作戦。
展示会場三階。
白い閃光。
衝撃波。
燃焼。
そして――消えたVIPER。
「カイザーはサーモバリック関連資料の大半を消失。そして、肝心の“技術主任は情報を持ち逃げ”して現在は行方不明……。今頃、奴らは疑心暗鬼で大騒ぎだろうな」
バナナを平らげた総司令は、丸椅子から立ち上がった。
「ご苦労だった。暫く休め。後は、私たちの仕事だ」
総司令はそれだけ言い残し、病室から立ち去った。
廊下に出ると、白い扉が静かに閉まる。
背後に残ったのは、消毒液の臭いと、蛍光灯の白さだけだった。
「……」
総司令は無言のまま数歩進み、ふと足を止めた。
白い壁。
磨かれた床。
静かすぎる医療棟の廊下。
彼女は懐からタブレット型端末を取り出し、暗号化通信を開く。
数秒後、画面の向こうに連邦生徒会長の姿が映った。
『お疲れさまです、総司令。上級小隊長の様子は?』
総司令は会釈だけで済ませ、端的に答える。
「……表面上は問題ない。だが――どこか、弱々しい」
一拍置いて、低く続けた。
「あの子は今、消えかけている」
総司令はわずかに目を細めた。
「報告書の内容は、間違っていなかった」
『……』
画面の向こうで、会長は沈黙した。
いつもの柔らかな笑みは、まだ崩れていない。
だが、その沈黙は、肯定の代わりになっていた。
「完成された実戦兵。危うい精神構造。指揮、責任、全滅、死に対する過剰反応」
総司令は淡々と読み上げる。
だが、その声には、かすかな硬さが混じっていた。
「今回……それが、表面化した」
『……そうですか』
「そうですか、で済ませていい話ではない」
総司令の声が低くなる。
「任務中の迷いを削ぎ落とす“アレ”が、完全に裏目に出た」
通信越しに、会長の表情がわずかに曇る。
「会長。あの子は切り札だ。だが、無限に使える札ではない」
『分かっています』
「いいや。分かっている者の使い方ではない」
総司令はそう言い切った。
短い沈黙が落ちる。
『…………ええ。だから……休養命令を出しました』
「ふん。休養で済めばいいがな……」
総司令はタブレットを握る指に、わずかに力を込めた。
「会長。報告書にはもう一つ、重要な記述があったはずだ」
『無差別・衝動的な暴力に転じる兆候はない』
「ああ……。あの子は、他人を壊す怪物ではない」
総司令は、病室の扉を一度だけ振り返る。
「むしろ自分を壊してでも、他人を生かそうとする。
……そういう意味では、救いようがないほど優しい子だ」
画面の向こうで、会長は何も言わなかった。
総司令は続ける。
「だからこそ危険だ。命令すれば動く。必要だと言えば飲み込む。仲間のためだと言えば、自分の限界など最初から計算に入れない」
『……』
「会長。このまま鎖を巻くなら、加減を間違えるな」
総司令は低い声色で告げ、そのまま通信を切った。
切断の直前、画面の向こうで会長の瞳がわずかに揺れたように見えた。
――
――
レナは、テーブルの上に置かれた差し入れを見た。
バナナ。
栄養バー。
空になった袋。
「……一人で、半分以上食べて行ったな」
小さく呟く。
やっと一連の事件は終わった。
カイザーは尻尾を切り、防衛室は腕を折られ、弾頭は空のまま押さえられた。
ならば、これは勝利だろう。
勝利のはずだった。
だが、言いようのない脱力感が全身に満ちている。
胸の奥に沈んだ黒いものは、まだ消えていない。
毒は、まだ抜けていなかった。
その時、スマホが震えた。
――ピロン。
画面に表示された名前は、空崎ヒナ。
――
『おはよう、レナ』
『いつでも良いんだけど……少し、話せる?』
『あなたに、会わせたい人がいる』
――
ヒナからの短いメッセージを見つめ、レナはゆっくりとベッドから身を起こした。
(……ヒナから連絡とは、珍しいな)
メディックからは、安静に過ごせと言われている。
休養命令。
出撃禁止。
訓練禁止。
だが、“安静に”と言われただけで、「外出禁止」とは言われていない。
(……むしろ、今がベストだ。復帰したら、おちおち会っていられん)
そう結論づけるなり、レナは画面を素早くタップした。
――
『おはよう、ヒナ』
『今日は非番だ。すぐにでも会えるぞ』
『本当に?……無理してない?』
『問題ない』
『分かった。11時にD.U.のカフェで待っている』
――
レナはスマホを伏せ、ベッド脇のテーブルへ置いた。
十一時。
D.U.中央通りのカフェ。
移動時間を考えれば、着替えて出れば十分間に合う。
そう判断した直後だった。
ピッ――。
甲高い電子音が、どこからか鳴った。
音源は、白いキャビネットの上。
畳まれたレナの黒い制服。
その横に置かれた、軍用PDAだった。
「……?」
SRTから支給され、任務中の地図表示、暗号通信、データ解析、部隊管理に使用していた端末。
その画面が、勝手に点灯していた。
SYSTEM UPDATE:REQUIRED
SOURCE:GENERAL STUDENT COUNCIL / EXECUTIVE AUTHORITY
AUTHORIZATION:G.S.C. PRESIDENTIAL OVERRIDE
「あの女……勝手に人の物を」
レナは眉をひそめ、PDAを手に取った。
更新許可を押した覚えなどない。
だが、流れるように表示される文字列は、レナの疑問も拒絶も無視して進んでいく。
MODEL:SRT-MIL-018H
GYNOID-OS:MIGRATING TO [REDACTED] OS
[REDACTED] OS:BOOTSTRAP
DEVICE DESIGNATION:EDUT TABLET
A.N.O.R.A. / PDA LIMITED MODE:DEPLOYING
「エドゥト……? 黒塗り……OSが書き換えられた?」
聞き慣れない単語と、塗り潰された文字列に、レナの喉がわずかに強張る。
次の瞬間、PDAの画面が一度だけ暗転した。
そして、そこに小さな少女のシルエットが浮かび上がる。
連邦生徒会長を幼くしたような顔。
感情の薄い瞳。
笑わない口元。
Renegade Systemの奥で見た、あの無機質な支援AI。
『接続を確認』
平坦な声が、PDAのスピーカーから響いた。
『A.N.O.R.A.、PDA限定モードで起動』
「……アノラ」
『肯定。本機、SRT-MIL-018Hは“エドゥトの板”へ更新されました』
「許可した覚えはないぞ」
レナの指が、端末の縁を強く掴む。
ただの軍用PDAだったはずだ。
それが、いつの間にか別の名前を与えられ、別のものへ作り替えられている。
『補足。本機は連邦生徒会に所有権があります』
「……使用権は、私にある」
『肯定。使用権限者:大上レナ。識別:WOLF1』
「なら、更新の可否は使用者に確認するべきだ」
『否定。本更新は医療部所見および連邦生徒会長命令に基づく安全管理措置です。使用者同意は不要と判定されました』
「安全……管理?」
レナは低く笑う。
「冗談は止せ。お守りを受ける年じゃない」
『否定。本機の存在定義は“
その返答に、レナの笑みが消えた。
隠す気すらない。
保護だとも、支援だとも言わない。
記録。
監視。
あまりにも正直で、あまりにも冷たい定義だった。
「クソッ……それに、さっきの黒塗りは何だ。OS名が読めなかった」
『回答権限がありません』
「……」
『直近の会話ログから予定を検出。十一時、D.U.中央通りカフェ』
「おい……勝手に人のスマホを読むんじゃない」
『外出時のバイタルをリアルタイムで監視』
「止める気か」
『否定。本機に拘束力はありません』
拘束しない。
ただ、見ている。
その事実が、余計に不快だった。
「パパラッチめ……」
『否定。本機の存在定義は――』
「黙れ。イタチごっこは御免だ」
『了解。受動監視へ移行』
レナは乱雑にエドゥトの板をベッドの上へ放り投げた。
スプリングの反発で、端末が数度軽く跳ねる。
画面の中では、幼い会長の顔をした少女が、無表情のままこちらを見つめている。
まさか、ヘルメットの外にまで追ってくるとは思わなかった。
任務が終われば、あの無機質な声も、不愉快な顔も、見なくて済む。
そう思っていた。
だが違った。
鎖は、形を変えただけだった。
レナは点滴の針を引き抜き、ガーゼを押し当てて止血する。
病衣を脱ぎ捨て、下着姿になった。
視界の下に映る、自分の身体。
細い肩。
薄い胸。
筋肉の少ない、華奢な肢体。
昔とは、何もかも違う。
「……」
鏡に映らなくても分かる。
これは、自分であって、自分ではない身体だ。
『軽度のストレス反応を検出』
アノラの無遠慮な報告が、静かな病室に落ちた。
――
――D.U.中央通りのカフェ。
キヴォトス標準時、11:03。
密かに医療棟を抜け出したレナは、以前にも立ち寄ったお気に入りのカフェの前に立っていた。
「……少し、遅れてしまったか」
ヒナが会わせたいと言った相手が誰なのか。
その時のレナは、まだ知らなかった。
一歩踏み出し、木製ドアを押し開く。
チリリン、とベルが細やかに鳴った。
店内を包むコーヒーの香りが、医療棟の消毒液の臭いを上書きしていく。
「いらっしゃいませ……おや」
カウンターの奥で、ヒゲを生やしたロボットのマスターがレンズを動かした。
「いつもお美しいですが、今日は顔色がよろしくありませんな」
「……スッピンなだけだ」
「……それは、申し訳ありません。大変失礼致しました。コーヒーはいつものでよろしいですかな?」
「ああ、頼む」
マスターは店の奥のボックス席へ手を向けた。
「畏まりました……ご友人たちが、お待ちですよ」
レナは礼を言う代わりに、軽く顎を引く。
奥の席へ向かう途中、右手の指先がわずかに震えた。
反射的に、左手でそれを押さえる。
エドゥトの板が、制服のポケットの中で小さく震えた。
『手指振戦を検――』
「今は……黙っていろ」
レナは小声でアノラの報告を遮った。
店の奥。
人目につきにくいパーテーションで仕切られたボックス席。
そこに、空崎ヒナと――見知らぬゲヘナの生徒が向かい合うように座っていた。
白い髪と白い肌。
顔の半分を隠すような黒い前髪。
耳に光るピアス。
黒を基調とした服装と、腰から生える片翼の翼。
(あの目……ただのゲヘナ生じゃないな)
気怠げな雰囲気を纏っている。
だが、その細い視線は鋭く、店内の出入口、客の動線、こちらの歩幅まで油断なく観察していた。
ヒナがこちらの存在に気づき、手を振った。
「待たせたな」
「……急に呼び出して、ごめんなさい」
レナがボックス席に手を置くと、ゲヘナ生の視線が静かにこちらを射抜いた。
「休養中の身を引っ張り出したんだ。それなりの理由があるんだろうな」
レナは短く言い、ヒナの隣に腰を下ろした。
「……ニュースは見たよ」
ヒナが紹介するより先に、向かいの少女が低い声で切り出した。
「カイザーの第二工場。A.N.T.I.O.C.H.の摘発……それを指揮した人の顔を、見てみたくなった」
「……何者だ。お前は」
「鬼方カヨコ。二年生。……ゲヘナ情報部、工作班、班長」
「二年生……ヒナの先輩だったか。失礼しました」
「いいよ。気にしないから」
カヨコはカップに手を伸ばさないまま、言った。
「……一つ、聞いていい?」
「答えられる範囲なら」
「……Ionizer作戦」
Ionizer――。
雷帝拉致作戦の作戦名。
その名を、あの場にいなかったはずの生徒が口にした。
空気が、わずかに硬くなる。
「あの時、何部隊投入されていた?」
ヒナの指先が、ほんのわずかに止まった。
レナは答えない。
答えられないのではない。
その質問は、あまりにも正確すぎた。
「……なぜ、それを私に聞く」
「私の班が、運んだから」
「……ッ!」
「搬入経路。監視の死角。警備ログの穴」
カヨコは淡々と続ける。
だが、カップに触れようとした指先だけは、途中で止まっていた。
「まさか……装備を忍び込ませたのは、お前たちか」
「うん」
カヨコは目を逸らさなかった。
「そうだよ」
沈黙――。
レナはしばらくカヨコを見つめたまま、低く答えた。
「…………三個分隊だ」
カヨコの指先が、ほんのわずかに震えた。
「やっぱり……」
「……」
ヒナは何も言わない。
ただ、伏せられた睫毛の影だけが、少しだけ濃くなる。
カヨコは短く息を吐き、冷めきったカップに視線を落とした。
「……WOLF。FOX。そこまでは、追えた。記録にも、痕跡にも、名前が残っていた。
でも私たちは、あと四人分の装備を紛れ込ませた」
「…………」
「……ッ」
レナは押し黙り、ヒナの喉がわずかに動く。
「SRTの名簿にも、情報部に送られた作戦報告にも、どこにも……いなかった」
カヨコの声が、わずかに低くなる。
「……代わりに、存在しないはずのEODが、世間に広まっていた」
その言葉を最後に、カヨコの視線が少しだけ遠くなる。
それに合わせてカフェの静かな空気と、コーヒーの香りが離れていった。
代わりに、雑多な光と、錆びた鉄の臭いと、夜の冷たい空気が記憶の底から浮かび上がる。
――
――二カ月前。
ブラックマーケット外縁、スクラップヤード内。
夜の闇に紛れるよう、最低限の照明だけが搬入口を照らしていた。
そこには、表向きのスクラップと、表には出せない代物が混ざっている。
ゲヘナ情報部の活動は、決して派手ではない。
校風から誤解されがちだが、実際は――地味で、地道で、退屈な仕事が多い。
人物の尾行。
記録の改竄。
情報の収集。
それが情報部の仕事だった。
だが、今回の仕事は違った。
空気が、どこか重い。
「リストにある物は、これで全部?」
鬼方カヨコは、クリップボードに留められたチェックリストを捲りながら、黒い搬送ケースの前で足を止めた。
「はい。特殊作戦服十二着、プレートキャリア十二着、通信端末、特殊消音ライフル十二丁、予備マガジン、特殊ヘルム十二基。それと……このケースです」
最後のケースだけ、他の物と雰囲気が違っていた。
円筒状の金属ケース。
大きさからして、通常の小火器ではない。
ランチャーの弾頭にしては太く、弾薬箱にしては妙に厳重だった。
「これは……?」
「未確認です」
カヨコは小さく息を吐いた。
情報部は、その性質上、中身が不明な荷物を運ぶことがある。
珍しいことではない。
だが経験上、そういう物は大抵、碌なことにならない。
それでも、命令は命令だった。
「これの搬入経路は?」
「展示会場裏手。業者用搬入口から入って、ダクトを伝い三階の用務室へ。監視カメラは六分間だけ、ループ映像に差し替えます」
「警備ログは?」
「臨時メンテナンス扱いに」
「……分かった」
――その時だった。
「いや〜、助かるよ〜。ゲヘナの情報部さん!」
明るい声が、背後から聞こえた。
振り向くと、そこにSRTの制服を着た少女が立っていた。
笑っている。
その目の奥には、柔らかい光が宿っていた。
「京咲ミオさん……ですよね。情報部の鬼方です」
「うん。当日はよろしくぅ、カヨコちゃん!」
ミオは軽い足取りでカヨコの横を通り過ぎ、円筒状のケースを軽く叩いた。
「これ、危ないから。取り扱いは気を付けてね〜」
「中身は、何ですか?」
「うーん……知らない方がいいわね」
ミオは悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「知らない方がいいことって、世の中にはたくさんあるでしょ? 私たちは、そういうのを片付けるお掃除係だからさ――」
それが、鬼方カヨコがまともに言葉を交わした、最後の京咲ミオだった。
その後――。
彼女は記録から消えた。
装備も。
学籍も。
名前も。
三階に残ったものは、灰と、ありもしない説明だけ。
テレビに映る展示会場は、ひどい有様だった。
いくら兵器のデモンストレーションとはいえ、三階が丸ごと吹き飛ぶなど、普通ではあり得ない。
「……うそ……一体、何が……」
カヨコは瞬きもせず、それを見つめていた。
頭の中が、真っ白になっていく。
しばらくして、ようやく思考が戻ってきた。そして、すぐに原因の見当がついた。
「ま……まさか、アレの中身は……」
中身は分からない。
何に使われたのかも分からない。
けれど、あの三階で起きたことと、自分が運んだ円筒状のケースが無関係だとは、どうしても思えなかった。
大勢の人生を狂わせたかもしれない。
親衛隊の中には、親しい知り合いもいた。
任務で何度か顔を合わせ、軽口を交わした相手もいた。
もしかしたら、あの瓦礫の下にいるのかもしれない。
もしかしたら、自分が通した荷物のせいで。
「わ、私が……」
その言葉は、最後まで形にならなかった。
――――
―――
――
―
――
――
「あの後、個人的に色々調べたんだ……」
カヨコの声が、再びカフェの静けさの中へ戻ってくる。
「爆発の説明。消えた作戦記録。存在しないEOD。第二工場の摘発。A.N.T.I.O.C.H.……」
カヨコは、指先で冷めたカップの縁をなぞった。
「……そうか」
レナは短く返した。
だが、その声は自分でも分かるほど、乾いていた。
カヨコはしばらく黙っていた。
冷めたカップの底を見つめたまま、何かを待っているようにも見えた。
許しの言葉か。
罵倒か。
それとも、同じ穴に落ちた者からの判決か。
「……」
けれど、レナは何も言わなかった。
「……今日は話せてよかった。これで、私は失礼するよ」
カヨコが立ち上がろうとした、その時だった。
ブルッ、とレナのジャケットのポケットで、鈍い振動が起きた。
『エドゥトの板』だ。
レナは無表情のままポケットに手を滑らせ、画面を盗み見た。
[対象:鬼方カヨコ]
[罪悪感反応:高/閾値超過]
[自己処罰傾向:検出]
[秘匿抵抗:低下]
(……罪悪感、か。人の中を覗くとは、便利な機械だ)
アノラが弾き出した冷徹な解析結果を横目に、レナは口を開いた。
「お前のその顔は、ただ話を聞いてもらってすっきりした人間の顔じゃない」
「……」
カヨコの動きが止まった。
彼女のジト目が、わずかに揺らぐ。
「ただ……確証を得たかった。それだけだよ」
カヨコは目を伏せ、自嘲するように小さく笑った。
「あそこにいると……自分が何を運んだのか忘れそうになるんだ。
大義名分や組織の論理に流されて、自分が引き金の一部だったってことを、
いつか……都合よく忘れるのが、怖い」
カヨコは向き直り、レナの赤い瞳を見据えた。
「これで、自分が何をしたのかよく分かったよ」
カヨコはそこで一度、息を止めた。
「……もう、情報部には戻らない」
ヒナの指先が、ぴくりと動いた。
それを見つめたカヨコは、ただ薄く笑った。
「カヨコ……行くところはあるのか?」
「ないよ。しばらくは、頭を冷やすつもり」
「……そうか」
「止めないんだね……」
「そんな資格はない」
「ふふっ……そっか」
カヨコは、それだけで十分だというように小さく頷き、ソーサーの横に貨幣を置いた。
「……ありがとう」
それだけ言い残し、彼女は出ていった。
ボックス席に沈黙が残る。
カップの底に残った冷たいコーヒーと、言葉にできない毒だけが、そこに沈んでいた。
「……事故だって言ったのに」
ヒナの両手が、冷めたコーヒーカップを強く握りしめている。
小刻みな震えが、水面に波紋を作っていた。
ギリッ、とヒナの奥歯が鳴る。
それは、騙されていたことへの怒りではない。
騙されていると感づいていながら、その安全な嘘に縋ってしまった自分自身への激しい嫌悪だった。
「私だけが、安全な場所で“嘘”に守られていた……」
「……ヒナ」
レナは無表情のまま、モハの残りを飲み干した。
口の中にじわりと広がる苦味が、ちょうどよかった。
「泥を被るのは、私たちだけで十分だ。お前は……秩序の側に立て」
ヒナは弾かれたように顔を上げた。何かを言い返そうとして、しかし紡ぐべき言葉が見つからず、ただ痛ましげに唇を噛み締める。
再び、ジャケットのポケットで重たい振動が起きた。
レナは舌打ちを噛み殺し、無言で画面を盗み見た。
[対象:空崎ヒナ]
[罪悪感反応:高]
[自己嫌悪反応:上昇]
[心理的負荷:危険域]
(クソったれが……)
「ヒナ……もう帰ろう」
「……そうね」
レナは立ち上がり、伝票を手に取った。
ヒナも力なく頷き、ふらつくような足取りで席を立つ。
会計を済ませた後、二人は一言も交わさないまま、D.U.の人混みの中で別れた。
人混みに紛れていくヒナの背中を見送ってから、レナは制服のポケットに手を入れた。
エドゥトの板は、沈黙している。
だが、見ている。
記録している。
今この瞬間も、何もかも。
レナは小さく息を吐き、端末を取り出した。
「……アノラ」
画面に光が灯り、幼く縮めた会長が浮かび上がる。
『お呼びでしょうか』
「会長に繋げ」
『用件は』
「土曜日、アビドスへ行く許可を取る」