白狼救済録 作:らんらん出荷マン
二次創作日間ランキングに載っていたので、前倒しで投稿します。
皆様ありがとうございます。
――D.U.中央通り。
ヒナと別れたあと、レナはすぐには医療棟へ戻らなかった。
人混みの中へ戻る気にはなれなかった。
中央通りの喧騒から逃げるように、一本外れた路地裏へ入り、そこでようやく足を止める。
「……アノラ」
レナが低く呼ぶと、エドゥトの板の画面に淡い光が灯った。
手のひらの上で、薄い端末が小さく震える。
数拍の沈黙の後、画面中央に、連邦生徒会長を幼く縮めたような少女の姿が浮かび上がった。
感情の薄い瞳。
整いすぎた表情。
笑わない口元。
『お呼びでしょうか』
「会長に繋げ」
『用件は』
「土曜日、アビドスへ行く許可を取る」
[私的外出申請を受領]
「……私的、か」
レナは小さく鼻で笑い、路地裏の壁に背を預けた。
どこかへ出かけるだけでも、許可がいる。
任務ではない。
敵地潜入でも、強制捜索でも、非正規作戦でもない。
ただ、かつて自分を拾ってくれた場所へ帰るだけだ。
それでも、いちいち申請が必要になる。
その事実が、自分はやはり飼い犬なのだと、レナに改めて思い知らせた。
[連邦生徒会長とのホットラインを確立中……]
アノラが画面から消えた。
代わりに、白いプログレスバーが表示される。
数秒――。
たったそれだけの待機時間が、妙に長く感じた。
レナは、遠方に見えるサンクトゥムタワーへ視線を向ける。
「クソったれ」の白い尖塔は、相も変わらぬ威容で空を貫いていた。
あれは、キヴォトスのすべてを見下ろす、あの女の玉座だ。
ピピッ――。
甲高い電子音と共に、画面が暗転する。
『確立完了。繋ぎます』
次の瞬間。
高級そうな木材のデスク越しに、連邦生徒会長の姿が映った。
『こんにちは、レナちゃん。アップデートしたPDAと、常駐AIのA.N.O.R.A.。
その二つの使い心地はどうですか?』
「――世紀の発明だな」
レナは苛立ちを隠さず、即答した。
「二度と人の端末を勝手に弄るな。
それに、コイツは何だ。……自分の幼い姿を模倣させるとは、いい趣味だな」
『模倣ではありません。視覚インターフェースの最適化です』
画面の隅で、アノラが無機質に補足する。
「黙れ。今はお前に聞いていない」
『ふふっ……仲が良さそうで何よりです』
「……耳が腐っているようだな」
レナが吐き捨てるように言うと、画面の向こうの会長は楽しげに小さく笑った。
まるで、反抗期の子どもをあしらう保護者のような態度だった。
それが、レナにはひどく気に食わない。
「世間話をするために呼んだんじゃない。用件は伝わっているだろう」
『ええ。土曜日に、アビドスへ行きたいんですよね?』
会長は手元の端末に視線を落とす。
『いいですよ。羽を伸ばしてきてください』
一切悩む素振りも見せず、会長は笑顔のまま二つ返事で了承した。
レナの瞳が、すっと細まる。
「……いいのか?」
あまりにも早い許可だった。
まるで、自分がそう申し出ることまで、最初から読まれていたように。
『はい。休養命令を出したわけですし、支障はありませんよ?』
会長は取り出した書類にペンを走らせながら続ける。
『むしろ、積極的に休んでください。休むのも命令のうちですから』
「……」
『アビドスのホシノさんや、ユメさんにも……よろしく伝えてくださいね』
その名前を出された瞬間、レナの胸の奥で何かが軋んだ。
会長は知っているのだ。
アビドスが。
ユメとホシノが。
レナを、ぎりぎりのところで「人間側」に繋ぎ止めている鎖であることを。
だからこそ、擦り切れた兵器を長持ちさせるための「保守点検」として、この帰郷を推奨している。
一拍置いて、会長はペン先を止めた。
そして、モニター越しにレナを真っ直ぐ見据える。
『ただし――』
「……何だ」
『そのPDAは、肌身離さず持っていてください。
それだけが、条件です』
「監視付きの帰省か。気が利くな」
レナが画面に向かって皮肉を投げると、会長はわざとらしく頬を膨らませた。
『もうっ! ……そういう所ですよ!』
ブツッ、と通信が切れる。
画面が暗転し、再びアノラの仏頂面が現れた。
『この後の予定は、どうなさいますか』
「医療棟に戻って寝る。それだけだ」
『了解』
画面に映るアノラの頭上に、ポップアップが表示された。
[予定:長時間睡眠/非生産的活動]
「……お前、性格が悪いな」
『否定。本個体に性格の概念は――』
「分かった。もういい。お前は優秀だ……」
『肯定』
噛み合わない応酬に疲れ果て、レナはエドゥトの板をジャケットのポケットへ乱暴に突っ込んだ。
――
――SRT医療棟・地下病室。
医療棟へ戻った直後、当然のようにメディックに捕まり、レナは再び点滴に繋がれた。
「安静に、と言いましたよね?」
穏やかな声だった。
だが、メディックから漏れ出る静かな圧力が、レナに降りかかった。
「……すまない」
それから土曜日までの数日間、レナはSRT医療棟の個室から一歩も出なかった。
いや、出られなかったというべきか。
医療部から外出禁止を明言されたわけではない。
だが、気晴らしに廊下へ出ようとするたび、エドゥトの板が震えた。
『歩行時心拍上昇。休養命令違反の可能性があります』
[補足。本機に物理拘束する能力はありません]
[ただし、医療部への通知権限は保持しています]
その無機質な警告を見た時点で、レナは考えるのをやめた。
ベッドに戻り、また天井を睨む。
強制的な休養命令。
訓練禁止。
出撃禁止。
部隊指揮権限の凍結。
銃の手入れすら許されない、永遠とも思える暇。
わずか数日で、レナは心底嫌気が差していた。
(……やることが、何もない)
こんなに何もせず、ただ寝ているだけの時間は、前世のユウイチの記憶を探っても存在しない。
戦場では、常に次の死線を予測していた。
少しでも気を抜けば、命が消えた。
立ち止まることは、死に場所を選ばないことと同じだった。
だが、ここには敵がいない。
銃声もない。
命令もない。
病室に満ちた清潔な静寂が、レナを苛む。
――お前は、「戦うこと」以外には空っぽだ。
そう、暗に告げられているようだった。
『複数の動体反応を検出』
突如、キャビネットに置かれたエドゥトの板から、アノラの平坦な声が響いた。
その直後――。
コンコン。
静寂を破るように、遠慮がちなノックの音がした。
「……どうぞ」
白いスライドドアが横に流れる。
最初に顔を覗かせたのはリノだった。
その後ろから、紙袋を抱えたスイと、妙に神妙な顔をしたメイが続く。
「隊長……お体は、大丈夫ですか?」
「ここは静か過ぎる……最悪だな」
レナは起き上がりもせず、忌々しげに答えた。
――最悪。
その言葉を聞いた瞬間、リノの獣耳が少しだけ垂れ下がった。
そして、微かに安堵の息が漏れる。
「そうですか……はぁ、よかったです」
「酷い副官だ。最悪と言っているのに、“よかった”とは何だ……」
「……いえ、こちらの話です。お気になさらず」
そう言いながらも、リノの視線はレナの顔から逸れなかった。
頬の血色。
目の焦点。
声の抑揚。
指先の震え。
呼吸の浅さ。
以前なら、そんなところまで見なかった。
隊長が「問題ない」と言えば、それを信じていた。
隊長が「大丈夫」と言えば、そうなのだと思っていた。
けれど――。
一度でも知ってしまえば、もうそんなふうには見られない。
誰よりも強いはずの隊長が、壊れたように叫び、虚空に向かって殺意を撒き散らし、息を吸うことすらできなくなっていた姿を。
あの凄惨な姿を、見てしまったから。
だからリノは、言葉ではなく目を見る。
返事ではなく、呼吸を見る。
「大丈夫」という言葉の奥にある、薄いひび割れを探す。
「と、いうわけで隊長。差し入れだよ」
沈みかけた空気を払うように、スイが一歩前に出て紙袋を掲げた。
中から出てきたのは、菓子パン、チョコレート、角砂糖の袋、そしてなぜかチューブ入り練乳だった。
「おい。甘い物しかないぞ」
「何言ってるのさ。隊長には糖分が必要なんだ。
精神的にも、肉体的にも、“革命”にも、糖分は必要」
「糖分と革命は関係ないだろう」
スイは人差し指を立て、どこか誇らしげに口を開く。
「あるよ。糖分不足の革命は失敗する。
僕の故郷じゃ、演説前にプリンを食べるのは常識なんだよ」
「そ、そうなのか……」
一体、糖分の何がスイをここまで駆り立てるのか。
確かに、レナの世界でもチョコレートやエナジーバーが支給されることはあった。
カロリーが、生存に直結するからだ。
しかし――演説の前にプリンとは、なんとも間の抜けた話である。
「この食べ方、オススメなんだ」
スイは袋から練乳チューブを取り出し、菓子パンに惜しげもなく振りかけた。
「はい、練乳パン。元気が出るよ」
白い練乳に染まった菓子パン。
そこから漂う暴力的な甘い匂いが、レナの鼻腔を容赦なく攻め立てる。
「……」
レナは仕方なく上体だけを起こし、練乳パンを膝の上に置いた。
「……ねえ、隊長」
メイに、いつもの軽い語尾はなかった。
レナは練乳まみれの菓子パンを一度だけ見下ろし、メイに視線だけを上げる。
「なんだ」
「どこまで……覚えてるの?」
「……何の話だ」
「あの夜の任務」
メイの声は、いつもの軽さを失っていた。
「メイさん」
リノが静かに名を呼んだ。
咎める声ではない。
踏み込み過ぎるな、という制止だった。
「ごめん。これだけは、聞いておきたいの」
「……」
「隊長が覚えてないなら、それでいい。
それだけを……教えてほしい」
白い病室に、短い沈黙が落ちた。
スイが練乳のチューブを握ったまま、気まずそうに視線を泳がせる。
「えっと……その、隊長。
無理に思い出さなくていいよ。僕らは、お見舞いに来ただけだし……」
レナは練乳パンを膝の上に置き、少しだけ目を伏せた。
「屋上に降りた。階段室を抜いた。配電が落ちた。……そこまでは、断片的に覚えている」
レナは一度、言葉を切った。
「地下へ降りてから先が、霞がかったように曖昧だ」
その答えに、三人の表情がわずかに強張った。
リノは目を伏せる。
スイは手にしていた練乳のチューブを、無意識に握り直した。
メイだけが、じっとレナを見ていた。
「……本当に?」
「ああ」
「そっか……」
メイは短く答えた。
いつものように笑うことなく。
ただ、その視線だけがレナから離れない。
「あの時の隊長は……すごく、怖かったよ……」
「私が、か……?」
「……うん」
メイは頷く。
「まるで……別人だった」
「メイさん……!」
リノが語尾を強めて制止しようと、一歩踏み出す。
「リノ……」
だが、その途中でレナが遮った。
「いいんだ。続けてくれ」
メイは頷いた。
けれど、唇は震えていた。
「た、隊長……誰かに向かって叫んでた」
「……何を」
レナの声が、ほんの少しだけ低くなる。
メイはすぐには答えなかった。
言っていいのか。
言うべきなのか。
それを測るように、彼女の白い翼が小さく震える。
やがて、メイは目を伏せたまま言った。
「撃ち殺せ」
空気が凍った。
スイが息を呑む。
リノの指先が、シーツの端を握りしめる。
「キヴォトスで、そんな言い方をする人はいないよ。
たとえ、ゲヘナ相手でもね」
メイの声は震えていない。
けれど、その奥にあるものは、明らかに恐怖だった。
「でも隊長は違った。
撃つでも、倒すでもない。
ただ……撃ち殺せって、言った」
「そうか」
レナは否定できなかった。
前世の戦場で、何度も聞き、何度も言い、何度も従った言葉だ。
戦争をビジネスに変えたあの世界には、死が溢れていた。
人の命など、ただの数字に過ぎなかった。
「……聞かせたくないものを、聞かせたな」
レナは静かに言った。
「すまない」
「謝ってほしいわけじゃないよ」
メイは即座に首を振った。
その声は、いつもの軽さを取り戻そうとして、失敗していた。
「ただ……知りたかっただけ。
隊長が、あの時どこにいたのか」
「……」
「目の前にいたのは私たちなのに、隊長は私たちを見てなかった」
メイの白い翼が、小さく震える。
「誰か、別の人たちを見てた」
その言葉は、静かな病室に重く沈んだ。
「……」
レナは答えなかった。
本人にさえ、それが記憶なのか、幻覚なのか、ただの残響なのか判別できない。
ただ、あの時――。
レナの目が見ていたものは、この青い世界ではなかった。
血と硝煙に塗れた、灰色の世界だった。
乗っていたトラックが跳ねた。
隣にいた男の両足は、座席の下から消えていた。
砲弾が着弾した。
――遠くではなかった。
さっきまで笑っていた声が途切れ、振り向いた先には、首のない戦友が倒れていた。
掩体壕に
次の瞬間、中にいた仲間は跡形もなく吹き飛んだ。
無数の影が、自分たちの塹壕に押し寄せて来た。
鉛玉を放てば、その影はバタバタと斃れた。
塹壕の泥の中で、敵の傭兵とナイフを奪い合った。
相手の腹に突き刺すと、温かいものが手首を真っ赤に染め上げた。
そうだ――。
次の瞬間には、誰かが死んでいる。
そういう世界だ。
「……昔の話だ」
それ以上を、レナは言わなかった。
言えなかったのではない。
言えば、彼女たちのいる場所まで汚してしまう気がした。
沈黙――。
このまま沈黙が病室を満たせば、見舞いは見舞いではなくなってしまう。
そう判断したのか、スイがわざとらしく練乳チューブを掲げた。
「もー、せっかく空気を和ませようとしたのに……。
さあ、隊長。食べなよ。きっと元気になるよ」
「……」
レナはゆっくりと練乳パンを口元へ近付ける。
どこまで行っても甘いだけの匂いが、暗い思考を塗り潰していく。
「……ッ」
意を決し、一口。
次の瞬間、口内に異常な甘さが広がった。
糖の暴力が一斉に舌へ襲いかかり、喉が反射的に震える。
「……おぇ」
レナは即座に嘔吐いた。
「あれ……合わなかった?」
――
――その日の夕刻。
「まだ口の中が甘い気がする」
『補足。糖質の過剰摂取は、代謝負荷、血糖変動、糖化反応を誘発します。非推奨』
「…………」
レナは無言でエドゥトの板を睨む。
それから、口の中に残る暴力的な甘さを水で流し込み、ベッドの上で横になった。
WOLFの三人は、先ほど帰った。
リノは最後まで何か言いたげだった。
スイは「今度はプリンにするね」と言い残した。
メイは、ドアを出る直前に一度だけ振り返った。
メイの視線が、まだ胸の奥に引っかかっている。
『誰か、別の人たちを見てた』
(……鋭いな、あいつは)
レナは目を閉じようとして、すぐにやめた。
目を閉じると、瞼の裏に余計なものが見える。
『睡眠導入を推奨』
「そうか。子守唄を頼む」
『リクエスト了解』
ポップアップに曲名が浮かび上がった。
[“ねんねんころりよ”]
『歌唱します』
画面に映るアノラは、どこからか取り出したマイクを握り締めた。
『ねんねんころりよ――おころりよ――』
抑揚のない声が、白い病室に落ちる。
子守唄と言うには、あまりにも平坦だった。
歌っている本人も無表情。
優しい唄のはずなのに、聞こえるのは、どこまでも冷たい声。
「……下手だな」
『否定。音程誤差は許容範囲内です』
「……」
レナは、キャビネットに置かれたエドゥトの板から背を向ける。
そして――その雑音を遮るように、無言で掛け布団を深く被った。
ベッドからはみ出したふわふわの尻尾だけが、ゆらゆらと揺れている。
――
――翌日。
SRT医療棟・地下病室前。
病室の前に、四つの影が並んでいた。
白いスライドドアを前に、先頭の少女が小さく息を吐く。
「……本当に、入っていいのかな」
「いいでしょ。許可取ったし、見舞いなんだから」
「倒れた理由が“過労”って話だけどさぁ……あのレナが過労で倒れる?」
「それを確認しに来たんだろう」
先頭の少女は一歩踏み出し、スライドドアをノックした。
コンコン――。
「……返事が無いね」
「寝てるのかな?」
「仕方ない、開けるぞ」
「ちょっと、ユキノ!?」
制止の声を無視して、ユキノはスライドドアに手をかけた。
音もなく、白い扉が横へ流れる。
白い病室。
その中央で、レナは布団を深く被ったまま横になっていた。
ベッドの端から、白い尻尾だけがはみ出している。
「……寝ているのか」
ユキノが小さく呟く。
続いて入室したニコ、クルミ、オトギの三人が、ユキノの背後から顔を覗かせた。
「ありゃ、ぐっすりだねぇ……」
「……お稲荷さん作ってきたんだけど、寝ちゃってるね」
「本当に過労なのかも」
ベッドの膨らみは、まったく動かない。
静かな病室には、キャビネットの上に置かれた淡く光るPDAと、残り少なくなった点滴だけがあった。
ユキノは、ベッドの端からはみ出した白い尻尾を見下ろした。
静かだった。
あまりにも、静かすぎた。
「過労……か」
ユキノは小さく吐き捨てる。
その横を、オトギが通り過ぎた。
抜き足、差し足。
物音一つ立てず、ベッドへ近付いていく。
「これは、あの尻尾に触れるチャンス……」
「ちょっとオトギ……起きちゃうわよ」
クルミが小声で制止するが、オトギは止まらない。
SRT内で、レナの尻尾は“魅惑の尻尾”として影で噂になっている。
だが、肝心の本人が一切触らせたがらない。
白くて、ふわふわで、感情に合わせて微かに揺れる。
例に漏れず、オトギも以前から、ずっと撫でたいと思っていた。
だが、少しでも近付こうものなら、刃物のような鋭い視線を向けられる。
あれは拒絶というより、迎撃に近い。
「……あと、ちょっと」
オトギの手が、無防備に放り出された白い尻尾へ伸びる。
あと数センチ。
指先がその柔らかな毛並みに触れようとした、その瞬間。
尻尾が横にふわりと避け、指先が空を掴んだ。
「あ……あれ?」
再度手を伸ばす。
ふわり――。
「このっ……絶妙なタイミングで」
オトギは眉をひそめ、もう一度だけ手を伸ばした。
――ふわり。
尻尾は、まるで生き物のように彼女の指先を避けた。
「……避けられてるわね」
「避けられてるな……」
「寝てるのに……?」
オトギの後ろで三人が小声で呟く。
「も……もう一回」
オトギは気を取り直し、手を伸ばす。
だが――白いふわふわの尻尾は拒むように、勢いよく掛け布団の中に潜り込んだ。
「あ……あぁ……」
オトギが心底残念そうに手を下ろす。
その様子を呆れ顔で見ていたユキノが、ベッドの脇へ一歩進み出た。
「レナ、起きているんだろう。茶番はよせ」
ユキノの冷ややかな声に、掛け布団が僅かに揺れた。
数秒の沈黙後、掛け布団がゆっくりと捲られる。
そこから顔を出したレナの表情には、眠気など微塵もない。
無感情の赤い瞳が、四人を射抜く。
「よく来たな……ちょうど退屈していた所だ」
「総司令から、随分と派手に倒れたと聞いたよ」
ユキノは項垂れるオトギを横に退け、ベッドに横たわるレナを見下ろす。
その鋭い視線が、「過労」という公式発表を微塵も信じていないことは明らかだった。
「ただの疲労だ。
それと……オトギ、次の合同演習は覚えていろ」
「ヒェ……」
「疲労か。君が“そう言う”なら、そうなんだろう」
ユキノはそれ以上言及しなかった。
その横でニコが、テーブルの上に漆器の弁当箱を置いた。
「お腹空いてると思って、お稲荷さん作ってきたよ」
ニコはレナの瞳を見つめると、柔らかく微笑んだ。
「すまないな。差し入れが甘い物ばかりで、辟易としていた」
レナはそう言って、弁当箱の蓋を開けた。
中には、形の揃ったお稲荷さんが並んでいる。
油揚げの淡い艶と、酢飯の匂い。
病室の消毒液の臭いの中で、それだけが妙に生活感を持っていた。
「色々、アレンジしてみたんだよ。
それぞれ味が違うから食べてみて?」
ニコの言葉に頷き、レナは手掴みで一つ、お稲荷さんを口へ運んだ。
甘辛く煮付けられた油揚げと、ほのかな酢の酸味。
練乳菓子パンのようなカオスと違い、このお稲荷さんは驚くほど優しかった。
(ただのお稲荷さん……だが、どこか懐かしい気がする)
「これは……少し味が濃いな。調整したのか?」
「うん。少し塩っぱい方が、いいと思って」
「……ああ、これは美味いな」
「本当? よかったぁ」
ニコが顔をほころばせる横で、オトギがこっそりお稲荷さんに手を伸ばそうとしている。
気づいたクルミがそれを咎める。
見かねたレナは、食べていいとぶっきらぼうに返した。
いつもの、他愛のない光景だった。
だが、ユキノだけはニコの背後から、レナの所作を油断なく観察していた。
食事のペース。
視線の運び方。
そして――お稲荷さんを掴んでいる手の、僅かな震え。
(……過労。それが公式見解だというなら、随分と見え透いた嘘をつく)
ユキノは、あの日のことを覚えている。
展示会場の制圧後、もぬけの殻のように倒れ込んだレナを。
「……ユキノ、どうした」
レナの赤い瞳が、ユキノを射抜く。
「人の顔をジロジロと見て。私の顔に何か付いているか」
「いや。……ただ、君が無茶をしていないか見ているだけだ」
ユキノは腕を組み、静かに告げた。
「指揮官は常に、体調に気を配る必要がある。
『過労で指揮ができません』では、SRTとして市民に示しがつかない」
「……」
レナは無言でお稲荷さんを口に放り込み、獣耳の裏を掻いた。
「……耳の痛い説教だな」
「なら、自覚しろ」
ユキノは淡々と言った。
「君は、自分が倒れた時の影響を軽く見ている。
WOLFだけじゃない。FOXも、SRTも、君が立っている前提で動いている」
「世辞は止めろ。過大評価だ」
「――違う。現実だ」
レナの否定にユキノは即座に切り返した。
「君はもう、一個分隊の長で済む立場じゃない」
「……」
押し黙るレナを見下ろしながら、ユキノは続ける。
「上級小隊長の声一つで、どれだけの部隊が動く……?
どれだけの隊員が、指示を待っている……?
君が倒れるということは、君一人が倒れるという意味じゃない」
ユキノの声は淡々としていた。
「君の指揮で組まれた作戦が倒れる。
君の命令を待つ隊員が止まる。
君を信じて前に出た者が行き場を失う」
「……」
「だから、レナ」
ユキノは初めて、少しだけ声を低くした。
「自分を軽く扱うな。……迷惑だ」
「……」
「そ、そういえば。そのシャチのキーホルダー……いつも付けてるよね」
静まり返った空気を入れ替えるように、ニコの視線が、壁際に置かれたレナの装備へ向いた。
銃のスリングに、小さなシャチのキーホルダーが揺れている。
「……ああ」
レナは、そこで初めてスリングの金具へ視線を落とした。
小さなシャチのキーホルダー。
鋭い目をした、黒と白の海の獣。
「取る理由が無いだけだ」
その言葉を聞いた瞬間――ニコの笑みが、ほんの僅かに固まった。
理由が無い――。
それにニコは、強い違和感を覚えた。
ニコが知っているレナは、銃に余計なものを付ける人ではない。
必要のない重さも、嵩張る飾りも、キヴォトスでは当たり前の派手な装飾も、彼女は嫌う。
そんな彼女が、ずっと外していない小さなシャチ。
なのに。
取る理由が無い。
その言葉は、とても冷たかった。
以前の彼女なら「大切なもの」とは直接言わずとも、彼女なりに不器用な言葉で肯定したはずだ。
(……レナちゃん、自分の言っていることに気づいていない……?)
ニコはユキノ、クルミ、オトギに視線を送った。
三人もまた、わずかに眉をひそめていた。
「……どうした、ニコ」
沈黙に気づいたレナが、怪訝そうに問い返す。
「あ、ううん。なんでもないよ」
ニコはすぐにいつもの笑顔を取り繕い、空になった弁当箱を片付け始めた。
「……ちゃんと休んでね、レナちゃん」
「ああ」
「……もう時間だ、行こう。長居は無用だ」
ユキノが踵を返す。
クルミとオトギもそれに続き、最後にニコが小さく手を振って病室を出ていった。
スライドドアが閉まり、再び病室に静けさが戻る。
レナは壁際に置かれたARに視線を向ける。
スリングに付いたシャチのキーホルダーが、病室の空調に揺れている。
あの日のことは、覚えている。
水族館。
ホシノの弾む声。
ユメの笑顔。
三人で選んだ、小さな土産物。
覚えている。
覚えている、はずだった――。
なのに。
それを理解するまでに、少しだけ時間がかかった。
静まり返った病室。
その直後――。
キャビネットに置かれたエドゥトの板がブルッ、と短く震えた。
点灯した黒い画面に、無機質な文字列が並んでいく。
[記憶想起:正常]
[情動同期:遅延]
[対象物への感情反応:低下]
レナは画面に浮かび上がった冷徹な解析から目を逸らし、消え入るような声で吐き捨てた。
「私は……壊れてなど……いない……」
――
――土曜日。
『ピピピピピッ――』
『朝です』
『ピピピピピッ――』
『朝で――』
「おい、ガラクタ。まだ6時だぞ」
『否定。睡眠サイクルの乱れは、パフォーマンスの低下を招きます』
[本日の予定:アビドス自治区訪問]
『移動時間、身支度、朝食、医療部への外出申告を考慮すると、起床推奨時刻は6時です』
レナは舌打ちとともにベッドから身を起こし、アノラが勝手に設定したアラームを強制終了させた。
髪を整え、病衣を脱ぎ、黒基調の制服へ腕を通す。
最後に鏡に映る自分を見つめる。
白い髪、赤い瞳、狼の耳、白い尻尾。
外見は、何も変わっていない。
「異常は無し。行くか」
レナは壁際のARを手に取るとスライドドアをゆっくり開け、病室から出ていった。
――
――SRT医療部・ナースステーション。
受付で外出許可証を受け取ると、メディックは深々と溜息をついた。
「連邦生徒会長の許可ですから、通しますけど……。
本来であれば、もう少し安静に過ごすべきです」
「……善処する」
「その返事、いちばん信用できないんですよ……。無理だけは、しないでください」
「了解した」
――
――アビドス自治区・駅前。
改札を抜け、駅を出ると照りつける太陽が出迎えた。
周囲の建物は砂に塗れ、正面のロータリーの路面は埋もれかけている。
「……以前より、酷いな」
風が吹くたびに舞い上がる細かな砂塵。
誰もいないバス停。
廃屋となったコンビニ。
人の気配が感じられなかった。
レナは太陽に炙られながらバス停へ近寄り、時刻表に視線を向ける。
――
―― 本路線は、利用者減少および運行維持費の増加により、
先月末をもちまして運行を終了いたしました。
長年にわたり本路線をご利用いただき、
誠にありがとうございました。――
――
「運行、終了……?」
かすれた文字を読み上げ、レナは小さく眉をひそめた。
以前来たときは、まだ数時間に一本は動いていたはずだ。
それが完全に息の根を止められている。
アビドスの「死」が、また一歩進んでいた。
(あの柴犬の運転手は、元気だろうか……)
[環境解析:気温31度。湿度28%。風速4m/s。空気中砂塵濃度:高]
『徒歩での移動は非効率です。タクシーの手配、あるいは——』
「こんな砂漠の駅に、タクシーが来るわけないだろう。……ホシノに連絡をする」
レナは、バス停横のベンチに積もった砂を手で払い腰を下ろした。
「……しかし、ここは暑いな」
ポケットからスマホを取り出し、モモトークの画面を開いた。
送信先は、小鳥遊ホシノ――。
砂に埋もれかけた駅前で、レナはしばらく、その名前を見つめていた。