白狼救済録   作:らんらん出荷マン

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二次創作日間ランキングに載っていたので、前倒しで投稿します。

皆様ありがとうございます。


第41話 帰郷

 

 

――D.U.中央通り。

 

ヒナと別れたあと、レナはすぐには医療棟へ戻らなかった。

 

人混みの中へ戻る気にはなれなかった。

中央通りの喧騒から逃げるように、一本外れた路地裏へ入り、そこでようやく足を止める。

 

「……アノラ」

 

レナが低く呼ぶと、エドゥトの板の画面に淡い光が灯った。

 

手のひらの上で、薄い端末が小さく震える。

数拍の沈黙の後、画面中央に、連邦生徒会長を幼く縮めたような少女の姿が浮かび上がった。

 

感情の薄い瞳。

整いすぎた表情。

笑わない口元。

 

『お呼びでしょうか』

 

「会長に繋げ」

 

『用件は』

 

「土曜日、アビドスへ行く許可を取る」

 

[私的外出申請を受領]

 

「……私的、か」

 

レナは小さく鼻で笑い、路地裏の壁に背を預けた。

 

どこかへ出かけるだけでも、許可がいる。

 

任務ではない。

敵地潜入でも、強制捜索でも、非正規作戦でもない。

 

ただ、かつて自分を拾ってくれた場所へ帰るだけだ。

 

それでも、いちいち申請が必要になる。

その事実が、自分はやはり飼い犬なのだと、レナに改めて思い知らせた。

 

[連邦生徒会長とのホットラインを確立中……]

 

アノラが画面から消えた。

代わりに、白いプログレスバーが表示される。

 

数秒――。

 

たったそれだけの待機時間が、妙に長く感じた。

 

レナは、遠方に見えるサンクトゥムタワーへ視線を向ける。

「クソったれ」の白い尖塔は、相も変わらぬ威容で空を貫いていた。

 

あれは、キヴォトスのすべてを見下ろす、あの女の玉座だ。

 

ピピッ――。

 

甲高い電子音と共に、画面が暗転する。

 

『確立完了。繋ぎます』

 

次の瞬間。

 

高級そうな木材のデスク越しに、連邦生徒会長の姿が映った。

 

『こんにちは、レナちゃん。アップデートしたPDAと、常駐AIのA.N.O.R.A.。

その二つの使い心地はどうですか?』

 

「――世紀の発明だな」

 

レナは苛立ちを隠さず、即答した。

 

「二度と人の端末を勝手に弄るな。

それに、コイツは何だ。……自分の幼い姿を模倣させるとは、いい趣味だな」

 

『模倣ではありません。視覚インターフェースの最適化です』

 

画面の隅で、アノラが無機質に補足する。

 

「黙れ。今はお前に聞いていない」

 

『ふふっ……仲が良さそうで何よりです』

 

「……耳が腐っているようだな」

 

レナが吐き捨てるように言うと、画面の向こうの会長は楽しげに小さく笑った。

 

まるで、反抗期の子どもをあしらう保護者のような態度だった。

 

それが、レナにはひどく気に食わない。

 

「世間話をするために呼んだんじゃない。用件は伝わっているだろう」

 

『ええ。土曜日に、アビドスへ行きたいんですよね?』

 

会長は手元の端末に視線を落とす。

 

『いいですよ。羽を伸ばしてきてください』

 

一切悩む素振りも見せず、会長は笑顔のまま二つ返事で了承した。

 

レナの瞳が、すっと細まる。

 

「……いいのか?」

 

あまりにも早い許可だった。

 

まるで、自分がそう申し出ることまで、最初から読まれていたように。

 

『はい。休養命令を出したわけですし、支障はありませんよ?』

 

会長は取り出した書類にペンを走らせながら続ける。

 

『むしろ、積極的に休んでください。休むのも命令のうちですから』

 

「……」

 

『アビドスのホシノさんや、ユメさんにも……よろしく伝えてくださいね』

 

その名前を出された瞬間、レナの胸の奥で何かが軋んだ。

 

会長は知っているのだ。

 

アビドスが。

ユメとホシノが。

 

レナを、ぎりぎりのところで「人間側」に繋ぎ止めている鎖であることを。

だからこそ、擦り切れた兵器を長持ちさせるための「保守点検」として、この帰郷を推奨している。

 

一拍置いて、会長はペン先を止めた。

そして、モニター越しにレナを真っ直ぐ見据える。

 

『ただし――』

 

「……何だ」

 

『そのPDAは、肌身離さず持っていてください。

それだけが、条件です』

 

「監視付きの帰省か。気が利くな」

 

レナが画面に向かって皮肉を投げると、会長はわざとらしく頬を膨らませた。

 

『もうっ! ……そういう所ですよ!』

 

ブツッ、と通信が切れる。

画面が暗転し、再びアノラの仏頂面が現れた。

 

『この後の予定は、どうなさいますか』

 

「医療棟に戻って寝る。それだけだ」

 

『了解』

 

画面に映るアノラの頭上に、ポップアップが表示された。

 

[予定:長時間睡眠/非生産的活動]

 

「……お前、性格が悪いな」

 

『否定。本個体に性格の概念は――』

 

「分かった。もういい。お前は優秀だ……」

 

『肯定』

 

噛み合わない応酬に疲れ果て、レナはエドゥトの板をジャケットのポケットへ乱暴に突っ込んだ。

 

 

 

――

 

――SRT医療棟・地下病室。

 

医療棟へ戻った直後、当然のようにメディックに捕まり、レナは再び点滴に繋がれた。

 

「安静に、と言いましたよね?」

 

穏やかな声だった。

だが、メディックから漏れ出る静かな圧力が、レナに降りかかった。

 

「……すまない」

 

それから土曜日までの数日間、レナはSRT医療棟の個室から一歩も出なかった。

 

いや、出られなかったというべきか。

 

医療部から外出禁止を明言されたわけではない。

だが、気晴らしに廊下へ出ようとするたび、エドゥトの板が震えた。

 

『歩行時心拍上昇。休養命令違反の可能性があります』

 

[補足。本機に物理拘束する能力はありません]

[ただし、医療部への通知権限は保持しています]

 

その無機質な警告を見た時点で、レナは考えるのをやめた。

ベッドに戻り、また天井を睨む。

 

強制的な休養命令。

 

訓練禁止。

出撃禁止。

部隊指揮権限の凍結。

 

銃の手入れすら許されない、永遠とも思える暇。

 

わずか数日で、レナは心底嫌気が差していた。

 

(……やることが、何もない)

 

こんなに何もせず、ただ寝ているだけの時間は、前世のユウイチの記憶を探っても存在しない。

 

戦場では、常に次の死線を予測していた。

少しでも気を抜けば、命が消えた。

立ち止まることは、死に場所を選ばないことと同じだった。

 

だが、ここには敵がいない。

銃声もない。

命令もない。

 

病室に満ちた清潔な静寂が、レナを苛む。

 

――お前は、「戦うこと」以外には空っぽだ。

 

そう、暗に告げられているようだった。

 

『複数の動体反応を検出』

 

突如、キャビネットに置かれたエドゥトの板から、アノラの平坦な声が響いた。

 

その直後――。

 

コンコン。

 

静寂を破るように、遠慮がちなノックの音がした。

 

「……どうぞ」

 

白いスライドドアが横に流れる。

 

最初に顔を覗かせたのはリノだった。

その後ろから、紙袋を抱えたスイと、妙に神妙な顔をしたメイが続く。

 

「隊長……お体は、大丈夫ですか?」

 

「ここは静か過ぎる……最悪だな」

 

レナは起き上がりもせず、忌々しげに答えた。

 

――最悪。

 

その言葉を聞いた瞬間、リノの獣耳が少しだけ垂れ下がった。

そして、微かに安堵の息が漏れる。

 

「そうですか……はぁ、よかったです」

 

「酷い副官だ。最悪と言っているのに、“よかった”とは何だ……」

 

「……いえ、こちらの話です。お気になさらず」

 

そう言いながらも、リノの視線はレナの顔から逸れなかった。

 

頬の血色。

目の焦点。

声の抑揚。

指先の震え。

呼吸の浅さ。

 

以前なら、そんなところまで見なかった。

 

隊長が「問題ない」と言えば、それを信じていた。

隊長が「大丈夫」と言えば、そうなのだと思っていた。

 

けれど――。

 

一度でも知ってしまえば、もうそんなふうには見られない。

 

誰よりも強いはずの隊長が、壊れたように叫び、虚空に向かって殺意を撒き散らし、息を吸うことすらできなくなっていた姿を。

 

あの凄惨な姿を、見てしまったから。

 

だからリノは、言葉ではなく目を見る。

返事ではなく、呼吸を見る。

「大丈夫」という言葉の奥にある、薄いひび割れを探す。

 

「と、いうわけで隊長。差し入れだよ」

 

沈みかけた空気を払うように、スイが一歩前に出て紙袋を掲げた。

 

中から出てきたのは、菓子パン、チョコレート、角砂糖の袋、そしてなぜかチューブ入り練乳だった。

 

「おい。甘い物しかないぞ」

 

「何言ってるのさ。隊長には糖分が必要なんだ。

精神的にも、肉体的にも、“革命”にも、糖分は必要」

 

「糖分と革命は関係ないだろう」

 

スイは人差し指を立て、どこか誇らしげに口を開く。

 

「あるよ。糖分不足の革命は失敗する。

僕の故郷じゃ、演説前にプリンを食べるのは常識なんだよ」

 

「そ、そうなのか……」

 

一体、糖分の何がスイをここまで駆り立てるのか。

 

確かに、レナの世界でもチョコレートやエナジーバーが支給されることはあった。

カロリーが、生存に直結するからだ。

 

しかし――演説の前にプリンとは、なんとも間の抜けた話である。

 

「この食べ方、オススメなんだ」

 

スイは袋から練乳チューブを取り出し、菓子パンに惜しげもなく振りかけた。

 

「はい、練乳パン。元気が出るよ」

 

白い練乳に染まった菓子パン。

そこから漂う暴力的な甘い匂いが、レナの鼻腔を容赦なく攻め立てる。

 

「……」

 

レナは仕方なく上体だけを起こし、練乳パンを膝の上に置いた。

 

「……ねえ、隊長」

 

メイに、いつもの軽い語尾はなかった。

 

レナは練乳まみれの菓子パンを一度だけ見下ろし、メイに視線だけを上げる。

 

「なんだ」

 

「どこまで……覚えてるの?」

 

「……何の話だ」

 

「あの夜の任務」

 

メイの声は、いつもの軽さを失っていた。

 

「メイさん」

 

リノが静かに名を呼んだ。

咎める声ではない。

踏み込み過ぎるな、という制止だった。

 

「ごめん。これだけは、聞いておきたいの」

 

「……」

 

「隊長が覚えてないなら、それでいい。

それだけを……教えてほしい」

 

白い病室に、短い沈黙が落ちた。

 

スイが練乳のチューブを握ったまま、気まずそうに視線を泳がせる。

 

「えっと……その、隊長。

無理に思い出さなくていいよ。僕らは、お見舞いに来ただけだし……」

 

レナは練乳パンを膝の上に置き、少しだけ目を伏せた。

 

「屋上に降りた。階段室を抜いた。配電が落ちた。……そこまでは、断片的に覚えている」

 

レナは一度、言葉を切った。

 

「地下へ降りてから先が、霞がかったように曖昧だ」

 

その答えに、三人の表情がわずかに強張った。

 

リノは目を伏せる。

スイは手にしていた練乳のチューブを、無意識に握り直した。

 

メイだけが、じっとレナを見ていた。

 

「……本当に?」

 

「ああ」

 

「そっか……」

 

メイは短く答えた。

 

いつものように笑うことなく。

ただ、その視線だけがレナから離れない。

 

「あの時の隊長は……すごく、怖かったよ……」

 

「私が、か……?」

 

「……うん」

 

メイは頷く。

 

「まるで……別人だった」

 

「メイさん……!」

 

リノが語尾を強めて制止しようと、一歩踏み出す。

 

「リノ……」

 

だが、その途中でレナが遮った。

 

「いいんだ。続けてくれ」

 

メイは頷いた。

けれど、唇は震えていた。

 

「た、隊長……誰かに向かって叫んでた」

 

「……何を」

 

レナの声が、ほんの少しだけ低くなる。

 

メイはすぐには答えなかった。

 

言っていいのか。

言うべきなのか。

 

それを測るように、彼女の白い翼が小さく震える。

 

やがて、メイは目を伏せたまま言った。

 

「撃ち殺せ」

 

空気が凍った。

 

スイが息を呑む。

リノの指先が、シーツの端を握りしめる。

 

「キヴォトスで、そんな言い方をする人はいないよ。

たとえ、ゲヘナ相手でもね」

 

メイの声は震えていない。

けれど、その奥にあるものは、明らかに恐怖だった。

 

「でも隊長は違った。

撃つでも、倒すでもない。

ただ……撃ち殺せって、言った」

 

「そうか」

 

レナは否定できなかった。

 

前世の戦場で、何度も聞き、何度も言い、何度も従った言葉だ。

 

戦争をビジネスに変えたあの世界には、死が溢れていた。

人の命など、ただの数字に過ぎなかった。

 

「……聞かせたくないものを、聞かせたな」

 

レナは静かに言った。

 

「すまない」

 

「謝ってほしいわけじゃないよ」

 

メイは即座に首を振った。

 

その声は、いつもの軽さを取り戻そうとして、失敗していた。

 

「ただ……知りたかっただけ。

隊長が、あの時どこにいたのか」

 

「……」

 

「目の前にいたのは私たちなのに、隊長は私たちを見てなかった」

 

メイの白い翼が、小さく震える。

 

「誰か、別の人たちを見てた」

 

その言葉は、静かな病室に重く沈んだ。

 

「……」

 

レナは答えなかった。

 

本人にさえ、それが記憶なのか、幻覚なのか、ただの残響なのか判別できない。

 

ただ、あの時――。

レナの目が見ていたものは、この青い世界ではなかった。

 

血と硝煙に塗れた、灰色の世界だった。

 

乗っていたトラックが跳ねた。

隣にいた男の両足は、座席の下から消えていた。

 

砲弾が着弾した。

――遠くではなかった。

さっきまで笑っていた声が途切れ、振り向いた先には、首のない戦友が倒れていた。

 

掩体壕にFPV(自爆ドローン)が突っ込んだ。

次の瞬間、中にいた仲間は跡形もなく吹き飛んだ。

 

無数の影が、自分たちの塹壕に押し寄せて来た。

鉛玉を放てば、その影はバタバタと斃れた。

 

塹壕の泥の中で、敵の傭兵とナイフを奪い合った。

相手の腹に突き刺すと、温かいものが手首を真っ赤に染め上げた。

 

そうだ――。

 

次の瞬間には、誰かが死んでいる。

そういう世界だ。

 

「……昔の話だ」

 

それ以上を、レナは言わなかった。

 

言えなかったのではない。

言えば、彼女たちのいる場所まで汚してしまう気がした。

 

沈黙――。

 

このまま沈黙が病室を満たせば、見舞いは見舞いではなくなってしまう。

 

そう判断したのか、スイがわざとらしく練乳チューブを掲げた。

 

「もー、せっかく空気を和ませようとしたのに……。

さあ、隊長。食べなよ。きっと元気になるよ」

 

「……」

 

レナはゆっくりと練乳パンを口元へ近付ける。

 

どこまで行っても甘いだけの匂いが、暗い思考を塗り潰していく。

 

「……ッ」

 

意を決し、一口。

 

次の瞬間、口内に異常な甘さが広がった。

糖の暴力が一斉に舌へ襲いかかり、喉が反射的に震える。

 

「……おぇ」

 

レナは即座に嘔吐いた。

 

「あれ……合わなかった?」

 

 

 

――

 

――その日の夕刻。

 

「まだ口の中が甘い気がする」

 

『補足。糖質の過剰摂取は、代謝負荷、血糖変動、糖化反応を誘発します。非推奨』

 

「…………」

 

レナは無言でエドゥトの板を睨む。

それから、口の中に残る暴力的な甘さを水で流し込み、ベッドの上で横になった。

 

WOLFの三人は、先ほど帰った。

 

リノは最後まで何か言いたげだった。

スイは「今度はプリンにするね」と言い残した。

メイは、ドアを出る直前に一度だけ振り返った。

 

メイの視線が、まだ胸の奥に引っかかっている。

 

『誰か、別の人たちを見てた』

 

(……鋭いな、あいつは)

 

レナは目を閉じようとして、すぐにやめた。

目を閉じると、瞼の裏に余計なものが見える。

 

『睡眠導入を推奨』

 

「そうか。子守唄を頼む」

 

『リクエスト了解』

 

ポップアップに曲名が浮かび上がった。

 

[“ねんねんころりよ”]

 

『歌唱します』

 

画面に映るアノラは、どこからか取り出したマイクを握り締めた。

 

『ねんねんころりよ――おころりよ――』

 

抑揚のない声が、白い病室に落ちる。

 

子守唄と言うには、あまりにも平坦だった。

歌っている本人も無表情。

優しい唄のはずなのに、聞こえるのは、どこまでも冷たい声。

 

「……下手だな」

 

『否定。音程誤差は許容範囲内です』

 

「……」

 

レナは、キャビネットに置かれたエドゥトの板から背を向ける。

 

そして――その雑音を遮るように、無言で掛け布団を深く被った。

 

ベッドからはみ出したふわふわの尻尾だけが、ゆらゆらと揺れている。

 

 

 

――

 

――翌日。

SRT医療棟・地下病室前。

 

病室の前に、四つの影が並んでいた。

白いスライドドアを前に、先頭の少女が小さく息を吐く。

 

「……本当に、入っていいのかな」

 

「いいでしょ。許可取ったし、見舞いなんだから」

 

「倒れた理由が“過労”って話だけどさぁ……あのレナが過労で倒れる?」

 

「それを確認しに来たんだろう」

 

先頭の少女は一歩踏み出し、スライドドアをノックした。

 

コンコン――。

 

「……返事が無いね」

 

「寝てるのかな?」

 

「仕方ない、開けるぞ」

 

「ちょっと、ユキノ!?」

 

制止の声を無視して、ユキノはスライドドアに手をかけた。

 

音もなく、白い扉が横へ流れる。

 

白い病室。

 

その中央で、レナは布団を深く被ったまま横になっていた。

ベッドの端から、白い尻尾だけがはみ出している。

 

「……寝ているのか」

 

ユキノが小さく呟く。

 

続いて入室したニコ、クルミ、オトギの三人が、ユキノの背後から顔を覗かせた。

 

「ありゃ、ぐっすりだねぇ……」

 

「……お稲荷さん作ってきたんだけど、寝ちゃってるね」

 

「本当に過労なのかも」

 

ベッドの膨らみは、まったく動かない。

 

静かな病室には、キャビネットの上に置かれた淡く光るPDAと、残り少なくなった点滴だけがあった。

 

ユキノは、ベッドの端からはみ出した白い尻尾を見下ろした。

 

静かだった。

あまりにも、静かすぎた。

 

「過労……か」

 

ユキノは小さく吐き捨てる。

 

その横を、オトギが通り過ぎた。

抜き足、差し足。

物音一つ立てず、ベッドへ近付いていく。

 

「これは、あの尻尾に触れるチャンス……」

 

「ちょっとオトギ……起きちゃうわよ」

 

クルミが小声で制止するが、オトギは止まらない。

 

SRT内で、レナの尻尾は“魅惑の尻尾”として影で噂になっている。

だが、肝心の本人が一切触らせたがらない。

 

白くて、ふわふわで、感情に合わせて微かに揺れる。

 

例に漏れず、オトギも以前から、ずっと撫でたいと思っていた。

 

だが、少しでも近付こうものなら、刃物のような鋭い視線を向けられる。

あれは拒絶というより、迎撃に近い。

 

「……あと、ちょっと」

 

オトギの手が、無防備に放り出された白い尻尾へ伸びる。

 

あと数センチ。

 

指先がその柔らかな毛並みに触れようとした、その瞬間。

 

尻尾が横にふわりと避け、指先が空を掴んだ。

 

「あ……あれ?」

 

再度手を伸ばす。

 

ふわり――。

 

「このっ……絶妙なタイミングで」

 

オトギは眉をひそめ、もう一度だけ手を伸ばした。

 

――ふわり。

 

尻尾は、まるで生き物のように彼女の指先を避けた。

 

「……避けられてるわね」

 

「避けられてるな……」

 

「寝てるのに……?」

 

オトギの後ろで三人が小声で呟く。

 

「も……もう一回」

 

オトギは気を取り直し、手を伸ばす。

 

だが――白いふわふわの尻尾は拒むように、勢いよく掛け布団の中に潜り込んだ。

 

「あ……あぁ……」

 

オトギが心底残念そうに手を下ろす。

 

その様子を呆れ顔で見ていたユキノが、ベッドの脇へ一歩進み出た。

 

「レナ、起きているんだろう。茶番はよせ」

 

ユキノの冷ややかな声に、掛け布団が僅かに揺れた。

 

数秒の沈黙後、掛け布団がゆっくりと捲られる。

 

そこから顔を出したレナの表情には、眠気など微塵もない。

 

無感情の赤い瞳が、四人を射抜く。

 

「よく来たな……ちょうど退屈していた所だ」

 

「総司令から、随分と派手に倒れたと聞いたよ」

 

ユキノは項垂れるオトギを横に退け、ベッドに横たわるレナを見下ろす。

 

その鋭い視線が、「過労」という公式発表を微塵も信じていないことは明らかだった。

 

「ただの疲労だ。

それと……オトギ、次の合同演習は覚えていろ」

 

「ヒェ……」

 

「疲労か。君が“そう言う”なら、そうなんだろう」

 

ユキノはそれ以上言及しなかった。

その横でニコが、テーブルの上に漆器の弁当箱を置いた。

 

「お腹空いてると思って、お稲荷さん作ってきたよ」

 

ニコはレナの瞳を見つめると、柔らかく微笑んだ。

 

「すまないな。差し入れが甘い物ばかりで、辟易としていた」

 

レナはそう言って、弁当箱の蓋を開けた。

中には、形の揃ったお稲荷さんが並んでいる。

 

油揚げの淡い艶と、酢飯の匂い。

病室の消毒液の臭いの中で、それだけが妙に生活感を持っていた。

 

「色々、アレンジしてみたんだよ。

それぞれ味が違うから食べてみて?」

 

ニコの言葉に頷き、レナは手掴みで一つ、お稲荷さんを口へ運んだ。

 

甘辛く煮付けられた油揚げと、ほのかな酢の酸味。

練乳菓子パンのようなカオスと違い、このお稲荷さんは驚くほど優しかった。

 

(ただのお稲荷さん……だが、どこか懐かしい気がする)

 

「これは……少し味が濃いな。調整したのか?」

 

「うん。少し塩っぱい方が、いいと思って」

 

「……ああ、これは美味いな」

 

「本当? よかったぁ」

 

ニコが顔をほころばせる横で、オトギがこっそりお稲荷さんに手を伸ばそうとしている。

 

気づいたクルミがそれを咎める。

見かねたレナは、食べていいとぶっきらぼうに返した。

 

いつもの、他愛のない光景だった。

 

だが、ユキノだけはニコの背後から、レナの所作を油断なく観察していた。

 

食事のペース。

視線の運び方。

 

そして――お稲荷さんを掴んでいる手の、僅かな震え。

 

(……過労。それが公式見解だというなら、随分と見え透いた嘘をつく)

 

ユキノは、あの日のことを覚えている。

展示会場の制圧後、もぬけの殻のように倒れ込んだレナを。

 

「……ユキノ、どうした」

 

レナの赤い瞳が、ユキノを射抜く。

 

「人の顔をジロジロと見て。私の顔に何か付いているか」

 

「いや。……ただ、君が無茶をしていないか見ているだけだ」

 

ユキノは腕を組み、静かに告げた。

 

「指揮官は常に、体調に気を配る必要がある。

『過労で指揮ができません』では、SRTとして市民に示しがつかない」

 

「……」

 

レナは無言でお稲荷さんを口に放り込み、獣耳の裏を掻いた。

 

「……耳の痛い説教だな」

 

「なら、自覚しろ」

 

ユキノは淡々と言った。

 

「君は、自分が倒れた時の影響を軽く見ている。

WOLFだけじゃない。FOXも、SRTも、君が立っている前提で動いている」

 

「世辞は止めろ。過大評価だ」

 

「――違う。現実だ」

 

レナの否定にユキノは即座に切り返した。

 

「君はもう、一個分隊の長で済む立場じゃない」

 

「……」

 

押し黙るレナを見下ろしながら、ユキノは続ける。

 

「上級小隊長の声一つで、どれだけの部隊が動く……?

どれだけの隊員が、指示を待っている……?

君が倒れるということは、君一人が倒れるという意味じゃない」

 

ユキノの声は淡々としていた。

 

「君の指揮で組まれた作戦が倒れる。

君の命令を待つ隊員が止まる。

君を信じて前に出た者が行き場を失う」

 

「……」

 

「だから、レナ」

 

ユキノは初めて、少しだけ声を低くした。

 

「自分を軽く扱うな。……迷惑だ」

 

「……」

 

「そ、そういえば。そのシャチのキーホルダー……いつも付けてるよね」

 

静まり返った空気を入れ替えるように、ニコの視線が、壁際に置かれたレナの装備へ向いた。

銃のスリングに、小さなシャチのキーホルダーが揺れている。

 

「……ああ」

 

レナは、そこで初めてスリングの金具へ視線を落とした。

 

小さなシャチのキーホルダー。

鋭い目をした、黒と白の海の獣。

 

「取る理由が無いだけだ」

 

その言葉を聞いた瞬間――ニコの笑みが、ほんの僅かに固まった。

 

理由が無い――。

 

それにニコは、強い違和感を覚えた。

 

ニコが知っているレナは、銃に余計なものを付ける人ではない。

必要のない重さも、嵩張る飾りも、キヴォトスでは当たり前の派手な装飾も、彼女は嫌う。

 

そんな彼女が、ずっと外していない小さなシャチ。

 

なのに。

 

取る理由が無い。

 

その言葉は、とても冷たかった。

 

以前の彼女なら「大切なもの」とは直接言わずとも、彼女なりに不器用な言葉で肯定したはずだ。

 

(……レナちゃん、自分の言っていることに気づいていない……?)

 

ニコはユキノ、クルミ、オトギに視線を送った。

三人もまた、わずかに眉をひそめていた。

 

「……どうした、ニコ」

 

沈黙に気づいたレナが、怪訝そうに問い返す。

 

「あ、ううん。なんでもないよ」

 

ニコはすぐにいつもの笑顔を取り繕い、空になった弁当箱を片付け始めた。

 

「……ちゃんと休んでね、レナちゃん」

 

「ああ」

 

「……もう時間だ、行こう。長居は無用だ」

 

ユキノが踵を返す。

クルミとオトギもそれに続き、最後にニコが小さく手を振って病室を出ていった。

 

スライドドアが閉まり、再び病室に静けさが戻る。

 

レナは壁際に置かれたARに視線を向ける。

 

スリングに付いたシャチのキーホルダーが、病室の空調に揺れている。

 

あの日のことは、覚えている。

水族館。

ホシノの弾む声。

ユメの笑顔。

三人で選んだ、小さな土産物。

 

覚えている。

覚えている、はずだった――。

 

なのに。

 

それを理解するまでに、少しだけ時間がかかった。

 

静まり返った病室。

その直後――。

 

キャビネットに置かれたエドゥトの板がブルッ、と短く震えた。

点灯した黒い画面に、無機質な文字列が並んでいく。

 

[記憶想起:正常]

[情動同期:遅延]

[対象物への感情反応:低下]

 

レナは画面に浮かび上がった冷徹な解析から目を逸らし、消え入るような声で吐き捨てた。

 

「私は……壊れてなど……いない……」

 

 

 

――

 

――土曜日。

 

『ピピピピピッ――』

『朝です』

『ピピピピピッ――』

『朝で――』

 

「おい、ガラクタ。まだ6時だぞ」

 

『否定。睡眠サイクルの乱れは、パフォーマンスの低下を招きます』

 

[本日の予定:アビドス自治区訪問]

 

『移動時間、身支度、朝食、医療部への外出申告を考慮すると、起床推奨時刻は6時です』

 

レナは舌打ちとともにベッドから身を起こし、アノラが勝手に設定したアラームを強制終了させた。

 

髪を整え、病衣を脱ぎ、黒基調の制服へ腕を通す。

 

最後に鏡に映る自分を見つめる。

白い髪、赤い瞳、狼の耳、白い尻尾。

外見は、何も変わっていない。

 

「異常は無し。行くか」

 

レナは壁際のARを手に取るとスライドドアをゆっくり開け、病室から出ていった。

 

 

 

――

 

――SRT医療部・ナースステーション。

 

受付で外出許可証を受け取ると、メディックは深々と溜息をついた。

 

「連邦生徒会長の許可ですから、通しますけど……。

本来であれば、もう少し安静に過ごすべきです」

 

「……善処する」

 

「その返事、いちばん信用できないんですよ……。無理だけは、しないでください」

 

「了解した」

 

 

 

――

 

――アビドス自治区・駅前。

 

改札を抜け、駅を出ると照りつける太陽が出迎えた。

周囲の建物は砂に塗れ、正面のロータリーの路面は埋もれかけている。

 

「……以前より、酷いな」

 

風が吹くたびに舞い上がる細かな砂塵。

誰もいないバス停。

廃屋となったコンビニ。

人の気配が感じられなかった。

 

レナは太陽に炙られながらバス停へ近寄り、時刻表に視線を向ける。

 

――

 

―― 本路線は、利用者減少および運行維持費の増加により、

先月末をもちまして運行を終了いたしました。

 

長年にわたり本路線をご利用いただき、

誠にありがとうございました。――

 

――

 

「運行、終了……?」

 

かすれた文字を読み上げ、レナは小さく眉をひそめた。

以前来たときは、まだ数時間に一本は動いていたはずだ。

それが完全に息の根を止められている。

 

アビドスの「死」が、また一歩進んでいた。

 

(あの柴犬の運転手は、元気だろうか……)

 

[環境解析:気温31度。湿度28%。風速4m/s。空気中砂塵濃度:高]

 

『徒歩での移動は非効率です。タクシーの手配、あるいは——』

 

「こんな砂漠の駅に、タクシーが来るわけないだろう。……ホシノに連絡をする」

 

レナは、バス停横のベンチに積もった砂を手で払い腰を下ろした。

 

「……しかし、ここは暑いな」

 

ポケットからスマホを取り出し、モモトークの画面を開いた。

 

送信先は、小鳥遊ホシノ――。

 

砂に埋もれかけた駅前で、レナはしばらく、その名前を見つめていた。

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