白狼救済録   作:らんらん出荷マン

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第42話 渇望

 

 

「しかし、ここは暑いな」

 

レナはエドゥトの板をベンチの座面に置き、スマホを取り出した。

 

『警告。本機を使用者から分離しないでください』

 

「煩い。すぐ隣だ」

 

スマホの画面に光が灯り、モモトークが開く。

 

送信先は、小鳥遊ホシノ。

 

画面に表示された名前を見つめた瞬間、指先が一拍だけ止まった。

 

「ホシノ……」

 

最後に会った時の顔を思い出す。

 

水族館の出口。

夕陽。

背中の傷に気づいた、鋭い視線。

そして、連邦生徒会長に関わるなと必死に止めた声。

 

『無謀です!! 逆に利用されるだけですよ!!』

 

「まさか……こんなことに、なるなんてな……」

 

レナは小さく息を吐き、入力欄へ指を滑らせた。

 

――

 

『駅に到着』

 

『バスが止まっている』

 

『迎えを頼む』

 

――

 

そこまで打ってから、レナは少し考えた。

 

あまりに事務的すぎる。

 

これは任務報告ではない。

無線でもない。

 

相手は部下ではなく、かつて同じ場所で過ごした少女だ。

 

レナは一度文章を消し、打ち直した。

 

――

 

『ホシノ』

 

『今、駅前のベンチに座っている』

 

『どうやら、路線バスが廃止されたようだ』

 

『迎えを頼めるか?』

 

――

 

送信。

 

短い通知音が、乾いた空気の中に溶けて消えた。

 

レナはスマホを伏せ、ベンチに背を預ける。

 

砂を払ったはずの座面は、まだざらついていた。

制服の裾に、細かな砂がまとわりつく。

 

照りつける太陽に熱された空気が、肌の上をじりじりと焼いた。

呼吸をするたび、熱を含んだ砂埃が喉の奥に貼りつく。

 

レナはコンバットジャケットを脱ぎ、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。

 

『警告。脱水傾向を検出』

『水分補給を推奨』

 

「……そうだな」

 

レナは金属製のスキットルを取り出した。

 

本来なら酒を入れるような薄い容器だが、彼女は水筒代わりに使っていた。

 

一気に飲み干すような真似はしない。

 

乾いた身体に水を流し込むのは素人だ。

一度に飲めば胃が重くなり、動きが鈍る。

体温が乱れ、判断も鈍る。

 

何より、水は弾薬と同じだ。

 

無闇に使い切れば、その先に待っているのは“死”だけだ。

 

それは前世の戦場で骨の髄まで染み付いた、血生臭い作法だった。

 

キャップに少量の水を注ぎ、口に含む。

すぐには飲み込まない。

 

舌の上で転がし、乾いた粘膜に染み込ませてから、ゆっくりと喉へ流し込んだ。

 

乾いた喉に、ささやかな潤いが満ちる。

 

中の水はすでに生ぬるい。

それでも、灼けた身体には十分すぎるほどの救いだった。

 

――熱風が吹く。

 

砂が路面から巻き上がり、人気のないロータリーを音もなく横切っていった。

 

かつて、人々が歩いていた場所。

車が停まり、バスが来て、誰かがどこかへ向かっていた場所。

 

今や残るのは、吹き溜まる砂と、灼熱の渇きだけだ。

 

「アビドスは久しぶりだが……」

 

この惨状を見て、変わらないとは言えなかった。

懐かしいとも言えなかった。

 

ここは、帰る場所のはずなのに。

 

「……死にゆく街か」

 

一言呟き、スキットルのキャップを閉めた直後だった。

 

――ピロン。

 

画面に表示された名前は、小鳥遊ホシノ。

 

――

 

『もう着いたんですか!?』

 

『ちょっと待っててください!』

 

『今から迎えに行きます!』

 

――

 

数秒置いて、もう一通。

 

――

 

『ユメ先輩にも連絡します』

 

『勝手に動かないでくださいね』

 

――

 

レナは画面を見つめ、ほんのわずかに目元を緩めた。

 

[情動同期:微細な肯定反応を検出]

[反応ログ:保存]

[学習記録:更新]

 

置かれたエドゥトの板が、誰にも気づかれないほど微かに振動する。

 

レナはそれを無視した。

 

「……了解」

 

小さく呟き、返信欄に短く打つ。

 

――

 

『了解。待っている』

 

――

 

 

――十数分後。

 

 

砂を噛むようなブレーキ音が、ロータリーの向こうから聞こえた。

 

レナは顔を上げる。

 

陽炎の揺れる道路の先に、色褪せた赤いハンターカブが見えた。

車体はところどころ錆び、側面にはアビドス高等学校のステッカーが半分剥がれたまま貼りついている。

 

運転しているのは、小鳥遊ホシノだった。

 

ヘルメットの下から覗くピンクの髪が、熱風に揺れている。

彼女はレナを見つけるなり、ハンターカブをバス停前へ滑り込ませた。

 

無骨な二輪が砂を巻き上げ、ベンチの前で止まる。

 

ホシノは車体を傾け、シートから少しだけ腰をずらした。

足つきは、決して良くない。

 

それでも片足のつま先だけで器用に地面を捉え、危なげなく車体を支えた。

 

ハンドルから片手を離し、ゴーグルを外す。

そして、ベンチに座るレナへ視線を向けた。

 

「お待たせしました」

 

その小柄な体格には少し不釣り合いな無骨なバイクだが、彼女はそれを当たり前のように乗りこなしていた。

 

「……こんなバイク、どこで手に入れた」

 

「ヘルメット団から奪い取りました。少し大きいですが、なかなか便利ですよ」

 

「……」

 

レナは目を細め、ホシノとハンターカブを交互に見た。

 

「な、何ですかその目は! 盗んでいませんよ! アビドスに不法侵入していた連中からの押収品です! 合法です!」

 

「……押収か。便利な言葉だな」

 

レナは呆れたように息を吐きながら、コンバットジャケットを羽織った。

ベンチに置いていたエドゥトの板を手に取り、ポケットへ滑り込ませる。

 

「アビドスの治安と財政を守るための、立派なリサイクルです」

 

ホシノはふふんと得意げに胸を張り、ハンターカブに括り付けていた予備のヘルメットを外してレナへ差し出した。

 

「さ、乗ってください。ユメ先輩が学校で首を長くして待ってますよ」

 

後部には、後付けの小さなタンデムシートが無理やり固定されている。

どう見ても純正品ではない。

 

「ああ……」

 

レナがヘルメットを受け取ろうと右手を伸ばした、その時だった。

 

ホシノの視線が、すっとレナの手元へ落ちる。

 

レナの指先が、ほんの微かに震えていた。

 

規則的ではない。

寒さでも、疲労だけでもない。

 

何かを押し殺し続けた末に、身体の端から漏れ出したような震えだった。

 

レナは即座に左手を添え、その震えを隠すようにしてヘルメットを受け取る。

 

動作は極めて自然だった。

普通なら、きっと見逃していただろう。

 

だが、ホシノの目の良さは伊達ではない。

毎日、毎日、自治区内の賞金首と戦い続けて鍛え上げられている。

 

(震えてる……それに……)

 

ホシノはゴーグルを戻すふりをして、改めてレナを観察した。

 

黒基調の制服。

狼の耳と尻尾。

白い髪。

赤い瞳。

 

外見は、以前会った時と何も変わっていない。

 

けれど、何かがおかしかった。

 

レナの赤い瞳は、ホシノを見ているようで、見ていなかった。

 

路地裏の影。

廃ビルの窓。

ロータリーの死角。

風で揺れた看板。

 

その視線は、会話の相手より先に、周囲の脅威を拾っている。

 

立ち姿にも隙がない。

いつでも銃を抜き、いつでも誰かを庇い、いつでも撃てる姿勢。

 

それは、アビドスへ帰ってきた生徒の姿ではなかった。

 

(ユメ先輩が言っていた通りだ……)

 

最初の頃に、戻っている。

 

いや。

最初の頃より、もっと遠い。

 

あの時のレナさんは、何かに怯えていた。

 

でも今は、何かが欠けてしまったような――。

 

久しぶりに会えたはずなのに。

嬉しいはずなのに。

 

どうして、またそんな顔をしているんですか。

 

ホシノはそう言いかけて、止めた。

ただ、胸の奥に冷たいものが沈んでいく。

その違和感を飲み込み、ハンターカブのエンジンを吹かした。

 

「しっかり掴まっててくださいね。振り落とされますよ」

 

「し……失礼する」

 

レナは遠慮がちに後部シートへ跨った。

 

ホシノとレナは約二十センチの身長差。

ヘルメット越しに前の景色が見えてしまうほどの、小柄な背中。

 

レナは少し躊躇してから、ホシノの細い腰へ腕を回し、身を屈めるようにして体を寄せた。

 

「もっと強く掴んでください」

 

「……ああ、そうだったな」

 

レナが手に力を入れた直後、ホシノはアクセルを捻った。

 

エンジンが唸り、タイヤが砂煙を上げる。

 

二人を乗せたハンターカブは勢いよく飛び出し、アビドス高等学校へと向かう一本道を走り出した。

 

 

 

――

 

――

 

乾いた排気音が、砂に沈む住宅街の一本道に響く。

 

ハンターカブは見た目に反して力強かった。

古びたフレームが小刻みに震え、タイヤが砂を滑るたび、車体が揺れる。

 

それでも、ホシノの運転は危なげなかった。

 

小さい身体。

細い腕。

 

だが、ハンドル捌きには一切の迷いがない。

 

前輪が砂に取られながらも、腕と腰の動きで抑え込み、路面状況を巧みに読んで進み続ける。

 

(……随分、慣れているな)

 

レナはホシノの背中越しに、砂に沈んだ街並みを眺めた。

 

人気のない道路。

半分ほど砂に埋もれた赤い自販機。

割れた街灯。

 

通り過ぎる民家の多くは、放棄されて久しいようだった。

割れた窓、砂の重みで傾いた雨樋、白茶けた壁面にこびりつく砂。

 

「……まるでゴーストタウンだな」

 

レナがそう呟くと、前を向いたままホシノが答えた。

 

「砂害の影響ですね。

……この地域の大半の住民は市街地に引っ越したか、アビドスを捨てました」

 

風を切る音に混じって、ホシノの声が少しだけ掠れた。

 

「もう、ここには誰もいません。私たちの学校も、大部分が砂に埋もれています」

 

「……酷いのか?」

 

「それはもう、最悪ですよ」

 

ホシノは前を向いたまま、棘を含んだ声で答えた。

 

「もう校舎というより砂山です。放棄も視野に入れる頃合いでしょう。

少し離れた所に別館があるので、生徒会の機能はそちらに移す予定です」

 

「……そうか」

 

レナは短く返した。

 

今は何を言っても、白々しいだけだろう。

 

支援物資は届いている。

最低限のヴァルキューレが常駐している。

レナも稼いだ金を送り続けている。

 

だが――足りない。

それでも、街の死は止められない。

 

胸の奥に乾いた焦燥が積もるが、だからといって打開策が浮かぶわけでもない。

 

(……焼け石に水か)

 

そんなことはお構いなしに、ハンターカブは進み続ける。

 

吹き抜ける風。

砂を掻き分けるタイヤの音。

空冷単気筒エンジンが吐き出す乾いた振動。

 

それらに身を預けながら、レナは黙ってホシノの背中を見ていた。

 

「ホシノ……」

 

「何ですか?」

 

「無理はしていないか?」

 

ハンターカブの速度が、少しだけ落ちる。

だが、ホシノはいつも通りの調子で返した。

 

「はぁ……? それ、レナさんが言いますか?」

 

「……」

 

「私は大丈夫ですよ。ヴァルキューレの警官たちもいますし、ユメ先輩も最近は頑張っていま――」

 

ユメの名前が出た所で、ホシノの口が固まる。

 

「どうした?」

 

「いや……ユメ先輩は『いつもトラブルしか持ってこない』な、と思っただけです」

 

「……そうか」

 

そう語る彼女の背中は、心なしか疲れを孕んでいるようだった。

 

日々悪化する砂害。

絶えない不良。

消えていく住民。

 

その全てを、小鳥遊ホシノは小さな背中で受け止めている。

 

レナはその背中を見つめた。

 

以前と変わらない背中。

小柄で、頼りなささえ感じる。

 

それなのに。

 

彼女の背中には、アビドスという死にかけた故郷の重さが、確かに乗っていた。

 

「……ほ、ホシノ」

 

「今度は何ですか?」

 

「今月分の、送金だが……」

 

その言葉を口にした瞬間、ホシノの両肩が微かに強張った。

 

レナは、前を向いたままのホシノに向かって、絞り出すように続ける。

 

「わ……訳あって、今月は送れない……」

 

「……」

 

「だ、だが……次の報酬が入れば、必ず――」

 

ホシノは無言でアクセルを捻り、ハンターカブの速度を少しだけ上げた。

 

「レナさん」

 

ホシノの視線は、一本道を見据えている。

 

「もう、十分です」

 

「だが、約束を――」

 

「二度も言わせないでください」

 

ホシノの声が、少しだけ冷たくなった。

 

責めているわけではない。

それ以上は言わせまいとする声色だった。

 

「連邦生徒会からの支援物資も、ヴァルキューレの治安維持もあります。もう……レナさんには、十分助けてもらっています」

 

レナは口を噤む。

 

ハンターカブの振動だけが、二人の間を埋めた。

 

「今日は、ユメ先輩がずっと楽しみにしてたんです。

準備して、持っていくものを確認して、地図を広げて……」

 

そこで、ホシノは少しだけ息を吐いた。

 

「今日はみんなで、探索がてらの遠足です。お金の話はやめましょう」

 

「……ああ」

 

ハンターカブが荒れた一本道を抜けた。

 

レナは黙ったまま、ホシノの背中越しに前を見る。

 

遠くに、陽炎で歪んだアビドス高等学校の校舎が見え始めていた。

 

以前よりも輪郭が低く見えた。

 

いや――。

校舎が低くなったのではない。

 

砂が、一階を埋め尽くしていたのだ。

 

「……」

 

レナは目を細める。

 

白茶けた外壁。

砂に埋もれた校門。

錆びたフェンス。

風に揺れる、色褪せた校旗。

 

校舎に近付くにつれて砂の厚みが増し、エンジンが唸る。

そして車体は、前に進むより先に、砂の上でじりじりと横へ逃げた。

 

「流石に……二人乗りはキツいですか」

 

ホシノが下を見ながら口を開く。

 

「仕方ない……降りて行くぞ」

 

レナはそう言い、後部シートから飛び降りた。

 

着地した傍から、コンバットブーツが砂に沈む。

 

思ったより深い。

足首まではいかないが、踏み込むたびに砂が崩れ、バランスが乱れる。

 

「……随分、積もったな」

 

「以前よりも、砂嵐の頻度が増えているんです」

 

ホシノは諦めたような顔で、ハンターカブから降りた。

 

砂を踏むたび、ザリ、ザリ、と乾いた音が鳴った。

エンジンを切ったハンターカブは、途端にただの鉄塊になる。

 

二人で左右に分かれ、車体を押す。

 

「押しますよ」

 

「ああ」

 

二人は無言で、砂に沈みかけた校門へ向かって歩き出した。

 

かつてレナが運び込まれた時の校舎は、確かに寂れていた。

それでも当時は、まだ学校の形を保っていた。

 

ユメとホシノの二人しかいなくとも、他の生徒の足跡が微かに感じられた。

誰も座らない古びた机と椅子には、過去に誰かがそこで過ごしていた痕跡が残っていた。

 

だが、今は違う。

 

正門は半分ほど砂に埋もれ、校庭だった場所は起伏のある砂丘に変わりつつある。

 

一階の窓は砂の重みで割れ、校舎の内側へ砂が流れ込んでいるのが見えた。

 

風が砂を運ぶたび、どこかで金属が軋む音が響く。

 

だがここは、自分が最初に名前を貰った場所だ。

 

大上レナ。

 

ユウイチでも、LD-508でもない。

梔子ユメが、そう呼んだ場所。

 

その場所は――。

もはや、息をしていなかった。

 

「……ここまで来ると、校舎というより廃墟だな」

 

「それ、冗談ですか……? 笑えませんよ」

 

「……そうだな。すまない」

 

レナは短く詫び、校門へ視線を戻した。

 

笑えない。

 

その通りだった。

 

冗談として吐いた言葉は、砂に飲まれた校舎の前では、ただの事実にしかならなかった。

 

「いいですよ。別に、事実ですから……」

 

二人は再び無言になり、玄関に向かってハンターカブを押し続けた。

 

連なる砂丘を越え、砂に足を取られながらも進む。

 

砂に埋もれた玄関前まで来ると、ホシノはハンターカブを壁際に寄せた。

 

かつて昇降口だった場所は、半分ほど砂に呑まれている。

扉は完全には開かず、隙間から乾いた砂が内部へ流れ込んでいた。

 

「ご覧の通り、ここは通れません。

今は職員室の勝手口から、出入りしています」

 

ホシノはハンターカブからエンジンキーを抜き、レナと向き合った。

 

「行きましょう。ユメ先輩は、裏のガレージで待っています」

 

そう言い放つなり、ホシノはハンターカブから離れた。

 

「ガレージ?」

 

ガレージ、と聞いてレナは小さく眉をひそめた。

 

「学校にガレージがあるのか」

 

「ええ、職員用ですが」

 

ホシノは前を向いたまま、校舎裏へ続く細い通路をずんずんと進んでいく。

 

 

――

 

――アビドス高等学校・裏ガレージ。

 

錆びたシャッターの隙間から、砂混じりの光が差し込んでいた。

 

ガレージの床には、遠征用の道具が並べられている。

 

古びたコンパス。

折り畳み式のシャベル。

水の入ったポリタンク。

携帯食料。

予備のロープ。

救急箱。

 

その中央で、梔子ユメが膝をつき、ひとつひとつ指差し確認をしていた。

 

「水、よし。食料、よし。シャベル、よし。コンパス……えっと、よし!」

 

「ユメ先輩!」

 

シャッターを潜り抜けたホシノが声を張り上げた。

 

ユメはハッとした顔をこちらに向けた。

視線はホシノを捉え、その後ろに立つ白い影へと移る。

 

「……レナちゃん」

 

一瞬だけ、ユメの表情が固まった。

 

だが、それは本当に一瞬だった。

 

次の瞬間、ユメはぱっと笑顔を咲かせ、立ち上がると勢いよく駆け寄ってくる。

 

「レナちゃん!」

 

「ユメ……」

 

「会いたかった!」

 

ユメは迷いなく、レナを抱きしめた。

 

柔らかな腕が背中へ回る。

懐かしい匂いがした。

太陽のような、どこか甘い匂い。

かつて自分を許してくれた腕。

 

その温もりに触れた刹那――レナの身体が、強張った。

 

それは一瞬だった。

 

抱きしめられた瞬間、肩の力が抜けなかった。

ほんの僅かだ。

呼吸が一拍だけ遅れ、すぐさま何事もなかったように戻す。

 

だが、ユメは気づいた。

 

「レナちゃん……」

 

「何だ」

 

「ううん……何でもない」

 

ユメは笑った。

いつものように明るく。

 

けれど、その腕には少しだけ力が入った。

まるで、目の前の少女を見失わないように。

 

「会いたかったよ」

 

「…………ああ。私もだ」

 

レナは短く返した。

 

だが、その声は少しだけ遅れた。

言葉に合う感情が、あとから追いついてきたかのような間だった。

 

ホシノは、その間を見逃さなかった。

 

「……」

 

ユメ先輩も気づいている。

レナさんは、自分の異常に気づいていない。

これは、無闇に踏み込むべきではない。

 

ホシノは溜め息を吐くと、わざとらしく手を叩いた。

 

「はいはい。感動の再会もいいですが――。

ユメ先輩……準備は終わっているんですか?」

 

ホシノの目付きが鋭くなり、視線がユメを射抜いた。

 

「え!? あ……! うん、終わってるよ!」

 

ユメは慌てたようにレナから離れ、ガレージ奥にある大きな物体へ振り向いた。

 

「あとは、アレだけだよ!」

 

そこには、砂避けのシートを半分ほど被った一台の車両が置かれていた。

 

角張った車体。

古びた駱駝色の塗装。

フロントドアに描かれたラクダのエンブレム。

マッドテレーンの無骨なタイヤ。

屋根に括り付けられた予備燃料缶と、砂に汚れたルーフラック。

 

古いが、頑丈そうな四輪駆動車だった。

 

「……ランドローバーか」

 

レナの目が、わずかに細まる。

 

「これは……昔あった野外活動部の遠征用車両です。昔は砂漠調査や物資運搬に使っていたらしいですよ」

 

ホシノは車体を軽く叩いた。

 

「まあ、見ての通り古いですけど。まだ動きます」

 

「それで……誰が運転するんだ?」

 

レナが問いかけると、ホシノは目を逸らした。

 

「……私は、アクセルに足が届きません」

 

「……」

 

「正確には届きます。でも、クラッチとブレーキを安定して踏み替えるには、ちょっと……その……」

 

「ホシノちゃん、前に運転しようとして、思いっきりエンストさせたもんね」

 

「ユメ先輩!!」

 

ユメが悪気なく暴露すると、ホシノの頬がわずかに赤くなった。

 

「ユメは? お前の身長なら届くだろう」

 

「私? 私はね、クラッチが硬すぎて踏めなかった!」

 

「……」

 

「あと、ギアがよく分からない!」

 

レナはランドローバーのドアを開け、運転席を見た。

 

古いマニュアル車。

無骨なシフトレバー。

大きなステアリング。

砂漠用に改造された足回り。

 

軍にも採用される、本格的なクロスカントリー車だった。

 

ハンヴィーと違って装甲はない。

だが構造は単純で、壊れても直しやすい。

 

荒れた路面を進むには、こういう旧式の方が信用できる。

 

「鍵を寄越せ」

 

ユメは棚に引っ掛けてあったエンジンキーをレナに手渡した。

 

レナはそれを受け取り、運転席へ乗り込む。

 

座席の位置を調整し、ミラーを確認する。

クラッチを踏み込み、ギアの遊びを確かめる。

 

サイドブレーキ。

燃料計。

水温計。

油圧。

 

一つ一つを確認する動作は正確で、迷いが無かった。

 

レナはキーを差し込み、セルモーターを回した。

 

一拍置いて、直列四気筒のディーゼルエンジンが低く唸る。

ガレージの中に、重たい振動が響いた。

 

「見た目とは裏腹に、よく整備されているな」

 

「はい、これも大事な備品ですからね」

 

ホシノは少し得意げに言った。

 

レナはハンドルに手を置き、正面を見据える。

 

「荷物を載せろ」

 

レナの号令に合わせて、ユメとホシノは荷台にシャベルや燃料タンクを積み込んだ。

 

コンパスと地図を握り締めたホシノが助手席に飛び乗り、ユメは後部座席に座った。

 

「レナちゃん! しゅっぱ〜つ!」

 

後ろのユメが笑顔で片手を挙げた。

 

「了解」

 

頷いたレナはクラッチを踏み込み、シフトレバーを一速に入れる。

 

「よし、行くぞ」

 

「安全運転でお願いします」

 

 

 

――

 

――アビドス旧市街地。

 

三人を乗せたランドローバーは、アビドス高校を出発した。

 

エアコンの効きは弱く、窓を開けて熱風を逃がしながら、砂に埋もれた幹線道路をひた走る。

 

「そこ、廃ビル右の砂丘を避けてください。旧市街の舗装が残っているはずです」

 

助手席で広げた地図と、外の地形を交互に見比べながら、ホシノが的確にナビゲートする。

 

「了解。右だな」

 

レナはホシノの指示通りにハンドルを切り、巧みなクラッチワークで砂の起伏を越えていく。

 

後部座席では、ユメが窓から顔を出し、風に髪を靡かせながらはしゃいでいた。

 

「わあーっ! レナちゃん、運転上手だね! まったく揺れないよ!」

 

「はしゃぐな。舌を噛むぞ」

 

(……前世で散々乗っていたからな)

 

レナはそう内心で呟きながら重たいクラッチを踏み抜き、シフトレバーを押し込んだ。

 

同時にランドローバーのディーゼルエンジンが低く唸りを上げる。

 

古びた車体は次第に速度を上げた。

ガタガタと揺れるが、足回りは好調だった。

 

大径タイヤが砂を蹴り上げ、荒れた道を突き進む。

 

「レナさん、次の分岐を左です。右は砂に飲まれてます」

 

助手席のホシノが、地図と窓の外を見比べながら言った。

 

「了解。左だな」

 

レナは短く返し、ハンドルを切る。

 

車体が斜めに傾き、後ろのユメが「わっ」と声を上げた。

 

「ユメ、シートベルトをしろ。振り落とされるぞ」

 

「ご、ごめんね! 今付けるよ!」

 

ユメは慌てたようにシートベルトを身体に巻いて固定した。

 

「ユメ先輩、遠足気分なのはいいですけど、ちゃんと荷物も見てくださいね。給水タンクが倒れたら困ります」

 

「見てる見てる! 水、よし! シャベル、よし! ロープ、よし!」

 

誤魔化すように白々しい声を上げるユメが、バックミラー越しに映り込む。

 

それを見かねたホシノは、ミラーに映るユメを睨み付けた。

 

「ユメ先輩……適当に報告するのはやめてください」

 

「大丈夫だって! ちゃんと見てるよー!」

 

後部座席から聞こえるユメの軽い声に、ホシノは呆れたように溜息を吐いた。

 

視線を手元に戻すと、コンパスと地形を照合し、次の進路を探し始める。

 

「……レナさん。次、右です」

 

「了解」

 

レナは短く答え、ハンドルを切った。

 

ランドローバーの車体が大きく揺れる。

砂に半分埋もれた道路を、タイヤが無理やり噛んで進んでいく。

 

 

 

 

――

 

――

 

ランドローバーは砂丘をいくつか越え、しばらく走ると、砂丘の向こうに開けた窪地が見えた。

 

かつて大オアシスと呼ばれていた場所。

 

かつては青々とした水面が広がり、豊かな緑がアビドスを潤していた場所。

 

それが「大オアシス」の成れの果てだった。

 

「到着!」

 

後部座席でユメが歓声を上げ、車のドアを勢いよく開け放つ。

 

だが、そこに広がっていたのは、見渡す限りの茶色い砂漠だった。

 

干上がった湖底の大地と、立ち枯れたヤシの木の残骸だけが、ここがかつてオアシスであったことを物語っている。

 

水は、一滴も残っていなかった。

 

「これがオアシスか……見る影もないな」

 

レナはエンジンを切り、運転席から降りて周囲を見渡した。

 

「昔は、ここで砂祭りをするほどの活気があったらしいです」

 

ホシノも助手席から降り、呆れたように周囲の砂を蹴る。

 

「それで? ……こんな辺鄙な場所で何を探す」

 

レナが訝しんだ視線をユメとホシノに向けた。

 

ユメはランドローバーのリヤドアを閉め、レナの疑問に答えた。

 

「昔のアビドス生徒会がね、大オアシスにすごいものを沈めたらしいの!

砂祭りで使う予定だった、特別な花火みたい!」

 

ユメは両手を広げ、炎のジェスチャーを取った。

 

「中に希少鉱物が使われてて、刺激を与えると青い火花が出るんだって!

もし本当に見つかったら、少しは借金返済の足しになるかもしれないでしょ?

それに……」

 

途中でユメの言葉が切れ、レナは視線を向けた。

 

「それに……何だ?」

 

「ううん、何でもない! 今はとにかく、お宝探し!」

 

ユメはバックドアを開け、荷台から大きなトートバッグを取り出して掲げた。

 

「じゃあ、まずは、お着替えからだよ!」

 

「お着替え?」

 

「うん! オアシスと言えば水着! だから、三人の水着を用意しました!」

 

「……はぁ?」

 

ホシノが目を丸くする横で、レナは僅かに眉をひそめた。

 

「水がないのに、水着を着るのか」

 

「雰囲気! 形から入るのは大事なんだよ!

はい、これレナちゃんの分ね!」

 

ユメはレナに向かって、濃紺色のものを押し付けた。

 

広げてみると、それはアビドス指定の旧スクール水着だった。

 

腹部下側に水抜き穴のある、古い型のワンピースタイプ。

 

「私が昔使ってたやつなんだけどね、レナちゃんの尻尾が出るように、昨日の夜、頑張って改造したの! 多分ぴったりだと思うよ!」

 

「こ……これを、着るのか」

 

「着るの! ほら、ホシノちゃんも!」

 

「ユメ先輩! 引っ張らないでくださいよ!」

 

ユメは半ば強引にレナに水着を押し付け、仮設テントの骨組みを組み立て始めた。

 

「二人でテント建てちゃうから、レナちゃんは先に着替えてて!」

 

「あ、ああ」

 

レナは自身の手元に残った濃紺色の水着を、まじまじと眺める。

 

胸元には白いゼッケンが縫われ、「1年2組 大上レナ」と丸っこい字で書かれていた。

 

 

――数分後。

 

着替え終えたレナは、ランドローバーの影から渋々姿を現した。

 

「……」

 

紺色のスクール水着は、確かにレナの身体に「ぴったり」すぎた。

 

余分な脂肪のない、日々の訓練で引き締まった肢体。

華奢な肩から伸びる白い肌と、紺色のコントラストが目に眩しい。

 

ユメが夜なべして開けたという腰の穴からは、白いふわふわの尻尾が見事に飛び出している。

 

ただ――生地の伸縮性が、レナにはひどく不快だった。

 

「……食い込むな。

ユメ、昔のお前と私では体型が違いすぎる」

 

レナは股関節の辺りの生地を指で引っ張り、パチンと直した。

 

無自覚なその仕草に、テントを建て終えたホシノが思わず目を逸らす。

 

「レナさん! はしたないですよ!」

 

「……何がだ?」

 

レナは無表情のまま、ホシノを見返した。

 

自分では、ただ違和感のある部分を直しただけだ。

戦闘服でも制服でも、装備に不具合があれば即座に修正する。

 

戦闘行動において、股擦れは致命的だ。

 

だが、ホシノは額に手を当て、深々と溜息を吐いた。

 

「そういう所です……」

 

「……?」

 

その横で、ユメは両手を合わせて目を輝かせていた。

 

「わあ……可愛い! ぴったりだね、レナちゃん!」

 

「……ぴったりではない。

穴の位置が甘いぞ、動かすたびに股が締め付けられる」

 

レナは後ろの生地に指先を滑り込ませ、グイッと引っ張って元の位置に戻した。

 

「三センチ低い。尻尾が動くと引っ張られる」

 

「三センチ……!」

 

ユメはなぜか真剣な顔で、自分の手のひらを見つめた。

 

「うう……水着の改造、奥が深い……」

 

「レナさん……ユメ先輩が本気で反省してしまいます」

 

そのやり取りを聞きながら、レナは周囲を見渡した。

 

枯れた大オアシス。

 

ひび割れた湖底。

立ち枯れたヤシ。

どこまでも続く砂。

遠くで揺れる陽炎。

 

水着という格好だけが、この場所からひどく浮いていた。

 

「……なぜ、ここまでして水着に拘る」

 

レナが問いかけると、ユメは一瞬だけ動きを止めた。

 

そして、いつもの明るい笑顔のまま、少しだけ声を落とす。

 

「昔の写真だとね、みんな水着でここに来てたんだよ」

 

ユメは、砂に埋もれた窪地を見渡した。

 

「アルバムにあった砂祭りの写真……。

大オアシスの周りに屋台が出て、夜には青い光が水面に映って……みんな、すごく楽しそうだった」

 

乾いた風が吹いた。

 

「だから……同じ格好で来たら、少しだけ昔に近づけるかなって」

 

砂が、ユメの足元をさらさらと流れていく。

 

レナの隣に立つホシノは何も言わなかった。

いや、言えなかったのかもしれない。

 

「……」

「……」

 

レナもまた、すぐには返せなかった。

 

ユメが見ていたのは、かつての賑わい。

 

現実と夢の曖昧な境界線――。

その狭間に、ユメは立っている。

 

「じゃ、私も着替えるね! ホシノちゃんも!」

 

ユメは、ぱっと柔らかい笑顔を浮かべ、ホシノの手を掴んだ。

 

「ちょっ! ……ユメ先輩!」

 

小柄なホシノは引き摺られるように、テントの中へ引き込まれた。

 

乾いた風が、枯れた湖底を撫でていく。

 

水のないオアシス。

砂に沈んだ街。

それでも、ユメはまだ、ここに昔の光を見ようとしている。

 

レナはテントの揺れる布を見つめたまま、しばらく黙っていた。

 

やがて――。

 

テントの布が、ふわりと揺れた。

 

 

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