白狼救済録 作:らんらん出荷マン
「……意見を、具申する」
ツルギの掠れた声が、野戦指揮所の空気を凍りつかせた。
副委員長は、半ば呆然とした顔で彼女を見る。
剣先ツルギ。
正義実現委員会が抱える、最も異質な一年生。
戦闘力という一点において、この場にいる誰もが認める最大の切り札。
だが、その彼女が戦術に口を出すなど、誰の想定にもなかった。
「な……何だ」
ツルギは戦術地図を見下ろしたまま、血のような赤い瞳を細めた。
「私が突っ込んでも、無理だ」
「……剣先」
「対戦車砲。重迫。機関銃。塹壕。林の中で……こっちが動くのを、じっと待ってる」
ツルギの指が、林間の左右をゆっくりとなぞる。
「私が出たら、そこから全部飛んでくる。榴弾も、銃弾も、ありったけ」
低く、押し殺すような声だった。
だが、言っている内容は極めて正確だった。
単なる野生の勘ではない。最前線に立ち続けた者だけが持つ、死線における嫌な予感の精度だった。
「GAは、お前を止める準備をしている、ということか」
副委員長が問うと、ツルギはゆっくりと顔を上げた。
「恐らく、そうだ。……私を見たら、砲弾の雨が降る」
「であれば、対戦車砲にも榴弾を配備しているな」
レナの言葉に、テント内の数人が眉をひそめた。
ツルギは、にぃ、と凶暴に口元を歪める。
「……分かるのか」
「私ならそうする。お前たちは、そう簡単には倒れないからな」
レナは地図上の林縁を指で叩いた。
「対戦車砲は、戦車だけを撃つものじゃない。
榴弾を積めば、随伴歩兵にも、装甲の陰から飛び出す突撃兵にも効く。特に――」
レナの冷たい視線が、ツルギへ向く。
「お前のような奴には、な」
テントの中にいた正実生徒たちが、息を呑んだ。
剣先ツルギは、正義実現委員会の切り札だ。
どんな銃撃にも怯まず、どんな包囲網も正面から食い破る。
彼女が走れば、敵は崩れる。
誰もがそう信じていた。
だが、相手がそのことを知らないはずがない。
「GAは正実の戦い方を熟知している。切り札も、陣形の癖も、突撃の呼吸も、すべて織り込み済みだろう」
レナは淡々と続ける。
「なら、対戦車砲の弾薬箱に十分な数の榴弾を積んでおく。重迫と機関銃の制圧で部隊の足が止まった瞬間――」
沈黙していたハスミが、静かに声を上げた。
「榴弾が、一直線に飛んでくる……」
「そうだ」
レナは短く頷いた。
「相手は護りのGAだ。正実の戦い方を知らないはずがない。
剣先ツルギという特異な存在を、対策していないはずがない」
その推論は、あまりにも冷徹だった。
相手が何をするか。
どこに砲を置くか。
誰を狙うか。
どうすれば止められるか。
レナの言葉には、一片の迷いもなかった。
副委員長は、ギリッと歯を食いしばる。
「だからと言って、貴様に任せろと言うのか」
「任せろとは言っていない。現実を見ろと言っている」
「……ッ!」
副委員長の肩がわなわなと震えた。
怒り。屈辱。焦燥。
そのすべてが喉元までせり上がってくる。
だが、レナは目を逸らさない。
「策も練らずに正面から突っ込めば、また同じことの繰り返しだ」
「ならば……どうする」
副委員長の絞り出すような声に、レナは青い駒を掴んだ。
「我々SRTの一個分隊を、林間に浸透させる」
「何ッ……浸透だと!? 無謀だ!」
副委員長は目を見開き、テーブルを叩いた。
「少数での作戦行動は、SRTの十八番だ」
レナは迷わず、地図上の左翼林間へ青い駒を置いた。
「我々の陣地から林間までの距離は、ここが一番近い。浸透部隊には実力者を選抜し、カモフラージュを施させる」
「実力者……?」
副委員長の眉が動いた。
レナは左翼林間に置いた青い駒を、指先で強く押さえる。
「FOXを使う」
その名が出た瞬間、テントの中に小さなどよめきが走った。
「たったの四人で……」
副委員長がぽつりと呟く。
レナは即座に切り返した。
「いや、四人がベストだ。人数が少ないほど小回りが利き、隠蔽性も高まる」
レナは戦術地図に赤い線を引いた。
「そして、迫撃砲の運用には『目』が要る。特に今回はな」
「目……観測か」
「この平原は、GAによって事前に測量されているはずだ。進路上の主要区画には、あらかじめ座標が振られ、射表も用意されているだろう。
となれば、観測班がその場で弾道を弾き出す必要もない」
レナの指先が、平原中央をいくつかの区画に分けるように動いた。
「観測班の役割は、リアルタイムで砲弾を誘導することではない。
こちらの部隊がどの区画へ入ったかを確認し、登録済みの射撃任務を呼び出すことだ」
テントの空気が、さらに重く沈む。
「交会観測と、事前登録射撃の併用……ですね」
ハスミが呟いた。
「ああ、左右の林間に観測班を置くだろうな。
二つの視点からこちらの位置を正確に絞り、そこから登録済みの区画へ砲撃を落とす。
そうすれば、移動する相手にもある程度は追随できる」
レナは林間の両翼を指で叩いた。
「だが、どちらか片方の目を潰せば、区画判定の精度は落ちる。砲撃は粗くなり、修正も遅れる」
「……つまり」
副委員長が低く呟く。
「FOXで観測班を潰す、ということか」
「そうだ。FOXは林間の左翼から浸透し、観測班の排除と対戦車砲の特定を行う。
それに合わせ、本隊は正面から平原へ出る」
レナは青い駒をさらに一つ、平原中央へ置いた。
「だが、奴らもバカじゃない。
観測が途絶えたと判断した途端、進路上の予定区画へ突撃破砕射撃を行うだろう」
「対戦車砲はどうする。戦車を……囮にするつもりか?」
副委員長の声が鋭くなる。
「いや――厳密には違う」
レナは即答した。
「敢えて敵に撃たせる」
レナは戦術地図から視線を上げ、副委員長の目を真っ直ぐに見据えた。
「防衛側が有利である以上、本隊は必ず先手を取られる。だが、撃たれれば火点のおおよその位置は割れるはずだ。
そこでFOXの観測情報と、シャーマンのスタビライザーを活かした行進間射撃で、砲撃を掻い潜りながら敵火点を一つずつ潰していく」
レナの指が、平原から林縁へ、そして要塞へと続く進路を描き出す。
「反撃と前進を繰り返す。止まって耐えるのではなく、前へ進みながら押し潰す」
「反撃と……前進」
「残念だが、この戦術は損害をゼロにはできない。半数が戦闘能力を保ったまま突破できれば、御の字だろう」
レナはツルギを一瞥した。
「だが、マカロン隊でなければ、この血路は開けない。
そしてこれは、ツルギを要塞に届かせるための、最も確実な方法でもある」
副委員長は押し黙った。
反論の言葉を探しているようだったが、その口からは何も出てこない。
レナの提示した作戦は、感情論を徹底的に排した冷酷なものだった。
そして、明確に犠牲を前提にしていた。
『誰一人、傷つけずに済ませる』といった生温い理想論ではない。
生徒を戦力資源として見做し、その損耗を最小限に抑えるための戦術だ。
だからこそ、否定できなかった。
「副委員長」
重い沈黙を破ったのは、ハスミだった。
「……彼女に、指揮を任せるべきかと」
「羽川……お前まで、信じるというのか」
「信じるのは、彼女の人格ではありません。彼女が積み上げてきた実績です」
ハスミは静かに、だが確かな意思を持って言った。
「私のことを知っているのか」
レナが問うと、ハスミは視線だけを向けた。
「ええ。先日のニュースは見ました。サーモバリックの摘発……お見事でした」
副委員長の表情がわずかに歪む。
ハスミは続けた。
「彼女は、私たちの戦い方を否定したいわけではありません。
GAの周到な防衛網を突破するための、唯一の現実を提示しているだけです」
ハスミの視線が、テントの外へ向いた。
「……これ以上、正義実現委員会の生徒たちを無為に傷つけるわけにはいきません」
その言葉に、周囲の正実生徒たちもわずかに目を伏せた。
外で横たわっている負傷者たち。
包帯に滲む血。
まだ戻らない仲間の名前。
それらが、誰の脳裏にも過った。
副委員長は拳を握り締め、深く目を閉じた。
数秒の葛藤の後、目を開き、重々しく息を吐き出す。
「いいだろう……本作戦に限り、指揮を認める」
副委員長は、レナを睨みつけた。
「だが、忘れるな。貴様の背中についていくのは、トリニティの生徒だ」
その声には、まだ微かな刺が残っていた。
だが、先ほどまでの意固地な拒絶とは違う。
それは、敗北した者が最後に守ろうとする矜持だった。
「……了解」
レナが頷いたのを横目に、副委員長は側近から書類束を受け取った。
そのままページを捲り、視線を落とす。
「では……こちらの手札を教えよう」
副委員長は、書類束をテーブルへ置いた。
敗北を認めたわけではない。
SRTを心から信じたわけでもない。
ただ、これ以上仲間を無為に死地に送る選択肢を、彼女自身が選べなかっただけだ。
「現在、即時投入可能な正義実現委員会の生徒は16名。軽傷者を含めれば27名まで増やせるが……」
「軽傷者はお留守番だ」
レナが即座に遮った。
副委員長の眉がピクリと動く。
「彼女たちは、まだ……戦える」
「いいか、平原に遮蔽物はない。敵に射撃演習をさせる気か?」
「……言い方というものがあるだろう」
「肉避けを使う趣味はない」
レナは冷たく切り捨てた。
テントの空気が、また凍りつく。
「無理に前へ出せば、その生徒は遅れる。
遅れた生徒を助けるために、別の生徒が足を止める。
そうなれば前進を続ける戦車隊は孤立し、隊列は乱れ、速度を失う」
レナは地図上の平原を指でなぞった。
「歩兵と戦車の息が合わなければ、突破は不可能だ」
「くっ……!」
副委員長は言い返しかけたが、結局奥歯を噛み締めて口を閉じた。
その沈黙を肯定と受け取り、レナは地図へ視線を戻す。
「使える装甲戦力は他にあるか?」
「今は……マカロン隊のみだ。シャーマン中戦車四両。
隊長車が76mm砲搭載型、残り三両が75mm砲搭載型だ」
「理由は?」
レナは即座に問う。
「旧聖バルバラ要塞周辺に展開している装甲戦力は、第7中隊のみだ」
「……その中で、動けるのがマカロン隊のみ」
「ああ……そうだ」
副委員長の表情が、苦渋に満ちていく。
「第4小隊、第5小隊は、第一次攻撃で壊滅した。
お前も見ただろう。外に転がっている八両のクルセイダーがそれだ」
レナの脳裏に、砲塔を歪ませた巡航戦車の残骸が浮かんだ。
焼け焦げた塗装。
履帯の外れた車体。
林の方へ砲身を向けたまま、沈黙している鉄の棺桶。
「マカロンは予備か?」
「ああ。マカロン隊はシャーマンの運用試験部隊だ。無闇に投入できん」
「第7中隊の第1から第3小隊はどうした」
「ここにはおらん。周辺道路の封鎖と、自治区内の警戒に回している。
GAの決起に呼応する者が他にいないとは限らない。要塞に全戦車を集めれば、背後を刺される」
「何故、他の戦車隊はいない」
「大動員は、ティーパーティーからの許可が下りんのだ」
副委員長は吐き捨てるように言った。
「旧聖バルバラ要塞の件は、まだトリニティ内部で大事になっていない扱いだ。
その中で多くの戦車隊を動かせば、それは内乱を公式発表するのと同義――」
副委員長は、血が滲むほど唇を噛んだ。
「だから、この場にいるのは第7中隊だけになる」
「了解した……スモーク弾は配備しているか?」
「数は少ないが……75mm用の
「では、三両に積ませろ。イージーエイトにはHVAPを数発だ」
「高速徹甲弾? ……GAに装甲戦力はないはずだが」
「御守りだ。使わずに済むなら、それでいい」
レナは短く言い切った。
その声音に、一切の迷いはない。
「……分かった。すぐにマカロン隊へ通達する」
「それと、もう一つ」
レナはテーブル上の駒を見下ろしたまま言った。
「ツルギは、要塞に近付くまで何もするな」
「何だと?」
副委員長が顔を上げた。
テント内の正実の生徒たちも、一斉にレナを見る。
ツルギだけは獣のように口元を歪め、大きく舌先を覗かせた。
「林間に掘られた塹壕の制圧は、正実部員と我々SRTが行う」
「剣先は我々の最大戦力だぞ」
「――だから温存する」
レナは即答した。
「最大戦力というのは、相手が最も嫌がるタイミングで、最も嫌がる場所へ叩き込むものだ」
副委員長の表情が強張る。
レナはさらに続けた。
「それに、ツルギの存在を、奴らに知られたくはない」
「知られたくない……?」
副委員長が眉をひそめる。
レナは地図上の旧聖バルバラ要塞を指で叩いた。
「GAは、ツルギが正実の切り札であることを知っている。ならば、こちらが再攻撃を仕掛けた時、まず警戒するのは彼女の投入だ」
「……」
「裏を返せば、ツルギが見えない間、奴らは判断に迷う」
レナの指が、林間、塹壕、要塞へと順に移動する。
「どこから来る。いつ来る。正面か。側面か。煙幕の中か。
それを考え続けさせるだけで、敵の精神的負担は跳ね上がる」
副委員長は無言のまま地図を睨み、正実の生徒たちがわずかに息を呑む。
「最大戦力は、存在するだけで価値がある。
ツルギの所在が不明な以上、敵は警戒を解けない。
戦力を分散させる必要にも駆られるだろうな」
レナは地図上の要塞正門を指先で叩いた。
「だから、ツルギは最後まで見せない」
「……いつだ……いつ、戦える……!」
それまで黙っていたツルギが、腹の底から響くような声で問う。
レナは彼女へ視線を向けた。
「林間の塹壕を突破し、要塞周辺の掩体壕へ近付いた時だ」
「……ぎひっ……ぎゃはははは!!」
ツルギは突然笑った。
その笑みは、獣が獲物の喉元を見つけた時のように歪みきっていた。
何の前触れもなく笑い出す不気味さと、圧倒的な暴力の予感に、周囲の生徒は気圧されてツルギから一歩距離を置いた。
「……」
ハスミはその笑い声に眉をひそめたが、止めなかった。
今のツルギには、待つ理由が与えられている。
ならば、彼女は“まだ”抑えるだろう。
「……これで決まりだな」
副委員長は苦々しげに頷いた。
それ以上、レナは詳細を語らなかった。
作戦の骨子は示した。
必要な戦力も、使う順番も、概ね決まった。
あとは、実際に動ける者たちを見ればいい。
「小隊長……」
「何かしら?」
テントの端で黙って聞いていたレンが、軽く手を挙げる。
「第1小隊は正実との間に入って、隊列維持と連絡を担当してください。
彼女たちは第一次攻撃で、かなり乱れている。SRTが道しるべになる必要があります」
「任せて。纏めるのは得意よ」
「FOXには私から直接伝えます」
レナは最後に副委員長へ視線を向けた。
「マカロン隊の所へ行く。隊長の顔を見ておきたい」
「好きにしろ。ただし、彼女たちは正義実現委員会の部隊だ」
「承知した」
レナは短く返し、踵を返した。
テントの布を押し上げると、外の冷たい空気が肺へ流れ込んでくる。
朝霧はまだ濃く残っていた。
レナは一度だけ、旧聖バルバラ要塞の方角へ目を向けた。
林の奥に潜む火点。
霧の向こうで待つ対戦車砲。
塹壕の中に潜むGA。
そこには、ツルギを倒せないまでも、足止めするための最大火力が揃えられている。
「……」
レナは短く息を吐き、野戦指揮所を後にした。
遠くでは、救護テントの下で救護騎士団の生徒たちが忙しなく行き来している。
簡易ベッドの上で横たわる正実の生徒たちは、意識こそあるものの、誰もが無言だった。
その横を、レナは足を止めずに通り過ぎる。
――
野戦指揮所のテントから少し離れた平原の端。
そこには、むせるような油と泥の匂いが漂っていた。
四両のシャーマンが、縦列隊形のまま佇んでいる。
各車の砲塔には識別番号が刻まれており、先頭のイージーエイトから――761、762、763、764、と連なっていた。
「……ねぇ! そっちの木箱よ! こっちにもWPを回して!」
「HVAPは一発だけ即応弾! 後は弾薬庫の奥に! すぐには使わない!」
「50口径のアンモボックスは!?」
「砲塔の横! 落ちないように固定して!」
飛び交う怒声と金属音。
黒と赤の正義実現委員会の制服の上に、油や泥で汚れたタンカースジャケットを羽織った生徒たちが、巨大な鋼鉄の塊によじ登りながら慌ただしく作業を続けている。
優雅なトリニティの生徒とは程遠い、煤けた顔とオイルに塗れた手。
レナはその光景を静かに見つめながら、先頭のイージーエイトに歩み寄った。
エンジンデッキの上に立ち、弾薬の積載を指示していた生徒が、レナの接近に気づいて手を止めた。
彼女の頬にも、黒いオイルの染みがついている。
「おや……貴女は」
彼女は、手に持っていたクリップボードを脇に挟み、エンジンデッキの上からレナを見下ろした。
煤と油で汚れた顔の奥には、乗員を束ね、指示を飛ばし続けてきた者の鋭さが残っている。
「小隊長か?」
「正義実現委員会、機甲科第7中隊第6小隊所属。小隊長兼車長の平野チエです」
チエは車体から身を乗り出し、身軽な動作で地面に飛び降りた。
着地と同時に、タンカースジャケットの裾がふわりと揺れる。
「出撃準備は七割方完了しています。先ほど副委員長から通達があり、WP弾とHVAP弾の積載も進行中です」
「手際がいいな」
レナが言うと、チエはわずかに口元を歪めた。
「訓練だけは、嫌というほど繰り返してきましたので。……この子での実戦経験はありませんけど」
チエは自分の乗機――イージーエイトの分厚い装甲を、コン、と指で叩く。
「雷帝政権下での有事を想定して、私たちはこの子たちを次期主力候補として試験運用していました。
けれど、雷帝が失脚してから計画は凍結。本格配備の話も消えました」
そこで、チエの声が少しだけ沈んだ。
「挙げ句の果てには、訓練予算を削る案まで出たんです。……だから正直、私たちの出番が来るとは思っていませんでした」
チエは苦く笑う。
「ましてや、身内を撃つための戦いに引っ張り出されるなんて……皮肉なものですね」
「自分たちは、無用な存在だと?」
レナの静かな問いに、チエは目を伏せた。
「……ええ。ただのお飾りだと、そう思っていました」
「だが、もう違う」
その一言に、チエが顔を上げる。
ハイライトのない赤い瞳が、煤けた顔を真っ直ぐに射抜いていた。
「これまでの訓練が無駄ではなかったと、自らの力で証明してみせろ」
チエは一瞬だけ目を瞠り、そして、ふっと表情を和らげた。
自嘲の影は消え、瞳の奥に確かな光が宿る。
「お任せください。私たちが切り拓いてみせます」
チエは踵を揃え、右手を額に当てて敬礼を向けた。
油に汚れ、煤けた姿。
だが目の前にいるのは、誇り高き戦車兵だった。
レナもまた、無言で短い敬礼を返す。
「急げ! 間もなく出撃だ!」
チエの号令が平原の端に響き渡り、マカロン隊の動きが一層慌ただしくなる。
レナはその様子を一瞥し、SRTに貸し与えられた待機用のテントへ向かった。
――
――SRT待機用テント前。
大きな天幕の下では、第1小隊のメンバーがテーブルの上で各々の装備を整備していた。
テントのすぐ外。
倒木に腰掛けるようにして、FOXチームの四人が並んでいる。
出撃準備の最中だというのに、彼女たちは驚くほどリラックスした様子で、漆器に詰められたお稲荷さんを頬張っていた。
「……随分と呑気だな」
レナが声をかけると、オトギがもぐもぐと口を動かしながら振り返り、漆器を差し出した。
「んっ。食べる? 美味しいよ?」
「一つ貰おう」
レナはお稲荷さんを一つ摘まみ、口に運んだ。
甘く煮られた油揚げの味が、硝煙と泥の匂いを上書きし、妙に場違いな温かさを残す。
ユキノが最後の一つを飲み込み、水筒で喉を潤してから口を開いた。
「指揮権の委譲は終わったみたいだな。……それで、私たちの任務は?」
「林間への浸透。砲撃を誘導する敵観測班の排除。及び、対戦車砲陣地の概定だ」
レナは地面の砂をブーツの先で均し、簡単な図を描いた。
四人の視線が、レナのつま先に集まる。
「敵観測班は、この林間の左右に分かれている可能性が高い。
お前たちは、ここから霧に紛れて林間の左翼部分へ進入。林縁に潜む観測班を探せ。
我々が平原に出れば、奴らはまず迫撃砲の区画射撃でこちらの足を止めようとするはずだ」
レナは、林間の奥へ向かう線を描き足した。
「排除のタイミングは、敵が初弾の弾着を確認し、修正の通信を発した直後だ。初弾の修正を潰せば、その後の迫撃砲は予定区画へ撃つしかなくなる。精度は落ち、こちらの前進には追いつきにくくなる。
観測班との連絡が途絶えれば、GAは即座に林間へ捜索部隊を差し向けるだろうが、交戦は避け、息を潜めてやり過ごせ」
レナは図の平原部分をブーツの先で叩いた。
「迫撃砲の弾幕を抜ければ、痺れを切らした敵は必ず対戦車砲を撃ってくる。
その発砲炎を確認次第、敵対戦車砲の座標をこちらへ送れ。
ただし、逆探知を避けるため、送信は短く、低出力に限定だ」
「了解した」
ユキノは淡々と頷き、傍らに置いていたライフルを手に取った。
だが、レナは彼女たちの姿を見て、低く言った。
「ああ……その前に、偽装を徹底しろ」
「偽装……?」
クルミが首を傾げる。
「お前たちの制服は、昼間の林間では浮く。ポンチョを羽織り、その上からスナイパーベールを被れ」
レナはFOXチームのセーラー服――特に、プリーツスカートから伸びる白い素肌を指差した。
「素肌は目立つ。顔と脚をペイントで完全に潰せ。……それとニコ、その白いタイツは脱げ」
「……えっ、脱ぐの?」
ニコが目を丸くし、自分の脚を見下ろした。
FOXチームの中で、ニコだけは白いタイツを着用している。
「そうだ。市街地ならともかく、林間で白は射撃目標の目印のようなものだ。
……脱ぎたくなければ、その上から塗れ。タイツはダメになるがな」
レナが容赦なく告げると、ニコは少しだけ困ったように眉を下げた。
だが、すぐに「はいはい、脱げばいいんだよね?」と苦笑し、ローファーを脱ぎ始める。
「ほら、さっさと塗れ」
レナが迷彩用のドーランとチューブをそれぞれ投げ渡す。
ユキノが空中で受け取り、無言で蓋を開けた。
指先に黒と緑が混ざった冷たいペイントを付け、躊躇いなく自分の頬と額に斜めの線を引く。
さらにスカートの裾を少しだけ引き上げた。
黒いニーソックスから覗く白い太ももに無骨なペイントを容赦なく擦り込んでいく。
「うひゃぁ……変な感じね」
「文句言わない。偽装は潜入の命だよ」
クルミが渋面を作りながらも自分の顔と素足に塗りたくり、オトギは真面目な表情で自身の素肌を塗り潰す。
タイツを脱ぎ終えたニコも、ため息を吐きながら自分の脚にチューブのペイントを伸ばし始めた。
普段の可憐な姿は見る影もなくなり、四人は完全に景色へ溶け込むための「異形の兵士」へと姿を変えていく。
その上から、偽装網と枯れ葉が縫い付けられた迷彩ポンチョをすっぽりと被り、頭部をスナイパーベールで覆い隠す。
輪郭を完全にぼかされた四人は、数歩も離れれば、林の茂みと見分けがつかない状態になっていた。
「……偽装完了だ。指示を」
ペイントに塗れた顔の奥で、ユキノの瞳だけが鋭く光っている。
レナは四人の仕上がりを確認し、短く頷いた。
「大回りして、林間に進入しろ」
「了解」
「見つかるな。お前たちが仕留めるのは、迫撃砲の観測班だけだ。
林間に隠れた対戦車砲を見つけても、手は出すなよ」
レナは無線機を指差した。
「砲の相手は戦車隊がやる。……何か質問は?」
レナは全員の顔を一瞥するが、誰も手を挙げず、口も開かなかった。
「では……健闘を祈る」
「「「「了解」」」」
全員が短く返し、背筋を伸ばした。
「それと、オトギ」
オトギは対物ライフルを担ぎながら、レナを見る。
「ん? 何、レナ?」
「ドローンを過信するな」
「了解。使う場所は見極めろってことでしょ?」
「ああ、そうだ」
隊列を組み、ユキノが一歩前に出る。
「FOX、行動開始」
声は低く、短かった。
四つの迷彩の塊が、足音一つ立てずにテントの裏手へ向かう。
そして、霧に濡れた藪の中へ入った瞬間、彼女たちの姿は景色に溶け込み、あっという間に見えなくなった。
FOXの姿が藪の奥へ消えた後も、レナはしばらくその方向を見ていた。
霧に濡れた枝葉が、わずかに揺れる。
それだけだった。
数秒前までそこにいた四人の気配は、もうない。
「……隊長」
背後からリノの声がした。
レナが振り返ると、WOLFの三人がテントの陰から歩いてきていた。
リノはDMRを肩に掛け、スイは大量の弾帯を抱え、メイはタワーシールドの固定具を確認している。
「そろそろ
「了解しました」
リノは短く頷いた。
その視線が、レナの右手へ落ちる。
レナの指先が、わずかに震えていた。
一瞬。
本当に、見落としてしまうほど小さな揺れ。
レナは無意識に、拳を握った。
「少し……休まれた方が」
「必要ない」
レナは即答した。
声は平坦で、 いつも通りの声だった。
だからこそ、リノは眉をひそめる。
「……隊長」
スイが抱えていた弾帯をずり上げながら、少し困ったようにレナを見る。
「ねぇ、隊長。ちゃんと寝てる……?」
「ああ」
「なんだか顔色よくないけど」
「気のせいだろう」
レナはそれだけ言って、視線を外した。
メイは何か言いたげに口を開きかけたが、リノがわずかに首を横へ振る。
今ここで言っても、隊長は止まらない。止められない。
リノには、それが分かっていた。
あの夜以降、リノはレナの言葉を信用しないことに決めている。
呼吸。 顔色。 指先。 目の焦点。 言葉の間。
それらを見て、必要なら止める。
だが、今はそうもいかない。
止めれば、この場の全員が止まり、状況は悪化する。
ならば、今できることは一つだけだった。
見張る。
倒れる前に、止める。
必要なら、隊長の銃口を掴んででも。
リノはそう決め、胸の奥に沈めた。
――ブルルッ。
ポケットの中でエドゥトの板が震えた。
取り出し、画面に視線を落とす。
ポップアップにメッセージの着信知らせが浮かぶ。
差出人は連邦生徒会長だった
『呼び出してしまって、ごめんなさいm(_ _)m』
レナは、その文面を無言で見下ろした。
霧と泥と油と硝煙の匂いが混ざる場所に、不釣り合いな顔文字が浮かんでいる。
ふざけているのか。
そう思ったが、レナは口に出さなかった。
続けて、次の文面が表示される。
『でも、今この場で旧聖バルバラ要塞を抜けるには、あなたの指揮が必要です』
『無理をさせていることは、分かっています』
『それでも……』
『トリニティの生徒たちを、よろしくお願いします』
レナは親指で画面を送った。
その奥で、A.N.O.R.A.の小さなアイコンが瞬いた。
[バイタルチェック]
[心拍:上昇]
[手指振戦:継続]
[睡眠不足兆候:あり]
[戦闘指揮継続:非推奨]
(……矛盾しているぞ)
レナは画面に視線を落としたまま、返信欄を開く。
『了解した。最善を尽くす』
それだけ打ち込んで、送信した。
すぐに既読が付く。
『ありがとう』
その一文の後、少し間が空いた。
そして、もう一つ。
『エドゥトの板は、肌身離さず持っていてくださいね』
レナはエドゥトの板をポーチの奥へ滑り込ませ、留め金をしっかりと閉めた。
それと同時、準備を終えた第1小隊がテントから出てくる。
「行くぞ」
レナの短く低い声に、全隊員が無言で頷く。
朝霧はまだ残っているが、太陽が昇るにつれて、平原の輪郭は少しずつ露わになり始めていた。
レナを先頭にWOLFと第1小隊は、平原の端で待機するマカロン小隊の元へ向かった。
四両のシャーマンのエンジンが、すでに低いアイドリング音を響かせている。
排気管から吐き出される煙が、朝霧と混ざり合って周囲を白く濁らせていた。
マカロン1――イージーエイトの砲塔から身を乗り出していたチエが、レナの姿を認めて手を上げる。
「いつでも出られます」
「了解した」
レナはイージーエイトの正面、傾斜した正面装甲に足を掛け、車体によじ登った。
キューポラの縁に座ったチエと視線を合わせ、最終確認を行う。
「いいか。何があっても脚を止めるな。前へ進み続けろ。
隊形は
レナは、朝霧で白く煙る平原へ鋭い視線を向けた。
「各車の車間距離は30mを維持しろ。迫撃砲が相手では少々近いが、これ以上離れればこの霧で互いを見失う」
「了解」
レナは戦車の上から、周囲に集まったSRTの隊員たちと、ハスミに説得されて合流した正義実現委員会の残存部隊を見下ろした。
再編成された正実の生徒たちは、巨大な鋼鉄の塊の傍らで、どこか怯えたように身を寄せ合っている。
「よく聞け」
レナの声が、エンジンの唸りよりも低く、重く響いた。
「これより平原を進出する。この戦車がお前たちを守ってくれる」
全員の視線が、レナへ集まる。
「だが、戦車は無敵ではない」
レナは、正面に並ぶ正実の生徒たちを見下ろした。
誰も、口を開かない。
ただ静かに、レナの声に耳を傾ける。
「分厚い装甲と強力な主砲を持っていても、戦車の視界は極端に狭い。林の中から撃ち込まれる対戦車砲や、死角から肉薄してくる奴には、気づくことすらできずに鉄屑にされる」
レナは足元のイージーエイトの装甲を、コン、とブーツの踵で鳴らした。
「逆に、お前たち歩兵はどうだ。この遮蔽物のない平原に戦車なしで出れば、敵の機銃掃射と榴弾の雨に晒され、一分と持たない」
ゴクリ、と誰かが喉を鳴らす音が響く。
第一次突撃時、あの場にいた彼女たちには、その言葉が痛いほど理解できた。
無傷で立っているのは、ただ運が良かっただけに過ぎないのだ。
「だからこそ、互いに依存しろ」
レナの言葉が、朝の冷たい空気を切り裂いた。
「歩兵は、戦車の目となり耳となれ。周囲に目を凝らし、異常があればすぐに知らせろ。
戦車は、歩兵の盾となり矛となれ。歩兵を足止めする陣地を、その主砲で粉砕しろ」
レナは最後に、もう一度全体を見渡した。
「誰か一人の武勇で勝つ戦いではない! 我々は、一蓮托生だ!
奴らを残らず打ちのめして、目を覚まさせてやれ!」
正実の生徒たちの顔つきが変わった。
恐怖や悲壮感ではない。
同胞たちを、これ以上戻れない場所へ行かせないための覚悟が宿っていた。
「……以上! 各員、配置につけ!」
レナが告げると、16名の生徒たちは一斉に動き出した。
シャーマンの後方に並んだ6輪駆動の2トン半トラックの荷台へ乗り込み、荷台の両側面に展開された木製のベンチに、8名ずつが向かい合うように腰を下ろした。
それを見届けたレナは、砲塔の後ろに陣取り、そこに据え付けられた対空用重機関銃のグリップを握りしめる。
チャージングハンドルを二回連続で引いた。
重い金属音が、朝霧の中に響く。
WOLFの三人はマカロン1のエンジンデッキに登り、レナの真後ろに付く。
続いて第1小隊もマカロン隊各戦車へ別れ、WOLFと同様に分乗した。
チエはキューポラから車内へ滑り込み、ゴーグル付きのタンカースヘルメットを被った。
ヘルメットから伸びる配線を、真後ろにある無線機のコントロールボックスへ繋げる。
「Radio Main Power ON!」
スイッチを弾くと同時、背後の無線機からキィィィィン……という甲高いダイナモーターの起動音が車内に響き渡った。
チエは喉元手を添え、スロートマイクの密着度を確かめる。
そして、胸元の送信スイッチを押し込み、小隊の僚車へ呼びかけた。
「……Radio Check! 各車、通信感度知らせ!」