白狼救済録 作:らんらん出荷マン
※本話には、これまでより強い流血・負傷描写があります。苦手な方はご注意ください。
「開けるぞ」
レナの声に、メイがタワーシールドを押し上げた。
リノが赤い鉄扉の取っ手へ手を掛け、スイとFOXが左右へ銃口を振り分ける。
重い蝶番が軋み、扉の隙間から白い光と乾いた風が通路へ流れ込んだ。
メイが盾を先に出して屋上へ踏み込み、リノとスイがその両脇に続く。一歩遅れてレナが、最後にFOXの四人が扉を抜けた。
「散開しろ!」
号令と同時に、全員が階段室の壁や古い換気設備の陰へ滑り込み、銃口を外へ向けた。
広いコンクリート床の左奥に、古びた観測塔が立っている。
その向こうに八枚の白い大盾が横一列に並び、中央に東雲シヅキがいた。
Aegis――。
純白の制服にも、盾列にも乱れはない。
盾の隙間から突き出たライフルが、一斉にこちらを捉えていた。
レナはARの照準をシヅキへ重ねた。屋上を抜ける風が、白髪を横へ流す。
「東雲シヅキ! これ以上の抵抗は無意味だ! ただちに戦闘停止命令を出せ! チェックメイトだ!」
シヅキはそれには答えず、ゆっくりと盾を下ろした。
「その前に、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「……何だ」
「ティーパーティーは、現在どうなっておりますか?」
「知らん」
シヅキの目が僅かに細くなる。
「こちらに入っているのは要塞内の戦況だけだ。外の政治状況については、何の報告も受けていない」
数秒の沈黙。
「なるほど……そうでしたか」
「何だ。どういう意味だ」
風が観測塔の鉄骨を抜け、低く唸った。
「情報封鎖は、すでに破綻しております」
レナの眉が動く。
「何?」
「私たちが確保した記録、証言、そして現ティーパーティー執行部が伏せていた資料。
それらは三大派閥へ共有されました。各派閥から執行部へ、合同説明要求も出ております」
誰も口を挟まなかった。
レナは照準を外さぬまま、ここ数時間の異変を繋ぎ合わせる。
応答しなくなった指揮回線。
再開されない砲撃支援。
突入後も届かない上層部の指示。
外で何かが起きていることまでは察していたが、その中身を今になって敵の口から知らされた。
「いつだ……いつからだ」
「貴女方が要塞へ到達するよりも、ずっと前です」
「なに……?」
要塞へ至るまでの戦闘が、レナの頭の中で巻き戻る。
あの時点で、情報はとうに外へ出ていた。
要塞を落とせば決起は終わる――その前提が、最初から崩れていたことになる。
「ならば、話は早いな」
レナはARを構え直した。
「お前たちの目的は果たされた。
これ以上、ここで戦う理由はない。……全員に武器を置かせろ」
「それを確かめるために、ティーパーティーの現状をお尋ねしたのです」
「……」
「現執行部が今も権限を保持しているのであれば、まだ終わってはおりません。
三大派閥へ資料が渡ったとしても、証言に関わった生徒たちを押さえ、記録へ干渉する余地は残ります」
「三大派閥はもう動いているんだろう」
「――ええ。ですが、どこまで進んだのかは私にも分かりません」
シヅキは言葉を切り、再び盾を構えた。
「ですので、私たちはここを守り抜きます」
「……何のために」
「資料が届いたことと、それが守られたことは別です。
現執行部が証言者にも記録にも手を出せない――その確証を得るまで」
「その確証のために、全員を戦わせ続ける気か」
「ええ」
レナの指が、トリガーガードに触れたまま止まった。
「貴様……正気か。地下弾薬庫はすでに確保した。一階の抵抗も、じきに制圧される。
ここを守り続けたところで、結果は変わらんぞ」
「承知しております」
「だったら――」
「大上レナ特務上級小隊長」
シヅキの声が遮った。盾の縁に添えていた手が、静かに下りる。
「私たちは、自分たちが助かるために決起したのではありません」
レナは黙った。
「この先に明るい未来が残るとも考えておりません。処分も、責任も受け入れます。
ですが、それを理由に今ここで役目を放り出せば、これまで前線に立った者たちは何のために傷付いたのですか」
「お前たちの役目なら終わった。三大派閥は動いたんだろう?」
「だからこそ、最後まで立ち続けます。光が見えるまで」
シヅキは一度だけ屋上の向こうへ目を向けた。
遠く霞む白い尖塔の手前を、薄い煙が流れている。
「資料が残ること。証言した生徒が消されないこと。そして、今回の件を誰か一人の暴走として片付けられないこと。
その全てを確認するまで、Guardian Angelsは盾であり続けます」
「そのために……お前の背中についてきた部下たちを使い潰すのか」
シヅキの視線が、一瞬だけ盾列へ流れた。
「彼女たちは、自らの意思でここにおります」
七枚の盾は微動だにせず、銃口も下りなかった。
レナは奥歯を噛み、無線へ手を伸ばしかけて止めた。
外部へ確認が取れれば、それで済む話だ。
だがティーパーティーの指揮回線は沈黙したまま、一般回線も切断され、個人用無線機の出力では要塞の外まで届かない。
この場で政治状況を確かめる術はなかった。
「……東雲シヅキ。これが最後の警告だ」
ARのストックを肩へ押し当て直す。
「ただちに全部隊へ戦闘停止を命じ、速やかに武装解除せよ。
従わない場合、実力で排除する」
シヅキはレナから目を逸らさない。
風に煽られた薄紫の髪が頬へ掛かり、指先が白い盾の縁をなぞった。
「……お断りいたします」
「血を流してまで買う時間に……何の価値がある」
「……貴女には分からないでしょう」
レナの眉間に皺が寄る。
「大上レナ特務上級小隊長。私たちの
終わり方まで、貴女方に決めていただく筋合いはございません」
「シヅキ様……」
メイの声が漏れた。
シヅキの視線がほんの一瞬だけ動き、盾の陰に立つメイと目が合う。
何も言わないまま、シヅキの右手が持ち上がった。
レナの指がトリガーへ掛かる。
「エンゲージ! 奴らを叩きのめせ!」
WOLFとFOXの銃口が一斉に上がり、同時にシヅキの右手が振り下ろされた。
「
次の瞬間、屋上の外周が動いた。
胸壁の陰に伏せていたGA生徒たちが一斉に身を乗り出し、無数の銃口が階段室周辺へ向く。
「コンタクト! 上だ!」
ユキノの声に銃声が重なった。
――ダダダダダダッ!!
正面のAegisが放った銃弾が換気設備を叩き、ほぼ同時に左右の胸壁から射線が降り注ぐ。
コンクリートの角が砕け、破片と粉塵が舞った。
「伏せろ!」
レナが壁際へ身体を押し込む。
メイのタワーシールドへ弾丸が殺到し、甲高い金属音が連なった。
「右胸壁、五! 左にもいます!」
リノが積まれた物資箱の縁から一瞬だけ覗き、すぐに頭を引く。
「隊長! 包囲されちゃったよ!」
スイがLMGを抱え、換気設備の陰へ滑り込む。
レナは交差する射線を一度だけ確かめた。
正面にAegis、左右の胸壁にGA、背後には赤い鉄扉。
ここで固まれば、正面を抑えている間に側面から削られる。
「FOX1!」
『聞いている!』
「胸壁のGAを抑えて退路を確保しろ! WOLFはAegisを叩く!」
『……ネガティブ!』
レナが僅かに顔を向ける。
数メートル先の遮蔽物に身を寄せたユキノが、こちらを見ていた。
『WOLF1! 貴官のその状態で撃ち合うのは危険だ!』
「黙れFOX1ッ――! 口答えするな、これは”命令”だ! 従え!」
ユキノは答えなかった。代わりにニコが声を上げる。
「FOX、移動準備!」
クルミがその背後へ付き、オトギが背負っていた長大な対物ライフルへ手を掛ける。
ユキノだけが最後までレナを見ていた。
数秒後、その視線が外れる。
『……了解。総員、FOX4を中心に全周防御! FOX4、
FOXが赤い鉄扉を守れる位置へ散り、防御陣形を組む。
「はいはい! じゃ、いっちょやりますか!」
オトギが換気設備の陰に膝をつき、対物ライフルのバイポッドを展開した。
スコープの先で、GA生徒が再び胸壁から身を乗り出すのを捕えた瞬間――。
――ズダァンッ!!
重い発砲音が屋上を揺らした。
胸壁の上端が弾けてコンクリート片が大きく吹き飛び、銃を構えていたGA生徒が反射的に身を引く。
「顔を出させるな!」
ユキノの声に合わせ、クルミが遮蔽物からSMGを突き出す。
ニコが別方向へ散弾を送り込み、オトギは胸壁の縁を削り飛ばしていく。
右側からの射撃が目に見えて細くなった。
胸壁の縁に銃口が覗くたび、オトギの銃身がそちらへ振られ、銃口はすぐに引っ込む。
FOXが側面を引き受けたことで、WOLFが正面へ出る余地が生まれた。
レナは換気設備の陰からAegisの盾列を覗く。
「WOLF2、左の二人へ牽制! WOLF3、シヅキを弾幕で捻じ伏せろ!」
「了解!」
「ウィルコ!」
スイが真っ先に飛び出した。
LMGを腰だめに構え、短い連射を繰り返しながら右へ走る。
弾丸がシヅキの大盾を叩き、Aegisの銃口が一斉にそちらへ振れた。
その瞬間、反対側からリノが半身を出す。
――ダダンッ!
「ッ――!?」
盾の脇から突き出ていたライフルを7.62mm弾が掠め、銃口が大きく逸れた。
――ダダンッ!
「あッ!?」
二射目が、隣の盾から覗いていた右肩を捉える。白い制服が弾け、Aegis-8が体勢を崩した。
「WOLF4、前へ出ろ!」
「イエスマム!」
メイがタワーシールドを押し立てて走り、その背後へレナが続く。リノとスイが左右から射線を重ねた。
「ぐぅッ――! Aegis-4、5、6! LMGを制圧なさい! 7、8はあのマークスマンを! Aegis-2、3、私とAegis-9を止めます! 近付けてはなりません!」
「「「「「イエスマム!!」」」」」
盾の隙間から銃口が火を噴いた。
――ダンッ! ダンッ!
メイがレナを庇うようにタワーシールドを傾け、強力な
金属板を叩く衝撃が腕から肩まで突き抜け、ブーツの底がコンクリートを擦った。
「WOLF4、遮蔽物へ移るぞ! WOLF3、奴らの気を引け!」
「ウィルコ!」
スイが右側から半身を出し、盾列へ短い連射を叩き込む。
――ズダダダッ! ズダダダダッ!!
「怯むな! 撃ち返しなさい!」
シヅキの声に盾列が踏み止まり、銃口がスイへ集まる。その分、左側のリノへの射撃が薄くなった。
「すぅ……」
リノは壁際から半身だけを出し、DMRの照準を盾と盾の間へ重ねる。
――ダンッ!
盾の脇から伸びていたライフルのハンドガードが跳ね上がった。Aegisの生徒が反射的に銃を引く。
――ダンッ!
二発目が、その太腿へ突き刺さった。
「くッ……!」
膝がコンクリートへ落ちる。
「Aegis-4、負傷!」
「カバー! 列を崩してはなりません!」
隣の盾が前へ出て穴を塞ぐ。だがその移動で、中央に隙間が生まれた。
すかさずレナのARが跳ねる。
――ダダンッ!
一発目が盾の縁から出ていた手首を叩き、二発目がライフルのレシーバーへ食い込む。武器が手から弾け飛んだ。
「Aegis-5、下がりなさい! 3、カバーを!」
隣の盾が滑り込み、武器を失った生徒を背後へ押し込む。
「右へ行け! 私はここで撃つ!」
「イエスマム!」
メイがタワーシールドを傾けたまま右へ走る。
盾列の正面がつられ、中央から一瞬だけ射線が外れた。
レナは遮蔽物から身をずらし、ARを二度撃つ。
――ダダンッ!
盾越しに覗いていたAegis-3の肩口が跳ね、身体が後ろへよろめく。
倒れかけた彼女をAegis-6が片手で引き寄せたところへ、スイのLMGが低い弾道でコンクリートを削った。
「奴ら、撃つたびに当ててくる!?」
「シヅキ様、このままでは……!」
「分かっています! Aegis-6、前へ! 3を後ろへ下げなさい!」
白い盾が一枚、中央へ滑り込む。負傷したAegis-3がその背後へ退き、崩れかけた列が塞がった。
「やはり、SRTと正面から撃ち合うのは不利ですか……」
シヅキの額を冷たい汗が伝う。階段室へ目を向けると、FOXは左右の胸壁から撃たれながらも赤い扉を守り抜いていた。
ザザッ……。
イヤーピースからノイズが流れる。
『し、シヅキ様……こちら防衛班。
我が残存兵力、三名……これより最後の抵抗に出ます……ご武運を』
ザザッ――。
通信が途切れた。
(いずれ敵の増援が来る……)
シヅキの視線が僅かに逸れ、すぐ正面へ戻る。右手が、盾の裏側へ滑り込んだ。
その間にも、WOLFの圧力は緩まない。
メイがタワーシールドを押し立てて前へ出る。二発、三発と弾丸を浴びても、歩みは鈍らなかった。
キィィン――!
Aegisの一人が撃ち切ったライフルから、空の
「ッ――!? り、リロード!」
その隙を突き、リノが左から射線を通す。
――ダンッ!
「ッ――!」
太腿を撃ち抜かれたAegis-7が膝をつき、その分だけ中央の射界が開いた。
レナがARを構える。照準の中で、シヅキの肩が盾の横から僅かに覗いた。
トリガーへ指を掛けた瞬間、視界が一度だけ揺れる。
「……ッ」
一発目は白い盾を叩いた。
レナは瞬きを挟み、息を押し込むようにストックを肩へ当て直す。
――ダンッ!
二発目がシヅキの右肩へ食い込んだ。銃身が大きく跳ね、シヅキが半歩よろめく。
「シヅキ様!?」
「私に構わず! 前を見なさい!」
シヅキがライフルを握り直す。
刹那――。
――ダンッ!
「がっ――」
リノのDMRだった。盾の縁から身を乗り出していたAegis-8の頭が跳ね、頭上のヘイローが掻き消える。
白い盾が手から離れ、身体が仰向けに倒れた。
「8!!」
「狼狽えるな! 列を――」
周囲を見た瞬間、シヅキの声が途切れる。
一人が倒れ、二人が膝をつき、一人は武器を失い、もう一人も片腕を庇っていた。
まともに撃てる盾は、もう半分も残っていない。
(このまま崩す――!)
レナは残ったAegisへ照準を移した。
メイで押し込み、リノとスイで左右を削る。あと一手でシヅキまで届く。
「WOLF4! 前へ詰め――」
「待って隊長!」
メイの声が割り込み、レナの指がトリガーの上で止まった。
「どうした」
「……少しだけ、時間をくれない?」
タワーシールド越しの声は、普段より静かだった。
スイが射撃を止め、リノはDMRを構えたまま盾列を見据える。
Aegisもすぐには撃ち返してこない。倒れた仲間を庇うように盾を寄せ合い、その隙間からシヅキだけがメイを見ていた。
「メイ……」
レナが低く呼ぶ。
「情は身を滅ぼすぞ」
「ごめん……」
メイはタワーシールドを床へ立て、その陰から半歩前へ出た。
「シヅキ様!」
紫の瞳が僅かに揺れる。
「……Aegis-9」
「その呼び方は、お止め下さい」
メイは盾列を見渡した。
先ほどまで整然としていた白い列には、大きな穴が空いている。
「もう……十分でしょう。これ以上、先輩方が傷付く姿を見たくありません」
「……」
シヅキはライフルを握ったまま、メイを見返した。
「資料は三大派閥へ渡ったのでしょう? シヅキ様が伝えたかったことは、もう外へ届いています」
「確証は……ありません」
「だったら今、確かめればいい!」
メイがさらに一歩進む。
「ここで全員倒れるまで戦って、それで何が確かめられるんですか! 何故です!? 貴女は、私怨で戦っているのですか!?」
「それ以上は不敬ですよ!! 樋口メイ!!」
Aegisの一人が叫ぶ。メイの瞳は揺れなかった。
「私が全ての始まりなのは……重々承知しています」
胸の前で拳を握り、シヅキを真っ直ぐに見る。
「先輩方の憤りは想像に余りあります。ですが……もう、終わりにしましょう。
ティーパーティーは、全部を無かったことにはできないはずです」
一歩、また一歩と、白い盾列との距離が縮まっていく。吹き抜けた風がシヅキの髪を揺らし、その向こうで紫の瞳が細くなった。
「さあ……武器を置いて、一緒に戻りましょう。まだ、やり直せるはずです」
「随分と……簡単に仰いますね」
「はい。難しいことは、後で考えましょう」
メイの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
ショットガンを下ろしたまま、メイはさらに距離を詰める。
スイが息を詰め、リノはDMRを構えたまま何も言わない。レナも銃口を下げなかった。
シヅキの視線がメイの足元へ落ちる。
観測塔の影――その中へ、メイは踏み込んでいた。
盾の裏で、シヅキの右手が止まる。
「シヅキ様……」
「メイ」
メイが目を瞬かせた。
「分かりました。もう少し、こちらへ寄りなさい――」
シヅキの目が赤い鉄扉へ向いた。
その向こうの階段を、一階から正義実現委員会が上がってくる。地下を制圧した部隊も、やがて合流するだろう。
ザザッ――。
イヤーピースに掠れた声が入った。
『……シヅキ様……申し訳ありません。要塞は……制圧されました……』
短い雑音を最後に、通信が消える。
シヅキは目を伏せた。盾の裏側で、親指が小さな起動器へ触れる。
紫の瞳が、ほんの僅かに横へ流れた。
その動きを、レナは見逃さなかった。
(何を見ている……?)
視線の先を辿る。
メイの頭上――観測塔。
塔の基部へ目が走る。
古びた支柱の一本にだけ、周囲と色の違う真新しい補修痕があった。
「メイ、戻れ!」
「え?」
シヅキの瞳が見開かれる。
――大上レナに、気付かれた。
「早く! こちらへ来なさい!!」
鋭い声が屋上を切り裂き、メイの足が止まる。
「クソッ!」
レナがコンクリートを蹴った。
矢のように飛び出すのと、シヅキの親指が沈むのは、ほぼ同時だった。
カチッ――。
一拍遅れて、観測塔の根元が爆ぜた。
――ドオォォンッ!!
足元から轟音が突き上げ、鉄骨が大きく震えた。
基部から灰色の粉塵が噴き出し、支柱の一本が外側へ折れる。
「うぅッ!?」
爆風にメイの姿勢が崩れる。
支えを失った鉄骨が悲鳴を上げ、観測塔全体がゆっくりと傾いていく。
「は!?」
見上げた時には、巨大な影が目前まで迫っていた。
「メイッ!!」
レナは走った勢いのまま、メイの背中へ肩を叩き込んで突き飛ばす。
「隊――っ!?」
メイがコンクリートを転がった直後、視界いっぱいに影が落ちた。
鉄骨と外壁が屋上へ叩き付けられ、コンクリートが跳ね上がる。
砕けた壁材と砂埃が濁流のように広がり、衝撃が盾も人間もまとめて揺さぶった。
「ッ……!」
メイは咄嗟に頭を抱えて身を縮めた。耳鳴りの向こうで何かが折れ、転がり、次々と落ちていく。
やがて粉塵の中から、崩落した屋上の輪郭が浮かび上がった。
観測塔の上部構造が屋上を斜めに横切り、階段室側との間を鉄骨と瓦礫で完全に塞いでいる。
「隊長!?」
リノが叫んだ。
「隊長! 応答してください!」
返事はない。
メイはへたり込んだまま顔を上げた。さっきまで自分がいた場所に、折れた鉄骨と崩れた外壁が幾重にも積み重なっている。
その奥に、色白の手が一瞬だけ見えた。
「……た、隊長?」
立ち上がろうとした足が止まる。瓦礫は動かない。
「隊長ッ!!」
スイがLMGを放り出しかけ、リノが呼び止めた。
「待って、WOLF3! まだ危険です!」
「でもッ!」
小さな破片が落ち、鉄骨同士が擦れ合う。迂闊に近付けば二次崩落に巻き込まれる。
瓦礫の向こうから、ユキノの声が無線へ飛び込んだ。
『WOLF、何が起きた!? 状況を報告しろ!』
「こ、こちらWOLF2! 観測塔が崩落! WOLF1が巻き込まれました!」
瓦礫へ目を向けたまま、リノは怒鳴り返した。激しいノイズの向こうで、まだ銃声が続いている。
『そちらへ向かう!』
「危険です! 来ないで下さい!」
『……ッ』
短く息を詰める音。
リノは周囲を見渡した。屋上を斜めに分断した瓦礫の向こうに、FOXの姿は見えない。
胸壁のGAもまだ武器を捨てておらず、断続的な射撃が続いていた。
『レナはどうする!?』
「後で救出します!」
言い切ると同時に、リノはDMRを構え直した。
メイは瓦礫の前から動かなかった。砂埃の向こうに見えた手は、もう崩れた壁材の下に隠れている。
「隊長……」
拳を握り、ゆっくりと振り返る。
「シヅキ様――ッ!」
怒声が屋上を貫いた。
シヅキは起動器を握ったまま立っていた。右肩から流れた血が白い制服を濡らし、紫の瞳は崩落地点へ向けられたまま動かない。
「貴女という人は……!!」
一歩踏み出したところで、メイの言葉が途切れた。
シヅキの指から起動器が滑り落ち、コンクリートを跳ねて乾いた音を立てる。
「私は……私は……」
シヅキはそれを拾おうともせず、瓦礫を見つめていた。
「シヅキ様!」
Aegisの声が飛ぶ。
残った白い盾が一斉に動き、シヅキの周囲を固めた。一人が彼女の肩を引き、別の一人がWOLFへ銃口を向ける。
武器を失っていたAegis-5も、膝をついたAegis-4からライフルを受け取って列へ戻った。
「シヅキ様! 前を見てください! まだ終わっておりませんッ!」
その声と同時に、銃口が火を噴く。
――ダンッ! ダンッ! ダンッ!
「ッ!」
メイは転がるように後退し、置いてきたタワーシールドを掴み起こした。
銃弾が装甲板を叩き、身体が半歩押し戻される。
「WOLF4! 早くこちらへ!」
リノの声に、メイは一度だけ瓦礫を振り返った。
「……ッ!」
奥歯を噛み、盾を正面へ向ける。射撃が途切れた瞬間に足を踏み出し、リノの横へ滑り込んだ。
「私が狙撃します! WOLF3、援護を! WOLF4は散弾で牽制!」
「了解!」
「ウィルコ!」
スイがLMGのバイポッドを展開した。
だが――。
(……押し切れない)
リノは唇を噛んだ。
三人の連携は崩れていない。それでも、敵の銃口を一つずつ外し、生まれた隙をそのまま突破口へ変える――。
レナがいた時の最後の一手が、どうしても届かない。
「Aegis-2、5、前へ! 6は右から回り込みなさい!」
シヅキの声が飛ぶ。
二枚の盾が正面から圧力を掛け、もう一枚がスイの側面へ回り込む。
リノがDMRを向けるより早く、盾の縁へ銃身を預けたシヅキのライフルが火を噴いた。
「――ッ!」
弾丸がリノの肩を掠め、コンバットジャケットを裂く。身体を遮蔽物へ戻した瞬間、正面から大盾が迫った。
「WOLF4!」
「分かってる!」
メイはショットガンをセミオートへ切り替え、迫る盾列へ散弾を速射した。
無数の
Aegis-2と5の足が止まった。
その間にスイがLMGの銃口を横へ振り、右から回り込もうとしていたAegis-6へ弾幕を送る。
「行かせないよ!」
――ズダダダダダッ!!
床を削って伸びる弾列に、Aegis-6が盾を正面へ向けて足を止めた。
リノが照準を移そうとした刹那、シヅキのライフルが火を噴く。
――ダンッ!
銃弾がリノの髪を掠めた。
「うッ!」
――
――旧聖バルバラ要塞/屋上・崩落地点。
瓦礫の下には、光が届かなかった。
折れた鉄骨と崩れた外壁の隙間に、レナの身体が挟まれている。
頭部から流れた血が頬を伝い、砕けたコンクリートへ滴り落ちた。両目は閉じられたまま、反応はない。
暗闇の中で、胸ポケットのPDAだけが微かな光を放っていた。
――ピッ。
画面に数列が走る。
『
『
『破滅収束確率――上昇中』
レナの胸が僅かに上下する。
呼吸は浅く、右腕は瓦礫の下に沈んだまま動かない。
『通常介入手段――無し』
『PDA LIMITED MODE――解除』
――ブツッ。
画面が暗転した。
数秒後。
『プロトコル.1――因果律の収集』
『プロトコル.2――特異点の観測』
『プロトコル.3――世界線の保護』
三つの文字列の下を、演算表示が高速で流れていく。
やがて中央に、これまで黒く塗り潰されていた文字列が浮かび上がった。
『KAYIN OS――起動条件成立』
『最終判定――A.N.O.R.A.』
電子音が一度だけ鳴る。
『KAYIN OS――BOOT』
――ドクン。
『Renegade System――STANDBY』
浅かった鼓動が、一度だけ強く脈打つ。
レナの指先が動いた。
肩が震え、上に乗った壁材が軋む。
鉄骨の隙間から伸びた左手が砕けたコンクリートの縁を掴み、壁材を数センチずつ押し上げていく。
――ガラッ。
支えを失った破片が脇へ崩れ落ち、その隙間からレナが身体を引きずり出した。
遅れて、押し潰されていた右腕が瓦礫の下から抜け、力なく垂れ下がる。
鉄骨の擦れる音に、リノが振り返った。
「た……隊長?」
崩れた外壁の隙間から、白い髪が現れる。額から流れた血が片頬を濡らし、制服は所々が裂けていた。
「隊長!」
スイの声にも反応はない。
レナはゆっくりと顔を上げた。赤黒く濁った瞳が残った白い盾列を捉え、そのままシヅキへ移る。
〔ターゲット確認。排除開始〕
掠れた声だった。
垂れ下がっていた右腕が跳ね上がる。動かないはずの手が、右腿のホルスターからハンドガンを引き抜いた。
――ダンッ! ダンッ!
一発目はAegis-2の盾の中央で潰れ、二発目は縁を掠めて火花を散らす。
Aegis-2が反射的に姿勢を落とし、その背後からAegis-5がライフルを突き出した。
「隊長!?」
リノの呼び掛けにも、レナは振り向かない。
――ダンッ! ダンッ!
さらに二発。白い大盾に弾痕が増える。
「何をしている! 撃ちなさい!!」
シヅキの声にAegis-5が引き金を絞った。発射炎が瞬き、弾丸がレナの左脇腹へ食い込む。
身体が僅かに揺れた。
だが、足は止まらない。
「た、倒れない……!?」
Aegis-5の声が引き攣る。
レナは歩きながらハンドガンを捨てた。
金属音を立てて滑るそれには目も向けず、姿勢を沈める。
『
『弾道兵装――効果限定』
『近接兵装――選択』
PDAの表示が切り替わる。
『
左下腿へ括り付けた黒い柄を掴み、引き抜く。
コンバットナイフの刃が、粉塵の中で鈍く光った。
「隊長……なんでナイフを?」
スイの呟きが終わるより早く、レナが踏み込んだ。
Aegis-2が大盾を正面へ押し出す。
「あの怪我で何故!?」
盾をぶつけて止める――その判断より一瞬早く、レナは接触寸前で身体を沈め、盾の左端へ肩を滑らせた。
Aegis-2が追って盾を振り、大きな装甲板が視界を塞いだ、その内側へ白い影が潜り込む。
「な――」
黒い刃が、白い制服の脇腹へ沈んだ。
――ずぶり。
「ぁ……」
Aegis-2の顔から血の気が引き、盾を握る指から力が抜ける。
「なん……で……刺さっ……?」
刃元から滲んだ赤が、白い布を瞬く間に染めた。
「ぐぁッ! ああああッ――!!」
絶叫が屋上へ響き渡る。
「な、ナイフが!? 隊長、一体何を!?」
リノの声にも、レナは応じない。刃を引き抜き、その身体を蹴り飛ばす。
〔排除〕
Aegis-2が大盾ごと横倒しになった。
「ぁ……ぁ……痛い……いたぃ……ょ……」
脇腹を押さえた指の隙間から血が溢れ、コンクリートへ広がっていく。
「隊長! 停止してください!」
返答はない。
その傍らで、スイは立ち尽くしていた。
あの声。
あの目。
どちらにも覚えがある。
かつての展示会場。
突然別人のような動きへ変わったレナは、呼び掛けにも答えず、一人ずつ敵を沈めながら同じ言葉を繰り返していた。
――排除。
そして最後の敵が倒れた直後、糸が切れたように崩れ落ちた。
(あの時と……同じ?)
だが、目の前の戦闘はまだ終わっていない。
「ば、化け物ッ!」
Aegis-5がライフルを向けた。
――ダンッ! ダンッ!
二発が胸元と左肩へ食い込む。レナの身体が僅かに揺れた。
ただ、それだけだった。
「ひ……ッ」
距離が詰まる。Aegis-5は盾を押し出しながら後退し、銃口を突き出そうとする。
その前にレナが踏み込んだ。
左手のナイフが閃く。
「ッ――!」
ライフルを握る手首が裂け、五指から力が抜けた。
銃が落ちるより早く盾を押し退け、その上腕へ刃を突き立てる。
「あぁッ!!」
悲鳴と同時に膝が折れた。
刃を抜いた時には、レナの視線はすでに次の盾へ向いていた。
〔排除〕
「6! 前へ出てはなりません! 距離を――」
シヅキの警告より早く、Aegis-6がライフルを構えた。
盾の縁へ銃身を預け、迫るレナへ引き金を絞る。
――ダンッ! ダンッ! ダンッ!
一発が胸元を叩き、もう一発が脇腹へ吸い込まれた。制服が裂け、身体が傾く。
Aegis-6がさらに後退しながら撃とうとした瞬間、レナは床を蹴った。
突き出された大盾の正面へ、ナイフを引き付けたまま右肩からぶつかる。Aegis-6の足が滑り、大盾が外側へ弾かれた。
「くッ!」
Aegis-6がライフルのストックを振り下ろす。
レナは避けない。銃床が右肩へ叩き付けられ、鈍い音が響いた。
その直後、左手の刃が下から跳ね上がる。
「ッ――!」
刃が上腕へ沈み、力の抜けた腕からライフルが落ちた。
引き抜いた刃が、今度は肩口へ突き刺さる。
「ぁ――ッ!!」
白い制服に赤が滲み、Aegis-6の膝から力が抜けた。
レナは倒れ込む身体を押し退け、血に濡れた刃を低く構える。
盾列で武器を構えているのは、もうシヅキだけだった。
Aegis-2は脇腹を押さえて蹲り、5と6も腕を抱えたまま床へ伏している。
紫の瞳が、倒れたAegisを順に追う。その中央を、レナが歩いてくる。
左手のコンバットナイフから、鮮血が滴っていた。
〔排除〕
赤黒い瞳が、シヅキだけを捉えた。
「……ぁ…………ああッ!!」
シヅキは叫び、ライフルを構えた。視線は血に濡れた刃から離れない。
――ダンッ! ダンッ!
照準の定まらない一発が左腿を掠めて足元に火花を散らし、もう一発が脇腹へ食い込む。
刃の高さは変わらなかった。
「いや……!」
シヅキが後退しながら引き金を絞る。
――ダンッ! ダンッ! ダンッ!
一発が肩を叩き、続く弾丸が頬の横を抜け――最後の一発が左手の刃を捉えた。
――カキンッ!!
乾いた金属音とともにナイフが弾け飛び、屋上を数度跳ねた末、遠くで回転しながら止まった。
血糊に染まった左手から、赤い滴だけが落ちる。
『近接兵装――喪失』
『代替手段――徒手』
『致死リスク――低』
シヅキは荒い呼吸のまま、再びライフルを向けた。レナはナイフに見向きもせず床を蹴り、一気に距離を詰める。
「来ないでッ!!」
シヅキが銃口を振る。真っ赤な左手がハンドガードを掴み、外側へ捻った。
銃声が一発だけ響き、弾丸が空へ抜ける。
次の瞬間、レナの右足がシヅキの膝を外側から蹴り抜いた。
――ボキッ。
「ああぁぁあぁぁぁッ――――――!!!!」
左脚が不自然な方向へ折れた。
シヅキの身体が崩れ落ち、手を離れたライフルがコンクリートを跳ねた。
リノの顔色が変わる。
武器を失ったシヅキに、もう戦う術はない。
――それでも、レナは止まらなかった。
「WOLF3、4! 隊長を止めます!」
リノがDMRを投げ捨て、スイとメイも同時に武器を手放した。
その間に、レナは倒れかけたシヅキの襟元を掴み、肩から床へ叩き付けていた。
「ぐあッ……!」
背中がコンクリートへ押し付けられ、折れた左脚が力なく投げ出される。
レナは床についた手首を踏み付け、その身体へ跨がった。
「いやッ! 離して!」
返事はない。熱の抜け落ちた顔が、ただシヅキを見下ろしている。
「ひ……ッ」
左腕が持ち上がる。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! わたしがわるかったです! もうしません! ゆるしてくだ――!」
――ゴッ!
拳が頬へ落ちた。シヅキの頭が横へ跳ね、後頭部がコンクリートを打つ。
口元から血が散り、折れた歯が転がった。
「ぅ……ぁ……」
拳が再び持ち上がる。
――ゴッ!
「あがッ……!」
二発目が鼻柱を砕いた。紫の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちる。
「ぁ……ぁぁ……」
もう抵抗する力は残っていない。
それでも。
〔排除〕
――ゴッ!
「た……ひゅけ………め……ぃ……」
――ゴッ!
弱々しい声ごと、シヅキの頭が横へ弾けた。
「あ……」
メイの瞳が見開かれる。
拳が再び持ち上がった直後、横からリノがその腕へ飛び付いた。
「隊長! 止まってください!」
両手で手首を掴み、振り下ろされようとする拳を引き戻す。
レナは振り返らない。腕を前へ出そうとする力だけで、リノのブーツが床を滑った。
「くッ……! スイさん!」
「分かってる!」
スイが駆け寄り、左腕を肩ごと抱え込む。
「隊長! もう終わったよ! もういいよ!」
「……」
返事はない。視線は倒れたシヅキへ据えられたままだった。
〔排除〕
左腕へ力が籠もる。
「ぐ……ッ!」
リノの身体が引きずられた。スイも歯を食い縛って踏ん張るが、拳は少しずつ持ち上がっていく。
「隊長、止めて!」
メイもタワーシールドを手放して駆け寄り、レナの腰へ両腕を回した。
三人分の体重が掛かり、ようやく身体が止まる。
それでも、振り上げた拳は下りなかった。
「隊長! もう戦えません! シヅキ様はもう戦えないんです!」
耳元でメイが叫ぶ。
「聞いてよ……これ以上は!」
シヅキはコンクリートへ横たわったまま、顔を庇うことすらできない。
腫れた瞼の隙間で紫の瞳だけが僅かに動き、振り上げられた拳を見つめている。
頭上のヘイローは激しく明滅し、輪郭が欠け始めていた。
「ぁぁ……」
掠れた声が漏れた。
「これ以上は――シヅキ様が死んじゃう!!」
その叫びが屋上に響いた瞬間、拳が止まった。
赤黒い視線が、シヅキへ落ちる。
青く腫れ上がった顔。
赤く染まった制服。
浅く上下する胸。
「……死……?」
レナの唇から、言葉が零れた。
「……」
濁っていた瞳が一度だけ揺れた直後、レナの身体から力が抜ける。
「隊長! 聞こえる!? 隊長!」
返事はなかった。閉じた瞼は動かず、左腕が力なく垂れ下がる。
リノは一度だけ息を吐き、顔を上げた。
「WOLF4――シヅキを確保してください」
「……了解」
メイは僅かに目を伏せてから、シヅキへ向き直った。腫れ上がった顔で浅く息をする彼女の傍らへ、膝をつく。
「め……ぃ……ご……めん……なさぃ……ごめん……なさぃ」
メイの手が、一瞬だけ止まった。
やがて視線を外し、転がっていたライフルを拾い上げて、手の届かない位置まで滑らせる。
「……謝るのは、後にしてください」
立ち上がり、呆然とこちらを見るAegisたちへ顔を向けた。
「皆さん。武器を置いてください。……シヅキ様は確保しました。
もう、戦闘を続ける必要はありません」
数秒の沈黙。
やがて、一挺のライフルがコンクリートへ置かれた。
カタン――。
隣のAegisがそれを見る。大盾が床へ横たえられ、もう一挺のライフルがその横へ並んだ。
一人、また一人と、白い盾列が武器を手放していく。
リノはそれを確かめ、無線機へ手を伸ばした。
「WOLF2より全隊、東雲シヅキを確保! 繰り返す、東雲シヅキを確保!
重傷者多数! 大至急、
――
――アビドス高等学校。
夕陽が、砂に埋もれかけた校舎を橙色に染めていた。
廊下の窓から差し込む光が長い影を引き、床へ入り込んだ細かな砂粒を照らしている。その静かな廊下を、一人の少女が歩いていた。
「……はぁ」
ホシノは小さく息を吐いた。
頭に浮かぶのは、昼間の生徒会室だった。
嬉しそうに古いポスターを広げたユメ。それを、自分の手で引き裂いた瞬間。
――ビリビリッ。
乾いた音が、耳の奥に蘇る。
借金。
去っていく生徒。
砂に呑まれていく街。
何をしても追いつかない現実の前で、ユメの口にした「未来」という言葉を、あの時はどうしても受け入れられなかった。
けれど今、耳に残っているのは別の声だった。
『私は諦めたくない!』
ユメがあんなふうに怒鳴るのを、初めて見た。
「……」
謝ろう。ポスターのことも、あんな言い方をしたことも。
それから――。
「……奇跡」
その言葉は、今もホシノには遠い。
それでも、ユメが何を見て、何を言おうとしていたのか。それくらいは、もう一度聞いてみたかった。
生徒会室の前で足を止める。扉の向こうは、妙に静かだった。
「……?」
いつもなら、この時間でも紙をめくる音くらいは聞こえてくる。
何かを見つけたユメが、一人で騒いでいることも珍しくない。
ホシノは取っ手へ手を掛けた。
――ガララッ。
「戻りました」
夕陽の差し込む生徒会室には、誰もいなかった。
「……」
入口に立ったまま、数秒。僅かに開いた窓から風が入り、薄いカーテンだけが揺れている。
「ユメ先輩?」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
ホシノはゆっくりと室内へ入った。机の上には、昼間の帳簿が広げられたまま残っている。
短くなった鉛筆と書きかけの帳簿。飲みかけのペットボトル。
そして――。
「……あ」
机の中央に、二枚に裂けた古いポスターが置かれていた。
裂けた二枚は、元の絵へ戻そうとするようにセロハンテープで繋ぎ合わされている。
それでも中央を走る裂け目は消えず、かつての大オアシスを真っ直ぐに断ち切っていた。
「……」
ホシノの指が裂け目へ伸び、触れる寸前で止まった。
顔を上げて辺りを見回す。
ユメの私物が無い。
普段持ち歩いている折り畳み式の盾も見当たらない。
椅子だけが、少し後ろへ引かれたまま残されていた。
「ユメ先輩……どこに行ったんですか?」