海鳴市の爽やかな風を切る。
オレの愛機は、一見すると普通のママチャリ――だが、ただのママチャリじゃねぇ。松影先生がどっかから拾ってきたフレームに、オレがジャンプの懸賞で当てた変速ギアを取り付け、前カゴには『銀魂』のステッカーをベタベタ貼り付けた特製マシン『銀輪丸(ぎんりんまる)』だ。
「ふぅーっ! やっぱ休日のツーリングは最高だぜ! 潮風が天パに絡みついて鬱陶しいけどな!」
両足をペダルに叩きつけ、海沿いの緩やかな坂道を爽快に駆け下りる。目的地は特に決めていない。男一人、愛車と共に風になる。これぞ男のロマンってやつだ。途中、自動販売機で冷えた苺オレを買い、一気に喉へ流し込む。糖分が脳髄に染み渡る感覚に「くぅーっ!」と一人で悶絶する。
平和だ。平和すぎる。昨日みたいなデスお菓子の脅威も、松影先生の理不尽な拳骨もない。完璧な休日だ。
そう思っていた時期が、オレにもありました。
「きゃああっ!?」
「すずかを離しなさい! あんた達!離して!」
海沿いの人通りの少ない裏路地から、聞き覚えがありすぎる甲高い悲鳴と、聞き覚えがありすぎるツンツンした怒声が聞こえてきた。
自販機の横でブレーキをかけ、ひょいと物物しく物陰から覗き込む。
そこには、黒塗りのワンボックスカーと、見るからにチンピラ風の男たちが二人。そして、両腕を掴まれて車内に押し込まれそうになっているアリサと、その横で怯えたように身を縮めているすずかの姿があった。
(……は? え、誘拐? マジで? え、ここ海鳴市だよな? 少年漫画の第1話みたいなベタな事件起きてんの!?)
「おいお前ら、大人しくしろ! バニングス家と月村家のお嬢様をセットで捕まえりゃ、一生遊んで暮らせる身代金が手に入るんだよ!」
「くそっ、離しなさいバカ!」
バタン! と威勢よく車のドアが閉まり、ワンボックスカーは猛烈な排気音を上げて急発進した。
路地裏に取り残されるオレと、愛機の銀輪丸。
(……よし。見なかったことにしよう。オレは小学生だ。関わったらろくなことにならん。警察に通報して、オレは家でジャンプ読んで寝るのが一番安全――)
脳内の危機管理能力が全力で退避シグナルを出していた。だが、脳裏に浮かんできたのは、さっきまでキャンキャン怒っていたアリサの顔と、いつも優しく微笑んでくれたすずかの顔だった。
「……チッ!! ったく、なんで休日にまで面倒事に巻き込まれなきゃならねぇんだよ!」
オレはママチャリに跨がり、ペダルに足をセットした。
胸の奥で、ジャンプの読み過ぎと空知イズムで培われた青臭いナニかが、激しく燃え上がる。
(行けぇぇぇぇ! オレの銀輪丸ぅぅぅ!! 心の中で叫べ! 空知先生のデビュー作——『だんでらいおん』の魂(たんぽぽ組)を胸に刻んで激走だぁぁぁぁぁぁっ!!)
立ちこぎ全開! ギアを最高速の『6』に叩き込み、ママチャリのチェーンが「ギシシシシ!」と悲鳴を上げる。
黒塗りのワンボックスカーを追って、杉田鉄時は海鳴市の坂道を猛烈な勢いで爆走し始めた!
「行けぇぇぇぇ! オレの銀輪丸ぅぅぅ!!」
ペダルを踏み込む足に全体重を乗せ、太ももの筋肉が悲鳴を上げるのも構わず激走する。坂道の傾斜と必死の立ちこぎが合わさり、ママチャリ『銀輪丸』のスピードは時速50キロオーバーの未知の領域へと突入していた。
「待てやコラァァァ!! お嬢様二人拉致してタダで済むと思うなよバカヤロー!!」
前方を走る黒塗りのワンボックスカーとの距離がじりじりと縮まる。だが、その直後——
ガキンッ!! バチチチチッ!!
「……あ?」
足元から、およそ自転車からは鳴ってはいけない金属の破断音が響いた。限界を超えた立ちこぎの摩擦熱と負荷により、銀輪丸の右ペダルとチェーンが粉々に焼き切れ、明後日の方向へ弾け飛んだのだ。
「うおっ!?」
空を切った足にバランスを崩しかけ、慌ててハンドルを握り直す。そして、迫り来るワンボックスカーのリアバンパーを目にして、慌てて両手でブレーキレバーを限界まで握りしめた。
ブチッ。
……無常にも、経年劣化していたブレーキワイヤーが左右同時に千切れ飛んだ。
「……いっけね、ブレーキ壊れたぁぁぁ!?」
制動力ゼロ。ペダル駆動力ゼロ。あるのは慣性と重力、そして坂道がもたらす圧倒的な運動エネルギーのみ!
制御不能の暴走鉄塊となった銀輪丸とオレは、まさに陸の対艦ミサイルと化してワンボックスカーの後部に一直線に向かっていく!
「どけぇぇぇぇぇ! 人間兵器『天パ・ミサイル』のお通りだぁぁぁぁぁっ!!」
ドッガァァァァァン!!
前カゴの『銀魂』ステッカーを先頭に、銀輪丸がワンボックスカーのリヤハッチに垂直激突。
衝撃で車のリアガラスが派手に粉砕され、後部座席に押し込められていた誘拐犯ふたりとアリサ、すずかの目の前に、ガラス片とともに頭から車内に突っ込んできた天パ男子が躍り出た。
「ぶべらっ!?」
「な、なんだぁぁぁ!?」
「車に自転車が刺さってきたぞ!?」
悲鳴を上げる誘拐犯ども。後部座席で車体ごと激しい衝撃を受けたアリサとすずかは、目を白黒させて固まっている。
「て、鉄時(かねとき)……!?」
後部ハッチにめり込み、上半身だけ車内に飛び出させた格好、頭から血をダラダラと流しながら、白目を剥きながら親指を立てた。
「よぉ……助けに……来たぜ……アリサ、すずか……」
「カッコつける前に何でそんな事故り方してんのよバカ時ぃぃぃっ!!」
車内は、誘拐事件のシリアスさを一瞬で粉砕するカオスな大惨事へと変貌を遂げた。
「な、なんだこのガキはぁぁ! 幽霊か!? 血まみれで笑ってんじゃねぇ!」
突如として、誘拐犯の一人が腰を抜かしつつも包丁を取り出そうと懐に手を差し入れた。
だが、オレの動体視力とジャンプ愛を舐めてもらっては困る。
「甘いぜ、悪党ども! 少年ジャンプの三代原則『友情・努力・勝利』……そして第4の原則『鈍器』を教えてやる!!」
鉄時は、潰れた前カゴの奥底から、奇跡的に苺オレの被害を免れた『週刊少年ジャンプ最新号』を素早く引き抜いた。厚さ数センチ、凶器としても十分すぎる重量を誇る鈍器の束――それを固く丸め、鋭利に尖った紙の角(コーナー)を相手に向け構える!
「食らいやがれぇぇ! ジャンプ流・角撃ちィィィっ!!」
ドガァァァン!!
「ぶべらぁぁぁっ!?」
鈍く重い衝撃音が車内に響き渡る。丸めたジャンプの尖った角が、包丁を抜こうとしていた誘拐犯Aの額へ寸分の狂いもなくクリーンヒット! タオルケットを何枚重ねても貫通しそうな紙角の破壊力により、誘拐犯Aは白目を剥いてそのままシートの隙間に崩れ落ちた。
「ひ、ひぇぇぇ!? ジャンプで人が倒れたぁぁ!?」
相棒が一瞬で沈んだことに恐怖した誘拐犯Bが慌てて逃げ出そうとするが、鉄時は逃さなかった。車内に上半身を乗り込ませた体制のまま、ジャンプを横一文字に振り抜く!
「友情! 努力! そして勝利ィィィッ!!」
バッキィィィン!!
「ごふっ!?」
第二打が誘拐犯Bのアゴにクリーンヒット。厚利な束による重厚な平打ちは、誘拐犯Bの意識を容易く刈り取り、彼は運転席へとなだれ込むように失神した。
車内に静寂が訪れる。ものの十秒足らずで、凶悪な(?)誘拐犯ふたりは、週刊少年ジャンプの物理的暴力の前に完全鎮圧されたのだった。
ジャンプを肩に担ぎ、フッと息を吹きかける鉄時(かねとき)。
「ふぅ……今週のジャンプ、マジで神回だな。物理的にも」
「物理的って何よバカ時ぃぃぃっ!! カッコよく決めてるけどあんた下半身車体から飛び出たままじゃないのよ!!」
アリサの容赦ない怒声が車内に響き渡り、すずかは「ふふっ、さすが鉄時君ね」と胸を撫で下ろす。
こうして、海鳴市を揺るがすはずだった惨劇は、一冊のジャンプによって呆気なく幕を閉じたのだった。
「……君たち、車内で一体何をやっているんだ……?」
通報を受けてサイレンを鳴らし、現場へ急行してきた警察官たちが目にしたのは、まさに惨劇……というか、理解不能のカオスであった。
リアハッチに垂直に突き刺さった、前カゴに『銀魂』のステッカーがべったり貼られたママチャリ。
車内のシートで白目を剥く誘拐犯二人。
そして、下半身を車外へ突き出させたまま、ガラス片で切った額からだらだらと本物の血を流し、血塗られたジャンプを肩に担いでニヤリと笑う天然パーマの男子小学生なオレ。
警察官たちの顔は、引きつりを超えて完全に引いていた。
「お巡りさん、犯人はそこの二人だ! 警察の到着を待たずして、少年ジャンプの正義(物理)が執行された!」
「正義の前に、君の頭の血と自転車の刺さり方がおかしいだろ! まんま大事故じゃないか!!」
警察官の必死のツッコミが路地裏に虚しく響く。
その後、誘拐犯二人組は重度の頭部打撲と「血まみれでジャンプを持った天パの悪魔に襲われた」という恐怖のトラウマを抱えたまま、現行犯逮捕。
アリサとすずかは無事に保護され、駆けつけたそれぞれの家の警備員や車へと引き渡された。
そして、現場に残されたのは――頭に重々しく包帯を巻かれ、消毒液の匂いを漂わせながら、警察署の取調室風の部屋でお茶をすするオレであった。
「……えーっと、杉田鉄時くん、だよね。君のやったことはお手柄なんだけどね……いくらお友達を助けるためとはいえ、ブレーキワイヤーが切れた自転車で時速五十キロで車に突っ込むのは『救出活動』じゃなくて『自爆テロ』って言うんだよ? 普通に大怪我してるじゃないか!」
「お巡りさん、言っておくがな、男には血を流してでも、ブレーキを壊してでも突き進まなきゃならねぇ時ってのがあるんだよ。ジャンプにも書いてあったろ、『限界を超えたその先にしか、勝利はない』ってな」
「ジャンプを言い訳に使わないで!? そもそも君、10才未満の小学生でしょ!?」
保護という名の長〜い事情聴取と手当、そしてお説教を受ける。
署の廊下では、連絡を受けて飛んできた高町恭也が、深いため息をつきながら「……手数をかけたね、お巡りさん。それじゃあ、この子は預かっていくよ」と静かに鉄時を引き取る。
窓の外を見やれば、夕空の海鳴市には平和が戻っていた。
愛機の『銀輪丸』は全破砕して廃車コース確定、お気に入りのジャンプは事件の証拠品として没収。そしてこの後待ち受けているのは、血まみれで帰宅した鉄時を待つ松影先生の容赦ない拳骨のみだ。
「……ちっ、割に合わねぇ休日だったぜ。どうせ帰ったら、怪我してる頭の上から松影先生のアイアンクローで脳天から床にめり込まされるのがオチだ。……まぁ、あいつらが無事だったから、よしとするか」
ぬるくなったお茶を飲み干し、痛む頭を押さえながら、小さく笑う。
海鳴市の街並みに夕闇がしっとりと溶け込み始め、商店街の街灯がぽつりぽつりと暖色系の光を灯し始める頃合い。
頭に白い包帯を痛々しく巻きつけ、着流しの袖を風になびかせ、重い足取りで玄関の引き戸の前に立っていた。
「はぁ……マジで割に合わねぇ休日だぜ……」
ぽつりとこぼれ出た愚痴は、秋の冷気を含んだ夜風にさらりと浚われていく。
愛機であるママチャリ『銀輪丸』は廃車確定の鉄くずと化し、楽しみにしていた今週号のジャンプは警察署の証拠品保管庫へとドナドナされてしまった。挙句の果てに、頭からはガチの流血事件。普通ならその場で泣き崩れてもおかしくない悲惨な結末である。
だが、この引き戸の向こう側に潜む「存在」の恐怖に比べれば、時速五十キロの自爆特攻も、頭部の打撲傷も、擦り傷程度の浅い痛みに過ぎなかった。
(逃げるか……? いや、ここで逃げたら地球の裏側まで追跡されて『開眼』した先生に物理的に消滅させられる……! だったら、選ぶべき道はただ一つ……!)
グッと拳を握りしめ、ボサボサの天然パーマを豪快に掻き揚げた。
「男子たるもの……逃げも隠れもしねぇ……!!」
ガラリ、と引き戸を思い切り引き開ける。
玄関の土間には、どこか凛とした、それでいて肌を刺すような静寂が満ちていた。薄暗い廊下の奥、行灯の柔らかい光の陰から、亜麻色の長髪を流した着流し姿の男――吉田松影が、静かに佇んでいた。
松影の顔には、いつもの柔和で穏やかな微笑みが浮かんでいる。しかし、その背後に渦巻く圧は、もはや覇王色のそれであった。
「おかえりなさい、鉄時。頭の包帯……とてもよく似合っていますよ」
鈴を転がすような優しい声。だが、その瞳は一筋の光も通さない深い闇を宿している。
普通なら膝をガクガクと震わせてその場に平伏する場面であったが、今日の鉄時は一味違った。踏み出した一歩は力強く、土間に下駄の音を誇らしげに響かせる。
胸をドーンと叩き、仁王立ちでドヤ顔を披露した。
「ただいま戻りました、松影先生! 褒めてくれてもいいんだぜ!? 今日オレはな、悪党どもから捕まった友達を救い出してきたんだ! これぞジャンプの三代原則『友情・努力・勝利』の体現! 侍としての務めを果たしてきたってわけよ!」
堂々たる胸の張り様。誇らしげに語られる武勇伝。
だが、松影の柔和な笑みが、すっと深くなった。
「ほう……友達を助けに、ですか。それは素晴らしいことですね。……ですが、警察から届いた連絡によりますと、ブレーキの壊れた自転車で時速五十キロで暴走し、車に垂直特攻して大怪我を負ったと伺いましたが?」
「お、お巡りさんの大げさな言いがかりだな! あれは不可抗力っていうか、男のロマンっていうか——」
「鉄時」
松影の声が、静かに落ちた。
その瞬間、松影の姿が目の前から消えた。
(なっ……!? 剃(ソル)どころじゃねぇ、目論見通りの完全な神速——!?)
気付いた時には、松影の手のひらが、頭部——傷口を避けた頭頂部に、寸分の狂いもなくセットされていた。天高く掲げられる松影の右拳。周囲の空気が重力に逆らうように歪み始める。
「命を粗末にするような無茶をすることと、勇気は違います。……愛の教訓を、その身に刻みなさい」
「ぶべらぁぁぁぁぁっ!?」
ドゴォォォォォン!!!
松影の拳骨が叩きつけられた瞬間、松下村塾の玄関の床板が派手な音を立てて跳ね上がった。
身体は頭部から真っ直ぐ床へと叩き込まれ、首から下が逆さロケットのように垂直にめり込んでいく。まさにギャグ漫画の極致と言える綺麗なめり込みっぷりであった。
床から突き出た二本の足が、ピクピクと儚く痙攣する。
「ふぅ……」
松影は手のひらを優しく払い、煙を吹く拳を収めると、床に突き刺さった鉄時の真横に静かに腰を下ろした。その表情から威圧感は消え、心底困り果てた父親のそれへと戻っていた。
「……全く、あなたという子は。警察から電話を受けた時、どれほど心配したと思っているのですか」
松影の手が、ぬっと床から伸び出た足……ではなく、ずるりと自力で床から這い出てきたオレの頭に、そっと置かれた。傷口の包帯を撫でる手つきは、恐ろしいほどの優しさに満ちている。
「友達を助けたいというあなたの心は、何よりも気高く、素晴らしいものです。先生はそれを誇りに思いますよ。……ですがね、鉄時。あなたがボロボロになって傷つく姿を見て、助けられたお友達が、本当に心から喜べると思いますか?」
「ぐっ……うぅ……」
頭に巨大な二段タンコブを作り、床に突っ伏したまま、何も言い返せずに唸った。
松影の言葉は、拳骨以上に深く、胸の奥へと染み込んでいく。
「大切な人を守るためには、まず自分自身を守りなさい。あなたが笑って無事でいてこそ、救われた誰かも心から笑えるのですから。……分かりましたね?」
柔らかな木漏れ日のような言葉。
オレは口をへチマのように曲げ、そっぽを向きながら、ボソリと呟いた。
「……へいへい。分かったよ、松影先生……。今度はチャリじゃなくて、徒歩で特攻するわ……」
「……ふふ、反省の色が半分しか見えませんね。では、今日のご飯は鉄時の大嫌いな焼き魚と野菜中心にします」
「なぁぁぁにぃぃぃ!? 糖分は!? オレの命の源であるイチゴミルクとパフェは!?」
「怪我人はおとなしく身体に良いものを食べなさい」
「嫌だぁぁぁ! 拳骨より飯の仕打ちの方がキツいぃぃぃっ!」
夜の海鳴市に、悲痛な叫び声が響き渡る。
ボロボロになりながらも、温かい家と、小言を言ってくれる大切な家族のもとへ帰ってきたのだと、痛む頭を抱えながら、目を瞑った。