サイレンススズカの娘。   作:宮川 宗介

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第一話

人は今なお、夢想する。

もしあのウマ娘が、秋の天皇賞を無事に走りきっていたのなら。

 

彼女はいったい芝の2000Mを、どれほどのタイムで走破していたのだろう、と。

 

***

 

春らしい柔らかな風が、私の長い髪を撫でてゆく。

 

桜の花びらたちが、風の中をゆるやかに舞っている。

おだやかな日差しが、品位ある正門に優しく降り注いでいる。

 

【日本ウマ娘トレーニングセンター学園 入学式】

 

力強い筆文字で祝いのセレモニーを伝える式典看板が立つ正門前は、今日からこの学園で新生活をスタートさせるウマ娘とその両親たちで賑わっていた。

 

*

 

私は、春という季節が好きだった。

 

厳しい冬の寒さを乗り越えて桜が咲き誇り、様々な生物たちの命が芽吹き出す。

 

そんな生命力あふれ出る季節に、私の母、サイレンススズカは交通事故で天国へ旅立った。

 

私が小学5年生の時だった。

 

あの瞬間、何が起きたのかはっきりと覚えていない。

 

覚えているのは、青信号の横断歩道をお母さんと渡っている最中に、強い衝撃が襲いかかってきたこと。

 

何処かから運ばれてきた桜の花びらが、私の目の前を舞っていたこと。

 

お母さんが私を強く抱きしめながら自分の額を抑え、弱々しい微笑を浮かべて『レイナ、大丈夫?』と優しく聞いてくれたことだけだ。

 

今思えばお母さんが額を抑えていたのは、流れ出ている血を必死に隠して、何が起きたか理解できずに泣き叫んでいる私を、それ以上不安がらせないための気遣いだったのだろう。

 

私たちはそれからすぐに救急車で病院に運ばれて……次にお母さんと対面したときには、もうすでに帰らぬ人になっていた。

 

目立った外傷はなく、おだやかな顔で眠りについていたのが印象に残っている。

 

……母の葬儀で、自分がどう振る舞ったのか、ほとんど記憶に残っていない。

 

母の棺にすがりついて泣いたような気もするし、母の死を受け入れられずに呆然としていたのかもしれない。

 

母が亡くなったあとの数日間のことでかろうじて覚えているのは、父が建てた真新しい立派な母の墓にお骨を納め、目に涙をためながら手を合わせたことぐらいだ。

 

小学5年生の……10歳の私にとって、母親を(うしな)ったという事実は、記憶が混沌としてしまうぐらい、受け入れがたいものだったのだと思う。

 

正直、今でも母の死を完全に受け入れられたわけじゃない。

 

例えば、朝起きた時。

例えば、学校から帰った時。

 

今でも母があの優しい声で、『おはよう、レイナ』『お帰り、レイナ。食器棚におやつがあるから、手を洗ってきてから食べなさいね』と話しかけてくれて姿を現してくれるような、そんな幻想を見ることがある。

 

優しい母親だった。

 

子供らしいイタズラをした私を叱るときも、感情的に怒鳴り散らすようなことはせず、私が納得するまで何度でも言い聞かせるようにたしなめられた。

 

母は専業主婦で、家事と育児をあの天皇賞の後遺症のせいでうまく動かない左脚をかばいながら、仕事が忙しい父に代わってそのほとんどを引き受けていた。

 

いつも笑顔で育ち盛りの私の遊び相手にもなってくれていたことは、お母さんにとって決して楽なことではなかったと思う。

 

それでもお母さんは、私に一度も辛い顔を見せたことがなかった。

 

記憶にあるのは、いつも静かに微笑んでいる母の姿だけだ。

 

そんな母も現役時代は【異次元の逃亡者】と呼ばれ、トゥインクルシリーズをその圧倒的なスピードで大いに沸かせていた、という話を幼い頃から周りから何度も聞かされていた。

 

伝説にまでなった、数々の母のレース。

それらを動画で初めて見た時の衝撃を、今でも覚えている。

 

菊花賞ウマ娘・マチカネフクキタルさん以下、強豪たちを大差でちぎった金鯱賞。

 

ステイゴールドさんとエアグルーヴさんという、当時の日本を代表する最強格のウマ娘を最後まで寄せ付けず、天賦のスピードだけでなくその類まれな勝負根性も見せつけた宝塚記念。

 

当時昇り龍の勢いだったエルコンドルパサーさんとグラスワンダーさんを完封した、毎日王冠。

 

クラシック期の母は、その余りある才能を持て余しているかのようなレースが続いていたようだけど、シニアになって覚醒してからのその走りは、衝撃という言葉だけでは言い表せない、神がかったものを感じさせた。

 

私もいつか、こんな走りをしてみたい。

お母さんが見たいと願っていた、自分だけの先頭の景色というものを、見てみたい!

 

母のレースを見たあの日から私はレースというものに夢中になり……母が亡くなってからも、その思いが変わることはなかった。

 

母も在学したトレセン学園。

母が自らの限界と、まだ見ぬ景色を追いかけて駆け抜けたトゥインクルシリーズ。

 

お母さんに憧れ、私もついにここへやってきた。

 

ここが私の、新しいスタートライン。

 

はやる気持ちを胸に秘め、私はトレセン学園へ脚を踏み入れた。

 

*

 

入学式を終え(思ったより秋川理事長のお話は短かった)、私は今日から生活の場となる栗東寮の部屋の前に立っていた。

荷物はもう届いていて、部屋の入口の前に積まれている。

 

ノックをしようと拳を作り……結局扉を叩くことができず、ふぅっ……と深いため息を吐き出した。

 

やっぱり、緊張するわね。

 

中学を卒業してここにやってくるまで、私はずっと自宅から学校に通っていた。

実家にいた時はお母さんが亡くなってから父は家政婦さんを雇ってくれていて、私は家事なんて何一つする必要がなかった。

 

実家を離れての、初めての寮生活。

そんな私が、ルームメイトとうまくやれるのだろうか。

 

トレセン学園から合格通知が届き、寮生活が決まってから何度も同じようなことを考えた。

それでも……このまま実家で暮らすよりかは幾分気持ちが楽だろうと思った私は、寮での生活を父に望んだのだ。

 

覚悟を決めていたつもりだったけど、やっぱりいざ入室して見知らぬ同居人に挨拶するとなると、緊張で手が震える。

 

しかも、私のルームメイトになるウマ娘は……。

 

……と、そんな事ばかり考えて、いつまでも部屋の入口でぼーっと突っ立っているわけにもいかない。

 

私は意を決して、汗ばんだ握りこぶしで木製の扉を数回ノックする。

 

「はい?」

「こんにちは。今日からこちらでお世話になるサイレンスレイナです」

「あ~、聞いてるよ。入って入って!」

「それでは、失礼します」

 

明るい返事の声が聞こえてきたことに安堵しつつ、私はそっと扉を開ける。

 

私のルームメイトになるウマ娘は、ダボッとした長袖にショートパンツという出で立ちでベッドに横たわり、脚を組んでスマホを手にしていた。

 

緩やかに波打つ、セミロングの薄茶色の髪。

紫紺(しこん)の虹彩が印象的な、パッチリと見開いた二重(ふたえ)の大きな瞳。

 

組まれている白い脚はスラリと長く、肉感的な曲線の中にも、現役のアスリートらしい強靭な筋肉が走り抜けている。

 

私のルームメイトになるウマ娘は、見る人によって可愛いとも綺麗とも取れる顔立ちの、美貌のウマ娘だった。

 

「はじめまして。先程も名乗らせてもらいましたが、今日からお世話になるサイレンスレイナといいます。どうかよろしくお願いします」

 

そんな彼女の美顔を見ながら私が改めて挨拶させてもらうと、彼女は朗らかに笑ってひらひらと手を振った。

 

「うん、よろしくね! あたし、シェリルジョーダンっていうんだ。あ、そうそう。敬語はナシでいこうよ。確か、歳はタメっしょ?」

「え、はい。一応……」

 

同室になるシェリルジョーダンさんのことは、入学前に学園の公式サイトで少し調べていて、彼女が中等部からトレセンに通っている、私と同じ高等部1年生ということは知っていた。

 

でも彼女は中等部の頃からこの学園に在籍していて、すでにトゥインクルシリーズを走っており、キャリア的には私の『先輩』になる。

 

しかもシェリルジョーダンさんは、出世レースと言われている去年のジュニアGⅡ・東京スポーツ杯ジュニアステークスを勝利しているステークスウィナーで、GⅠのホープフルステークスでも一番人気を背負って『負けてなお強し』の内容で僅差の2着に入っていた。

 

その実績からレース関係者やファンから【今年のクラシックの最有力候補】【天才ウマ娘】と称されている才媛なのだ。

 

そんな人に対してタメ口を利くのは、さすがに失礼だと思って敬語を使っていたんだけれど。

 

「なら、フツーに話していこうよ。そっちのほうがお互い遠慮なくいろんなこと言えるだろうし」

「ですが……」

 

彼女の申し出を固辞しようとする私に、シェリルジョーダンさんは苦笑を浮かべる。

 

「同い年のルームメイトに敬語使われてたんじゃ、あたしが先輩風吹かせてるすごくヤなヤツに見えるじゃん。それに内部進学がある学校で、外部から来た新入学生に敬語を使わせてる学校なんて皆無っしょ?」

「そう言われると……」

 

それはまったくそのとおりだが、そこには体育会系女子の難しさがある。

長い競技生活での慣習というのはなかなかに厄介なもので、トゥインクルシリーズというフィールドに先にデビューしている、実績ある先輩相手にタメ口を利く、というのは感情的にどうにも憚られた。

 

「でしょ? というわけで、敬語は禁止で。もしあたしに敬語使ったら、罰金1000マニーね!」

 

彼女はそんなジョークで、遠慮無用を後押ししてくれる。

その気遣いが、寮生活に不安をいだいていた私には嬉しかった。

 

「……わかったわ。今日からよろしくね、シェリルジョーダンさん」

「シェリルでいいよ。さん付けもいらね。あたしもレイナって呼ぶからさ」

 

どうやら彼女は、仲間と認めた人とは近い距離感で付き合いたいタイプらしい。

私も、その距離感は決して嫌いではなかった。

 

「了解、シェリル。じゃあ私は荷物運び込むから……」

 

私が言い終わる前に、シェリルはバッ! とベッドから身を起す。

その身のこなしは、さすがに重賞を勝っているウマ娘のそれだった。

 

「あたし、手伝うよ!」

「いや、そこまでしてもらうわけには……」

「変な遠慮も禁止! 遠慮したら2000マニー罰金ねっ!」

 

敬語より遠慮のほうが罰金が高いのか。

基準がよくわからないわね……。

 

「ねぇ」

「うん?」

「一体どういう基準で、その罰金刑って制定されてるの?」

 

私の疑問に、シェリルは商談を決めた営業マンのようなスマイルを浮かべた。

 

「あたしの気分!」

「……独裁者かな? それなら敬語使わせて先輩風吹かせてるヤツのほうが、まだマシじゃない」

「まぁまぁ、細かいことはいいっしょ。さっさと荷物を運んでしまおう!」

 

お金のことなんだから細かいということはないと思うのだけど、独裁者がそういうのなら仕方ない。

 

シェリルに気づかれないよう、こっそり小さくため息を付いて、私は段ボールが積み上がっている部屋の外に出たのだった。

 

*

 

荷解きはシェリルが手際よく手伝ってくれたこともあり、思いのほか短い時間で片付いた。

 

「レイナってさ。トゥインクルシリーズを走るにあたって、なにか夢とか目標とかあんの?」

 

シェリルが突然そんなことを聞いてきたのは、荷解きが済んで寮の自販機でジュースを買い(先輩からの奢りね! と言われてご馳走してもらった)、戻ってきた部屋で他愛もない会話を楽しんでいる最中だった。

 

「夢とか、目標?」

「そ。ダービーに勝ちたいとか、海外の大レースを制したいとか、いろいろあるっしょ?」

「えっと。そうね……」

 

屈託ない笑顔で聞いてくる彼女に、私は少し言い淀む。

 

もちろん私も、大きな希望と夢を持ってこのトレセン学園にやってきた。

 

でもまだデビューもしていない新入生が、ステークスウィナーの先輩の前で大それた夢を語っていいものだろうか。

 

「……私のそれを聞いても、笑ったりしない?」

「どーだろ? 凱旋門賞とBCクラシックとジャパンカップに勝ちたい、とかいう夢だったら爆笑するかも」

「それは笑われても仕方ないわね」

 

ニシシ、といたずらっぽく笑うシェリルを見ていると、下手な気遣いをしている自分が少しバカバカしくなった。

 

「あのね。私、秋の天皇賞を勝ちたいの。そして……お母さんが見てみたいと願った、誰も見たことのない先頭の景色を見てみたい」

 

私の夢を聞いてどう思ったのか、シェリルは大きく目を見開いた。

そして挑戦的な笑みを浮かべると、手をピストルの形にして私へを向ける。

 

「カッコいい夢じゃん! それに、偶然だね。あたしも秋の天皇賞で、ママのレコードを塗り替えたイクイノックスさんのタイムを更新したいって夢があるんだ」

「! それは……素敵な夢ね」

 

彼女が語ってくれた夢を首肯しつつも、私は思いがけないめぐり合わせへの困惑を顔に出さないようにするのが大変だった。

 

シェリルジョーダンのお母さんは名前が示しているとおり、天皇賞を歴史的レコードで勝利したトーセンジョーダンさんだ。

 

彼女も天皇賞・秋に縁がある母を持ち、私と同じように、天皇賞・秋に自身の夢を重ねている。

 

「ママのレコードを塗り替えたイクイノックスさんのタイムを書き換えたらさ、それはもう間違いなくあたしがママを超えたってことになるじゃん? ……それがさ、あたしの夢を応援し続けてくれているママへの最高の恩返しになるって、あたしは思っているんだ」

 

シェリルは今までの親しみやすい雰囲気からは想像できないような真剣な表情を浮かべてから、その美顔の前でぐっと握りこぶしを作る。

 

彼女にとって【秋の天皇賞でレコード勝ちを収める】ということは、夢や目標という言葉ではとても言い表せない、悲願なのだろうと察せられた。

 

そして、並々ならぬ彼女の母への想いも。

 

「レイナも天皇賞・秋を目標にしてるってことは、あたしたち、いつか天皇賞・秋でぶつかるかもね」

 

二カッと人好きする笑顔を浮かべ直してから、ずい分と気の早いことをいうシェリルに私は苦笑する。

 

「そもそも、GⅠに出走するどころか、重賞に出られるウマ娘の一握りなのに……。今日入学してきたばかりのウマ娘相手に、そんな心配は無用だと思うけど」

「そっかな~。だってレイナ、結構期待されてトレセン学園に入ってきたっしょ?」

「……そんなこと、ないわ」

 

少し返事した声が固くなってしまったのは、多少なりともそんな自意識過剰な自覚があったからなのだろうか。

 

「言ってあたしもクラシック級だしね。案外近いウチに、あたしたち同じレースに出ることになるかも」

 

あくまで気軽にそう言う彼女に、私はぎこちない微笑を返すことぐらいしかできなかった。

 

それから、ふと話題が途切れる。

何の気なしにさっき本棚に置いたばかりの時計に目をやると、いつの間にか予定の時間が迫っていた。

 

「ごめんなさい。ちょっと出かけてくるわね」

「えっ、今から? 夕飯はどうするの?」

「ええ。寮の食事ってどんなものなのかな、って楽しみにしてたのだけれども、どうしても外せない私用があって。食事は外で済ませてくるつもり。もう外出許可書も出してあるのよ」

「……ふ~ん、そうなんだ。じゃ、気をつけていってら~」

 

その【私用】とやらを言わない私に訝しげな様子のシェリルだったが、それ以上私を詮索してくることもなく、笑顔で私を部屋から送り出してくれたのだった。

 

*

 

夕暮れの日差しは静かに眠る死者たちをいたわるかのように、ささやかな光で立ち並ぶ墓標たちを照らし出している。

 

母の墓前にやってくると、そこには意外な先客がいた。

 

「お父さん」

 

父がたまにお母さんのお墓参りに来ていることは知っていたけど、今日、この時間にこの場所で顔を合わせるとは、思ってもみなかった。

 

「レイナ」

 

父が無感動な瞳で、私の顔を見る。

 

「今日は確か、入学式だったな。一緒に行ってやりたかったんだが、どうしても抜けられない商談が入っていてな。すまなかった」

「……ううん、気にしないで」

 

それは一見、どこにでもある普通の父娘の会話だったが……そのやりとりはお互いにどこか一線を引いていて、形式張っていた。

 

父も、お母さんが元気だった時は、どんなに仕事が忙しくても季節のイベントや学校の大事な行事には顔を出してくれていたんだけどね……。

 

お母さんが死んでから、父とはずっと微妙な感じの関係が続いている。

 

「お前のことは、俺の友人のアイツによく頼んである。抜けているところもあるが、エアグルーヴを担当していたトレーナーだ。悪いようにはしないだろう」

「うん」

 

事務的に言う父に、私も機械的に相槌を打つ。

 

父は私がトレセン学園へ行くことに、最後までいい顔をしなかった。

元トレーナーの父はトゥインクルシリーズに挑むウマ娘の厳しさをよく知っていただろうし、娘の私に、母――サイレンススズカ――と同じ思いをさせたくない、という親心もあったんだと思う。

 

しかし決して愉快ではなかった父娘の交渉で、私の強い意志を伝えたこともあってか、最終的には渋々ながらも入学届にサインしてくれた父だったが、それには条件があった。

 

【俺が信用できるトレーナーと専属契約をして、トゥインクルシリーズを走ること】

 

それが父の出した条件だ。

 

その時私のトレーナーとして名前が上がったのが、父の長年の友人であり、あの【女帝】エアグルーヴさんを担当していたという男性だった。

 

入学式直前に、ホテルのラウンジカフェで初めて会った未来のトレーナーさんは、歳の割に若々しく、私は彼に『明るくて誠実そうな人』という印象を抱いた。

 

この人となら厳しいトゥインクルシリーズを一緒にやっていけそうだ、と感じた私は、その場で彼との専属トレーナー契約を結ばせてもらったのだ。

 

「それから。改めて言うこともないかもしれないが……」

 

綺麗に磨き上げられた母の墓石に手を置き、父は私の顔を見ることもなく続ける。

 

「入学前に医師も言っていたように、お前がトゥインクルシリーズで走れるのは10戦までだ」

 

お父さんの鋭い言葉を聞いて、私は苦い唾をごくりと飲み込む。

 

私は生来、あまり脚元が丈夫なタイプじゃない。

それも、父が私のトレセン学園への進学を渋った大きな理由の一つだとは思う。

 

幸いなことに、今までは競走生活に支障が出るほどの大きなケガはしたことはなかったけど……ソエや骨端炎(幼いウマ娘によく見られる脚の炎症だ)といった症状に襲われた頻度は、他の娘達よりも明らかに多かった。

 

小中学校時代のトレーニングやレースへの出走は、常に故障と隣り合わせのような状態だったのだ。

 

父はそんな私になんとかトゥインクルシリーズへの挑戦を諦めさせようと、懇意にしている病院に私を連れていき、ドクターストップを掛けさせようとした。

 

だが父と顔見知りだというお医者さんも、さすがに患者の状態についての嘘はつけなかったらしく、『10戦までならよほど無理な使い方をしない限り、脚は耐えられるはずです。それ以上は一切保証できませんが』と忖度無しの診断を下してくれた。

 

「いいか、それ以上はいくらお前やトレーナーが現役続行を望もうとも絶対に許可しない。絶対に、だ」

「!」

 

父からの冷淡な言葉を聞いて、手のひらから汗が吹き出し、お腹の奥になにか重たいものが詰め込まれたような感覚に襲われる。

 

今の今まで、私はどこかで父に期待していたんだと思う。

 

お父さんは今日、本当に外せない大切な商談があって、私の入学式に来れなかっただけなんだ。

お父さんも本当は、私がトレセン学園に入学したことを、ひそかに喜んでくれているじゃないだろうか。

 

……そのことを今日、お母さんに報告に来ていたんじゃないんだろうか、って。

 

でも父の険しい顔を見て、そんな淡い思いは木っ端微塵に砕け散ってしまった。

 

私はその痛みを必死に押さえつけながら、ただ、うん、とだけ小さくうなずく。

 

「分かっていれば、それでいい。じゃあ俺は会社に戻るから。アイツによろしく伝えておいてくれ」

 

父はそれだけ言うと、娘に入学のお祝いの言葉を掛けることも、夕食に誘うこともなく、足早に私と母の元から立ち去った。

 

ちなみに父は、お母さんが引退したのと同時にトレセン学園とURAにトレーナー廃業届を提出して、レース界から完全に身を引いた。

 

父はなぜトレーナーを辞めたのか。

 

父の職業選択に興味がないわけではなかったが、父からもお母さんからもその理由を聞いたことはなかったし、私から尋ねるようなこともしなかった。

 

父の廃業に関して、ネットでは今でもいろんな噂が飛び交っている。

 

担当の、サイレンススズカのあの事故のショックから立ち直れなかったのだ、という人もいれば、副業としてやっていた事業が大当たりして、トレーナーの収入がバカバカしくなってやめた、なんて邪推している人もいた。

 

実際今の父は、退職してからすぐに興した、それなりの規模の会社の経営者として、娘の入学式も顔を出せないぐらい忙しい毎日を送っている。

 

「…………」

 

幼い頃から家を空けることが多い父であったけど、母が亡くなるまでの父は、私ともよく遊んでくれた優しい父親だった。

 

学校行事にもスケジュールが合えば積極的に参加してくれていたし……レースとトレーニングに打ち込む私を、応援してくれていたように思う。

 

でも今の父が何を考えているのか、私にはまるでわからない。

 

私はそんな父を黙って見送ってから、そっと目を閉じて母の眠るお墓に手を合わせた。

 

「お母さん。私、トレセン学園に入学することができたの。お母さんのように活躍できるかはわからないけど……これからがんばるから。見守っていてね」

 

私の報告と祈りに、瞼の裏のお母さんは、優しく微笑みかけてくれているような気がした。

 

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