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「……お世話になっております」
彼は担当ウマ娘の父であり、元同僚で友人でもある電話の向こうの相手に敬語で応対した。
トレーナーにとって担当しているウマ娘の保護者は、高額のコーチングフィーを支払ってくれる顧客であり、ウマ娘のローテーションについて全権を持つ最高責任者でもある。
あまり知られていないことではあるが、レースでは様々な危険がつきまとうために、二十歳以下のウマ娘が出走する際には保護者の了承が必要だ。
保護者の意思は、トレーナーの決定権の上位に位置付けられている。
保護者がノーと言えば、ウマ娘とトレーナーがどれほど出たいと願っているレースがあったとしても、出走は認められない。
「今日は、どのようなご要件でお電話いただいたのでしょうか?」
そういった立場や習慣を尊重してあくまで丁寧に聞く彼に、レイナの父は電話口で小さく鋭いため息をついた。
『どうもこうもない。担当トレーナーであるお前が、レイナに短距離とダートのレースをどうしても挑戦させてみたいと言ったから俺は渋々了承した。で、血統適性を無視して出走させた結果がこれだ。もういいだろう? うちの娘には才能がないようだから、さっさとレースに見切りをつけさせて、学業に専念させたいと思っているんだが』
「い、いえ。ちょっと待ってください!」
引退をほのめかす保護者に、彼は焦りを隠そうともせず、現状と己の見解を説明する。
「レイナにとって苦しいレースが続いていることは認めますが、彼女の才能は本物です! 負けているといっても、勝ちウマから一秒以上離されているレースは一度もありません。なにかきっかけさえつかめれば、レイナは間違いなくステークスウイナーになれるウマ娘なんです。娘さんにしっかり勉強してもらいたいというお父様のお気持ちは十分に分かります。ですが……」
『俺の気持ちが分かるなら、なおさらレイナに早くレースを諦めるよう、お前から言ってもらえないか?』
「…………」
レイナの父は温度を感じさせない平坦な口調で、彼の言葉を遮った。
レイナの父は、それなりの規模の会社を経営している。
父親としての、レイナの父の気持ちも理解しないではない。
でもお前だって、以前はウマ娘とともに夢を追っていたトレーナーだったじゃないか!
「……それは、できない。お前も天才と言われたほどの元トレーナーだ。レイナがプレオープンで終わるようなウマ娘じゃないってことぐらい、本当は分かっているはずだろう」
彼はレイナの父を担当の保護者として接するのをやめ、一人の元トレーナーとして向き合うことにした。
レイナの細身に秘められた質の良い筋肉。
母のスズカさえ習得に苦労した逃げの呼吸を、すでに身につけているレースセンス。
サイレンススズカの真の才能をジュニア時代から見抜いていたレイナの父が、娘の素質に気づいていないはずがない。
サイレンスレイナを娘としてでなく、一人のウマ娘として見るのであれば、その将来性に夢を見ずにはいられないはずだ。
今は正体がつかめないが、レイナに足りていない【なにか】さえつかめれば、彼女は間違いなく飛躍できる才能を持っている。
「それにまだ、レイナはレースを諦めていない」
敗戦後、『プロなら、トレーナーなら、今の状況をなんとかしてよ!』と、烈火のごとく怒りをぶつけてきたレイナ。
彼女の鋭い言葉に多少は傷ついたし……驚きはしたが、同時に彼は激怒したレイナに心強さも覚えていた。
文字通り身を削られるような連敗していてもなお、彼女の闘志は折れていない。
戦う気力を失ったウマ娘が、負けた直後にあれだけの感情を爆発させられるはずがないからだ。
「保護者のお前が無理にでもレイナを引退させると言い張れば、俺達にそれを止める術はない。でもそれはお前にとって、いつでもできることだろう? もう少しだけ、長い目で見てやってくれないか」
『…………』
電話口の向こうの沈黙は、どういう意図だったのか。
辛抱強く返事を待っていると、レイナの父は根負けしたかのように浅いため息をついた。
『分かった。トレーナーが他のトレーナーのやり方に口を出すのはタブーだからな。これ以上はなにも言うまいよ。……まぁ俺はもうトレーナーでもなんでもないが。それなら、勝手にするといい。だがトゥインクルでレースを走るのは10戦まで、という取り決めは絶対に守ってもらうぞ』
静かに、しかし確固たる口調でそう言うと、レイナの父は電話を切った。
*
放課後。
「はぁ……」
普段ならトレーニングしているはずの時間に、私は三女神像近くのベンチに腰掛け、左脛に巻かれた真っ白い包帯を見ながらため息をついた。
それから、なにげなしに空を見上げる。
ピクニックにでも行きたくなるような、五月晴れの好天が恨めしい。
悪い時には悪いことが重なるもので、昨日のトレーニング中にソエを発症してしまったのだ。
ソエは幼いウマ娘や、レースのデビューに向けて本格的なトレーニングを始めたばかりのウマ娘が発症しやすいケガの一つで、慣れない負荷のせいで骨が炎症を起こして熱や痛みを発生させる。
普通、私ぐらいのキャリアのウマ娘はあまり発症しないものなんだけど……どうも私は体の成長がトレーニングに追いつきにくい体質のようで、小さい頃から度々このケガに悩まされていた。
医師に見てもらったところ、症状についてはなんともいえないらしく、長引くと完治まで3ヶ月ほどかかってしまうこともありうる、とのことだった。
最悪、完治まで3ヶ月。
そうなるともう、夏合宿にすら間に合わない。
クラシック級の夏は、生涯で一番能力が伸びると言われているのに!
「……っ……けほっ……」
嫌な咳が、胃の奥からこみ上げた。
連敗している現実と、あと4戦しか走れないタイムリミット、それに今回のケガのこと。
考えれば考えるほど、焦燥感が、胃を焼き焦がす。
病院からの帰り道、この程度のケガならトレーニングを続けながらでも治療できる! と私は言い張った。
だがトレーナーさんは『そこまで言うなら、君のお父さんと相談させてもらってから……』と、困り果てた顔で返してきたのだ。
入学前、あれだけ揉めた父に、私の競技生活のことで連絡が行く。
考えただけで、身の毛がよだつ。
私は締め付けられてかすれそうな声を、苦い唾を飲み込んでなんとか整え、『わかったわ……』とだけ返事するのが精一杯だった。
「ふぅっ……」
思うようにいかない現状に、湿度の高いため息が出る。
もう休むことになったのはあきらめたんだけど……普段トレーニングしている時間が空虚に塗りつぶされてゆくのが、恐ろしい。
何もしていないと、また余計なことを考えてしまいそうだ。
「…………」
それならトレーニングコースに見学でも行こうか、と思ったけど、私は首を強く振ってそれを思いとどまった。
自分がケガして動けない時に、トレーニングに励んでいる他のウマ娘たちを見たって、いたたまれない気持ちになるだけに決まってる。
今の私のように、結果が出ていない時期なら、なおさらだ。
「はぁ……」
もう何度目になるかわからないため息をつき、特にしたいことも思いつかないまま、ベンチの上で時間だけが過ぎてゆく。
ウマ娘の始祖とされる、三女神様の像が持つ壺から流れる清流が、刺すように眩しい。
滝のように流れ落ちる水が、まるで逆らえない運命のように感じられて、私は慌てて目を逸した。
「いや~、坂路2本はマジキツイわ。戻ったらもう一本走るからなって、トレーナー息巻いてたし。マジキツイ」
「でも今週レースなんでしょ?」
「まぁね。前走は2着だったから今度こそ勝ちたい! だからちょっとばかり辛くても、がんばらないとね」
休憩中なのだろう。
何人かのウマ娘がそんなおしゃべりしながら、ベンチの前を水やスポドリ片手に通り過ぎる。
彼女たちは制服姿の私をチラ見して怪訝な視線を向けてきたが、左足の包帯に気がつくと気まずそうに早足でトレーニングコースの方へ去っていく。
練習に励んでいる彼女たちのそんな気遣いが、元々沈んでいた私の気持ちに黒い水を注ぎ込む。
私は溺れてしまわないよう、とにかく大きく息を吸い込んだ。
肺いっぱいに酸素を取り込んだはずなのに、どういうわけか、息苦しさはいや増すばかりだった。
*
深夜の静寂が、心拍音を不必要に大きく響かせる。
鼓膜にこびりつく自分の呼吸音も、ひどく耳障りだ。
眠れない。
休養中のせいで体が疲れていない、ということもあるのだろうけど、それ以上に不安と焦りが私の神経を刺激して眠気を追い払ってしまう。
「……う、ん……」
もう寝返りを打つのは何度目だろうか。
ごろん、と右を向くと、暗がりの中でシェリルの大きな瞳と視線があってしまった。
「あ、ごめんなさい……。起こしてしまったのかしら……」
「うんにゃ。たまたま目が覚めてただけ」
シェリルは軽く笑って、ゆっくりとベッドから体を起こした。
「どしたん? 最近、眠れん感じ?」
そんなことを聞いてくるということは、私の動きや息遣いでシェリルの眠りを妨げてしまうことが、何度もあったのだろう。
「ええ……。ちょっとこのごろ、寝付きが悪くて……」
「まぁケガでの休養中って、色々考えちゃうよね」
そう言ってシェリルは、枕元にある備え付けのベッドサイドランプに明かりをともした。
「じゃあ眠くなるまでちょっと駄弁ろっか」
「えっ、でもシェリルは明日も朝早くからトレーニングあるでしょう?」
……シェリルはここのところ大阪杯で5着、天皇賞春でも7着と、彼女の実力からすればあまりに負け過ぎなレースが続いていた。
勝っている間は黙っていたファンやマスコミも、こうなると『あれだけ自分勝手に振る舞っていたくせに』だの、『彼女は天才などではなく、よくいるただの早熟なウマ娘だったのでは?』だの、勝手なことを言って、シェリルのメンタルを無邪気に、陰険に追い詰める。
そんな奴らを再び黙らせるためにも、少しでも良い体調で、少しでも質の高いトレーニングをしたい時期のはずなのだ。
「ダイジョブ。あたしトレーナーいないから、トレーニングの開始時間はテキトーにずらせるし。気にしなくていいよん」
「トレーナーがいないって……。でも前に、シェリルってチームに所属してるって言ってなかった?」
「うん。正確に言えば、あたしを指導してるトレーナーがいない、ってところかな。あたし、トレーナーにあれこれ指示されるのが嫌でさ。それであんまり口出ししてこないトレーナーのチームにいるって感じなんだよね」
「そうだったの」
……ひょっとしたらシェリルも寝付けなくて、少しおしゃべりしたい気分なのかもしれない。
そう考えて、私はシェリルの気遣いにちょっとだけ甘えることにした。
「でもトレーナーさんがいないと、専門的なトレーニングメニューの組み立てとか、日頃の食事の管理とか大変じゃない?」
「うんまぁさすがに、そのあたりを自分でやるのは限界があるからね~。あたしは全部、コレにしてもらってる」
シェリルはにやっとすると、充電中のスマホを指さした。
「スマホ?」
「ってかAIだね。サイレンスカンパニーって会社が出してる、ウマ娘トレーニング特化型最新AIエージェント・【メロス】ってやつ。けっこー有名だけど、知らない?」
その会社名――父の会社だ――を聞いた途端、口の中が、少し苦くなる。
「……一応、知ってるわ」
「あ、やっぱり? AI、特にウマ娘関連のものはここの物使ってれば間違いないってぐらい、有名だもんね~。メロスはトレーナーさんでも使ってる人いるし。レイナは使ったことある?」
「えっと。どうだったかしら……」
せっかく話題を振ってくれたのに申し訳ないとは思ったが、私は余計なことを言わないよう、少し視線をそらして小さく息を整えた。
社交的でけっこう踏み込んでくるタイプのシェリルだが、意外と人の機微には聡いところがある。
それで私の心境を察してくれたらしく、シェリルは会話の中の沈黙が気まずくならないうちに、話を切り替えてくれた。
「ま、あたしのことはおいといて。レイナここんとこよく眠れてないみたいだけど、なんかあった? ……ケガ、たいしたことないって言ったけど、実は深刻だったりするん?」
「いえ、そういうわけじゃないんだけれども……」
さっきからずっと煮えきらない態度の私に、シェリルは気を悪くしたふうでもなく、
「そっか」
と言って頷くと、ただ小さく、柔らかく微笑む。
どうやら、私の話の続きを待ってくれているらしい。
それでいて、話すことを無理強いしない雰囲気があった。
シェリルは無類のお喋り好きだけど、意外とこうして聞き上手なところもあったりするから、困ってしまう。
「あのね」
「うん」
「実は私、現役を通して10戦しか走れないの」
そんな友だちの優しさに、もう私は自分の枷を隠しきれなかった。
枷の重みが、私に自白を促す。
シェリルが、息を飲み込んだのが分かった。
「……マジ?」
いつもの冗談じみたトーンではなく、重く沈んだ、彼女の声。
「ええ。もともと、私脚が弱くて……。お医者さんからも、それ以上の実戦は何が起こっても保証しないって言われててね」
「そうだったんだ……」
突然センシティブなことを聞かされてシェリルも困惑したのか、眉をひそめてわずかに首を傾げる。
……友だちに、余計なことを聞かせてしまった。
もうこれ以上、シェリルにいらない気遣いをさせるべきじゃない。
彼女も今、精神的にとてもしんどい状況のはずなのだから。
それが分かっていても、限界まで押さえつけていた情動は、止まらない。
「なのに、もう私は5戦も浪費してしまった。私が戦えるのは、残りたった4戦しかない。しかも一番トレーニングしなきゃいけないこの時期にケガまでしてしまって……こんなことで夢を叶えられるのかな、いや、そもそもお母さんが見たいと願っていた景色を、私が見たいと願ったこと自体が間違いだったんじゃないか、とか思うと、色々煮詰まっちゃって……」
私の身勝手な独白を聞いて、シェリルはどう感じたのか。
一方的に感情をぶつけられたシェリルは、たまったものじゃなかっただろう。
私は自分に呆れたふりをして、固く目を閉じる。
すると暖かくて柔らかい感触が、私の全身を覆った。
シャンプーの香りが、鼻腔をくすぐる。
「シェリル?」
「大丈夫。あたしね、思うんだ。夢を追うことって、長くて遠い旅路に似てるんじゃないかって」
「……旅路?」
彼女は一体、何を言いたいのだろう。
何を私に伝えたいのだろうか。
私が首を傾げると、シェリルは優しい声で続きを語る。
「うん。ワクワクした気持ちで出発した旅も、楽しいイベントばかりが起こるわけじゃない。途中で道に迷うこともあるだろうし、お腹を壊すこともあるっしょ。ガラの悪い人に絡まれて嫌な思いをすることもあるだろうし、自分ではどうにもならないトラブルに巻き込まれて、不本意な足止めを食うときもあると思う」
「……そうね」
旅を続けていれば、そんなアクシデントに見舞われることもあるかもしれない。
こんなことなら最初っから旅になんか出るんじゃなかった! と泣き言を言いたくなるほど、理不尽で辛い出来事に遭遇することも。
「でも、そこで諦めちゃ目的地にたどり着けないじゃん。体調が悪い時は、薬でも飲んで宿屋のベッドに潜り込んで休めばいい。それで遅れちゃった分は、またどこかで取り返せばいいじゃない。でね、辛い時は旅の連れに『辛いよ』ってグチを言えばいいんだよ。そうしてまた立ち直って、歩き始めればいい!」
一気呵成にそう言うと、シェリルは私を抱きしめている腕に、力を込めた。
「だから、大丈夫。あたしたちはきっと、大丈夫」
「シェリル……」
ああ。
シェリルも今、すごく大変なはずなのに。
なのに私を、こんなにも力強く応援してくれている。
諦めないで。
一緒に旅を続けよう。
一緒に夢を追いかけようって!
同じ旅路をゆく友だちの言葉が、こんなにもこんなにも、胸を打つ。
「……ぅっ……」
涙を見られるのが嫌だったから、ずっと彼女の腕の中で下を向いていたけれど……震えと嗚咽で、泣いていたのはバレバレだったと思う。
「……んっ……ふぁあぁ……」
あ……眠い……。
友だちの胸の中で鬱屈した感情を押し出したあとにやってきたのは、抗いがたい睡魔だった。
いや、今の私にとっては睡眠の天使だったかもしれない。
「ふふっ、眠れそ?」
「うん……」
「それは良かった」
シェリルはポンポンと励ますように背中を軽く叩いてから、そっと私から両腕を離した。
「じゃ、あたしも寝るね」
「シェリル」
「うん?」
「その……。ありがとう」
シェリルは私のお礼に返事することなく、ベッドの中に潜り込むと、ヒラヒラと軽く手を振った。
***
早朝。
彼は憂鬱な気持ちを抱えて、トレーナー室にやってきた。
担当しているウマ娘がケガで休養していて、平静でいられるトレーナーなんて存在しない。
自分が組んだトレーニング強度の見積もりが甘かったせいで、レイナは故障してしまったのではないか。
……もし担当したのが自分でなければ、彼女にケガなんてさせずに済んだのではないか。
そんな思考が、一日中トレーナーの脳の中を反芻する。
ケガをした
いや。
思い悩んだって仕方ない。
こんな時こそ、自分がしっかりしなければ。
せめてレイナが復帰した時にすぐトレーニングに取り組めるよう、メニューをしっかり考えておこう。
首を強く横に振り、そう気持ちを取り直してノートPCを開いた瞬間、スピーカーが『メールが1件届いています』と無機質な声で彼に知らせた。
「……ちっ」
その通知に彼は舌打ち一つして、メールボックスを開く。
どうせ迷惑メールだろう。
そう決めつけ、鼻息荒くマウスを動かしていた手が、送信者欄を見てぴたりと手が止まる。
「サイレンスカンパニー……?」
ヤツの会社からだ。
一体、何を送ってきやがった。
ウマ娘トレーナー向けの、新作AIエージェントのカタログだろうか。
自分は記録や計算に使う以外はAIに頼るつもりはないと、それとなくいつも伝えているはずだが。
彼は訝しみながら、添付されていたPDFのファイル名を確認した。
「suzuka_Training Log……?」