サイレンススズカの娘。   作:宮川 宗介

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第十三話

*

 

ようやくソエが完治したのは、6月も半ばになってからだった。

 

復帰するまでに最悪3ヶ月かかる可能性もあったケガが、1ヶ月ほどの休養で済んだのは不幸中の幸いだったけど……。

伸び盛りの時期を、ただ無為に過ごした事実は変わらない。

 

友だち(シェリル)に励まされ、多少気持ちが楽になったとはいえ……。

そのことを考えると焦りが募る。

 

胃が、焼けるように痛い。

 

梅雨らしい湿った空気も相まって、喉が塞がれ、息苦しくてたまらない。

 

ケガこそ治ってくれたものの、今日の空模様のような鈍色(にびいろ)の重たい鉛が、胸の奥には溜まっている。

 

それでも私は、勝利を目指すウマ娘たちの情熱が充満するトレーニングコースに帰ってきた。

 

しかし追い打ちをかけるようにそこで待っていたのは、トレーナーさんの驚愕の指示だった。

 

「ちょっと待ってよ。それってトレーニングを軽減するってこと? この結果の出てない時に?」

「いや、そうじゃない。今の君の状態にあわせて最適化する、って感じかな」

「言い方を変えただけで、結局はトレーニング量を減らすってことでしょ!?」

 

詰め寄る私に、トレーナーさんは困ったように眉を寄せる。

 

いやいや。

 

そんなまったく納得のいかない指示、困るのはこちらの方だ。

 

「ひょっとして今回出たソエのこと気にしているの? 私のソエは持病みたいなもので、今までやってきたトレーニングのせいじゃない。だいたい普段のトレーニングも他の娘と比べて特別多い量をこなしていたわけじゃないし、脚への負担を心配して練習量を減らす必要なんてないわ。なのに……」

「うん。君が俺の指示を聞いて、不安になるのはわかる。だから少しだけ、落ち着いて俺の話を聞いてくれないか?」

 

トレーナーさんは私の両肩に手を置くと、わがままを言う小さな子供に言い聞かせるかのごとく、ゆっくりとした口調で語りかけてくる。

 

なによ。

それじゃまるで私がトレーナーの指示にただ反発してる、気性難のウマ娘みたいじゃないの。

 

「……分かったわ。今回の指示の、明確な意図を聞かせてくれる?」

 

私はトレーナーさんから一歩後ずさるようにして距離を取り、腕を組んで彼をにらみつける。

 

いつも物事を簡潔明瞭に説明してくれるトレーナーさんに、わざわざ【明確な意図を】と言ったのは私のささやかな反骨心だった。

 

「今の君の走りは力強さはあるが、スピードを持続させるためのしなやかさがない。それは君の、中距離ウマ娘にしては発達しすぎたトモの筋肉のせいなんだ」

「トモの筋肉……?」

 

自分の手でお尻と太ももを触りながら、私は首を傾げる。

 

「ああ。君のトモの筋肉のポテンシャルは、本当に素晴らしいものがある。でも現状は、鍛えすぎて重くなった筋肉が必要以上に酸素と持久力を奪っていて、最後の最後、ガス欠を起こして踏ん張りが利かなくなってしまっていたんだ。心当たりはないかい?」

「…………」

 

私はあごに手を当て、できるだけ客観的に今まで負けたレースを振り返ってみた。

惨敗した前走の2200mのレースはともかく、入着できた2・3戦目は『もう少しスタミナが残っていればもっと前に迫れたのに……』と悔しい思いをしたことを思い出す。

 

なるほど。

センハチ・ニセンのレースで惜敗してしまった理由には、ある程度納得できたけど……。

 

「じゃあどうして、パワーとスピードがモノを言う短距離で勝てなかったの? ……それに、お母さんが勝った、宝塚記念と同じ距離の2200mを惨敗した理由も分からないわ。私の適正距離は中距離のはずなんでしょう? いくら筋肉がスタミナを浪費していたといっても、さすがに11着は負けすぎてないかしら?」

 

私の疑問を呈すると、トレーナーさんは少し言いにくそうに口を開いた。

 

「それは距離適性の幅の問題だ。サイレンススズカの距離適性の幅も決して広くはなかったが……君のそれは、おそらくもっと極端に狭い。今までの成績と走法を鑑みるに、君の距離適性、いや、君がまともに走れる距離は芝の1800mと2000mしかない、というのが俺の見立てだ」

「……。そう、なのね」

 

プロの冷徹な見解に、私は顎を指で何度もさすりながら、俯いて地面を見つめる。

 

マイルじゃ短い。

お母さんが勝った、2200mでは長すぎる。

 

私の走れる距離幅は、たった200mしかない。

 

誰に似たのか、私はとことん不器用な走りしかできないらしい。

 

「その2つの距離でしか走れないとなると、レース選択もかなり限られてくるわよね……」

「正直に言うと、そうだね」

「う~ん……」

 

1800mと2000mはミドルディスタンスの王道だ。

どこのレース場でもプログラムされていることが多い。

 

だがその距離でしか走れないとなると、今週は思ったより調子が上がってこなかったから来週のマイル戦に変更しよう、みたいな柔軟な選択肢が一切取れなくなってしまう。

 

「……1600と2200を走れたら、ローテも少しは融通がきくわよね? 言って、たった200mでしょう? 工夫や努力でなんとかならないものなの?」

 

私の楽天的な意見に、彼は難しい顔をして首を横に振る。

 

「距離適性ばかりは持って生まれたものだからね……。小細工でなんとかなるものじゃない。ヤマニンゼファーの天皇賞制覇や君のお母さんの宝塚記念制覇のように、距離克服のサクセスストーリーは目を引くけどね。でも距離の限界突破の話はレアケースだからこそ、成功談として伝わっているのだと思う。それに努力のおかげで彼女たちが距離の限界を突破できたのか、元々それだけの適応力が彼女たちに備わっていただけなのかは、誰にも言い切ることはできないんだよ」

「それは……そうよね」

 

成功した前例があると人は精神論や根性でなんとかなる、と思い込みがちだが、そんな時私たちはありがちな生存者バイアスを忘れてしまっていたりする。

 

身の程をわきまえない努力は、結局自分を滅ぼすだけだ。

 

距離適性に合わない筋肉の質に、狭すぎるベストディスタンス。

 

本当、うまくいかないものね……。

 

「でもレイナ。あまり悲観しすぎることもないよ」

 

こっそりため息をついたつもりだったけど、トレーナーさんにはバレてしまっていたらしい。

私を元気づけるような明るい声で、トレーナーさんは続ける。

 

「確かに君の距離適性には厳しいものがある。けれど、出られるレースがないわけじゃない。ウマ娘の持って生まれた能力や個性を100%、120%引き出すために、俺のようなトレーナーがいるんだから」

「!」

 

彼の言葉に、一瞬息が詰まる。

 

そうだ。

私は、一人で戦っているんじゃない。

 

そのことに気がついた瞬間。

 

古代のレースを走っていたウマ娘たちに、三女神が伝えたとされる有名な3つの言葉が脳裏をよぎった。

 

ダーレーアラビアンいわく、『変えることのできるものを、変える勇気を』。

ゴドルフィンアラビアンいわく、『変えることのできないものを、受け入れる平静さを』。

バイアリータークいわく、『その両者を見分ける知恵を』。

 

【三女神の神勅(しんちょく)】と言われる詩的な響きを持つ言葉を知ったのは、中学2年の時だったと思う。

 

当時担当してくれていたトレーナーさんからこれらを聞いた時は、目上の人に反抗したいお年頃ということもあって『それができれば苦労しないわ』と内心笑い飛ばしたものだけど。

 

トゥインクルシリーズ(プロ)の世界を知って、あの頃よりほんの少しだけだけど、私も視野が広がっている。

 

今なら、変えることのできないものを受け入れ(平静であることは難しいけれど……)、変えることのできるものを努力で変えることができるかもしれない。

 

そして私には、両者を見分ける知恵を持つトレーナーさんがついてくれている。

 

「そうよね。トレーナーさんはあのエアグルーヴさんを育てた名トレーナーですものね」

 

照れ隠しというわけでもなかったけど、冗談めかしてそんなことを言う私に、トレーナーさんは思ったより真剣な面持ちでうなずいた。

 

「ああ。エアグルーヴが走り終えるまで彼女のトレーナーであり続けられたこと、彼女の杖であり続けられたことは、今でも俺の誇りだ。当然君に対しても、そうであろうと努めているつもりだよ」

 

胸を張って言い切る彼にちょっともやっとさせられたのは、偉大な先輩を持つ、器量の狭い後輩の嫉妬だったのだろうか。

 

「うんうん。そんなトレーナーさんの指導を疑ったことなんて一度もないわ。ただうちの父を友人にしているあたり、あんまり友だちを見る目はなさそうだけど……」

 

指導とまったく関係のないことで揚げ足を取る私に、彼は慌てたように手を振って弁明し始めた。

 

「いやいや! あいつはあいつでいいところがあるんだって! だからスズカも結婚したわけで……」

「はいはい、そうね」

 

それ以上トレーナーさんの申し開きを聞きたくなかった私は、適当に相槌を打って話を終わらせ、ことさら真面目ぶった表情と声を作った。

 

「私の距離適性の幅が狭いことは理解したわ。でも、1800mと2000m。その2つの距離でなら、私の力をすべて出し切ることができるってこと?」

「ああ。それは保証する」

「それで、私の能力を発揮させるために、トモの筋肉を削ぎ落とす……いえ、最適化させるためのトレーニングが必要なのね?」

「その通りだ」

 

話を急にすり替えた身勝手な私に、トレーナーさんは嫌な顔をすることもなく、力強く頷いてくれる。

 

「わかったわ」

 

彼の返答に、私は強気に笑ってみせた。

 

勝利に向かって、努力し続けることができる。

 

走り続けることができる。

 

それなら何を悩むことがあるのだろう。

 

「トレーナーさん。新しいトレーニングメニューの指示をちょうだい。何から始めればいいのかしら?」

 

やる気を見せる私にトレーナーさんは、

 

「よし。じゃあまずは、マイルぐらいから始めようか。全速力を出すことより、ペースに気を配って走ってほしい」

 

と、少し弾んだ声で指示を出してくれた。

 

*

 

蹄鉄が砂にのめり込む。

思い切り、それを蹴り上げる。

 

砂煙が宙を舞う。

 

ああ、やっぱり走るのって楽しい!

 

一ヶ月ぶりに味わう風を切る感触に、胸が高鳴る。

湿気た砂の重みさえ、心地良い。

 

風も景色も、すべてを置き去りして走り抜ける開放感は、きっとウマ娘にしかわからない。

 

思わず全力で駆け出したくなるが、それでは練習にならない……らしいので、なんとか自重する。

 

トレーナーさんの指示通りに8割程度のスピードを意識し、ラップが大きく乱れないよう、体内時計に注意を払いながら砂地に蹄跡を刻み込む。

 

休養明けでスタミナの低下が心配だったけど、私はそれほど息を乱すことなく、トレーナーさんが待機していたゴール板の前を駆け抜けた。

 

「いい走りだった。久しぶりのトレーニングだったけど……脚に違和感はないかい?」

 

ゴール地点までキャンターで戻ってきた私に冷えたスポーツドリンクを手渡しながら、トレーナーさんは私の脚元に気を配ってくれる。

 

「ええ、まったく問題ないわ」

「疲労感の方は?」

「そちらも全然。むしろ、ちょっと物足りないぐらいよ」

 

胸を張って余裕を見せる私に、トレーナーさんはうん、とうなずく。

 

「よかった。休み明けだったけど、思ったよりスタミナは落ちていなかったみたいだね。よし、じゃあ少し休憩してからウッドチップのコースに行こうか。次はそこでインターバル走をやるよ」

「気遣いは嬉しいけど、休憩はいらないわ。すぐ移動しましょう」

 

急かす私に、彼は苦笑する。

 

「気持ちはわかるけどね。適度な休憩がなければ、筋肉の最適化はおぼつかないよ」

「そうかもしれないけど……」

 

彼の説得を聞いている間、私は知らず知らずのうちに何度も脚元のダートを軽く蹴っていたらしい。

 

つま先の砂地が、少しえぐれてしまっている。

 

慌てて足で周囲の砂をかき集め、トレーナーさんに勘付かないよう、できるだけ小さな動作でその証拠を埋めた。

 

……たいして疲れてもいないのに休憩を取ることを後ろめたく思うのは、私が焦ってしまっているからだろうか。

 

そんな胸の内を、トレーナーさんは察しているのかもしれない。

 

確かに、焦ってもなにもいいことはないわね……。

 

私はため息をつきながらラチをくぐり、先に座って水を飲んでいたトレーナーさんの隣に座り込んだ。

 

「それにしても、鍛えていた脚の筋肉がスランプの原因だったなんて。今まで盲点になっていたのも仕方ないわよね……。でもそこに気づくあたり、さすがプロね」

 

黙り込んでいるのも気まずかったので、なんとなしにそんな話題を出すとトレーナーさんは大きく目を見開いた。

 

飲んでいた水が気管支にでも入ったのか、ゴホゴホと嫌な咳を何度か繰り返す。

 

「ゴホッ……。えっ。あぁ。まぁ俺も結構キャリアも長いしね。それにメンターというか、アドバイザーというか……そういう人からのアドバイスもあってね」

「……ふぅん」

 

奥歯に物が挟まったような言い方が気にはなったけど、手柄を独り占めしたりせずそのメンターさんの顔を立てたあたり、彼の誠実な性格が伺えた。

 

「そのメンターって、トレーナー?」

 

私は興味本位で尋ねただけだったが、彼はなぜかひどく言いにくそうに口をへの字に曲げて「う~ん……」とうなりだす。

 

「トレーナーと言えばトレーナーかな……まぁ古い知り合いだよ」

「そう」

 

彼の不自然な言動に、むしろ好奇心という名の野次ウマ根性が刺激されたけど、私はそれ以上なにも聞かなかった。

 

トレーナーさんも大人だし、きっと色々と面倒な人間関係があるのだろう。

 

私たちはそれから少しの間言葉をかわすこともなく、ダートコースを駆け巡るウマ娘たちに見入っていた。

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